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博士論文要旨

論文題目:中国東北部における朝鮮人教育の研究 1906~1920― 間島における朝鮮人中等教育と日中の政策を中心に―
著者:許 寿童 (XU, Shou Tnog)
博士号取得年月日:2006年3月28日

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1 問題意識と課題
 本論文は、間島朝鮮人の中等教育がはじまった1906年から、日本軍の間島出兵によって朝鮮人中等教育が弾圧を受け大きく破壊された1920年までを対象時期にし、この時期における朝鮮人の自主的中等教育とそれへの日中の政策を中心に考察したものである。
 当時(1910年代前後)、間島人口の7割以上を占める朝鮮人に対する教育は、各国が自らの勢力を増強して相手を抑制し、間島支配の主導権を確立するための重要な手段であった。そのため、民族教育を守ろうとする朝鮮人と、それを奪おうとする日中の3者の間では絶えず紛争が起きていた。それに、キリスト教の教育を目指す西洋宣教師(以下「外国宣教師」と記す)も参加し、間島朝鮮人教育は極めて複雑な様相を呈していた。
1910年代、満州には10数校の朝鮮人中等教育機関が存在したが、その多くが間島にあった。間島朝鮮人にとっての中等教育とは、小学校より高い水準の文化知識を伝授するとともに、小学校教師および朝鮮人社会の中心人物や、反日民族独立運動に投身できる人材を養成するためにも欠かせない教育の手段であった。そのため、間島の中等教育機関では師範教育も行われ、軍事学校では軍事教育が行われていた。
80年代末から、中国・韓国・日本で数多くの間島教育関連の研究論文や研究書が出された。間島教育の研究蓄積は大きいといえよう。しかし、これまでの間島教育研究は初等教育と中等教育を区別することをしなかった。また、初等教育が主な関心の対象となり、中等教育に関しては主として20年代以降が取り上げられてきた。そのため、1910年代まで朝鮮人による中等教育機関はまったくなかったと断言する研究すら現れた。間島朝鮮人が精力的に推進し、日中も関わらざるを得なかった1910年代までの中等教育に対し、真正面からその全過程を体系的に取り上げた研究は現時点ではない。このような状況は、中等教育の実態をつかむことのみならず、初等教育を含む間島全体の教育の解明を困難にするものと考える。
また、日本における植民地教育研究のなかには「近代教育」「近代学校」をキーワードにした植民地教育近代化論がある。日本の植民地教育の差別・抑圧政策や弾圧の実態が充分解明されていない現状で、このような植民地「近代化」が強調される状況は、決して望ましいものではない。
以上の問題意識と研究状況を踏まえて、本論文では次の二大問題を課題とする。
 第1に、朝鮮人による中等教育を考察することである。まずは、間島における朝鮮人中等教育はいつ始まり、1910年代までの間にいかなる朝鮮人中等教育機関が存在したのか。間島朝鮮人はなぜ数多くの中等教育機関を設立・経営したのか、朝鮮人中等教育機関ではどのような教育が行われ、どのような卒業生が養成されたのか。さらに、朝鮮人中等教育機関の教師はどのような人物であったのかを明らかにする。
次に、間島教育、特に間島の朝鮮人中学校のほとんどは宗教組織によって設立し、支えられていた。朝鮮人の中等教育と宗教組織はなぜこのように密接にかかわりあったのか。つまり、ここでは間島の中等教育と宗教との関係を把握することを目指す。
最後に、間島の朝鮮人中等教育機関には朝鮮国内(北部)、満州各地およびロシア沿海州から多くの留学生が集まってきたが、その実態はどういうものであったか。間島朝鮮人の中等教育は、間島、満州、朝鮮の教育史でどのように位置づけられるか、といったことを明らかにする。
第2に、日本、中国両当局および外国宣教師による朝鮮人中等教育を考察することである。
植民地朝鮮で朝鮮人の普通中等教育を制限し、初等教育・実業教育中心の政策を実施していた日本は、間島でも同様の政策を繰返した。そして、武力で間島朝鮮人中等教育を弾圧した。1920年、日本は正規軍を間島に派遣して数千人の朝鮮人を虐殺した。中国における日本軍の民衆大虐殺の発端となったこの間島事件において、朝鮮人私立学校も標的となり、多大な被害を受けた。日本の間島朝鮮人中等教育政策はどのような性格のものであったのか、間島事件の際、具体的にどのような小中学校がどういう経緯で焼却、破壊され、その後これらの学校は再建できたか否かを究明する。
一方、中国も多くの私立学校を官立に改編したり、朝鮮人小学校を設立したりした。その結果、中国官公立小学校の生徒は朝鮮人が中国人を上回るようになった。こうした初等教育政策に対して、中国はどのような朝鮮人中等教育政策を行ったかを把握する。
日中が朝鮮人中等教育に対して消極的に対応しているとき、外国宣教師たちは朝鮮人中学校を設立し、本格的な中等教育を展開した。彼らはなぜ中学校まで設立したのか、そこでは具体的にどのような教育が行われたかを明らかにしたい。
師範教育、そして間島の中学校と深いつながりのある軍事学校分析も本稿の課題の一部である。また、比較の視点から上記4つのアクターによる朝鮮人中等教育の相違点などを明らかにする。さらに、中等教育の基盤となった初等教育についても検討を加えたい。
 
2 論文の構成
 序章では、中等教育の視点からの研究が存在せず、1920年まで間島朝鮮人による中等教育機関はなかったとまでいわれる研究状況を踏まえて、朝鮮人や外国宣教師による中等教育、および中国、日本の朝鮮人中等教育政策を明らかにすると本研究の課題を提示した。同時に、本研究の研究史上の位置づけや現代的な意義について言及した。そして、本論文で使用する史資料を紹介し、その特徴を明記した。また、間島における多種類の学校について説明し、講読の便宜をはかった。
 第1章では、朝鮮人教育を中心に1900年代までの間島教育を概観した。まず、朝鮮人の間島移住の沿革を整理し、清国の帰化政策および日本の間島侵出と日中両国による朝鮮人の法的地位の「確定」過程を考察した。次に、間島における清国人の初等、中等教育を検討した。これは主として、朝鮮人教育の理解を深めるためであるが、研究の乏しい間島の清国人教育の解明にもつながると思われる。そして、清国官立学校における同化を目的とする朝鮮人教育について分析した。さらに、移住初期における書堂教育、宗教の伝来による学校教育の発生、瑞甸書塾における中等教育のはじまりを追った。最後に、日本が間島に設置した統監府臨時間島派出所の朝鮮人教育を検討した。
 第2章では、1910年代の朝鮮人による中等教育を対象として考察した。まず、中等教育をはじめとする間島朝鮮人教育に大きな足跡を残した朝鮮人団体「墾民教育会」の教育、布教、帰化活動を解明し、1910~11年における朝鮮人中等教育の勃興について考察した。次に、民国初期(1912~1917)に設立された朝鮮人中学校と軍事学校を考察し、両者の関わりを究明した。さらに、間島の3・1運動といえる3・13反日独立運動における中学生の活躍を究明し、中国のこの運動に対する弾圧と私立学校弾圧を検討した。また、その後の間島の武装独立傾向にともなって設立された軍事学校を考察した。最後に、修業年限やカリキュラムなどの点からして、間島朝鮮人が行ったのは初等教育よりレベルの高い中等教育であり、その一部の中学校は中学校に相応しい側面があったことを新しい史料に基づいて検証した。同時に、これらの中学校における教育内容を考察した。
 第3章では、1910年代、間島における日本の初等教育・実業教育重視と中等教育制限、弾圧政策を検討した。具体的には、補助学校や間島普通学校分校の設立の過程およびその教育内容を分析するとともに、間島簡易農業学校と日本の朝鮮人中等教育政策の特徴を考察した。また、1920年の間島事件における日本軍の朝鮮人虐殺、および中学校をはじめとする朝鮮人教育に対する弾圧の実態を明らかにした。
 第4章では、1915年、延吉道尹公署が公布した朝鮮人教育に関する重要な法令である「画一墾民教育弁法」の背景や内容、および実施過程を考察し、同法令に対する間島朝鮮人の対応を分析した。また、民国成立後の間島中国人初等教育の普及状況を概観し、中国官立中学校および師範学校における朝鮮人教育について検討した。
 第5章では、間島に宣教師を派遣したパリ外邦伝道会およびカナダ長老教会組織について概観し、外国宣教師の朝鮮人に対する態度や、間島朝鮮人教育および独立運動との関わりを分析した。そして、カナダ長老教会宣教師が設立、経営した小中学校の実態を究明した。
 終章では、各章の要旨をまとめ、そこから得た知見を述べるとともに、朝鮮人と外国宣教師および日中といった4つのアクターの朝鮮人中等教育への関わりを比較し、それぞれの特徴を明らかにした。そして、論文の意義について改めて言及し、最後に、今後の研究課題を指摘した。

3 結論と論文の意義
本研究によって以下の結論がえられた。
第1に、朝鮮人による中等教育の実態が一層明らかになった。つまり、(1) 間島における朝鮮人中等教育は1906年に瑞甸書塾ではじまり、1910年代まで明東中学校など朝鮮人による複数の中等教育機関が存在し、そこでは中等教育に相応しい教育が行われていたことが検証された。つまり、これらの中学校は小学校4~6年の上の段階に設立され、そのカリキュラムも当時の日本と中国の中学校カリキュラムをモデルにしていた。教育の内容においても中等程度のものが入っていたことが判明した。そして、中学校の教師のなかには漢学教育および近代的教育を受けた優れた者が少なくなかった。また、多くの中学校卒業生たちは朝鮮人学校の教師になったり、反日独立運動に関わったりしていた。中学校では、間島教育および朝鮮人社会をリードする中堅人物を養成したのである。
(2) 宗教と中等教育の関係が究明された。間島の朝鮮人中等教育における宗教の役割は極めて大きかった。移住初期、間島朝鮮人教育は漢学中心の書堂教育のみであったが、キリスト教の伝来にともなって1900年代のはじめに間島朝鮮人にとって初の学校が誕生し、学校教育がはじめられた。そして、間島におけるほとんどの朝鮮人中等教育機関の設立や経営には、宗教組織あるいは宗教人がかかわっていた。宗教は、朝鮮人を結束させると同時に、日中官憲から彼らをある程度守ってくれる機能も果たしていた。宗教関連であるがゆえに、中等教育機関の設立や経営が可能になる場合もあった。宗教の普及とともに近代的教育および反日民族教育を行うことが、中等教育に携わった朝鮮人宗教組織および宗教人の目的であった。彼らの多くは、宗教人であると同時に、民族主義者でもあったからである。間島における宗教、特に耶蘇教や大倧教は反日的宗教ともいえるほどであった。
(3) 間島は朝鮮内外における朝鮮人中等教育のセンターであった。間島の中等教育機関には、間島および満州はもちろん、朝鮮国内およびロシア沿海州からも多くの留学生が集まってきていた。また、朝鮮国内に比べて比較的自由な民族教育が行えたことも、間島の朝鮮人中等教育の特徴であった。したがって、間島の中等教育機関では、朝鮮内外の多くの朝鮮人に中等教育の機会を与えるとともに、朝鮮人としてのアイデンティティの形成と維持にも重要な役割を果たしたといえる。
(4) 個々の中等教育機関の実態が一層明らかになった。本研究では、中等教育の視点に立って間島における朝鮮人中等教育を全体として把握しながら、個々の中等教育機関についてできる限りにおいて最新の史資料を活用し、詳細な考察を加えた。その結果、各中等教育機関の修業年限、教育内容、教師の経歴、卒業生の活動などにおいて従来不明であったものが一層明らかになった。
ところで、間島朝鮮人たちが中等教育を強く求めたのは単に教育熱が高かっただけでなく、中等教育は彼らのプライドであり、反日民族教育のためにも欠かせないものだったからであった。間島朝鮮人は経済的、社会的地位が低く、政治的権利もほとんどなかった。彼らにとって教育はある意味で唯一の希望であり、生きがいであった。だからこそ、彼らは貧しい状況のなかでも絶えず学校を設立し子弟を通わせたし、より高度な教育、つまり中等教育およびそれ以上の教育を目指したのであった。それは、教育を通じて朝鮮人を啓蒙し人材を育成するとともに、独立のための力を養うという性格も帯びていた。朝鮮が近代化に遅れ、日本に併合されてしまった原因の一つに教育が遅れたという認識があったからである。義兵闘争など武力による独立運動の失敗は、朝鮮内外の朝鮮人に教育・産業といった実力養成の重要性をさらに思い知らせたのであった。
第2に、間島朝鮮人中等教育に対する日中の政策が解明された。日中とも朝鮮人の初等教育を重視し、中等教育を制限する差別政策を実施していた。初等教育を重視したのは、朝鮮人子弟の同化および朝鮮人教育を初等程度に止まらせるためであったといえる。日本は実業教育も重視し農業学校を設立したが、数年後には閉校を余儀なくされた。朝鮮人の理解を得ることができず、入学生が少なかったため失敗に終わったのである。中国は官立の中学校や師範学校に朝鮮人生徒を受け入れたものの、その数は中国人生徒の半分以下であった。間島人口の7割以上が朝鮮人であり、中国官立の小学校生徒数において、朝鮮人が中国人を上回っていたことを考えると、これは朝鮮人中等教育差別にあたるといえよう。中国側に朝鮮人中学校を設立する発想はあったものの、財政難を理由に実現しなかったことも同じ文脈で考えられる。
また、日中とも朝鮮人中等教育を制限、弾圧した。特に、間島事件において、日本は、現存の中学校および従来中学校が設置されたことのある学校を悉く焼却し、間島の朝鮮人中等教育に多大な被害を与えた。中国は、朝鮮人の自主教育に対して理解を示し認める場合もあったが、全体としては同化ないし抑圧政策を行った。強制的に朝鮮人私立学校を官立に改編したり、朝鮮人中学校に対して解散令を発したりしたが、日本の圧力がその背景にある場合も少なくなかった。
日中は、お互いに朝鮮人は「自国民」であると主張したが、それは建前に過ぎなかった。両国にとって朝鮮人は、支配される側であると同時に、異民族であり同化の対象であった。また、「朝鮮人」ではなく「鮮人」あるいは「墾民」といった差別の対象でもあった。日中にとって、このような朝鮮人が高度な教育を受けて自分たちと肩を並べるようになることは面白くなく、困ることであっただろう。両国がともに望んだのは、朝鮮人が初等程度の教育を受けて下級官吏や労働者となり、その支配に従順になることであった。したがって、高度な教育、つまり中等教育以上の教育を受けられる朝鮮人は最小限に押さえる必要があった。
第3に、外国宣教師による朝鮮人中等教育が明らかになった。間島におけるキリスト教および近代教育の形成と普及において、パリ外邦伝教会やカナダ長老教会に所属する外国宣教師の役割は極めて大きかった。彼らは、間島朝鮮人にとって最初の近代学校の設立にかかわっており、朝鮮人信徒とともに学校を設立したり、自ら学校を設立、経営したりしていた。特に、カナダ長老教会は、朝鮮人初等教育だけでなく、男女の中等教育まで行った。その中等教育は、当時の間島において最高レベルの教育であった。
また、外国宣教師たちは、朝鮮人の保護者となって日中官憲に反対することもあった。さらに、外国宣教師が直接経営する朝鮮人小中学校においても反日民族教育が行われていた。外国宣教師たちは、宗教人をはじめとする朝鮮人人材の養成だけでなく、朝鮮の独立運動にも貢献したといえよう。彼らが朝鮮人に同情し中学校まで経営した背景には、宗教普及の目的以外に、博愛・平等といった宗教精神がうかがえる。そして、カナダ長老教会宣教師の場合は、イギリスによる植民地支配を経験したことが重要な背景であったと考えられる。
以上、4つのアクターの間島朝鮮人中等教育に対する姿勢や政策を比較すると、朝鮮人や外国宣教師は積極的であったのに対して、日中は消極的であったといえる。朝鮮人たちは教師に給料もきちんと払えない状況で中等学校を設立し、子弟に中等教育を行った。外国宣教師たちも宗教の力に頼って朝鮮人の子どもに対する初等教育はもちろん、中等教育まで行っていた。そして、それは間島において中国人、朝鮮人を問わず最高レベルの教育であった。しかし、もっとも力のあるはずの日中両国、特に日本は朝鮮人の中等教育に消極的だった。日中両国は、間島朝鮮人を自国の「国民」であるとしながらも、その「国民」のための中学校を設立しなかったのである。しかも、日中は朝鮮人中等教育を制限し、弾圧までした。特に、間島事件における日本軍による朝鮮人中等教育に対する破壊は凄まじかった。

次に、本研究の意義として、次のようなものが挙げられよう。
第1に、1910年代までの間島朝鮮人中等教育の全容を本格的に考察したのは本研究がはじめてである。そのため、本研究は同分野における研究史上の空白を埋めるものといえる。そして、中等教育に焦点をあてることによって、日中の差別政策などさまざまな教育の実態が一層明らかになったと思う。また、本研究では、朝鮮人中等教育の理解のために初等教育の検討にも尽力した。さらに、朝鮮人だけでなく、中国人初等教育も合わせて検討した。これによって、朝鮮人初等教育の実態が一層明らかになったのはもちろん、中国人教育に関する叙述は、空白状態に等しい同分野の研究状況を改善したものと考えられる。
第2に、本研究は、日本の朝鮮人中等教育に対する制限、弾圧政策や朝鮮人教育の被害事実などを明らかにすることで、日本が間島で設立した学校は「近代学校」であり、間島における「近代教育」の普及に貢献したという植民地近代化論に警鐘を鳴らし、正しい歴史認識の確立にささやかな力になったのではないかと考えられる。
第3に、本研究は、当時の間島を取り巻く国際関係の理解にもつながるといえる。間島の朝鮮人教育の管轄権などをめぐって日中は常に争っていた。カナダなど外国宣教師も間島の朝鮮人教育に参与し、日中とトラブルを起こす場合があった。そのため、中等教育をはじめとする間島の朝鮮人教育は国際関係に影響を与えたり、逆に世界情勢の影響を受けたりしていたのである。
ほかに、中国領土となった間島で行われた朝鮮人教育は、朝鮮とのつながりが強かったため、朝鮮教育史の一部に属するといえる。したがって、本研究は、朝鮮教育史における中等教育の解明にも貢献できると思われる。また、本研究は、間島以外の満州における朝鮮人中等教育の理解にもつながり、20年代以降および戦後中国における間島教育研究の布石にもなったといえよう。

4 今後の課題
今後の研究課題は、20年代以降の間島の中等教育である。間島事件後の1921年、龍井に3つの私立中学校ができあがり、またも朝鮮人の中等教育ブームが起きた。そして、20年代の満州では、中国の教育権回収運動が盛んに行われ教育をめぐる日中朝の攻防はさらに激しくなっていく。そうした中で、日高丙子郎によって龍井村に設立され、修行・産業活動とともに朝鮮人小中学校を経営する「光明会」に対して、日本外務省・朝鮮総督府はもちろん、張作霖をはじめとする中国官憲も支持し、明東中学校長金躍淵など少なくない民族主義者も同会の発起人ないし会員になっていた。その背景について追究する必要があるだろう。
また、間島は満州に属し、朝鮮北部およびロシア沿海州と隣接していたため、その教育もこれらの地域と密接につながっていた。したがって、間島教育研究は満州・朝鮮北部・ロシア沿海州地方の研究と合わせて進めなければならない。20年代以降、間島以外の満州にも朝鮮人中学校が増加しているが、この満州における朝鮮人中等教育も見逃せない研究課題である。間島朝鮮人の出入りが多かったロシア沿海州はもちろん、間島と川一つで隔離あるいはつながっていた朝鮮北部における朝鮮人教育も考察しなければならないであろう。 
ところで、間島には朝鮮人のほか、多くの中国人と日本人も居住していたから、東アジアにおける3つの民族の教育が同時に展開されていた。したがって、間島教育はこの3ヶ国教育の縮図ともいえる。朝鮮人教育だけでなく、中国人および日本人教育を合わせて考察することは、間島教育の理解を深めるとともに3ヶ国教育を知ることにもつながると考えられる。そして、間島教育は前述したように、単なる教育現象にとどまらず、3ヶ国の関係にも大きな影響を与えていた。友好的関係だけでなく、歴史問題をはじめとするさまざまな課題が山積している東アジア諸国の国際関係を考えるうえで、教育を含む間島の歴史研究は極めて大きな現代的意味をもつであろう。

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