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博士論文要旨

論文題目:ソ連・コミンテルンとスペイン内戦-モスクワを中心にしたソ連とコミンテルンのスペイン内戦介入政策の全体像
著者:島田 顕 (SHIMADA, Akira)
博士号取得年月日:2005年11月29日

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 本論文は、ソ連・コミンテルンによるスペイン内戦(1936-39年)中の介入政策、スペイン共和国支援政策の全体像の再構築、つまりスペイン内戦における政策決定システムと政策の流れを把握し、指導、援助の有効性と意味の考察を目的とするものである。本論文は、スペイン内戦当時のコミンテルンを一個のシステムととらえる。コミンテルン・システムは、ソ連という全体的なシステムを構成する一つの小システムである。ソ連には、コミンテルン・システム以外にも独自の政策決定システムが存在し、スペイン関連部門もあった。他方でコミンテルン・システムを構成する個々の小システムの中に、政策決定システムがあり、その中のスペイン関連のものがコミンテルンのスペインシステムだった。コミンテルンのスペインシステムの大きな特徴は、ソ連との密接な関係と、スペイン駐在コミンテルン代表の存在である。コミンテルンはソ連の従属下にあったが、コミンテルンが他国にはないルートであり、人民と直結し、世界の様々な民族が関与し、一国の枠を飛び越えているなど、従属下のコミンテルンの積極的な面もあった。
 ソ連側のスペイン内戦政策決定における最重要アクターは、インスタンツィヤと呼ばれる最高指導部、つまりスターリンとその側近たちだった。側近たちの中でも、モロトフ、カガノヴィッチ、ヴォロシーロフがスペイン内戦関連で主要な役割を演じていた。全般的には、カガノヴィッチの活躍が目覚しい。カガノヴィッチは他の二者に比べ若かったが、スターリンとの書簡のやり取りは最も頻繁だった。ヴォロシーロフは軍事面で他をリードしたが、第二次世界大戦で犯した失策と同様、無能さをすでにスペイン内戦の時期に露呈し始めていた。武器をどのくらい送るかなど、細かな点はスターリンが決定し、ヴォロシーロフはそれを実行し報告するだけだった。モロトフはこの時期は目立った動きがなかったが、スターリンの最も身近な相談相手であり、他の二者より重要だった。側近たちはスペイン内戦を冷淡かつ、事務的に取り扱っていた。カガノヴィッチのオルジョニキッゼ宛書簡がそのことを如実にあらわしている。スターリンとの往復書簡でも彼らのスペインに対する独自の考え方がわかるものはなかった。モロトフは、スペインに関する文章を残していないが、外交問題には特に注目していた。スペイン内戦の動きにも目を配っていたが、スターリン以上のスペイン内戦に対する思い入れはなかった。つまりスターリンがスペイン内戦を含めて、対外政策の指針を決定していた。
 組織局会議は、政治局会議に先立つ人事・組織問題の決定を行っていた。執務室会議は、政治局に先立つスターリンと側近の間の審議・決定と、外部の人間を招き、広く意見を聞く場だった。執務室会議はほぼ毎日のように開かれるが、スペイン問題では会議の頻度もさほど高くなかった。しかもソ連駐在スペイン大使や関係省庁幹部を招いた対外政策の話し合いと、コミンテルン関係者を招いたコミンテルン政策に関する協議は、決して一緒に、合同で行われることはなかった。個別の話し合いが慣例となっていた。
 政治局会議は最終決定の場であった。政治局会議の頻度は高く、緊急決定として持ち回り決定を採用していたが、それでもスペイン問題では間隔が空いていた。だからこそ刻々と変わる情勢への対応は、インスタンツィヤが担っていた。全連邦共産党は政策決定の場であり、政策の実施はソ連国家に委ねられていた。そのことはスペイン内戦でも変わらなかった。スペイン内戦問題でも様々な省庁が動いていた。だが不干渉委員会に参加しているソ連代表に対する命令からもわかるように、綿密な対応が必要なときは、細部にわたり政策の実施にインスタンツィヤが干渉した。
 ソ連はスペイン銀行の金準備を武器の代金として前もって納めさせた。武器「援助」が輸出だったことは以前から知られていた。その金準備の輸送の責任はスペイン側が負った。ソ連側は責任を負わなかった。輸送中の不祥事により金準備が失われたとしても、武器の代金は免除されることなく、請求されるのだった。このことは武器「援助」でのソ連の非情さをあらわしていた。しかもスペイン共和国の勝利は決して望まれておらず、スペイン共和国がソ連に送った金準備に見合っただけの武器は、スペインに届けられることはなかった。
 武器「援助」開始以前の、食料品、石油なども援助ではなく、輸出だった。しかも、その費用はソ連の労働者が集めた義捐金によって賄われ、ソ連の国庫を傷めることはなかった。ソ連指導部がやったのは、輸出品の値段を少々値引きしたことくらいだった。人道的援助ではいくらか軽減されていたが、輸出のための税金も当然のごとくかけられていた。
 コミンテルン・システムには、フォーマルシステム(表のシステム、実質的政策決定システム)と、インフォーマルシステム(裏のシステム)があった。フォーマルシステムとして、①幹部会・書記局、②ディミトロフとディミトロフ書記長個人小書記局、書記局ビューロー、③マヌイリスキーとスペイン関連小書記局であるマヌイリスキー個人小書記局、④トリアッティ、⑤その他の書記(クーシネン、モスクヴィン)を挙げた。①は、表の心臓部であり、議論・政策立案決定の場であった。だがスペイン問題では頻繁ではない。重要な問題に関しては大きな会議が開かれ、しかも幹部会会議、書記局会議が連続し、数日間にわたることもあった。②は、コミンテルンの活動を監督し総攬する立場にあり、スペイン内戦政策でも重要な役割を担った。書記長の直接指揮下にあった書記長個人小書記局は、スペイン関連小書記局とともにスペインに具体的指示を伝える暗号電文連絡業務に従事し、書記局ビューローは事務的補助機関だった。③は、スペイン関連小書記局を従え、ディミトロフとともにスペイン関連政策立案決定を担当した。第7回大会以前の地域小書記局の役割に比べ、個人小書記局の権限は小さくなったが、人事的なつながりは残っており、この系列からコミンテルン代表がスペインへ派遣された。
 コミンテルンの制度的支柱であるインフォーマルシステムとして、①全連邦共産党(ボ)コミンテルン執行委員会内代表団、②全連邦共産党(ボ)コミンテルン執行委員会内細胞組織・党委員会、③OMS国際連絡部・国際統制委員会・コミンテルン人事部があった。だが、これらのほとんどが政策決定に関与できる機関ではなかった。唯一政策決定に影響を及ぼすことができたのは、①だった。だが代表団も組織的に形骸化していた。モスクヴィン、マヌイリスキーなど、ディミトロフを補佐するソ連側党員が代表団長になったためである。ディミトロフの強力なイニシアチブも無視できなかった。代表団会議といっても、実際はソ連側のインスタンツィヤとコミンテルンのトップを指していたのである。
 また政策決定機関ではないが、政策遂行機関としてOMSを重視する。コミンテルンのスパイ組織であるOMSの実態は未解明だが、連絡業務その他でスペイン内戦でも重要な役割を担った。連絡業務以外に、スペイン内戦下でOMSが担った特殊重要な役割に挙げられるのが、義勇兵募集・派兵活動、コミンテルン代表らの派遣ルートの確保、移動の際の護衛だった。コミンテルンの連絡システムがOMSだった。
 コミンテルン中央の決定方法を綿密に把握するために、1936年9月16-19日のコミンテルン執行委員会幹部会会議・書記局会議の一連の会議を検討した。一連の会議は、まず幹部会会議として開かれ、各国共産党代表によるスペイン内戦への対応、スペイン内戦の国内的意義の発表が行われた。それらに対するディミトロフの発言の後、スペイン駐在コミンテルン代表のコドヴィーリャが報告した。幹部会会議はここで一旦閉められ、議論は書記局会議に持ち越される。書記局会議ではさらなる議論の後、決議が行われ、重要な一連の問題(コミンテルンによる国際旅団派遣など)が決定されたのである。
 ディミトロフの『日記』、アウスツーク、その他の史料を用いて、コミンテルン中央の政策決定過程を考察した。これまでスペイン内戦に関する詳細な命令、決定は、決して表に出ることはなく、機関誌『KI』、通信誌『ルントシャウ』などで推測するしかなかったが、本論文では実際の決定、命令を明らかにできた。ディミトロフは、スペインへ派遣していたポーランド党員たちをモスクワに召還することによって、粛清に手を貸した。またスペインから入ってきた反党活動に関する情報を、ソ連側(NKVD)に伝えていた。
 スペイン内戦において、ソ連とコミンテルンは密なる連携・協力体制下にあった。スターリン執務室会議には、僅か8回だが、ディミトロフ、マヌイリスキー、トリアッティその他が出席していた。執務室会議ではスペイン問題も数回議題となっている。そこでスターリンの具体的指示(①カバリェロ首相続投、②戦時下スペインの国会選挙実施、③スペイン共産党の政府からの離脱)があったが、スターリンからの指示の実現は実質的に不可能で、コミンテルン側は拒否した。
 コミンテルン中央は、ソ連指導部に、書簡による詳細な報告を逐次行っていた。スペインから文書が届くと、その文書のコピーが、ディミトロフ、マヌイリスキーによって、インスタンツィヤに届けられていた。コミンテルンの重要な動き(第二インターとの交渉、トリアッティのスペイン派遣など)も報告されていた。『日記』によれば、ディミトロフとスターリンらソ連指導部との直接接触の機会が頻繁にあり、そこでスペイン問題が話し合われていた。常にスペイン問題を含めた重要な問題について、スターリンと直接話し合う機会があった。ソ連、コミンテルン双方の伝達手段としては、文書(電報)、文書(ファックス)、伝書使、電話、直接面会(口頭)などがあった。
 重要なコミンテルン関連の決定、しかも最終決定の一部(国際旅団結成、その廃止など)は、全連邦共産党政治局会議で行われた。その際、ディミトロフ、マヌイリスキーがオブザーバーとして出席していた。つまり、コミンテルンの重要な動きはソ連側の許可が必要だった。スターリンはディミトロフを全面的に信頼していた。加えて全連邦共産党代表団は、スペイン問題では形骸化していた。ソ連党員のみの代表団で、ディミトロフを除外してのスペイン問題論議は無意味で不可能だった。コミンテルンは、粛清ではソ連の完全な従属下にあったが、政策自体では密接な関係の下、ある程度の行動自由があった。ソ連側の指示はあるが、必ずしもそれに従うものではなかった。また国際旅団のための資金はソ連側から出されていたことは、ソ連側がコミンテルンを信頼していたことを示している。信頼していないのならば、資金を与えなければよい。コミンテルンは、ソ連からの資金がなければ、何もできない組織だったからである。
 コミンテルン代表(コドヴィーリャ、ゲレ、ミネフ、暗号名「カウツキー」、トリアッティ)は、スペインに常駐し、スペイン共産党とカタロニア統一社会党を指導した。ディミトロフが示した代表のあり方は、組織的に曖昧なものだった。コドヴィーリャとゲレは、ディミトロフが求めたコミンテルン代表のあり方を逸脱して行動した。逸脱はスペインに停滞をもたらし、人民戦線崩壊の一原因となった。コミンテルンは状況を打開するために、トリアッティを送り込み、情勢分析させ、コドヴィーリャとゲレの更迭を決める。二人の更迭後、トリアッティとミネフによる指導、助言によって、状況はいくらか改善されたが、1939年3月にスペイン共和国は敗北する。
 結局、党(コミンテルン)の介入も国家(ソ連)の国家(スペイン共和国)への介入であった。スペイン内戦では、党の介入と国家の介入が交錯していた。スペイン内戦は、党の介入と国家の介入が交代する、いわば過渡期に位置していた。スペイン内戦が終わり、コミンテルンが1943年に解散すると、ソ連国家が台頭してきた。ソ連が直接乗り出し、コミンテルンにとってかわった。コミンテルン・システム、スペインシステムに注目したソ連は、スペイン内戦での「援助」という名の介入、支配をふり返り、その中で無駄なものが何だったのかを問い直し、コミンテルン・システムの削除を図った。ソ連はスペイン内戦後、システムをスリム化した。スペイン内戦でコミンテルンが受け持っていたシステムを、すべてソ連側が乗っ取ったのである。つまり、スペイン内戦はソ連にとって東欧支配の準備室であり、東欧支配方法の鍵を見つけ出した場所だった。ソ連にとってコミンテルンとは、支配(援助)に本腰を入れられる段階ではなかった時代の、丸投げシステムであり、肩代わりさせるためのシステムだった。スペイン内戦で強大化したシステムは、逆にソ連の注目を浴びることになった。コミンテルン・システムの侵食がソ連によって始まるきっかけになったのが、スペイン内戦だった。コミンテルンはスペイン内戦においてソ連を積極的に関与させたシステムを完成させ、機能させた。そのシステムは、単なる従来型のソ連外交に従属するシステムとは異なる、積極的従属と評せられるものである。ソ連を積極的に関与させることにより、コミンテルンの路線である人民戦線戦術の積極的な意義を認めさせる意味もあったのだろう。スペインにとって、コミンテルンとソ連、それらの介入、コミンテルンとソ連のシステムは、勝利をもたらさないものであり、まさに非効率なものだった。

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