博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:近代朝鮮における警察と民衆(1894-1919)
著者:愼 蒼宇 (SHIN, Chang U)
博士号取得年月日:2006年3月28日

→審査要旨へ

1) 大韓帝国の警察とローカルな警察秩序~「朝鮮固有の近代」
19世紀に入って小農社会が不安定化し、農村から引き剥がされる離農者が増大し続けると、ソウルとその周辺地域では盗賊・火賊の活動が活発化した。そして、勢道政治下で民に対する官吏の中間収奪が過酷になるにつれ、民の不満が民乱という形で具現化するようになった。そして、こうした社会的不満を背景にして、人々が宗教や賭博、酒などへの依存を深めるようになると、政府はこれらを秩序紊乱の要因と見なし、ソウルとその周辺を中心に盗賊の戢捕と巡邏をその主な任務とする捕盗庁体制の強化を図った。
しかし、地方においてはこうした常設機関は存在せず、監司(観察使)と守令に盗賊戢捕と巡邏を委ね、民乱などが起こった場合は、中央から討捕使などが派遣され取締る構造になっていた。それは、日常的には在地士族主導の共同体秩序(郷約等を通じた)や村落を超えた「契」の論理が機能していたからでもあるが、一方で19世紀末になると、儒教的名分による郷村支配が徐々に不安定化し、東学や民間信仰を通じた民衆の自律的な共同性の確立など、従来の吏士二元体制が動揺を来たすようになった。
こういった社会の動揺の中で、支配者と被支配者の間で改めて発見、共有された統治理念が民本主義であり、政治の腐敗に対する民の救済願望は「徳望家的秩序観」「国王幻想」という形で立ち現われた。それに対応した王朝政府も民国たる証を示すことで正統性を維持する必要があったのである。
ゆえに、王朝秩序を紊乱する要因と見なされた東学やキリスト教には厳罰で臨みながらも、民乱の際は悪徳な官吏も処罰することで民の仁政願望に一定応える姿勢を見せ、儒教的な風教維持に反する「迷信」と見なされた賭博や巫覡に対しては目に見える弊害が生み出されない限り、事実上容認していたのである。
こうしたソウルと地方の分権的な取締り体制、民本主義的な統治理念と、「小事」への寛容(「大事」への厳罰)性は大韓帝国期における警察制度・理念においても基本とされた。
ただし、その過程は日本を中心とする外圧と開化派知識人の分裂・対立によって試練を経ることになった。警察制度の側面から見れば、従来の警察構造(ソウルと地方の分権的警察構造)に根ざした形で欧米近代モデルを参照していこうとする漸次的改革派と、日本型近代警察(中央集権的警察と日常生活への過剰介入)化を進めようとする急進的改革派とのコンフリクトである。後者が第二次甲午改革期において制度改革のイニシアティヴをとったが、地方官吏、軍警の失業層、そして民の反発を受け短期間で後退していった。その結果として、最終的には中央-地方の間で分権化された、従来型の警察体制を基調として警察改革が進められていった。それが、大韓帝国警察の特徴であった。
ところが義和団事件をきっかけに、東アジアにおける帝国主義列強の勢力争いが新たな段階に入ると、警察制度は警部体制・大警務庁体制という形で、より中央集権化されたものへと強化されていった。ただし、警部大臣李鍾健が構想したような「皇帝直轄警察」という「新しい王権国家」のイメージと、従来の王朝秩序の中で生きてきた地方官吏や儒生、民衆の考える「古きよき王権国家」のイメージと大きな隔たりがあったため、そこから生じる反発を無視して強権的に体制変革をすることは困難であった。
 こうした「旧新」の葛藤は、警察理念の基礎でもあった民本主義の捉え方にも表れた。警務使の発した訓示内容を見ると、民の安寧保護を名目としつつも、そこに「民力の向上」という生産の論理を融合させることで、遊民性と勤勉性を区別する近代主義的志向が強めた。その結果、模範的な民は勤勉な民ということになり、それに反する無頼の民は秩序紊乱分子と見なされ排除される傾向が強まった。その一方で、王権国家はあらゆる民を排除せず、皇帝の赤子と見なす包摂力と民の国王幻想によって支えられていた。しかも、この包摂力は、罪の懲罰という場面においては儒教的名分に基づいた「小事」への情状酌量、賄賂等による赦し=裁量の政治文化を日常化させており、近代的論理による罪の裁断よりも、より説得的であった。ゆえに皇帝の持つカリスマ性とそれを支える伝統的な裁量政治に依拠する方向で警察統治は成り立っていかざるをえなかったのである。
このような大韓帝国期における警察統治を、法治主義の貫徹と対比して、徳治主義的警察支配と評することもできるだろう。こうした近代朝鮮の警察理念こそ、大韓帝国を支えた「朝鮮固有の近代」と評しうるものであった。
 「朝鮮固有の近代」を民衆の日常生活から見てみるとより整合的な説明が可能となる。朝鮮においては19世紀末~20世紀初頭にかけて増大する農村過剰人口を受け入れる産業が不十分であったために、過剰人口は農村に滞留して、流民によって形成された都市雑業層も安定した食い扶持を常に欠いた「ルンプロ」と化していた。そして、彼らの多くは農村・都市地域民の数少ない財に寄生し、しかも同じように貧困にあえぎ、上昇志向が満たされぬ不満を抱える末端の警察官(総巡、巡検、巡校等)たちと三者のサバイバル状況ともいえるもたれ合いの構造を、懲罰・取締りの局面において構築していった。これは「上から」の警察支配の志向から逸脱した、ローカルな警察秩序=「寛容で危険な秩序世界」とも評しうる、「贈与」と「裁量」の人格的な依存関係であった。
彼らが暴力を内包した面倒な関係でありながらも、相互に依存を深めていった理由の一つは、上記した経済構造の特徴に加え、甲午改革以降の急激な近代化のモメント(生産主義的な日常生活への改造を伴う啓蒙主義)に三者がいずれも適応できず逸脱していたところにある。そこでは賭博、信仰、祝祭など、支配層から「悪習」と規定された日常生活の態度を、「上から」の統制に反してしたたかに維持し、再生産する機能を持ち合わせたのである。大韓帝国期において、民の「悪習」を打破する名目を警務庁が立てつつも、実際上黙認されていたのは、「寛容で危険な秩序世界」が機能していたからでもあったのである。
しかし、この三者関係は民の「贈与」が度を越し、警察官・無頼者の暴力が過剰となった場合、民は耐え切れなくなり、崩壊する。不満を爆発させた民が「民訴」を行い、彼らの不義を告発する行動に出るのである。その「宛先」は官であり、そこで秩序が収拾されない場合、皇帝の「徳」が最後の「宛先」であった。こうして多くの問題は解決が図られた。このようにローカルな警察秩序が崩壊した場合も、民本主義的な「裁量」によって政治的に秩序回復が志向される。ローカルな警察秩序と上記した徳治主義的な「上から」の警察支配は、「悪習」の打破という取締りの局面で対立しつつも、民本主義的な秩序維持という側面においては共有された調和関係が存在していたのである。これが警察における「朝鮮固有の近代」の全体像であった。
2) 日本の警察支配とローカルな警察秩序
日本は日露戦争を通じて朝鮮への内政干渉を強め、第二次日韓協約締結によって朝鮮を保護国化し、その過程で朝鮮における治安維持のキャスティングボードを握っていった。そして、高宗の譲位、第三次日韓協約の締結、韓国軍解散を契機に勃発した義兵闘争の高揚に対し、韓国駐箚憲兵隊と韓国駐箚軍による義兵弾圧を行い、その過程を通じて憲兵警察制度を確立していった。
日本の治安維持政策の特徴は、良匪の峻別をしない、過剰な武力弾圧にあり、村落に取締り責任を負わせるなど、民の日常生活を過剰に統制・監視しようとするものであった。戦争状態を通じてこうした警察支配が憲兵隊を中心に確立されていった。当然、「民への懇切、温和」という朝鮮人警察官に求められた民への姿勢は削除された。ゆえに、却って民の反日感情は高まっていった。こうした中でとった日本の政策が朝鮮人憲兵補助員の導入であり、討伐と諜報活動をより強化しようとする狙いであった。
憲兵補助員は良匪の峻別なく、際限のない暴力を民に加え、民の怒りを買った。しかも、その暴力は従来のローカルな警察秩序において「合意」されていた「贈与」の収奪(賄賂、酒食など)を超えて、憲兵隊の組織的暴力(村落への報復、焼き討ちなど)の一員となって繰り出された暴力であった。故に、却って民や義兵に本来あるべき「同胞」のための憲兵補助員というナショナルな警察像を発見させ、同胞の本義を憲兵補助員に求めていく言動が目立つようになった。
そして、民は憲兵隊に呼訴運動を起したが、憲兵隊は全く応じなかった。ここに、日本が朝鮮における秩序収拾の政治文化であった「呼訴」と「呼訴」に対する民本主義的応答という官の取るべき態度を破壊したのである。こうして、民の救済願望の「宛先」であった官や皇帝の役割は崩壊し、民の救済願望は却って義兵、義賊に向かうこととなった。
そういった状況の中で、憲兵補助員は、民衆への抑圧者であると同時に、無頼者を多く含み民衆と社会に対する不満を共有しうる「逸脱者」であったため、植民地支配の先兵として上意下達で命令を遂行する「官吏」ではなく、社会に要請される道義を共有する「義士」としての規範が一定貫徹し続けた。ゆえに、姜基東のように、民に愛された義兵将李殷瓚と憲兵分遣所で対話を重ね、義兵へと変貌を遂げる憲兵補助員さえ現われた。まさに、警察と民、無頼者の間で共有された「寛容で危険な秩序世界」が、韓国併合間の時期においてもしたたかに憲兵補助員と民、義兵の間で機能し続けたのである。
しかも、姜基東は無頼者であったがゆえに、富民と良好な関係は構築できなかった。ゆえに伝統的な義兵というよりも、むしろ救済願望の「宛先」を失った民の憲兵補助員=義賊願望に対応した義賊としての性質を強く帯びた。こうした憲兵補助員の不穏な傾向は姜基東だけでなく、外にも義兵に便宜を供与する憲兵補助員は絶えなかったため、日本は憲兵補助員の「質」を変える、すなわちエリートへと育成する方向に方針転換を図ったのである。
 武断統治期の憲兵補助員・巡査補制度は、憲兵警察制度の根幹を支える存在として地位が高まった。そして、エリートとして育成する方針を確立したが故に、元来、「警察」を卑しい存在と見ていた両班も多く応募するようになり、階層を超えた人気を博した。しかも農民や無職有食者のような低い身分であっても身分上昇が図れるという欲望を彼らに掻き立て、かつ植民地支配の先兵として利用しえたという面で、憲兵補助員・巡査補制度は「親日派」を育成する有力な暴力装置であったといえる。実際、憲兵補助員の後、出世街道を登りつめた「親日派」が多く存在した。
 しかし、憲兵補助員・巡査補たちは日本の統制のあり方に大きな不満を抱いていた。それは、日本が補助員・巡査補のエリート育成を徹底して押さえ込み、日本人と大きな待遇格差をつけたことなどに基因する。ゆえに、多くの憲兵補助員・巡査補は不満を抱き、三一独立運動の際、運動の側に同情を寄せる同盟罷業という行動に出たのである。
 また、憲兵補助員・巡査補は、民や無頼者と「上から」の支配を潜り抜けるようにしたたかにローカルな警察秩序=「寛容で危険な秩序世界」を構成して、朝鮮民衆の生活に関わる諸慣習を保護する役割を演じ、地域社会において支配者からは見えない共同性を保持していた。三一独立運動時には、多くの巡査補・補助員が反逆、逃亡、辞表提出などの行動を起こしえたのはこうした社会関係が存在していたが故でもあったのである。こうした憲兵補助員・巡査補の行動がきっかけとなり、1919年9月に憲兵補助員は廃止されるに至った。その後朝鮮は普通警察による支配の時代、「文化政治」へと変わっていった。
 以上が本稿の主旨を要約した結論である。

このページの一番上へ