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博士論文要旨

論文題目:老人保健制度の新展開 ―予防機能を中心にして―
著者:佐々木 貴雄 (SASAKI, Takao)
博士号取得年月日:2006年3月28日

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 本論文の目的は、医療保障制度における予防機能とそれにおける予防サービスと加入者とを結びつける仕組みについて理論的検討を深めることに加え、その具体的な制度分析として老人保健制度を取り上げ、これまでの歴史的経緯を検討することにある。老人保健制度を選択した理由は、これが中高齢者を対象に治療・予防を含めた包括的な保健サービスを提供していることに加え、高齢者を保健事業の対象に含んでいることから、医療・介護両方の予防制度として機能していることにある。近年、健康日本21や健康フロンティア戦略の実施、介護保険における新予防給付導入のように、医療・介護では予防への関心が非常に高まっている。本論文では老人保健制度の歴史を振り返ることによって、このような近年の政策動向とその課題について検討するものである。
 以下、章別にその要旨を述べていきたい。
 第1章では医療保障における予防について、理論的な検討を行った。疾病予防を行う目的は、健康水準を高めることに加え、医療費を削減することが挙げられる。但し、医療費の削減は健康水準が高まったことによる副次的効果であり、さらに予防の手法や、評価手法によってその効果には差が出るものと考えられる。医療保険制度では、健康保険、国民健康保険においても保健事業として予防サービスが提供されている。医療費保障の理念は発生した医療費負担に対する保障であったが、健康保障の段階ではそもそも健康を維持することが求められるため、予防の重要性は高まると考えられる。疾病構造は慢性疾患や老人退行性疾患が中心の時代となっている。他人への感染を防止するという、公共の福祉が個人の自由を制約し得るという強制の法的根拠が明確であった感染症と比較すると、慢性疾患に対する予防では公権力の行使は行いにくい。また、生活習慣病の発生要因は遺伝要因、外部環境要因など個人に帰するものだけではない。医療保険では被保険者に加え、企業や国、地方自治体から財源が拠出されている。このような財源拠出主体の多様性は、このリスク要因の多様性に対応していると見ることも可能ではないか。保険とは、一義的にはリスク分散を目的とするものであり、本来は事後的救済に限られるものである。しかし労災保険におけるメリット制のように、リスク縮減のインセンティブが組み込まれているものもある。医療保険においては財源拠出主体の多様性から、被保険者だけではなく保険者等にもインセンティブを付与することが考えられる。しかしインセンティブを組み込む手法について、生活習慣に関する国や保険者等のコントロールがどれだけ許されるかは重要な論点であり、加えて保険者は予防以外にも医療費を削減する手法を持っていることなど、検討すべき課題があることを指摘した。
 第2章では老人保健法の成立過程を、その構成要素の一つである保健事業を中心に検討した。1963年の老人福祉法による健康診査、1978年の老人保健医療総合対策開発事業などは老人保健制度による保健事業につながるものであった。老人保健制度実施の直接のきっかけは、いわゆる老人医療費の無料化後の医療費増加に加えて、経済環境の悪化が挙げられる。老人保健制度の3つの大きな構成要素のうち、老人保健法成立までの大きな論点は拠出金の負担方法や、一部負担額であり、保健事業の導入は大筋では歓迎されたといえる。また、保健事業の導入は一部負担を高齢者に賦課する対価のような点があったといえる。老人保健制度が設立まで至った要因としては財政調整、一部負担、保健事業の3つの要素を同時に盛り込むことによって各団体の反対意見を押さえ込んだ点に加え、医師会の反対してきた老人診療報酬の決定を先送りした点等が挙げられる。高齢者の社会的入院も既に問題になっていたが、医療供給体制の改革については医療法上の特例による老人病院の制度化に止まり、中間施設は盛り込まれなかった。また、登録制などを含む家庭医制度に対しては医師会の反対が強く、その後の課題となった。保健事業に関して、老人保健制度実施当初の供給量不足は厚生省も認めていたところであり、この点は保健事業に関連した懸念が最も大きい点であった。保健事業の供給体制はその後5か年計画により整備されていくが、保健事業の財政的裏付けが不十分との批判、さらに健診偏重であるとの批判がなされていた。
 第3章では実施後の老人保健制度の動向について、特に介護との関連を中心に論述した。老人保健制度は実施以降、老人保健施設の創設、老人訪問看護制度の創設というように、介護問題への対応が制度改正によって実施されていった。老人保健施設は病院から在宅、福祉施設との間にある通過施設との位置付けがされていたが、実際には次第に長期滞在者が増加し、期待されていた病床からの転用も進まなかった。老人保健事業は90年代、第2次、第3次5カ年計画によって進められ、第2次計画では寝たきり老人、痴呆老人対策が盛り込まれた。これにより、老人保健事業はさらに医療・介護両方の予防制度としての位置付けが強くなったといえる。1989年に策定されたゴールドプランでは介護サービス供給量の目標値が設定され、新ゴールドプラン、公的介護保険の実施へと続いた。2000年の介護保険制度の実施によって老人保健施設、老人訪問看護等は介護保険へと移行した。新しい介護保障制度は当初から介護保険として構想され、要介護認定とケアマネジメントに基づいて介護サービスの提供が行われるようになった。介護保険では要支援者への給付が予防給付と位置づけられたが、引き続き老人保健事業でも介護予防を担うとの認識もなされていた。また、介護保険に移る前に医療の中で十分リハビリテーションを行うという「リハビリテーション前置主義」が言われていたが、医療保険と介護保険における制度上の連携はなく、リハビリテーション体制としても十分ではないことが批判された。
 第4章では、2000年以降の健康・予防対策への注目が高まっていく動向について検討した。このような動きは、1996年の成人病から生活習慣病への呼称変更を盛り込んだ公衆衛生審議会の意見具申がその一因になっていると考えられる。この意見具申でも疾病の発症には個人の責任に帰することのできない複数の要因が関与していることが挙げられたが、それに反して生活習慣病の自己責任論が一部でみられるようになる。2000年からの健康日本21は一次予防の重視に加えて、目標値の設定と評価が特徴となっている。老人保健事業の第4次計画もこれと連動したものとなり、個別健康教育の導入など、一次予防が重視された。2002年の健康増進法は健康日本21に法的根拠を持たせるためのものであり、医療保険保険者も市町村同様に健康増進事業実施者とされた。医療保険制度改革では90年代後半からの保険者機能強化論との関連でも、その機能のひとつとしての予防が議論された。近年の政府文書による保険者再編の目的のひとつにも保健事業の強化が挙げられている。2006年度の介護保険制度改革では、新予防給付が導入される予定になっている。要支援者への新予防給付と地域支援事業とにより介護予防が実施されることになり、新しいサービスとしては口腔ケア、筋力トレーニング、栄養改善等が挙げられている。最近の高齢者医療制度改革では高齢者を前期・後期で区切った案が検討されているほか、老人保健事業も65歳以上の保健事業を地域支援事業として再編するとの方針が出されている。2004年の老人保健事業の見直しに関する検討会の中間報告によれば、老人保健事業の目的は生活習慣病予防と介護予防であると改めて示された。加えて、3つのライフステージに応じた多様な事業展開が必要であるとして、医療保険同様に年齢によって予防のあり方を区切る方向性が示されている。
 終章ではそれまでの議論をまとめ、予防を中心とした今後の制度設計についても検討した。老人保健制度は一貫した保健サービスによる包括医療の提供を目指したものであったといえる。しかし初期はマンパワーや施設など供給体制の充実に重点が置かれ、実施後は老人保健施設の創設に見られるように介護への対応が重要な課題とされ、慢性疾患の予防で必要な予防サービスに加入者を参加させる仕組みについて、十分考慮されてきたとはいえない。結果として、保健事業が必要な人々に届いていないという問題点もこれまでに指摘されている。老人保健制度による予防効果については、健康診査と医療費減少との関連について実証された研究があるが、今後は保健事業コストとの関連も考慮しつつ、更なるエビデンスの蓄積が求められる。これは2006年度の介護保険改革で導入される新予防給付も同様であるといえる。
 加えて、予防の特性を基にした医療保険の制度設計を検討した。治療と比較して、予防サービスは地域環境、生活環境により合わせたものである必要がある。この点で、地域単位、職域単位の保険集団は有効性を持ってくると考えられる。また、生活習慣病予防にみられるように予防への努力は長期的なものであるべきで、保険者の構成もこれに対応すべきである。また1997年の厚生白書でも指摘されているように、老化しているかどうかが年齢で決まるというのは「神話」であるといえ、身体能力は加齢に比例して個人差が出てくるものであるから、年齢によって予防サービスを区切ることは適切ではない。また、新予防給付で挙げられている介護予防サービスは、疾病予防サービスとしても機能できるものがあり、必ずしも区別する必要はないと考えられる。また、1996年の公衆衛生審議会の答申でも言われたように、予防は個人の責任だけで行うべきものではない。疾病には多様な原因が存在することから、多様な主体が関わり、責任を分担すべきである。また、予防で減らすことができるのは疾病「リスク」であり、個人単位では予防への意欲が湧きにくい。このため、予防インセンティブの付与対象も被保険者だけではなく、保険者や市町村なども考えられる。ただ、このようなインセンティブの付与は個人の生活スタイルに影響を与えるものであるため、その実施には慎重である必要がある。たばこへの制限は幅広く容認されつつあるが、リスク要因に対してどう対応するかは保険者と加入者との間で意思決定を行い、バランスをとっていく必要がある。供給側の改革は家庭医にもみられるように、十分には進んでいない。予防給付として予防サービスを保険給付に組み込むことも考えられるが、地域・職域という枠組みで保健事業として提供することにもメリットがある。また、被保険者への予防インセンティブの付与は患者負担という「結果」を指標とするものではなく、保険料、税などによって「努力」を評価することが望ましい。また予防のエビデンスの蓄積は今後とも課題となろう。

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