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博士論文要旨

論文題目:「満洲」における近代的労務管理体制の萌芽―昭和製鋼所の労務管理の研究―
著者:黄 英蓮 (HUANG, Ying Lian)
博士号取得年月日:2005年11月29日

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1.課題と視角

本論文は、日本労務管理史研究の蓄積の上に立って、「満洲」(以下、「」を省略する)における労務管理の実態を明らかにすることを目的としている。具体的には昭和製鋼所における労務管理の歴史的展開過程を取り上げ、如何に近代的労務管理体制の萌芽が見られたのかを検討する。
満洲の労働問題に関する学問的蓄積では、専ら中国人労働者に対する日本資本主義及び企業側の搾取、支配、酷使という専制的労務管理の視角から分析がなされ、企業の労働者搾取や支配、労務管理の惨憺たる側面及び日本資本主義の満洲支配の実態を見出すことに注目されてきた。その結果、近代資本制産業の満洲への進出に伴う出稼ぎ労働者の存在とのかかわりで労働問題を捉えるという視点が欠如している。従って、本論文では満洲の近代産業における出稼ぎ賃金労働者とのかかわりに力点をおき、満洲の労務管理における空白部分を解明する。
阿片戦争後、とりわけ19世紀末頃、西洋列強の資本制産業の満洲市場への進出、拡大によって、潜在的過剰人口となった農民が出稼ぎ賃金労働者に変身し、満洲の近代的産業労働者として登場してきた。しかし、そのままの形で農民が直ちに近代的な産業労働者に成り得るものではなかった。そこでこのような初期の出稼ぎ賃金労働者の存在を、技能と労働意欲等をもつ近代的産業労働者にまで陶冶し訓練していくのが次の課題であった。昭和製鋼所の労務管理を見ると、開明的な管理体制への転換に向かう萌芽が見られた点も無視することができない。従って、本論文では昭和製鋼所における労務管理を分析する際、専制的労務管理のみでなく、近代的産業労働者への陶冶のための養成、保全といった積極的労務管理の面にも着目し、こうした相反する労働関係を正しく分析しながら、近代的労務管理体制への転換に向かう萌芽的特質について考察する。
筆者のこうした研究は、これまでの満洲労働研究が抑圧、搾取、支配といった専制的労務管理の水準を超えて、新たな学問的領域へ進展するのに一定の貢献をするであろうと確信する。また、日本労務管理史研究に新たな地平を開いていくことを意図する。


2.各章の概要

第1章では、労務管理を検討するための前提となる、満洲労働市場における労働力構成及び需給関係の変化を概観する。満洲国設立及び中日戦争を前後に労働市場は異なる傾向を示していた。
日露戦争後、日本資本による資源「開発」及び近代産業の発達により、都市の工場や鉱山では労働力需要が高まり、満洲及び中国関内農村の産業予備軍として存在していた農民が大量に満洲の労働市場に集まるようになった。従って、満洲国前期までは満洲労働市場における豊富な労働力の存在によって、満洲の日系企業における労働者徴集は困難を感じることなく、満洲現地及び河北、山東省等地域から容易に徴集することができた。
満洲国設立後、日本人・朝鮮人の満洲移民を促進するために、満洲国内の治安維持、漢民族の勢力抑制などが緊急課題とされ、大東公司を設立して関内中国人労働者の入満を制限する体制に移行した。しかし、中日戦争の勃発を契機として深刻な労働力不足が発生し、さらに労働統制を強化することが求められ、1938年に満洲労工協会の設立によって労働統制に乗り出し、さらに労務興国会が設立され、労働者の募集と配置を国家が直接統制する労務体制が登場することとなった。満洲国政府が様々な労働力動員策を講じ、撫順炭鉱、大連埠頭等各企業もあらゆる対策で労働力不足に対応したものの、労働力確保は実現できず、質的、量的に労働力不足を解決することはできなかった。

第2章では、昭和製鋼所前身である鞍山製鉄所設立の歴史的背景として、日露戦争後及び第一次世界大戦期等の時代区分ごとに日本の対満洲経営の変遷過程を考察する。まず、日本の対満洲経営の契機となる日露戦争による講和条約から、南満洲鉄道株式会社(満鉄)誕生が必然的結果であることを指摘する。日露戦争を契機として日本は朝鮮、満洲の植民地化を図り、講和条約によってロシアの満洲における諸権利を譲り受けることとなった。その結果誕生した満鉄会社は、民間企業的性質をもっている台湾製糖株式会社と違って、日本国の代理人として、満洲経営を行なっていくことになった。
また、満洲経営をめぐる日本支配層の意見対立、満鉄を主体とした経営活動について、日露戦争後から第一次世界大戦期までを通して概観し、鞍山製鉄所設立の歴史的背景を論じる。日露戦争後から第一次世界大戦に至るまでの満鉄経営活動を見ると、対満洲投資は緩慢な速度で行なわれ、日本政府は英米列強の不満を増大させないように、国際世論を気にしながら満洲の「門戸」開放を履行してきたことが分かる。
しかし、日露戦争後日本の支配層の中においては対満洲柔軟派と強固派の対立が続けられ、第一次世界大戦期に至って、満洲権益の拡張を追求しようとする日本支配層の強固派が政治的支配力を強めたことによって、中国政府と「21ヶ条要求」を締結することになった。この条約は日本の「満蒙開発」に有利な条件を作り、満鉄は南満洲9鉱山に関する交換公文を根拠に、鞍山周辺の鉄鉱採掘権を奪取し、鞍山製鉄所を設立したのである。

第3章においては、鞍山製鉄所・昭和製鋼所の沿革、経営発展及び生産機構などについて考察する。第一次世界大戦期における日本の鉄鋼政策に応じて、満鉄・鞍山製鉄所の製鉄事業が始まったが、第一次世界大戦後不況に見舞われ、連年欠損が生じる事態になった。経営危機を打開するために、満鉄は厖大な資金を投下して貧鉱処理法の工業化を実現し、また、固定資産の減価償却の断行や石炭価格の引き下げ、運賃原価並み扱い等経営合理化対策を実施した。その結果、生産コストを削減し、利益を計上することによって、製鉄所の拡大を図ることに成功した。鞍山製鉄所のこのような発展は国家資本系の満鉄傘下にあったために実現可能であったものと考えられる。
鞍山製鉄所の発展を受け継いで設立された昭和製鋼所は、日満産業政策上及び国防上重要とされ、満洲鉄鋼の需要に対する自給及び日本国内の鉄鋼の需要を満足させるために、常に生産能力を拡充、改善することが期待された。そのため、昭和製鋼所は満洲国における鉄鋼業の統制過程において、終始重要な地位におかれていた。1937年12月満業の設立により、昭和製鋼所は満鉄傘下から満業傘下に移行し、昭和製鋼所の経営組織は満業を中核とする満洲国の統制経済下に再編成され、1939年に満洲国の特殊会社に改組されることとなった。さらに、1944年には新たに満洲製鉄株式会社として設立され、経営機構再編によって経営再生を試みたが、縮小再生産体制に入りつつあった満洲戦時経済の下にあって、昭和製鋼所はもはや経営発展の展望を持ち得るものではなかった。

第4章においては、鞍山鉄鉱及び製鉄所における専制的労務管理体制の実態を明らかにする。満洲初期の産業労働者の存在形態は貧農、雇農等の農民層であった。彼らを近代的産業労働に適応させるために、鞍山製鉄所の鉱山及び製鉄所工場において、如何なる専制的労務管理が行なわれたのかを検討する。
鞍山製鉄所鉱山においては、封建的把頭制が共同請負の直轄制に替わり、鉱山工に対する企業の統一的管理が行なわれ、さらに「鉱夫管理規程」の制定によって明文化された。
鞍山製鉄所工場においては、「工牌規程」及び「懲戒方針」を設け、無秩序無統制な農民を近代的な産業労働者に陶冶するために、各種紀律を厳しく制定し、違反した場合は厳重な懲罰が与えられるなど強権的抑圧、取締政策が実施された。こうした取締及び懲罰手段によって、基幹労働者の移動を防止することで比較的安定を保つことができた。また、製鉄所の大多数が大工業企業の技能と経験を全く有しない農民出身者であり、一方製鉄業はある程度の熟練技能を要求するため、鞍山製鉄所は徒弟制度を設け、労働者育成のための厳しい訓練を実施した。
鞍山製鉄所及び鉱山における専制的労務管理の結果、鞍山製鉄所及び鉱山は労働者を任意に使役し、その保護をおろそかにし、特に鉱山における坑内の労働条件が劣悪である中で長時間労働をさせたため、事故が多発し、労働者の死傷事故が絶えず発生していた。また、1920年代の鞍山製鉄所において、中国人労働者の賃金が低く、生活が極めて困難であり、しかも作業中に日本人監督者の暴力的行為が日常的に行なわれたため、労働者に精神的、肉体的な損傷や疲弊をもたらし、その結果、労働者の中に強い反抗を呼び起こすことになり、労働争議が引き起こされるに至った。

第5章においては、昭和製鋼所における近代的労務管理体制の萌芽の特質について検討する。その際、出稼ぎ農民を近代的産業労働者へ陶冶するために、如何に専制的労務管理を克服し、開明的労務管理の兆候を見せたのかに焦点を当て、労務管理の実態を明らかにする。
昭和製鋼所が設立され、生産規模が拡大するに従って中国人労働者の人数が急増したため、管理機構も厖大になり、労働者に対して募集、勤怠、社宅、福祉、補導等に細分化された管理が行なわれ、近代的労務管理機構が確立した。
また、原生的労働条件の見直しが行われ、賃金水準の上昇が見られた。1940年代に入って、昭和製鋼所における低賃金が労働力不足の状態と相俟って、労働力の再生産過程に行き詰まりが生じたために、昭和製鋼所は労働力確保として、基本給を中心とした賃金制度の改革を行ない、加えて各種手当の見直しも行なった。その結果、1942年4月の月収額は1937年度に比べて約2倍に上がり、また、労働者の各職名間の賃金格差が小さくなった。
さらに、満洲国末期に入って労働者の高い移動率、低い出勤率が続いたため、昭和製鋼所においては労働者の定着性を高め、労働者を確保することが労務管理の緊急重大な課題となった。昭和製鋼所は従業員養成機関として臨時工作工養成所、実技訓練所を設置して熟練労働者を養成したほか、事務員短期養成所、国民学校を設立した。これらの従業員養成機関では短期間で生産技術の基礎知識と簡単な機械操作技能が教えられたが、このことは定着性の乏しい労働者を確保するためには、専門的訓練機関を設置する必要性が生じたことを物語っている。
昭和製鋼所は中国人労働者の農村における生活拠点を工場に移動させ、完全な鉄鋼労働者として生活を工場や鉱山に依存させるために、集家部落建設を行ない、社宅の増築に取り組んだ。住宅問題は労働者が工場都市に集まって、安定した都市の労働者として、代々、世代を継承して再生産されていく場合に決定的な重要性を持ち、また、労働者家族に精神的安定を与え、労働者の定着性向上の決定的な用件となる。従って、昭和製鋼所の労務管理の対象が、満洲国設立以前の単身出稼ぎ労働者から、満洲国末期において地域の安定した住民へと替わり、近代的産業労働者への陶冶のための積極的労務管理体制が試みられた。

終章では、昭和製鋼所における近代的労務管理体制の萌芽の結果、労働者に如何なる影響を与えたのか、如何なる歴史的意味をもっているのかについて考察する。
満洲における近代資本制産業の発達は大量の農村人口を吸収し、初期の季節的吸収から次第に農業人口の都市への移動として現れてきた。農村の商品経済が農民に浸透し、農村の外部にある多くの近代的産業が発達して雇用が増えれば、農村の出稼ぎ労働者は次第に近代工業地帯に吸収されていく。彼らの大多数は単純労働者であり、技術工への道は多くの者にとって閉ざされているが、これらの出稼ぎ労働者が産業予備軍を形成していることは否定できないのである。
労働者組織及び労働争議について考察すると、満洲国時代であるだけに、昭和製鋼所における労働者の大規模な労働争議は発生しがたいものだったが、統制勢力が比較的弱かった関係会社においては、賃金の増額や生活待遇の改善を求めて労働争議が多発し、企業経営者に損失を与えた。しかしながら、関東軍の徹底的弾圧を受け、中国人労働者による自発的労働組合組織は形成されなかった。
一方、昭和製鋼所は各職場の中国人労働者中堅層を中核とする職場補導組織として「努力前進会」を結成させたが、おそらく頻発する暴動や不安定な社会情勢の下に、中国人労働者組織に見せかけ、新たな労務管理を試みたものと考えられる。また、無統制な労働者を組織化して努力前進運動の展開及び労務諸問題の解決に挺身努力すべき指導者を養成したが、これは従来の人間性の乏しいムチしか使わない監督者に替わって、生活習慣、言語を異にする中国人労働者の管理に熱意を持って取り組む指導者が必要となったことを物語っている。
最後に、昭和製鋼所の戦後復興について考察する。日本の敗戦、満洲国の倒壊後、ソ連軍支配期を経て国民党軍と共産党軍の内戦が繰り返される中で、昭和製鋼所、即ち、後の満洲製鉄株式会社の復興が行なわれ、新中国の成立後の3年経済復興期に至るまで急速に復興作業が進展された。これらの復興活動は満洲国時代、国民党軍時代の労働者や技術者の継承及び民間企業における作業の委託によって支えられた。その結果として労働者を企業の主人公とする新しい労務管理が生まれたことと推察される。

3.総括

 日本の満洲経営に重要な役割を果たした昭和製鋼所を取り上げ、その労務管理を検討した結果、専制的労務管理が展開された一方、それを克服する兆候も観察された。即ち、満洲の出稼ぎ農民を近代的産業労働者に陶冶、育成するために、専制的労務管理が克服され、次第に近代的開明的な労務管理体制の萌芽が見られた。勿論、満洲の労務管理の特質については、満洲の他の企業に対する考察も必要であり、今後の課題としてさらに追究していかなければならないだろう。また、日本の植民地支配下に置かれた台湾、朝鮮における労務管理と比較対照することで、日本の労務管理史研究のさらなる蓄積を追求していきたい。

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