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博士論文要旨

論文題目:スコットランド国王ジェイムズ6世の政治思想 1566-1603 ―ルネサンス期における理想の君主像―
著者:小林 麻衣子 (KOBAYASHI, Maiko)
博士号取得年月日:2006年3月28日

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 本論文は、ブリテンの北部に位置するスコットランドを統治した国王ジェイムズ6世(James VI, 1567-1625)の政治思想を、イングランド王ジェイムズ1世として即位する1603年までの期間を対象とし、「理想の君主像」という視点から体系的に分析したものである。
当時、一流の人文主義者ジョージ・ブキャナンとピーター・ヤングから英才教育を受け、その知識を十分に習得し、博学で知られていたジェイムズは、同時代の様々な知の潮流に影響を受け、それらの特徴的な要素を取捨選択しつつ理想の君主像を追求した。本論文では、王権の起源と統治に必要な資質に着目しながら、ジェイムズの理想像には、主に四種類の君主像が見出されることを明らかにした。
 第一章と第二章では、ジェイムズが主張した二つの異なる王権の起源に焦点を当てた。第一章は、近代政治思想史の系譜においてジェイムズの思想の典型的な特徴として従来解釈されてきた、王権の神授的起源を取り上げた。ジェイムズは、当時、ルネサンス期ヨーロッパにおいて伝統的な思考の型であった、神により確立された王権の始まりを主張し、神聖な君主像を描いた。当時のヨーロッパの思想家たちは、絶対的国王権力あるいは制限制王権論など異なる王権の属性を主張したが、王権の神授的起源については、中世から継承されてきた知の遺産として受容していた。しかし、ジェイムズが育ったスコットランドの知の潮流では、そのような王権の神授的起源は見出されず、早い段階から、王権は人民により確立されたと理解され、それに基づいた制限制王権論が説かれていた。ジェイムズが、自国の知的潮流とは異なり、他のヨーロッパの君主や思想家たちと同様に、王権の神授的起源を主張した理由は主に次の3点であった。即ち、師ブキャナンが論じた人民の抵抗権や制限制王権論に反論するため、アンドルー・メルヴィルなどのスコットランド教会の長老派が目指した二つの王国論及び聖職者間の同等性といった教会構造案を退けるため、そして次期イングランドの王位継承権を正当化するためであった。神の代理人として自らの立場を表明することにより、ジェイムズはこれら3つの問題に対して説得的な反論を提示することが可能となった。
 ジェイムズの王権神授論において重要な点は、彼は、王権の起源を神に求めても、国王が神と同様な霊的権力を有しているとは主張せず、専ら、国王に対する服従論を聖書、スコットランドの歴史観、王国の基本法を根拠に正当化しようと試みた点である。ボダンをはじめとするロイヤリストたちやイングランドの多くの文献が、王権の神授的起源から、国王に対する人民の絶対的服従のみならず、国王の絶対的権力をも正当化していたのとは異なり、ジェイムズは、同様な起源からあくまでも国王に対する服従を主張したにすぎなかった。しかも、彼は、国王が神のような権力を有することに対しては、否定的な見解を抱いていたのである。それを裏付けるかのように、中世以来、フランスとイングランドにおいて、神のような霊的権力を国王が有することを公けに示す「王の触手」という国家儀礼が流行していたが、ジェイムズはそのような国家儀礼に積極的に関与することはなかった。ジェイムズが王権の神授的起源から演繹したこととは、初期にカルヴァンが説いていた国王に対する服従の精神であった。王権への服従を強調することにより、ジェイムズは、伝統的な「存在の大連鎖」に示されている秩序観を維持しようと考えたといえよう。従って、従来理解されてきたように、ジェイムズの思想には、王権の神授的起源と絶対的権力の必然的な一対は見出すことはできないのである。ここでジェイムズが示した神聖な君主像とは、神の代理人であるが故に、臣民が服従すべき存在としての国王、そして存在の連鎖の頂点に位置する国王であったのである。
 第二章では、ジェイムズが主張したもう一つの王権の起源である征服論に焦点を当て、この起源から導かれる理想の君主像について考察した。ジェイムズは、スコットランドの歴史観に依拠して、アイルランド出身のファーガスがスコットランドを征服したことにより、スコットランドの王権が確立されたと、王権の世俗的起源を主張した。16世紀には、スコットランドに関する年代記が数多く出版されたが、ジェイムズの主張は他の年代記には確認されることはなく、むしろそれらの年代記では、ファーガスが人民によって国王に選ばれたと記されていたのである。そこではファーガスによる王権の始まりが、人民と国王との間の契約的観念を正当化していた。従って、ジェイムズの征服論は、スコットランドの知の伝統の中で非常に独特なものであったといえよう。
しかも、ジェイムズは征服による王権確立をスコットランドのみならず、隣国イングランドに対しても同様に主張していた。イングランドでは、征服による王権確立をめぐって様々な見解が交錯しており、国外の作品でもイングランドの征服論が注目されていた。というのは、征服あるいは武力による王権確立が、王国拡大あるいはその存続を正当化する根拠となっていたからである。しかし、ここで興味深い点は、王権の神授的起源を説き、国王の霊的権力を主張したフランスのロイヤリストは、征服によって王国を得た国王を簒奪者として捉え、簒奪者に対する抵抗権を認めており、征服に対して批判的であったということである。他方、当時のイングランドでは、簒奪者が不幸な結末を終える内容を記した文学作品が流行していた。このような背景のもと、ジェイムズが征服論を主張したということは非常に特徴的であったといえよう。
ジェイムズが征服による王権の確立を説く理由は、第一章で取り上げた理由と同様であった。先述したように、スコットランドでは、神聖な王権の起源ではなく、人民による王権の確立という世俗的な起源が、伝統的な知の潮流であったため、ジェイムズには、世俗的根拠に基づき、人民に基づかない王権の確立を正当化する必要性があった。そして、彼は、この征服論から立法権及び土地と臣民に対する国王権力を導いた。この権力の特徴は、ローマ法の命題をロイヤル・イデオロギーにそくして解釈した内容と類似していた。ボダンや後にはフィルマーが聖書に依拠して、立法権などの絶対的国王権力を正当化したのとは異なり、ジェイムズは世俗的根拠にのみ基づいて国王権力を正当化しており、その点でジェイムズの征服論は非常に独特であるといえよう。ここで彼が描いた理想像とは、征服により権威を得た封建領主としての君主像に類似していたのである。
 このようにジェイムズは、神聖な王権の起源と世俗的な王権の起源という、一見、相容れない二つの起源を主張した。これら二つの主張に整合性は見られないが、おそらくジェイムズにとっては、著作の中で整合性をもたせることよりも、対抗する理論を掲げている論者たちに対して、たとえ矛盾した根拠を用いたとしても反論を行うことが重要であったと考えられる。そして、特筆すべきは、両者に理論的矛盾が見られても、少なくともジェイムズは、二つの起源から導かれる王権の属性については峻別して論じており、それぞれの王権の起源の中での議論は一貫していたのである。ジェイムズにとって、当時の伝統的な思考の型である王権神授論だけでは、自らの歩もうとする政治的路線を確固たるものにするのには不十分であった。というのは、スコットランドでは、世俗的な王権の起源が伝統として根付いていたからである。さらに、世俗的な王権の起源論を根拠に血筋に重きを置いた世襲制を正当化することにより、制定法により定められていたイングランド王位の継承問題に関して、自らの次期イングランド王位継承権を揺ぎ無いものにしようとしたといえよう。このようにジェイムズは自らの主張を正当化するために、矛盾する二つの王権の起源を提示し、二つの理想の君主像を追求したのである。
 第三章と第四章では、統治において求められる国王の資質について考察した。第三章では、ジェイムズが主張した国王に必要な内面的資質に着目した。15世紀のイタリア人文主義やそれに影響を受けて発展した北方人文主義に見られた「君主の鑑」作品では、古典的モラリストが挙げた「枢要徳」、そして16世紀の人文主義に顕著に見られた「君主の徳」は、概して道徳的価値観を伴っていた。ジェイムズも同様に、「枢要徳」のうちの「正義」と「節制」という徳目、「君主の徳」のうちの「壮大」、「謙虚」、「恒心」といった徳目について、従来の道徳観にそくして定義していた。
 しかし、他の徳目に関して、当時の「君主の鑑」作品では、重要な変化が見られたのである。そして、ジェイムズもその変化に対応してそれらの徳目について解釈していた。
「枢要徳」に関しては次の2点ある。北方人文主義者は、「枢要徳」の「勇気」に関して、中世の騎士像に見られた暴力と関連して解釈することを批判したが、ジェイムズはあえて「枢要徳」の一覧の中で「勇気」の徳目について取り扱わなかった。さらに、マキアヴェリに影響を受け、北方人文主義を批判して16世紀後半に著しく見られた新たな知の潮流において、「思慮」の徳目の解釈に対して変化が見られたが、「思慮」の徳目についてもジェイムズは「枢要徳」の箇所で取り上げず、むしろ「君主の徳」の箇所で言及していた。
 他方、「君主の徳」の一覧では、16世紀後半に顕著に見られた知の潮流では、「気前のよさ」という徳目について新たな解釈が示されていた。ジェイムズも同様に、その道徳観を重視することよりも、世俗化された「思慮」、即ち、「政治的思慮」を用いて国家の統治を成功させるための「気前のよさ」を適用することを支持した。また、「君主の徳」の箇所では扱われなかったが、ジェイムズは「慈悲」についても同様に、「政治的思慮」を用いた適用を支持した。この新たな潮流については第四章で詳細に考察したが、ジェイムズが理想とした国王の内面的資質は、古典の名著から継承されてきた道徳観やキリスト教的倫理観を重視しつつも、当時の人文主義の変化に鋭敏に対応して解釈されていたのである。
 ルネサンス人文主義では、こうした君主の内面的資質を養うために幼少期の教育が重視されていた。ジェイムズも人文主義者が理想とした教育カリキュラム、スタディア・フマニターティスを幼少期に受け、自らも君主の教育カリキュラムを提示した。彼の教育カリキュラムは、聖書、自国の法律、そして歴史から構成されていた。何よりも聖書を重視したジェイムズのカリキュラムは、特にキリスト教の教えに重きを置いた北方人文主義者のそれと類似していた。他方で、彼のカリキュラムは、人文主義者の「君主の鑑」作品と共通点が多いが、彼らが必ず古典作品の学習を重視するのに対し、ジェイムズがそれについて言及していなかったのは特徴的であったといえよう。
 さらに、完璧に有徳な国王は存在しないため、人文主義者の多くは、国王を補佐する顧問官の役割を重視していた。特に、イングランドの人文主義者は、顧問官になる条件や国王と顧問官との理想的関係について熱心に論じた。ジェイムズは、顧問官の資質を重視する一方、伝統的な家柄も重んじ、後者により重要な価値を見出していた。国王と顧問官の関係は、人文主義者たちが描いたような、キケロ的な友人関係ではなく、国王主体の関係を意味した。ここにもまた、ジェイムズが目指した伝統的な「存在の大連鎖」によって示されている国王を頂点とした秩序観が表されていた。本章において、ジェイムズが描いた理想の君主像とは、概して、ルネサンス人文主義に特徴的な道徳的模範者であった。同時に、ジェイムズは16世紀後半に顕著となってきた人文主義の変化にも対応して、「政治的思慮」を用いた君主像も理想としたのである。
 第三章では理論的な君主像について考察をしたが、第四章では、現実の政治において必要な国王の資質、即ち、処世術について検討した。ジェイムズは、貴族、議会、宗教、高地地方、外交、人々の統率など、幅広い領域にわたり具体的な統治術を示した。その統治術では、マキアヴェリの『君主論』に特徴的な、暴力の行使や狡猾的方法が勧められており、まさに先の「政治的思慮」の具体例が記されていたのである。政治的理論と実践の相違が明確となってきた16世紀後半では、むしろ国王の有徳な資質のみに依拠して統治の成功を求めることは不可能であった。王国の統治に有利になるのであれば、伝統的な道徳観や宗教的倫理観を逸脱する統治術が容認されたのである。この政治的思慮の適用は、国家理性という概念によって正当化された。ジェイムズが本章で理想とした君主像とは、この「政治的思慮」を用いて国家を巧みに治める国王であった。
こうした政治的リアリズムの潮流は、常にマキアヴェリの思想と連動して取り扱われてきたが、宗教観を欠いていたマキアヴェリの思想は、当時、ヨーロッパの国々で批判の対象となっていた。それに替わって、16世紀後半に人文主義者は、マキアヴェリの思想を緩和したように見えるタキトゥスを盛んに利用した。両者の「政治的思慮」の用い方について相違はほとんどなく、統治術を提示する際に、マキアヴェリが箴言的形式をとるのに対し、タキトゥスは歴史の読み物の中にその術を示した。これまで、ジェイムズはマキアヴェリの教訓を退け、タキトゥスに傾倒したと解釈されてきたが、ジェイムズの作品とマキアヴェリの『君主論』には、統治術の類似性が見出されるだけでなく、テクストの執筆背景においても重要な繋がりがあり、ジェイムズがマキアヴェリの思想を完全に否定したとはいいきれない。一方、ジェイムズは当時のタキトゥス派に対して嫌悪感を抱いており、ジェイムズがタキトゥス派に傾倒していたと結論づけることは適切ではないといえよう。
ここでより重要な点として、ジェイムズの神聖な君主像と政治的リアリズムにそくした実践的君主像という二つのイメージは、マキアヴェリの思想の支持者がマキアヴェリの思想をより受容しやすい形に再解釈した方法に似ていたことである。フランスのルイ・マショはジェイムズの作品に言及して、マキアヴェリ的政治学と神の代理人像を結合し、宗教の政治的利用をも正当化する国家理性を説いた。マキアヴェリを批判した当時の多くの作品も、宗教の持つ影響力について懸念していた。これまで、当時の様々な知の潮流の特徴を織り交ぜ国王の理想像を提示したジェイムズが、宗教の影響力を看過していたと考えにくい。むしろ、ジェイムズも、彼ら同様に、宗教が人々の精神や政治領域を支配していた現実を受け止め、それを利用することにより、王権の強化や安定した統治を目指したと解釈すべきであろう。
ジェイムズは、王権の神授的起源から神聖な君主像を主張し、王権に対する人々の絶対的服従を導き出し、人々には聖書に記されている服従を植え付けようとした。しかし、ジェイムズは国王が神の代理人としての霊的権力を有していないとして、王権の神授的起源から国王の絶対的権力を演繹せず、またそれを象徴する国家儀礼である王の触手には否定的態度を示していた。さらにルネサンス人文主義にそくして、ジェイムズは古代の道徳観や宗教的倫理観を重視し、道徳的模範者像を掲げて、国王に対する人々の服従や尊敬をより一層、確固たるものにしようと試みた。それとは対照的に、おそらくその限界を熟知していた彼は、理論的な理想像だけでなく、君主にとって即戦力となる現実的な統治術をも提示した。そこでは、当時の知の潮流の変化に対応して「政治的思慮」の運用が支持されていた。このように、当時の精神世界の影響力を現実問題として受け止めたジェイムズにとって、神聖な王権の起源も実践的な統治術も、政治的リアリズムの結果生じたものであり、彼はまさに現実の統治において効果的で実践的な君主像を描いたといえよう。
 これまで既存の研究では、ジェイムズは王権神授論の熱心な信奉者としてのみ評価される傾向があったが、それは彼の思想を一枚岩的に捉えたものである。おそらく、それはピューリタン革命と17世紀イングランド政治史を念頭に、イングランド議会と対立したジェイムズの側面ばかりを重視したため生じた偏った解釈であるといえよう。しかし、本論文では、16世紀のスコットランド及びイングランドを含むヨーロッパ全体の中にジェイムズを位置づけようと試みた。その結果、彼の思想には、ルネサンス期の様々な知の潮流の影響を確認することができ、ジェイムズはそれらの特徴を用いて「理想の君主像」を描いたことが明らかとなった。
 

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