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博士論文要旨

論文題目:現代中国の社会変容と集合行為:上海の労働現場と文化大革命 1949-69年
著者:金野 純 (KONNO, Jun)
博士号取得年月日:2006年3月28日

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1.論文構成

第一章 序論
 第一節 問題の所在
 第二節 先行の諸研究
 第三節 分析の枠組
第二章 中長期変動
 第一節 都市の「解放」と三反・五反運動
 第二節 百花斉放・百家争鳴から反右派闘争
 第三節 大躍進運動
 第四節 社会主義教育運動
 第五節 小結 -社会関係、価値体系、政治的行為様式-
第三章 社会状況と政治的機会
 第一節 社会状況
 第二節 政治的機会
 第三節 集合行為の発生と伝播
第四章 政治過程と組織
 第一節 初期の動態
 第二節 組織の形成
 第三節 集合行為の展開過程
 第四節 集合行為の収束過程
第五章 結論
 第一節 行為サイクルの盛衰
 第二節 課題と補論 -地域的差異を中心に-
 第三節 展望 -1970年以降の集合行為-


2.問題の所在と分析の枠組

 1966年、中国共産党によって正式に発動されたプロレタリア文化大革命(以下、文革)は、今なお多くの中国研究者の関心を引きつけている。その原因のひとつとして挙げられるのは、共産党の指導から逸脱した集合行為の多発と社会的な混乱である。これは文革以前には考えられなかった事態であった。
 中華人民共和国(以下、中国)建国以後の都市社会では、共産党支部が末端の職場まで張り巡らされたことによって、党による強固な支配が確立されていた。職場の配置、住居や日常用品などの分配、そして地域間の移動までが党の管理下にあるなかで、人々が自発的な集合行為を組織することは非常に難しい状況であった。
 したがって1960年代半ばに至り、学生や労働者の多くが党支部の直接的指導無しの活動をおこなったり社会的な混乱が引き起こされたりしたのを目の当たりにして、社会主義体制下における民衆の集合行為をどのように解釈したら良いのかという問題が、中国研究者の間に非常に大きな問題として浮かび上がってきたのである。
 先行の諸研究では、その解釈の仕方として大きくふたつのモデルが存在していた。
 それは第一に政治闘争モデルである。これは毛沢東と劉少奇などの間における政治的な対立に注目することにより、文革期の集合行為を、毛沢東らによって政敵を打倒するために扇動された運動として捉える見方である。
 第二に社会的抑圧モデルである。これは共産党統治下で形成された政治的階級区分や制度的諸環境などに起因する民衆のフラストレーションに政治的な機会が加わることで、人々が待遇改善要求や利益の獲得競争をおこなったと捉える見方である。
 政治闘争モデルは当時の民衆の活動に対する外的な作用を明らかにできるメリットがあるものの、かれらの集合的な行為を単に上からの扇動に対する情緒的同調とする見方には限界がある。また社会構造や制度的な環境から文革期の集合行為を説明するモデルでは、その起因までは説明できても、収束まで至る運動の全体的なサイクルを一貫したモデルから説明することにおいて困難がある上、政治過程の時局的変化の影響を軽視してしまう傾向にある。集合行為を分析するモデルに伴うこれらのような問題は、中国研究以外の社会運動論の分野ではTillyやMcAdamらによって自覚的に検討の対象とされ、政治過程と社会状況を連関させるような研究とモデル形成が積み重ねられてきたものの、中国を対象とする地域研究ではそのような検討は十分におこなわれてこなかった。
 本研究は、中国以外のフィールドの理論的研究成果も踏まえつつ、・中長期変動、・環境(社会状況と政治的機会)、・組織、という3つの分析変数を新中国が辿った政治過程の俎上に配置したモデルを提示した上で、文革期の集合行為の発生から収束までのサイクルやそのメカニズムを綜合的に考察することを試みた。

3.各章の要約

 第一章では、これまでの先行研究を整理し、分析の枠組を提示した上で、文革期におこなわれた集合行為のレパートリーを類型的に整理した。社会的な運動において民衆が採る行為の選択範囲には、デモ、ストライキ、ゲリラ活動などさまざまなレパートリーが考えられるが、それは時代と人々が置かれた状況  たとえば植民地支配下における抗議活動なのか、または政権弱体の状況下における革命運動なのか、それとも政権内の一部の勢力との共犯関係下における政治的運動なのか  の違いによって、まったく異なってくることが予想される。逆に言えば、集合行為の形態と選択範囲を意識的に整理することによって、われわれはその時点において民衆にどのような集合行為の選択肢があったのかを理解することができる。
 以上のような意識をもって、社会主義体制下の1960年代中国で発生した民衆の集合行為の形態を観察してみると、その形態は大きく(1)四旧打破、(2)階級内暴力、(3)経験交流、(4)批判闘争、(5)利益活動(6)奪権闘争、(7)派閥と暴力、と分けることができる。 
 これらの形態は、文革期集合行為が一般的な社会運動とは異なり、ある一定の利害関心に基づく運動だけではなく実利的には必ずしも明確な利益をもたらさないイデオロギー的行為や政治体内部のリーダー・毛沢東らによって方向付けされた政治的批判運動など、多種多様な活動を包括しており、単純な合理的選択モデルでは説明できないこと、そして、人々の政治的行為形態の背景にある中長期的な社会変容を分析する必要があることを示している。また、時々の政治過程や民衆組織の有する資源量や成員規模の変化によって、運動のレパートリーが変化していく過程を観察する必要があることも指摘できる。それは、先行研究整理でみた従来の文革研究の多くがこうしたレパートリー概念に欠けていため、(7)(派閥と暴力)にのみ分析を集中させてその原因を社会構造から説明するという傾向にあったためである。

 第二章では、中長期的変動について考察した。ここでは建国以後、繰り返された政治動員と大衆運動の系譜的な検討を通して、社会的な関係性の変化、価値体系の変化、そして政治的行為形態の変化を観察した。特に取り上げている政治動員-大衆運動は、三反・五反運動(1951-52年)、百花斉放・百家争鳴から反右派闘争(1956-57年)、大躍進運動時期(1958-60年)、社会主義教育運動(1963-66年)である。以下、(1)社会的関係性の変化と(2)価値体系の変化と政治的行為様式の順で要約する。
(1)社会的関係性の変化
 建国以後、あらたなアクターとして労働現場に登場した党幹部の権力は、繰り返される政治的な動員と運動を通して強化されていた。1952年の三反・五反運動により、旧来の工場管理者や技術人員は中心的に批判され、旧国民党政権時期からの留用人員の多くがそのポストを失う結果となった。
 運動の結果、党幹部および運動を幇助する労働者幹部の力は強まっていた。党籍をもたない一般の労働者が多く摘発された一方で、運動に積極的に関わり党組織を幇助した「政治的積極分子」もまた多く誕生しており、工場内の党権力に対する労働者の従属の度合は高まっていた。社会主義化に伴い「資本家」というレッテルには政治的なマイナス・イメージが付与され、文革に至るその後の政治的な運動でかれらはたびたび批判を浴びる結果となる。
 経済活動をおこなう労働現場での党幹部の権限拡大は、当然、人々の生計手段に対するコントロールの強化ともつながっていた。それは日常でおこなわれる労働や生産という経済的行為が動員などの政治的行為や汚職摘発などの法的行為と無媒介に絡みあい、人々が否応なく「政治的振る舞い」を日常的に意識せざるを得なくなる過程でもあった。そうした状況を背景に社会では急速な社会主義化が進み、上海の工商業戸の多数を占める私営の「小戸」、つまり手工業者や露天商人や行商人などは合営企業に取り込まれた。かれらはすくない配当で「資本家」とレッテルを貼られたため、その後の政治運動で被害を受けることになる。
 1958年の経済的権限の下放と大躍進運動は大量の労働力を都市に流入させ、その労働現場を管理する党権力を極度に肥大化させる結果となった。奨励金問題、民兵工作、余剰労働力の処理なども含め本来は管理幹部や労働者幹部がおこなう業務を党幹部が処理するようになり、政治的権限は増大したものの経済的な効率は低下した。
 工場内党幹部の権威が揺らぐのは、1960年代前半の社会主義教育運動においてである。この運動では工場の外から工作隊が派遣され、工場内の政治的積極分子とともに工場幹部の検査、階級的な粛清を経て指導部の改組がおこなわれた。その結果、悪い階級としてカテゴライズされた幹部は解職された。また、一部の幹部は階級的に問題なくとも「実権派」として批判の対象になった。その一方で、新たに誕生した積極分子が幹部としてリクルートされた。
 大躍進運動後の経済悪化と社会主義教育運動での指導部改組で、工場内の党幹部の権威は文革がはじまる1960年代において大きく揺らいでいたと考えられる。その一方で「政治突出」と毛沢東思想教化により毛沢東個人の権威は非常に高められていた。
 こうした状況は、党権力の伸張のなかで不利益を被っていた一部労働者が異議申し立てをおこなう政治的機会を提供していた。さらに社会主義教育運動で批判された党幹部も、工場内で新たに権力を掌握した工作隊やそれを派遣した市委への反発を強めていく。逆に、この運動で積極的な役割を果たした老工人などの積極分子は市委との直接的な結びつきを深めていくことになる。
(2)価値体系の変化と政治的行為様式
 建国初期の中国社会において、「社会主義」というそのままでは極めて抽象的なイデオロギーは、それが実際に適応される際には、集団-個人、質素-贅沢、勤勉-怠惰、謙虚-自惚れというような二項対立のなかで、衣・食・住も包括する生活規範として極めて世俗化したかたちで表出していた。豪華な食事、車の使用、贅沢品の購入などは「ブルジョア的表現」とされ、集団を重視し、質素勤勉に生活をすることがあらたな価値として強調されるのである。
 その結果、個人主義や贅沢などは道徳的批判の対象となり、人々は資本家と関係をもつことを敬遠するようになり、さらには洋服の上着を敢えて中山服に仕立て直すなどの現象が発生することもあった。また衣服などの身体的装飾に限らず、実際の政治運動でも、自分がより労働者に近い存在であり資本家と関わりがないことをアピールするため、積極的に他人を批判することは、自らの立場を守るうえでも非常に重要になっていた。
 そもそも、集団、質素、勤勉、謙虚というような道徳性の過度の強調は、朝鮮戦争という戦時体制下にあって、国家による社会統制の必要性から生じたものであったとも考えられるが、それは1950年代後半になってなくなるどころか、むしろ、理念的社会像の創出へとつながっていった。つまり、本来は戦時下という現実的な必要性から強調されていた価値や生活規範であったのが、こんどは実際の社会自体をその価値に合わせて「改造」しようとするのである。
 質素倹約と他人への奉仕が「革命的な熱情」として賞賛される一方で、地位・名誉・衣・食・住へのこだわりは「革命的意思の衰退」として否定され批判され抑圧される。この価値体系において、専門的知識をもち管理的立場にあって賃金が比較的高い技術者は極めて好ましくない存在であり、労働現場でおこなわれる政治運動ではかれらがつねに批判の対象となった。これは文革初期においても同様である。
 1960年代前半の社会主義教育運動では、毛沢東思想教化の流れのなかで社会改造・人間改造への動きはさらに極端に押し進められた。ある行為はすぐさまその人の思想を表現するものとしてとらえられ、行為と思想の関係は細かくコード化された。そのため、実質的にはまったく反社会的な思想をもっていないような人物でも、普段のおこないから勝手にその思想が演繹推測され、政治的判定を下された結果、「悪い思想の持ち主」として批判の対象となってしまう状況が醸成されていた。このような勝手な演繹は文革期に紅衛兵らが政治的リーダーを糾弾する際にもしばしばおこなわれている。
 また建国以後の政治動員-大衆運動のなかで創られていた活動方法も注目しておく必要がある。反革命鎮圧運動や三反・五反運動などの運動でとられていた大会形式での批判闘争、家族の動員、自白と告発の大会、また百花斉放・百家争鳴期に大々的におこなわれた大字報形式での意見表明、反右派闘争における知識分子などを主な対象とした「牛鬼蛇神」批判、さらには社会主義教育運動における階級的粛清と「資本主義の道を歩む実権派」批判…等々、諸運動のなかで創られてきた活動形式は、文革期の集合行為の表出形態にも非常に大きな影響を及ぼしている。民衆は繰り返される動員と運動のなかでその政治的行為様式を形作ってきており、人々の活動がかなりの度合、その様式の枠内に入っていたことは明確に指摘できるであろう。

 第三章では社会状況と政治的機会について考察した。ここで分析したのは、文革期集合行為の誘因となった広い意味での環境である。それは抑圧や不平等などの社会的情況であり、人々が集合行為をおこなうことを可能とした政治的機会である。そしてもうひとつ重要なポイントとして政治的機会の認知プロセスを挙げて具体的に分析した。なぜなら自由な報道が許されない中国では、政治的機会を民衆が知るというプロセスそのものを分析する重要性が、他の比較的自由な報道が可能な国家を分析する際と比べて、高くなるためである。
 まず本章では労働現場を中心とした階層分化を、幹部・労働者・都市底辺層・農民・敵対的階級のなかの流動性から明らかにして図示し、それに基づいた分析をおこなった。社会主義体制下の中国において「紅五類」(労働者、貧農・下層中農、革命幹部、革命軍人、革命烈士の出身者)と「黒五類」(地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派分子の出身者)のような差別的な「身分制」があったことはよく知られている。先行研究の多くがこうしたピラミッド型の社会的地位関係が民衆のフラストレーションや派閥を生んだと指摘している。
 本章ではこうした社会的地位関係の重要性を認めつつも、それを「完全に固定的な身分制」として認識する従来の視点の誤りを指摘した。共産党統治下の身分制を分析する際に重要なポイントはむしろその恣意的な流動性である。
 1952年の三反・五反運動は政治運動における資本家の立場を非常に弱くさせるものであった。その後の公私合営化において商店経営者や露天商のような  むしろ「労働者」と表現されるべき  「小戸」の人々が安い配当で「資本家」とカテゴライズされ政治運動で厳しい立場に置かれる。加えて反右派闘争のような政治運動を通して「右派分子」も創出される結果となる。1958年以降の大躍進運動期には近郊の農村などから多くの労働力が流入し、かれらは工場の労働者となる。
 しかしながら、1960年代前半の社会主義教育運動では先の「小戸」の人々の階級区分の見直しが進み、多くは労働者階級のような「良い階級」へと改めて編成される。もちろんかれらの子弟の出身階級も「労働者」へと変化したであろう。その一方で、それまで絶対的な権力を所有していた「党員」や大躍進運動期に農村や都市底辺層から転入してきた「労働者」らに対する厳しい階級区分がおこなわれ、少なくない人々が「労働者の隊列に隠れて紛れ込んでいた地主、富農、反革命分子、その他の悪質分子」として再区分された結果、政治的な権利を剥奪されている。かれらのようなグループが「悪い階級」として創られたのはあくまで文革直前の65年前後の話である。
 つまり「毛沢東時代」の身分制は、政治的運動での対応如何によって下降したり上昇したりする性質を有しており、そのため多くの人々の積極的参加と政治的な運動の急進化が展開していくのであり、身分が悪く不利益を被っている人々のみが運動に参加したわけではない。もしも従来の多くの研究のように、文革期の集合行為の本質が「底辺層の異議申し立て」として捉えるのであるならば、比較的地位の高い人々も含めた何十億という人々があの運動に積極的に参加した理由を理論的に説明できない。重要なのは人事や階級などの恣意的な流動性であり、中国の身分制が文革に与えた影響を分析する際には、静態的な構造分析ではなく、あくまで政治過程に伴う流動性のなかで考察する必要がある。
 つぎに分析したのは労働者らが組織的な集合行為をおこなうことを可能とした政治的機会である。強固な共産党統治下にあって、民衆が自由に抗議活動を組織することは不可能であった。したがって中国における集合行為の政治的機会として重視すべきなのは、挑戦者と権力者の間の関係性の変化ではなく、むしろ政体内部における分裂と動揺であった。
 文革の全面的な開始の契機である1966年8月の11中全会では、国家主席であった劉少奇が政治局のNo.2からNo.8に降格し、軍のネットワークを背景に文革を推進する林彪が唯一の副主席となった。66年から68年にかけての文革期において、国務院で周恩来が一貫して活動をおこなっていたほか、副首相レベルでは66年当時の15人の在職者のうち、鄧小平、賀龍、ウランフ、譚震林、薄一波、陸定一、羅瑞卿、陶鋳ら8人が失脚し、陳雲、陳毅、李富春、聶栄臻ら4人は地位を保ちながらも厳しい批判を受けて、わずかに林彪、謝富治、李先念の3人のみが引き続き活躍していたにすぎなかった。
 中国ではこのような政治体内部の分裂が認知されて初めて、民衆の「造反」活動(毛沢東の権威に仮託しつつ、劉少奇に代表される従来の支配エリートを攻撃すること)が可能となったのであるが、その機会は大別して、(1)聶元梓の大字報(壁新聞)報道、(2)毛沢東の学生支持表明、(3)「プロレタリア文化大革命に関する決定」の採択、(4)民衆との接見大会、の4つのプロセスを経て民衆に認知されていた。

 第四章では文革期の政治過程の俎上で、民衆の組織活動について考察した。ここでは文革期集合行為の動員、組織、活動、そして動員解除のメカニズムを理解するために、政治過程および組織形成と活動過程をひとつのプロセスとして連関させながら跡づける実証的作業を中心的におこなった。
 まず上海で収集した檔案資料をもとに、文革開始初期の工場の動態を具体的なケーススタディとして明らかにした。この過程のなかで明らかになるのは・工作隊・党委の指導力低下、・批判目標の変化、そして全般的な・人々の反応である。
 当初は大字報を張るのに工作隊に検閲を頼むなどしていたのが、1966年6月後半には工作隊自体を攻撃する大字報も現れてきた。そのなかで当初は「技術権威」らに対して集中的におこなわれてきた批判が、徐々に指導部へと展開してきている。
 そして重要なのは人々の反応であろう。運動開始当初、最も「底辺層」である教育レベルの低い婦人労働者らは運動に対してまったく無関心であった。むしろ直前の社会主義教育運動中に批判された人々や幹部が関心を示している。工作隊や党委を激しく批判しはじめた人物が工会の幹部であったように、政治運動における風向きや立場の変化に敏感な幹部は積極的に運動にコミットしていた。つまり何らかの政治的な機会を認知できた人々が運動に積極的に関与していくのであり、社会的な立場の高低が「造反」を生んだわけではなかった。
 つぎに工場レベルを超えて、上海全市レベルの主要な労働者組織が形成された背景、組織の系統、そして組織の有する社会的性格を考察した。その結果、後に最大造反組織となる上海工人革命造反総司令部(略称、工総司)のリーダーには党籍をもつ労働者が少なく、(文革開始時において)職場での地位も低いなどの傾向が確認され、先の社会的情況がかれらの組織形成に一定の影響を与えていたことが確認された。
 しかし一方で、工総司の「司令」となる王洪文は党籍をもつ基層幹部であったこと、また、もう一方の巨大組織・捍衛毛沢東思想工人赤衛隊上海総部(略称、赤衛隊)のリーダーに至っては全員が党籍を持つ基層幹部であり市委員会との結びつきも強かったこと、を考慮すれば、文革期における民衆の組織形成を社会的情況からのみ説明することはできず、政治的機会構造の変化およびその認知プロセスも併せた複合的視点が必要であった。
 以上の考察をおこなったうえで、労働者リーダーらによって動員された組織が集合行為をおこなっていく過程、および収束していく過程を、中央・地方の政治過程と併せて観察した。その結果、かれらの運動の性質・レパートリーが政治過程や組織的規模の変化に伴って転形しつつ展開していく過程を明らかにした。
 まず北京の学生による四旧批判などを中心とした先導運動が、経験交流を経て上海に伝播した後、政治的な資源をめぐる抗争が民衆組織間で展開する。その後、一方の組織が資源を獲得すると、その組織に多くの成員が流れ込むことになる。その結果、最大民衆組織となった工総司は資源と成員規模において圧倒的な力を有し、1967年以降は従来の支配機関の接収と管理を目指す奪権闘争およびコミューン建設運動を展開することになる。
 こうした展開が共産党の支配との齟齬を生むおそれがあったため、中央当局は逆に一部の組織と融和を図り、その他の組織を弾圧していく複合的な戦略を採ることによって、民衆組織の動員解除を進めた。その際、中国以外のフィールドにおける社会運動研究と比較して注目すべきなのは、動員解除を生んだふたつの要因、つまり、・当局による抑圧という外的要因と、・自らの派閥分化によって弱体化していくという内的要因のうち、・の当局の果たした役割が非常に大きかったということである。これは一党独裁下における集合行為収束過程の特徴であろう。これら外的要因と内的要因それぞれの重視の度合いは、社会運動研究におけるひとつの理論的なイシューであったが(たとえば、この点に関してTarrowとKoopmansの研究におけるとらえ方の違いが挙げられる)、少なくとも中国では・がより重要な分析変数として浮かび上がってくるのである。
4.まとめ

 第五章では結論として、全体的な議論をまとめたうえで、残された課題について若干の予備的考察をおこない1969年以降の中国における集合行為についても通時的に概観した。

 まずこれまで実証的に検討してきた行為サイクルをいったん一般化してまとめたのが以下のような流れである。

a.中央における政治体の分裂が政治的機会を醸成する。
b.組織はまず政治的機会を認知し得る人物により動員される。
c.学生運動が先導運動として政治的機会を開放する。
d.運動開始当初はそれまでの社会関係・価値体系・政治的行為様式を色濃く反映した運動
 レパートリーが採用される。
e.経験交流を通した伝播は地方社会集団急進化の契機となる。
f.組織形成後、複数の組織間では選択的な政治的資源の獲得競争がおこなわれる。その際
 には中央・地方の時局的な政治過程および文革前の社会的地位関係が大きな作用を及ぼ
 す。
g.競争を経て政治的資源を獲得した組織に成員が流れ込む。この過程は競争が継続する限
 り反復する。
h.資源量と組織の拡大に伴い行為目的における権力志向性は強まる。
i.当局により組織に対する抑圧・懐柔・融和策が講じられる。
j.組織は排除もしくは体制内化に伴い分裂し動員解除される。

 上海の労働者による行為サイクルはとりあえず以上のように一般化できる。本研究の視角から導き出されたこのプロセスは従来の研究と比較していくつかの点で異なっている。それはまず、文革期の運動を、・社会状況や制度的な環境のなかで不利な立場に置かれていた人々によって組織されたわけではなく、あくまで政治的機会を認知できた人々によって動員された運動であったことを重視している点である。かれらの運動が政治的機会を開放して初めて底辺層による運動が可能となったのである。
 つぎに、・文革期の人々の行為は単純な合理的選択モデルで説明することができるものではなく、それまでの中長期変動を如実に反映した、いわば歴史的規定性があるものであった点をレパートリー分析を通じて意識的に観察している点である。これは歴史学的には当然のことかもしれないが、社会構造・制度的環境から中国民衆の運動を捉える視点においては  自覚的にせよ無自覚にせよ  合理的選択モデルのみが分析の下敷きとして想定されていた。
 また、・政治過程、組織の資源・成員の規模が増大するほど、その組織の権力志向性が高まっていた点、つまり組織を取り巻く情況および組織自体の変化に応じてその活動目標や運動レパートリーが変化していく点も重要である。この点を考慮すれば、政治的利益の獲得競争にせよ、待遇改善要求にせよ、あるひとつの目標を追求するために一貫した活動がおこなわれていたと仮定した上での構造的説明は理論的にも実証的にもなり立たない。
 さらに、・収束過程においては単なる抑圧ではなく、一部の有力組織を体制内化することによって他の急進的組織を排除していく複合的な戦略がとられていた点も注目すべきである。軍を背景とした当局による抑圧という外的要因と、それに伴う内部分裂・派閥分化という内的要因により文革期上海の集合行為は動員解除された。中国ではそのなかでも外的要因が非常に強く作用していたことが指摘できる。
 以上のように、文革期の集合行為を組織から動員解除までの継起的なプロセスとして説明し、モデル形成をおこなっていく場合、政治闘争や社会的抑圧などの簡潔な変数に基づく「図式」から十分な考察をおこなうことは難しい。とりわけ、われわれが目にすることができる文革資料の情況が過去と比較して飛躍的に向上した今、その全体像は複数の分析変数を介在させながらより具体的・実証的な裏付けを下敷きとして綜合的モデルから多角的に観察していく必要があるだろう。
 ただし建国前後から文革初期まで公文書が確認できる上海市をケースとした本研究には、その地域的差異という大きな問題が残されている。本研究が重視した分析変数(中長期変動、環境、組織)から各地の運動を網羅的に説明するには地域別のケーススタディを綜合する必要があるが、第二節ではその足掛かりとして比較的詳しい資料が入手できる軍区(青海省)と人民公社(江西省)の事例をもとにしてその地域的な差異について補足的に分析した。その結果、文革期集合行為に影響を与えた地域的差異を計る際の重要な変数として、・地元社会の開放性と凝集性、・毛沢東ブロックの介入度合い、・参加者の就業形態、の3つを挙げた。しかし、これはあくまで初歩的な段階であり、今後より具体的な資料の発掘とケーススタディの積み重ねを通して議論を深めていく必要がある。
 最後に1970年以降の通時的なダイナミクスを分析した。イベント数は政治過程に沿って増加と減少のジグザグ傾向が強く、その数は徐々に増加し続けている。2001年までの時期を前半(1970-87年)と後半(1988-01年)と分けてみると、民族宗教関係イベントが5.14倍と、その増加が最も目立った。具体的には1990年代以降チベット自治区や新疆ウイグル自治区を中心として発生している。
 少数民族の抗議活動などの運動は特にチベットと新疆に多く集中しているが、それに加えて法輪功のような集団によるデモも持続的に発生している。これらに共通しているのはチベット仏教やイスラム教といった宗教的結びつきが強く組織としての凝集力が高いということである。宗教組織以外に目を向けても、全国的に自主労組が組織されるなど、「毛沢東時代」と比較して中国の社会組織のあり方は変化してきている。そして運動の表出形態も同様に変化しており、70年代までに特徴的な動員型の運動のような、争点が政治に左右されやすい運動から、改革・開放を経て集合行為のレパートリーがデモなどの比較的争点が明確な「異議申し立て」へと変化している。社会組織のあり方の変化をめぐっての促進-抑圧のダイナミクスは今後、中国の社会運動に大きな影響を及ぼしていくと考えられる。

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