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博士論文要旨

論文題目:戦後日本思想史における毛沢東認識
著者:諸葛 蔚東 (ZHUGE, Weidong)
博士号取得年月日:1998年3月27日

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 戦後日本の思想状況は、高度経済成長を境として大きな変化を見せていた。こういった傾向は様々な側面から検証することができるが、本論では、毛沢東認識の変化を分析することを通して、戦後知識人の知的特徴を探ることを目的とする。
 ここでは、毛沢東とボルシェヴィズム、毛沢東の階級理論、毛沢東思想と近代化、毛沢東と伝統文化、の視点から毛沢東認識の変容を検証すろ方法をとる。

 また日本の知的状況の特色を明らかにするために、欧米および、中国における毛沢東認識との比較検討を行うこととする。こうした比較を通じて、ポリティックスとアカデミズムの関係、文化的背景が学問研究に与える影響なども考察の対象にしたい。 本論は、以下の時代区分に沿って論を展開するものとする。

 第1期は70年代中頃まで、日本社会の前近代性と封建性に認識と批判の焦点をおいて民主化、近代化をめざした時期であり、この中で、安保闘争と近代化論の登場した1950年は第1期の区切りである。第2期は、日本経済の高度成長という現実が認識と評価の焦点とされるようになり、日本の伝統や日本人行動様式が再認識・再評価されるようになった時期で、ベルリンの壁崩壊以降の冷戦構造の消滅や55年体制の解体は第2期の節目である。

 本論の目的は毛沢東研究を通して見た戦後知的状況の分析であるので、毛沢東思想自体に対する考察はここでは行わない。

 戦後における毛沢東の認識の変化を概観すると、以下のようなものであると思われる。戦後初期日本では、ソ連、中国からの社会主義思想と、アメリカからの民主主義思想が、人々に新たな思想として受け入れられていたが、その中で少なからぬ知識人たちが社会主義にある種の理想を託していた。また多くの知識人にとっては、ソ連と中国の連合に象徴される社会主義陣営の強固な結びつきは揺るぎないものであった。こうした背景から、毛沢東思想をみるとき、毛沢東思想はマルクス主義思想の一環であり、マルクス主義を継承するもの、ボルシェヴィズムと一致するものと考えられていた。

 また、当時現れた社会主義陣営の「一枚岩」の概念は、共産党自体の公言するのみに留まらず、コミンテルンの指導下の日本共産党の活動の姿をもって、具体的に知識人に強い印象を与えたといえるのである。

 マルクス主義と並ぶ当時の思想の柱であった近代主義の立場から見ると、毛沢東の中国こそ日本が失敗した近代化を正しい路線で行っている国家の象徴であった。明治維新以降の日本の資本主義の発展の結果が敗戦を導き、対照的に中国の近代化の道が正しかったという認識が、近代主義の立場から捉えた際の主流な考え方であった。かつて朱子学の非近代性の要素に着目して中国の停滞性と日本の進歩性を論じた丸山真男は、50年代に自己の従来の朱子学観に対する見直しを行い、中国と日本の近代化を捉え直そうとした。

 丸山に代表されるように、戦後知識人による日本の近代への反省は、毛沢東ひいては中国を認識する土台となったといえる。このような中国への一種の羨望が、毛沢東を肯定する心情となって現れたと考えられる。ある意味で戦後初期の毛沢東像は、それまで日本人の持っていた分裂し後進的という中国観に相反するものだった。

 これと対照的にアメリカにおける状況はやや傾向が異なり、知識人の問題意識は、冷戦体制下の政治色に影響されたものであった。アメリカ知識人は「中国を失った」原因を検討しながら、朝鮮戦争の勃発を迎えて当面の急務として如何に中国という共産主義大国に対応する政策を提案するかを考えていた。

 こうした政策設定の必要上から、共産主義に対する研究も50年代のアメリカでは盛んであった。アメリカの研究者は中国の社会主義と正統的な意味でのマルクス主義との違いに着目し、またそこから中国の発展の奉公性を捉えようとした。特に彼らは、中国の政策に毛沢東の個人的なパ-ソナリティが影響を及ぼす部分が大きいとし、それを中国の社会主義の特殊性と認識していた。B. I. シュウォルツ(B. I. Schwartz)と、ワシントン大学のK. ウィットフォ-ゲル(Karl A. Wittforgel)の研究はこうした傾向を代表している。1950年末から50年代にかけて、思想界は一つの転回の時期に入った。日本の経済の高度成長は、マルクス主義の退潮とそれに代わろうとしている理論の登場及び国家主義のイデオロギ-の復興をもたらした。既成化し硬直化したマルクス主義と現状肯定的な近代主義に対する批判から、日本独自の思想を求める動きが強まったのが、この時期の特徴である。

 スタ-リン批判に代表されるような社会主義社会の矛盾は、知識人に彼らが抱いていたマルクス主義思想の理念と現実の社会主義社会との乖離を気付かせた。そうしてスタ-リン批判はそのまますぐにマルクス・レ-ニン主義に対する不信に発展していくこととなったのである。またスタ-リン批判の結果、社会主義社会に現れた一連の弊害はソビエトだけの問題ではなく、一つの歴史的必然として理解されるようになり、レ-ニンの理論自体の中にそうした誤謬の根が存在すると見なされるようになった。また社会主義社会および共産主義社会は、ブルジョア社会段階において達成された歴史的成果を十分に継承し、その上に建設されなければ、本物にはならない、と考えられるようになった。

 この時期にマルクス主義理論の現実解釈に対する不満から、マルクス主義では説明しきれない現実を説明する新しい理論として、大衆社会論、近代化論といった理論が生まれてくる。

 生産力の発展を社会発展の基準としようとした近代化論は、当時、近代日本社会を経済発展という見地からある意味で肯定的に捉える側面があった。近代化論の論者は、日本社会の抱えた諸矛盾は経済発展によって自動的に解決され、社会は正常な発展軌道に乗っていると説こうとしていた。

 こうしてマルクス主義が否定的に再検証される中で、毛沢東とボルシェヴィズムとの分岐も明らかにされていったと考えられる。

 イデオロギ-的な時代としての50年代に続く50年代にはマルクス主義は退潮してゆくのだが、引き続き昴揚する全世界の植民地独立運動、ベトナム戦争などの社会状況によって、毛沢東は単に中国革命の指導者、あるいはマルクス主義思想の継承者であるだけではなく、西欧文明に対抗する一種の人類の新しい思想、世界的な民族解放の思想として、欧米に対抗する新たなパラダイムの担い手と見られていた。

 このような毛沢東評価は、当時の特定の条件下で立ち現れたもので、日本に限らない全世界的なひとつの思想傾向を代表するものであり、長期的な思潮とはいえなかった。

 70年代に入ると、中国における文化大革命の進行につれて、知識人たちは毛沢東思想の個人崇拝の強調などの側面に疑問を抱き始めた。知識人は当時現れてきた毛沢東の姿に、思想と現実との距離、中国革命の現実の厳しさといったものを強く感じさせられたのである。この時期の毛沢東思想は、理論としての魅力を失い、それに関する研究は主にマルクス主義への興味を失っていない一部の研究者、あるいは批判的視点から積極的に論じようとする研究者によって続けられるのみとなった。これ以降の毛沢東研究が、主にその非マルクス主義的性格に対する批判の立場から行われていることにこうした傾向が現れている。

 70年代はイデオロギ-的な変化の他に、東西陣営の間に経済的格差が生じ始めた頃であった。中国では日本を近代化のモデルとして中国の近代化を進めるべきであるという考え方が登場し、日本では近代化に失敗した中国と経済成長を成し遂げた日本という現実を踏まえて、中国の落伍を検証する際には毛沢東の政策の失敗に帰すような論調が一般的なものとなったのである。

 またこの時期の毛沢東研究は、次第に明らかにされてきた多くの資料に基づいて行われるようになってきたため、実証的な研究がなされるようになった。

 日本における毛沢東認識はこうした背景の中で行われてきたが、これと違ってこの時期のアメリカの知識人は、冷戦時代に形成された中国観を脱却して、新しい視点から中国にアプロ-チしようとしていた。この時期から見られる中国に対する非常に肯定的なイメ-ジの形成は、国際情勢の変化とともに、70年代のアメリカの麻薬、凶悪犯罪などの社会問題の深刻な状況に対する憂慮が、アメリカ知識人に中国を理想化する傾向をもたらしたことによると考えられる。

 毛沢東認識の変遷は以上たどってきたようなものであるが、本稿は次に見てゆくような具体的な視点からこうした変遷を分析し、知識人の意識の変化を捉えることとする。

 毛沢東とボルシェヴィズムの関係に対する観点からいえば、50年代前後までは、社会主義に関心を持っている学者ばかりではなく、一致性の見地から毛沢東とボルシェヴィズムを見る視点が主流であった。小島祐馬は、毛沢東の新民主主義革命論を、中国古来の伝統的革命思想に基づくものではなく、完全にボルシェヴィズムの原則に則っていると主張している。

 同じく外来思想の影響という見地から中国革命を論じている矢野仁一は、中国歴史上の歴代の農民蜂起は、人民革命とは無縁のもので、もしロシア革命の影響がなかったら、1949年の人民政府の成立はありえないのである。中国共産党によって起こされた革命は人民革命であり、その目的は地主の搾取から農民を解放することである。このような革命によって初めて封建的階級関係が一掃され、人民の文化が創出されるに至った、と氏は述べている。このように矢野は、中国革命の世界共産主義革命としての意義を強調し、また中国における従来の革命と違い、マルクス主義思想に導かれた人民革命としての特色を重視している。

 岩村三千夫は、一貫して毛沢東思想をコミンテルンの中国革命論を継承したものと論じていた。そのような文脈から、毛沢東思想とソ共との理論上の一致性は当然のことと考えられていた。氏によれば、スタ-リンの中国革命観は、後に毛沢東によって継承され深められて、中国革命の勝利に役立っている、としている。また、スタ-リンの中国革命の戦略と、湖南の実地を踏査した毛沢東のそれには、完全な一致点が示されたのである、と位置付けられる。

 氏の論点は、50年代に入りスタ-リン批判に続く中ソ矛盾説を流しても、事実は両者の思想上、政治上、外交上の一致と提携はゆらいでいない、と説いていた。

 この時期の岩村の毛沢東論には社会主義の指導理念に対する強い理想が見られるといえる。いうまでもなく、こうした毛沢東認識は50年代に現れた労働運動の弾圧、民主化・社会運動に対する制限、日本独占資本の復活などに象徴されるアメリカの占領政策の転換、いわゆる「逆コ-ス」の日本の現実と無関係ではないと思われる。

 毛沢東とボルシェヴィズムとの一致の論点から、しだいにその分岐の指摘にまで発展してきたことは、戦後初期から50年代前後までの知識人の毛沢東研究の大きな特徴の一つである。このような傾向をもたらしたのは、知識人の社会主義への理念に対する意識の変化と関連していると思われる。

 日本において毛沢東とボルシェリズムの分岐が論じられ始めるのは50年代前後であり、中国では更に時間を経た70年代を待たねばならなかった。

 毛沢東の階級理論に関しては、50年代末までの毛沢東の階級区分に関する研究の特徴は、毛沢東の階級区分理論は最終的にはマルクス理論に則ったものと論じられている点である。50年代初期の毛沢東の階級理論に対する研究は、戦後に存在したマルクス主義の強い影響の下で行われたため、それがマルクス主義を前提的なものとして捉えられたことは、時代の拘束ともいえるだろう。

 70年代までは研究者によって毛沢東の階級区分に対する認識の差はあるものの、それをマルクス主義理論的なものと考える見解は主流であった。今堀誠二や小野信爾の論点がその代表的なものである。

 その階級闘争理論に基づいて毛沢東が1966年に発動した文化大革命とその後の展開は、日本の研究者の毛沢東の階級理論に対する評価を激変させることとなる。

 70年代に入ると、毛沢東の階級理論は非マルクス主義的なものと見られて、否定されてきた。これは、毛沢東思想について論じているのがこれ以降は中国研究者以外には、主にマルクス主義に興味を持つ研究者であったということを表している。中西功や野村浩一などの論点にその傾向は見られる。これは前にも触れたように、知識人の間でマルクス主義に対する信頼が簡単には失われなかったことを現している。

 日本におけるマルクス主義の階級概念の否定は、高度成長後の社会状況、人々の意識の変化などが一つの要因となったと考えられるが、つまり日本の経済の発展は民衆間の格差が小さく社会的緊張の比較的弱い、ある意味で均質的な一億総中流と呼ばれるような大衆社会的状況を作りだし、事実上マルクス主義の階級概念の意味を失わせたということができるだろう。フランスの場合は、1969年の「5月事件」がその契機といえる。マルクス主義思想において従来上部構造に位置付けられていた知識層の革命への参加といった現実に対して、マルクス主義は有効な説明を行えなかったのである。

 毛沢東思想と近代化との関係に対する研究について見ると、戦後初期には知識人の間に、日本の近代への批判と新しくできた中国への憧憬が、同時に存在していた。それは言うなれば、日本は近代化に失敗し、中国は近代化に成功しつつある、という認識である。これは、日本の近代が旧支配層による上からの、すなわち社会革命ぬきの西欧追従によって帝国主義化したのに対し、中国の近代は下からの反帝・反封建の社会革命によって人民共和国を達成したとするものであった。

 こうした人民革命の成果の一つの結実が毛沢東思想であると考えられていた。この点においては、竹内好の論点が代表的なものと考えられる。また氏の立場はマルクス主義、近代主義のどちらとも異なり、独自の立場から、中国の近代をもって日本の近代化を批判しているのが、特徴である。

 竹内と近代主義者との違いを竹内自身は、近代主義者が西洋の近代に照らして日本社会の変革を行わなければならないとして西洋化を目指しているのに対し、竹内は西洋文化に対抗し日本文化の自己更生によって日本社会の変革を求めようとしていたことにあるとしている。氏の毛沢東論はこのような立場に依るものであり、竹内好のような中国の近代化は毛沢東思想によって成し遂げられたとする毛沢東思想に対する高い評価は、戦後初期の日本では多く見られた。毛沢東思想は中国の「下からの近代化」の民衆精神の具現化、また、近代化の指標と見られてきた。

 しかし、50年代末からの日本の経済の復興は、それまで否定されてきた日本の伝統的な理念や慣習などに対する見直しを導き、特に50年代の近代化論の登場により、日本の近代はある意味で再評価されたといえる。

 また70年代前後、近代化に対するアプロ-チが民衆思想を焦点とする方向へと変化した。日本の近代化の発展を、民衆の孝行・勤勉・正直・倹約といった通俗道徳の実践にあるとする新しい解釈は、従来の近代化論とは違った近代化に対する新しいアプロ-チとなった。

 こうした時代的な変化に付随して、それまで多くの知識人が持っていた日本の近代に関する認識は変わったのである。知識人の中国と日本の近代化に対する考え方も変わり、従来とは逆転し、竹内好に代表された日本の近代化に対する批判の思想は広く批判されるようになった。

 70年代になるとそれまで高く評価された「中国の道」と呼ばれる毛沢東思想は逆に中国の近代化を阻害する要素と見られるようになった。

 岡部達美は中国における近代化の障害として、官僚主義、近代化の精神の欠如、自給自足思想、イデオロギ-的性格などを挙げ、その根底には中国の伝統的な思考様式や価値観の問題があると論じている。

 小林文男は、中国の現代化政策が毛沢東の死後時を置かず実行されたことには、毛沢東こそが近代化を妨げていたとの暗黙の認識があったことを現していると論じている。

 この時期に、毛沢東思想は当時の一部進歩的な知識人が外来のマルクス主義思想の影響を契機として中国伝統文化の土壌から形成したもので、当時の民衆の思想との間には距離があったという認識が現れてきた。

 毛沢東と伝統文化との関係については、毛沢東思想を論じる際に、そこに存在する伝統的な要素は当所から指摘されてきた。その背景となるのは、戦後の中国研究は、中国文化に対する従来の津田左右吉に代表された評価の見直しを行っていたことである。貝塚茂樹の研究はこのような研究を最も体言している。貝塚は、中国の古典の批判を主眼とした立場とは逆の立場に立ち、中国の古典を理解しその意義を再発見しようとしていた。貝塚の考えでは、毛沢東思想による中国革命の勝利は、中国民族の伝統的な世界観・人間観と深く関わっていたのである。

 この点に関してはマルクス主義者にしろ非マルクス主義者にしろ、一定の共通の認識があった。この時期の毛沢東思想の中の伝統的な要素は、マルクス主義を中国の実際に結合させたものと考えられていた。

 しかし70年代以降になると、毛沢東思想に関する議論においては、その伝統的な要素の一面だけが強調されるようになった。このような傾向は毛沢東思想の否定と関係を持っている。新島淳良の研究はこのような毛沢東認識の変遷の特色を顕著に物語っている。

 以上はいくつかの側面から毛沢東認識の変遷を具体的に考察してきた。それを通して次のような点を指摘できると思われる。

 戦後の毛沢東認識は単なる毛沢東とその思想に対する研究に留まらず、当時の心理的な状況と結びついていた。そのためこうした毛沢東認識には、日本社会の変革の方向を意識して、それに対する模索という意味合いが含まれていた。これは同じ時期のアメリカにおける毛沢東研究と比較することにより、これまでの考察によってその特色が明らかになった。

 50年代末までの毛沢東思想の性格に対する見方に日本と欧米の研究者の間で大きな違いがあったことは、日本知識人と欧米、特にアメリカの知識人の問題意識の違いを表している。この意味で毛沢東思想の性格に対する把握に見られた毛沢東とボルシェヴィズムとの関係、毛沢東の階級理論、毛沢東思想と近代化、毛沢東と伝統文化との関係に関する見解の相違は、学説上の違いというよりはより前提的なところで違いあったのである。

 敗戦後、サンフランシスコ平和条約などの調印に表されるように、日本はアメリカとの同盟体制に入ったが、思想的な状況としてはかなり違っていた。アメリカの思想界が冷戦体制の下で共産主義の蔓延を封じようとする方向に進んでいったのに対し、日本知識人は日本社会の変革を違った方向に進めることを望んだのである。この時期に多くの知識人は、ソ連や中国が代表する社会変革の思想に関心をもっていた。

 また、50年代末に起こった社会主義陣営の分裂は、マルクス主義思想の失墜、マルクス主義者の発言力の低下をもたらし、この時期にマルクス主義に対する再検討の思潮の中で、毛沢東とボルシェヴィズムの分岐、マルクス主義と毛沢東思想との乖離などの問題について、日本の研究者からの指摘も行われるようになってきた。

 この意味で日本では、従来の毛沢東思想に関する以上のようないくつかの論点が覆された。これ以後毛沢東研究においてアメリカと日本は相互に影響しあい、共通点が多くなってきたといえる。

 この視点から見れば、戦後初期の毛沢東研究の傾向とは逆転した方向に向かったといえる。こういった現象は日本思想界の方向転換を表している。特に安保闘争などを境目としてこれ以後、日本の思想界はある意味でイデオロギ-の時代終焉の前夜を迎えたということができる。

 戦後日本のもう一つの知的特徴は、高度経済成長以降マルクス主義が衰退していったことである。こうした傾向は毛沢東認識の変遷を通して見ることができる。50年代末、日本は経済復興によって貧困状態からの脱却を遂げ、一般大衆がほぼ等しく比較的高い水準の生活を営むことができるようになった状況は、マルクス主義の階級理論では説明のつけられない現実を提示したといえる。こうした状況が大衆社会論、近代化論誕生の土壌となり、マルクス主義が疑問視された。

 この時期マルクス主義の階級理論、国家論などは理論的側面から批判されていたのだが、社会主義への信頼はある意味で少なからぬ人々の間に未だ存在していた。第三章において述べたように、70年代までの毛沢東に対する階級理論の研究の一つの特徴は、毛沢東の階級理論の否定がその非マルクス主義的性格という点において論じられたということにあるが、その事実が当時のマルクス主義の発言力が全く消え去ったわけではないことを物語っている。知識人の間に存在していたこうした理想主義は、ソ連の終焉によって最終的に終わりを告げられたといえる。

 中国に関していえば、階級闘争の徹底的な推進が社会の混乱と経済の停滞をもたらす結果となったことは、階級闘争を社会発展の原動力とするマルクス主義思想が、中国という国での現実の実験を通して、否定されたと見なすこともできるだろう。

 すでに触れたように、フランスにおいては68年の5月事件がマルクス主義の階級理論への疑問視の契機となった。各国の社会状況の違いによって、マルクスの階級理論への否定の時期は異なっている。しかし時を異にしながらも、マルクスの階級理論は最終的には否定された結末に変わりがない。

 ここで指摘しておきたいは、日本におけるマルクスの階級概念の崩壊は、日本の学会に方法的な影響を与えたことである。前述のように、マルクス主義思想の階級概念では説明できない大衆社会的状況は、マルクス主義理論の枠組みである階級間の矛盾追及の意義を失わせ、代わりに1965年以降、歴史学の中の「民衆思想史」と呼ばれる一つの分野で「通俗道徳論」と呼ばれる独特の方法が確率された。これは日本の近代化を生産力の発展と見て、そこに果たした民衆の思想の役割を研究するものである。

 従来のマルクス主義理論の方法としては、階級闘争が社会的矛盾の典型的な現れだとし、矛盾の増大こそ歴史の転換の原動力と見て、階級闘争の分析を通じて歴史変革の構造的把握を試みた。これに対して民衆思想史の立場は、生産力の発展という近代化の課程を押し進めた民衆の日常思想における動機づけを、内在的に把握するところに立っている。つまり、日本の近代化を下から支えてきた民衆に焦点をあて、その民衆の思想を通俗道徳を通じて自己形成したものと規定しているのである。

 それまでの近代化に対する研究においては丸山に代表されるように理論的枠組みが先行し、現実の思想、特に一般民衆の行動を規定する日常的な思想については重視されなかった。

 これは、それまでの支配思想重視の研究傾向に変わって、「人民」ではない「民衆」を研究する観点であるともいえる。日本の近代化を、日本の民衆の持つ通俗道徳といった観点から評価する新たな視点である。つまり、70年代以降の日本においては、経済復興とともに近代化に対する見直しが行われ、日本の民衆思想と近代化との結びつきを強調してきた。これはすなわち民衆における日本の伝統的要素が近代化に積極的な役割を果たしたという考え方である。

 毛沢東認識は、以上のような研究者の問題意識の変化を裏付けている。戦後初期の毛沢東思想は中国人民の思想を代弁するものと見る視点から、次第に毛沢東と中国の民衆との乖離を意識した論点へと移行してきた。今堀誠二の研究ではこのことが明言されている。

 このような毛沢東思想と中国民衆思想の同一視は、すでに加々美光行や上原淳道に指摘されたように、ある意味で戦後日本知識人における支配思想の研究を重視した傾向との関連があるのではないかと考えられる。またそこには70年代以降の毛沢東研究の低調の原因の一つが求められると思われる。

 最後に、毛沢東評価の変化のもうひとつの特徴は、毛沢東思想の中のマルクス主義的な要素が除々に否定され、中国土着的な思考様式という観点から毛沢東思想を捉えようとする方向に変化してきたことである。前述した様に、この様な変化は毛沢東思想を否定すると同時に、中国の伝統的な要素に対する評価ともつながっている。こうした論点は中国における経済的な行き詰まりを下敷きとしており、ここから近代化における失敗という結論が導かれた。

 高度経済成長以降顕著に現れた中国と日本の間の社会、経済などの格差は、日本における中国認識に無視できない影響を与えている。かつて戦前、戦時中にも存在したこうした格差は、津田左右吉に代表されるような中国認識を導く結果になった。戦後日本における中国研究の起点は、こうした中国認識を克服しようとするところに存在したのである。津田左右吉らの近代主義的な中国観を否定しながら、日本の敗戦と中国の勝利といった歴史的な事実を基にして、両国の近代の思想的意味を追及し、中国の近代を以て日本の近代を批判し、日本の進路を求めようとしたのである。

 現在、中国が近代化を成し遂げることができるかどうか、という問題が、再び中国社会、文化に対する再評価と同一線で問いかけられるようになってきている。そしてこのような論点の形成の背景には、両国に要因が求められよう。中国認識の傾向が今後どのような方向に発展して行くのか、これからの中国社会の進路とそれに対する捉え方に注目すべきであろう。

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