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博士論文要旨

論文題目:戦前のプロ野球と新聞:『読売新聞』の「巨人軍戦略」と関連して
著者:尹 良富 (YIN, Liang Fu)
博士号取得年月日:1998年5月27日

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各章の概要
 本論文は、『読売』の巨人軍戦略に関連して戦前のプロ野球と新聞の関係を検証しようとするものである。研究を戦前に限定したのは、巨人軍の誕生期の事情とその約10年間のプロ野球の歴史のなかに戦後並びに現在の『読売』の巨人軍戦略の特性が端緒的ながらも集約的鋭角的にあらわれていると考えたからである。

 野球(またはスポーツ)イベントの創出は日本の新聞企業の重要な経営戦略である。この問題における本格的な研究は90年にはいってからのことで、新聞とプロ野球、新聞と甲子園野球についての研究書は近年やっと出始めた。これらの数少ない研究においては、史料(資料)の扱い方、論理的帰結の方法や欧米から直輸入した理論、概念の借用・誤用などにより、戦前のプロ野球と新聞の関係のみならず、プロ野球前史における新聞と野球の関係についても、科学的実証的に十分になされていない。

 このため、本論文では、次のような問題を設定し、戦前のプロ野球と新聞の関係を解明しようとする。

 第1章に、日本のプロ野球前史における新聞と野球の関係という問題。つまり新聞はどのように野球に接近・関与していったのかという問題を中心に新聞の野球報道、新聞の野球観、その野球観と新聞自体の特性の間における連関性について検証し、娯楽としての野球の普及状況について考察しようとする。

 具体的に説明すると、ベース・ボールの日本伝来ルーツとその初期の特徴について検証し、当初のベース・ボールの特徴は貴族や裕福な家庭出身の学生などの有閑階層の「遊戯」という性格が強いと指摘している。しかし、1890年代ごろからはベース・ボールは「野球」として日本独特の性格が形成されるようになった。いわゆる「一高野球」時代である。一高野球の特徴として、次のようなエリート的国家主義、徹底的な勝利至上主義、集団主義が挙げられる。同時に同時代の学生、知識人などの教養高い読者層をもっていた新聞『日本』や『読売』などでは、一高生の試合を報道している。新聞「日本」は「国民精神の回復発揚」とという見地から野球などの西洋スポーツを熱心に紹介した。野球は一高野球時代をへて早慶野球時代に入った。同時代のほとんどの新聞は早慶野球を報道するようになった。野球報道は学生読者を獲得する重要な手段であった。

 しかし、 1915年8月の『大阪朝日』による全国中等野球大会(現在の夏の甲子園大会)の開催では、新聞社は、これまでの「紹介」・「報道」などの関与方式から一企業として直接的に野球のイベントの創出に乗り出したという野球と新聞と関係の新段階に入っていったのである。本論では、この大会の開催における「大阪朝日」の動機は、「みる野球」と「読む野球」への提供により『朝日』に販売部数の拡大や広告の増加などの有形の利益や新聞の信用やブランドなどの社会的イメージの向上などの無形な利益をもたらしただげでなく、他の新聞にも大きな影響を与えていったのであると指摘できる。それは『大阪毎日』・『東京日日』は経営的損失を食い止めるための対抗策として、中等選抜野球、都市対抗野球を主催するようになったことを明らかにしている。野球が日本新聞界を支配していた『朝日』、『毎日』二大新聞グループの全国規模の大会の主催や宣伝・報道などにより、大いに普及されていった。

 さらにこれまでの研究では実証されていなかった日本におけるプロ野球の誕生の前提としての野球の普及・人気の上昇という問題について、新聞社による硬式野球イベントの開催、日本の軟式野球界の形成や野球場の整備などの野球普及の外的要因として検証し、大学・高校生から中学生、小学生、幼児までにおける野球遊戯の普及状況や都市大衆層、労働者層、農民層による野球遊戯の観覧状況を統計データなどを通じて裏付けている。野球が娯楽として日本のほぼ各階層に受け入れられ、野球ファンが知識人中心から一般大衆へと広がっていったことがプロ野球誕生の前提と言えよう。  第2章では、巨人軍の誕生とプロ野球における新聞の対応と姿勢を検証する。巨人軍及びプロ野球の誕生に対する新聞の対応や、その対応と新聞経営との間における連関性、プロ野球ファンと新聞の読者との関係について分析する。

 少々詳しく言うと、まず、巨人軍の誕生について。1924年『読売』を買収した正力松太郎は、次のような新聞経営戦略を実行した。大衆の欲求、好みに沿ったセンセーショナリズムの編集手法を採用すると同時に大衆の好奇心を煽るイベントを多く催した。その1つが日米野球であった。この日米野球は『読売』にイメージ・アップと部数の増大をもたらした。2年後、同紙は、“全国読売化運動”というマルチ商法を遂行するための一環として、第2回日米野球を計画したが、「野球統制令」で学生選手を使えなくなったため、正力は大日本東京野球倶楽部を創設した。これが巨人軍の前身である。本論では、日米野球や巨人軍の創設などを『読売』のスポーツ報道重視という経営戦略の重要な特徴として捉え、正力が新聞の力を借りて宣伝し、球団を育てていくと同時に、プロ野球の報道を通じてスポーツ報道の活性化を促し、固定読者の増加をねらうというスポーツとメディアとをミックスさせた経営手法を採用したことにより『読売』の部数の増加をもたらしたことを重点的に検証した。

 その次に巨人軍の誕生とプロ野球における新聞の対応については、これまでの研究が『東京朝日』掲載の飛田穂洲の「学生野球」と「興行野球」という論文に集中し、「『東京朝日』=反プロ野球」或は「飛田穂洲=反プロ野球」という単純な結論を下しているが、本研究では、巨人軍の草創期に関する『読売』、『東京朝日』、『東京日日』の三紙の報道の実態から『東京日日』・『東京朝日』の対応を分析した。その結果、東京日日が最初から低調であった。同紙と『読売』との間には大きな利益衝突があったと思われる。一方、『東京朝日』は、巨人軍の誕生を高く評価したが、その後、その報道の熱意が徐々に下がり、ついに飛田論文の掲載となった。その変化の原因について、本論文では、イベント企画の開催における両紙の経営戦略の差異及び二紙間の利害関係の変化から明らかにした。

 そしてプロ野球の誕生に対する新聞の姿勢を検証した結果、『東京朝日』には「プロ野球不要論」が貫いていたことがわかる。同紙の読者投書も少なかったうえ、プロ野球に否定的な態度を示したと見られる。しかし、プロ野球には一部の熱烈なファンを擁していた。彼らがプロ野球を推進した『読売』、『都新聞』(現『東京新聞』)などの新聞の野球(スポーツ)報道記事の忠実な読者であった。

 第3章では、戦前のプロ野球における娯楽性・軍国性のアンビバレンスという問題。

 本論では、まず、新聞のスポーツ報道、野球報道、プロ野球報道の実態や特徴から検証した結果、新聞のプロ野球報道は大衆に娯楽を与えていることを指摘している。つまり、新聞は報道を通じ、球場を劇場化させ、プロ野球の試合をドラマ化させ、大衆に人気あるスター選手の演出を通じて話題を提供し、彼らの共感を呼び起こし、楽しませていたことを指している。読者にプロ野球報道へのアルコール中毒患者のような依存症状を引き起こさせようという狙いが隠されていたと思われる。

 具体的に説明すると、『読売』、『東京朝日』、『東京日日』の三紙には、スポーツ報道のスペースの差がほとんどなかったが、三紙には、自社の主催ないし後援のスポーツ競技を積極的に報道している反面、あまり関係しなかった種目についての報道は、疎かであったという共通の特徴があった。同様に野球の報道でも、三紙とも大きな紙面を割いて東京六大学野球を報道し、自社の主催あるいは関連のある野球試合についてのみ、大々的に報道し、他社の主催あるいは関連のない野球試合については、あまりにも疎かに扱っていた。そして、プロ野球報道が、球団をもつ『読売』、『国民』、『名古屋』、『新愛知』のほか、娯楽を中心とする『都』、夕刊『大阪』によって主に担われていた。それらに次ぐのが、『東京日日』、『大阪朝日』、『大阪毎日』であったと思われる。一流紙といわれた『東京朝日』の報道は非常に少なかったのである。プロ野球の娯楽的特性が読売などの新聞によって大いに発揮されたといえる。

 そのつぎにプロ野球の軍国主義的性格について。大正時代以降、スポーツが一般大衆の生活へ定着したが、政府はこれを政治的利用ようとし、スポーツが青年学生、労働者の左傾思想の防止策と位置づけられていた。満州事変以降、スポーツが次第に軍国主義の侵略戦争のための兵力の確保の国防スポーツ的性格に変容していった。太平洋戦争がはじまると、野球、ラグビーなどの輸入スポーツが敵性スポーツとして排斥され、相次ぎ中止された。しかし、プロ野球側が生き残りった。それがプロ野球の軍国主義的性格と密接な関係があったからである。

 日中戦争開始後、プロ野球側は、連盟綱領を改正し、「野球報国」を打ち出して国防献金試合を行った。1940年以降の興亜記念日の興行収益が新聞社を通じて戦争献金とした。特に1940年の大政翼賛会発足後、正力松太郎および大政翼賛会事務総長有馬頼寧の指示により、プロ野球側は全面的に戦争協力体制を打ち出した。プロ野球が「聖戦貫徹のために日夜緊張を続けている日本国民の元気をつける不可欠のもの」と位置付けられた。太平洋戦争開戦後、同連盟は勤労報国隊を結成し、さらに「日本野球報国会」を結成し、大日本産業報国会と連携し、「野球報国、滅私奉公」試合を行い、銃後慰安娯楽提供という役割を果した。

 つまり、プロ野球の経営者たちは国防献金などの一連の戦争協力活動というパフォマンスの戦略を引き換えとして、プロ野球を生き残らせた。なぜなら、プロ野球報道は『読売』のスポーツ報道の最重要部分であり、プロ野球事業は同紙の固定読者を獲得する重要な材料であった。同紙にとって、プロ野球が壊滅することはスポーツ版の固定読者層の一部を失わせ、重要な利益の損失が生じることを意味していたと言える。つまり、プロ野球の銃後娯楽の機能の実現は『読売』の巨人軍戦略の達成に大きなインパクトを与えていったのである。戦時期の青少年が新聞のスポーツ報道の最も重要な読者であった。スポーツ報道はこれらの読者を獲得する重要な手段であった。しかし、『東京朝日』、『東京日日』の二紙は、政府の青年団と工場など職場の体育運動奨励の政策に追随し、それまでのアマチュアスポーツを重視した報道の姿勢から一般大衆的「錬成」と「体位の向上」運動へと展開していった。また、太平洋戦争開始後、 それまでに大きな力をいれていた自社主催のスポーツ競技が相次ぎ中止されたこれにより、両紙のスポーツ報道体制が弱体化され、スポーツ欄の読者ばなれが起きた。その読者が銃後慰安娯楽のプロ野球記事を掲載していた『読売』に吸収されていった。




結論と今後の課題
 戦前のプロ野球と新聞の関係に関する研究を通じて次のような結論が得られた。

 第一に、新聞の野球観について。『日本』を除けば、ほとんどの新聞がタテマエとして野球を体育の手段として、また徳育の手段として評価しながら、ホンネでは読者の拡大という基本的目的のための報道を行なった。この研究では、野球、さらにはスポーツが新聞ジャーナリズム企業の経営戦略に翻弄されいた実態が描き出されていると思われる。

 第二に、野球イベントの創出について。スポーツイベントとメディアへの大衆娯楽的需要との間における構造的連関性の存在を日本の新聞経営者が認識し、これを利用して利益の拡大を試みたことがわかる。大衆のスポーツ(特に野球)に対する娯楽的需要を満足させる文化装置として、人々に期待されているという鋭い認識が正力松太郎にはあったのである。

 第三に、野球が普及されていった過程と、新聞が読者を獲得していった過程とが一致していたことがわかる。 野球人気の担い手は、一高→早慶(東京六大学野球はその延長といえる)→中学→一般的な野球チームへと波及した。その発展過程はちょうど学校ピラミット構造と対照的に、頂点から底辺へ波及していく特徴を呈していたのである。野球を伝えるメディアとしては、比較的に早い時期に野球を紹介し、一高野球を報道したのは新聞『日本』、『読売』など知識人向け新聞であった。しかし、時代の推移につれ、「野球をする者」側において、また「野球を楽しむ者」側において、質的、量的に大きな変化が生じてきた。『大阪朝日』による全国中等野球大会の開催以降、野球報道の担い手としてのメディアは社会一般大衆層を読者とする普通の商業新聞に代ったのである。

 第四に、戦前では、『読売』の巨人軍戦略は巨人軍の興行収益を狙っていたということよりも、プロ野球の誕生による同紙に野球情報の供給を確保させ、プロ野球を中心としたスポーツ報道による固定読者の獲得を重点においたが、戦後では、戦前から蓄積してきた“巨人軍人気”という現象を活かし、巨人軍の興行によりもたらされていた莫大な経営利益を武器に積極的な経営拡張を行い、さらなる巨大な利益を追求している。したがってこの研究は現在のスポーツとマスメディアの関係の認識・考察にも重要な示唆を与えているはずである。

 第五に、本研究では、新聞と野球の関係、さらには広義の新聞ジャーナリズムとスポーツの関係の把握を通じて戦前のスポーツ報道の実態を明らかにし、戦前の日本の新聞のスポーツ報道史の一つの重要な問題を解明した。また、この研究はスポーツ報道と新聞経営の間における因果関係を歴史的に検証することにある程度成功している。これは日本の新聞史とくに新聞経営研究史にとって重要な意義があろう。

 第六に、日本プロ野球戦前史の一重要な側面を明らかにしたことにより、戦前のプロ野球研究に重要な文献を提供し、日本のスポーツ史研究にも貢献している。 最後に、本論文の問題点を指摘しながら、今後の課題を述べたい。

 日本の野球前史における新聞と野球の関係については、『朝日』以外には主に『日本』を取り上げたが、代表的な新聞の紙面の比較分析が展開できなかった。新聞のプロ野球報道については、『東京日日』のプロ野球における報道姿勢の転換については説明できなかった。そして太平洋戦争開始後、日本政府は英米から輸入されたスポーツのほとんどを制限しつつその実行を許したが、その後統制の政策を強め、結局、中止に追い込んでいった。しかしプロ野球を残し、1944年(昭和19)11月まで興行を認めていった原因や、そこにおける政府とプロ野球の関係については実証することができなかった。また、日本のプロ野球経営とくに戦争期の経営方針についての正力松太郎の資料が不足しているので、彼についての議論を進展させられなかった。これらの問題を今後の研究課題としたい。そしてそれらの問題の解明に努めるとともに現代のマスメディアとスポーツの関係を研究の視野に入れ、日本新聞企業の経営戦略を描き出そうとする。

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