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博士論文要旨

論文題目:荻生徂徠における「道」と「人性」「人情」
著者:王 青 (WANG, Qing)
博士号取得年月日:1998年3月27日

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 二十世紀初頭の中国において、腐敗した清王朝の支配と帝国主義列強の侵略、いわゆる「内憂外患」の情勢の下で、孫文から毛沢東まで数多の革命者が奮起して、清朝打倒・列強駆除そして近代化建設について模索してきた。その献身的努力の結晶として新中国が誕生したのである。しかし、新中国において一連の出来事がおきた。大躍進・人民公社化運動などが経済的破綻をもたらし、百家争鳴・文化大革命そして六四天安門事件において、政治的弾圧が行われた。われわれは遂に他国を鑑みながら中国の近代を考え直さなければならなくなってきた。
 私としては、中国の近代化遅滞の原因を、異民族支配や帝国主義侵略及び冷戦など外的状況にのみ帰着するのではなく、さらに中国社会における固有的思惟様式、とりわけ中国社会に重大な思想的影響を与えていた朱子学の思想的特質との内的関連を究明しなければならないと考える。従って私はさらにそういう批判的検討という作業を通じて中国的近代化の前進の方向を見出そうと思う。

 その場合、私は朱子学を激しく攻撃した上で、独自な思想体系を樹立した荻生徂徠の思想を研究の手がかりにしたのである。なぜなら、徂徠学における朱子学批判のプロセスにおいて、従来の日本思想の枠をも打ち破り、新しい思想的質を生み出して、日本の近代への思想的契機を成したと言われているので、徂徠学と日本の近代化についての検討から、朱子学と中国の近代化について考える際の拠り所を得られるではないかと思っていた。そしてその思索の結果というのはこの小論文である。

 いうまでもなく、徂徠研究において、徂徠学を日本近世思想史における封建から近代への転換点をなす決定的思想形態として捉えて、その学説は徂徠研究に止まらず、日本思想史研究全般にとっても、一つの座標軸的意味を持つと言われるほど影響が大きかったのは言うまでもなく丸山真男氏の『日本政治思想史研究』である。

 丸山氏によれば、政治を個人道徳の延長線上につかむ朱子学的思惟に対して、近世日本において道徳とは異なる政治の固有法則性を見出す思想が現れ、それは山鹿素行、伊藤仁斎を経て徂徠に至って頂点に達した。すなわち人間の「本然の性」に道徳を根拠づける朱子学的自然主義は、「人性」に対して道徳を超越化させる仁斎学によって否定され、この「天道」「人道」の分裂の延長線上に、さらに徂徠における「天」の不可知化と非合理主義が現れてきた。他方「天道」や「人道」から外在化された徂徠学の「道」は、聖人の立てた禮楽制度へと歴史化され、「治国平天下」と言う政治性を本質とし、公的=政治的=社会的=対外的世界に関わるようになった。これに対して残された私的=個人的=道徳的=内面的世界は、前者とは領域を異にする世界としてその存在が承認された。そして人情の自然や人欲が肯定され、またこの領域を根拠とする歴史・文芸・学問などの自立的価値が認められるようになった。思想史的には、公的=政治的側面は主に太宰春台ら少数の経学派に、私的=内面的側面は服部南郭らの文人派をへて、宣長学に継承されていたというのである。

 一方、従来の背後において、根本的に「天理」によって根拠づけられていた聖人に対して、それ自体が絶対的人格として歴史に登場して、一切の「道」に先行して、無秩序から秩序を作り出す者と把握された。ここに聖人の立てた「道」は、各王朝の開国の君主によるその都度ごとの作為をへて、新たな主体化を経験する形で継承されていく。ここに初めて、一切の秩序の主体的創造という近代的政治観を掴む枠組みが明瞭に設定された。

 つまり、丸山氏は「儒教の内部における近代的思惟の成長」という視角から、徂徠学における「公私の分裂」による「政治の発見」ないし「儒教の政治化」に重要な意味を付与し、また彼における「制度作為」観の主体的性格を指摘した。これらは朱子学の拠ってたつモラリズムの立場や自然秩序観にそれぞれ対置され、その近代性が強調されたのである。

 そして平石直昭氏は、丸山氏の関心を継承し、さらに「近代」の視角による徂徠分析を発展させてきた。氏は聖人のみを絶対的主体と見る丸山氏に対して、儒者、聖人及び後世の君主・小人という三つの方面から徂徠学における「主体性」を検証してきた。

 徂徠学における「近代的主体性」が徂徠の「六経」論によく示されているというのである。彼は「義理」を「六経」という「物」の内部で、生きた具体的事実との関連においてとらえると強調して、そのために後代人としての「廓」から出て、自由な主体となることが要請された。もちろん同時に徂徠は「六経」について、元来それは「聖人の天下を治め玉へる道」のことだと規定しており、そのため今日考証学から徂徠の「六経」解釈に疑問が提出されうるが、解釈学的にはともかく、思想史的には新しい地平を切り開いた彼の独創性が潜んでいたことが疑いない。

 つまり徂徠学におけるこの二つの主体性は密接不可分に関連しており、人間界に秩序を作り上げて行く聖人は、その前提として古文辞学を基礎づけたのと同様の認識の方法を持ち、世界に向き合っていたことになるのである。

 徂徠はまず「天」が不可知だと強調して、人間と自然との間に太い一線を画して、そしてその前提の元で聖人が「天地の道理」と「人性」ないし「人情」―自然と人間との中から一定の恒常性・規則性を経験的に把握して、民生の安定並びにそれと不可分的に権力支配の持続を目指して、両者のバランスをとるように「道」をたてた。こうして徂徠は、聖人の制度作為とその与件を区別して、安民仁政・王朝延命の見地から両契機の最適連関―フイクションとリアリテイとの相関性を体系化したものとして「道」を再構成した。彼はまた、当代日本の為政者が制度作りをする上での引照基準として、それを再生させた。

 別言すれば、後世の君主が自らの現実の諸条件を踏まえて、「制禮」する時は、唐虞三代の制度をそのまま後世に適用させるのではなく、三代の規範性・制度作為の方法、つまり最適なフイクションとリアリテイとの相関性を主体的に見出さなければならないとして、つまりこの相関性を会得すれば、異なった社会的条件のもとにおいて、新しい「禮楽刑政」を建てるための能力にも転化できるのである。

 この「道」の作為に纏わる認識・制作の主体は徂徠学における「鬼神論」にその頂点を達した。つまり「鬼神・占筮」などを聖人の建てた仮構にしたことは、体制認識における呪術的意識からの解放であり、さらにそれは自然認識における朱子学的「合理主義」の神話の破碎と相平行して、社会と自然の両面において神話と現実が峻別され、それは日本における夢から醒めた近代的精神の確立を示していた。

 また、平石氏は丸山氏の徂徠学における道徳のリゴリズムからの解放という評価に対して、徂徠の「道」は個人の内面性に直接タッチしない反面、「公・私」を含む人間の対他的側面一般には深く全面的に関与して、この日常道徳の面は、「孝悌忠信」―「中庸の徳行」論、または「達道」論として展開されて、道徳を政治の前提にした以上、朱子学の道徳主義と変わりないが、むしろ道徳を「人情」の普遍的な一面にしたこそ、小人にもある程度の道徳的な主体性を認めたわけである。

 すなわち徂徠の「道」は為政者が人民を統治するためのアートの体系だけではなく、君子・小人を問わず万人に妥当する道・徳の創出という面をも含んでいた。別言すれば、徂徠は個人の内面的世界をその人に委ねながら、その外部に関わる規範はすべて創造する行為として、政治概念自体を新しく構成したのである。

 このように丸山氏における徂徠研究は平石氏により、いくつかの修正が加えられながらも発展されてきたのであり、とりわけ平石氏が、徂徠学の「道」を最適なフイクションとリアリテイとの相関性として把握するのが優れていると思われる。しかし徂徠学において、「天」はしばしば「不可知」といわれるが、「天地の道理」は聖人のみによるにせよ、経験的に把握できるもので、しかもそれは単に自然現象における規則性を意味しているのではなく、社会秩序を原理化する役割も担っていると看過できない。また「道」が制作される前に、「聖人の道」に順応できる内面的基礎―「相愛相養相輔相成之心」がすでにすべての「人性」「人情」に内在させられていた。平石氏は「聖人の道」の与件である「天地の道理」と「人情」「人性」という二つのリアリテイの内容と性質に対して具体的に分析しながら、「聖人の道」と関連づけてその思想的特質を究明することを行わなかったと思われる。従って、徂徠学の「道」が最適なフイクションとリアリテイとの相関性として把握できるにしでも、それは直ちに「近代性」として評価できるかどうかは問題である。

 丸山氏の徂徠研究に対して早くから安丸良夫氏や尾藤正英氏らは、徂徠における人欲や個性がそれ自体として、いわば自然権として認められたのではなく、社会有機体―封建的支配体制―にとって有用な限りだけ肯定されたにすぎない。従って、徂徠の主張は一面で人間性の解放を唱えると共に、しかしその解放の方法や方向を、全く人間性にとって外在的なものにしているという意味においでも、また依然として社会有機体の利害に順応しなければならないという意味でも人間性の制限・抑圧の論理をも強く内在させているのである。

 言い換えれば、徂徠は個性的な人間を社会の中で捉えることは、人間の存在価値を、個別的な社会的立場や職場の中に見出そうとすることで、それは朱子学のように人間を画一的な道徳規範から解放するという側面が有ると同時に、人間の価値を職分の中においてしか見ないと言う面も含む、つまり社会に対する個人の自主性を見失ってしまったのである。徂徠学における道徳的自律性や主体性を失った人間は、政治的価値の規制から遂に自由に成り得なかった。従って、朱子学などよりも一層あらわな形で封建的身分制と結合せしめられる必然性を孕んでいる、と丸山氏を厳しく批判したのである。

 一方、子安宣邦氏は、徂徠学における「公・私の分裂」から、政治と個人道徳との非連続性、そして私的内面的世界の規範の羈束からの解放という「近代性」を見る丸山氏にたいして、徂徠における「私ノ義理」といわれているのは、幕府の「公」としての法秩序のうちに、それに矛盾するように存続する、武家の習俗としての私的自力制裁を正当とする立場である。各藩領主との伝統的主従関係に立つ「私」が、幕府権力による一元的な天下支配という「公」の立場と食い違う危険を孕むと徂徠は正しく捉え、幕府に注意を喚起した。公・私の「私」とは、個人道徳の立場を指すわけではないし、まして個人の内面的生活を指しているわけではない。

 他方、丸山氏は、ヨ-ロッパ・キリスト教的世界において神が営む役割を徂徠の聖人にあてがうことによって、中世的な自然的秩序観に対立する作為的秩序観を徂徠学から読み込もうとした。だが、徂徠のいう聖人は「亦人耳」(「弁名」)のように無から創造する絶対的作為主体としての神のごときのものではない。丸山氏の聖人をそのような神に比定することからなる虚構の物語から作為的秩序思想なるものの姿が見せない。そこから絶対的支配者の作為の論理を熱烈に語る言葉しか導き出せないと子安氏が主張している。

 曾て尾藤氏も問題として取り上げたように、渡辺浩氏は、丸山氏における中国朱子学=日本朱子学=封建的思想、従って徂徠学=反朱子学=近代的思想という図式の単純明快の故に、短絡的である欠点を指摘した。「修己治人」の思想は「科挙制」という中国士大夫の生の現実的条件に基盤を持っていて、少なくとも全くの自己欺瞞ではなかった。徳川儒学史は体制の正統思想である朱子学の崩されていった過程などではなく、朱子学を一つの外来思想として日本社会と一面での親和性を下地に、他面で日本的構造との非親和性・不適合性を解消し解決すべく次々と新たな試みのなされた過程であろう。徂徠学などの古学や国学が、朱子学をどこまで内在的に批判しえたのかは、なお大いに議論の余地があろう。逆に為政者に向かっていかに民衆を抑圧し支配するかを赤裸々に学問として展開した徂徠学こそが、「反自由、反平等、そして徹底した反民主主義の悪魔のように巧妙な共存(人民と君主)構想である」と渡辺氏が激しく非難した。

 徂徠学研究史を概観してみれば、丸山氏の研究以来今日に至るまで約四十年間、徂徠学研究が日々深められてきた一方、徂徠学における思想的特質とその位置づけに対する評価は、依然「近代的」と「封建反動的」という両極端にある局面を呈していると言えよう。

 二つの徂徠学評価における二つの徂徠像は一見氷炭相容れないように見えるかもしれないが、その方法論において実は同じく一元的な「西洋近代史観」に捕らわれていると思う。すなわち西洋的近代における「個人的主体性」の成立を唯一な価値基準として、朱子学や徂徠学に当てはめ、朱子学や徂徠学における概念範疇の西洋的それとの類似性の度合いによって、その思想的意味を評価しようとしたのである。

 つまり丸山・平石両氏が「個人的主体性」という近代的要素を徂徠学において読み込んだのに対して、尾藤・渡辺諸氏が「修身斉家」と「治国平天下」とを連続的に捉える朱子学にこそ、人間的内面における「主体性」を認めたのである。が、この場合にもやはり朱子学や陽明学を理念化して、近世儒学の思想的営みの独自性をそれとして対象化する視点が充分とはいえない。

 しかし、朱子学や徂徠学は西洋と思想的交渉がない時代状況の下で、それぞれ一つの有機的思想体系を自ら構築してきた。それは西洋近代の思想的発展過程に照らして見れば、相矛盾しているようにさえ見えるところが多く存在している。例えば、科挙制度を思想の社会的背景とする朱子学における「修身斉家治国平天下」というスロ-ガンは曾て極めて現実的であった故に、中国の士大夫階層の責任意識のような内面的主体性の成長に大きな役割を果たした一方、万人に等しく内在する「理」を求めるあまり、現実の人間性を「人欲の私」として厳しく抑圧してしまう傾向も同時に内包している。

 そして徂徠学において、朱子学の「理」を否定することを通して、人間を一律な道徳的リゴリズムから解放したのは確かであるにしても、それはまず日本の社会構造が朱子学のような普遍的な「理」を受容しがたい事情を反映していることであり、いわゆる「個人における主体性」は西洋的それと歴史的背景においても、その概念の具体的内容規定においても異質であることはすでに証明されていた。朱子学や徂徠学はともに多様な思想的側面を持っており、その思想的構成のどちらかの側面に注目することによって、その思想に対する評価も大きく変わってしまう。つまり一元的な西洋近代史観をもって果たして朱子学そして徂徠学を統一的に説明できるであろうか。これまでの西洋と東洋との異質がすなわち歴史発展における優劣関係に等しいという視点が、徂徠学における朱子学批判は「近代的」でなければ、「封建反動的」であるという状況を生み出した。従って、徂徠学研究に際して、まず方法論においてこの一元的な西洋近代史観の束縛を打破しなければならない。

 しかし同時に、一元的な西洋近代史観に対する反撥として、たとえば溝口氏における中国研究のように、東洋をその西洋にたいする独自性においてのみ理解する視角も疑問である。なぜなら、ある事物を理解し把握しようとする場合、なんら客観的基準がなしに、ひたすら対象をその内在において理解するのは、はたして対象を客観的に捉えられるであろうか。そういう捉えかたはややもすれば、現状に対して無批判的に温存する体制イデオロギ-として悪用されてしまう恐れを内包していると思われる。東洋と西洋は二つの異質の思想体系として、それぞれは置かれた歴史的文脈、地理的条件の下で思想的頂点に達成して、両者において互いに相手に対する唯一な価値基準にするのは警戒すべきであろう。また同じ東洋の内部にある朱子学と徂徠学の研究についても同様であると言えよう。

 具体的に言えば、徂徠学における朱子学批判は、丸山氏がいう朱子学的中世自然法的思惟様式を解体した上での近代的思惟様式の成立であるというより、むしろ日本社会と中国社会との構造的相異により、儒学が日本において「誤読」や「誤解」という形で変質化されたというのが妥当であろう。つまり徂徠学における朱子学にたいする個人道徳と政治との非連続性は、まず身分制という社会的条件からの制約と見てよかろう。徂徠学は朱子学のような、「心即理」に見られる緊迫した主体的道徳的実践を放棄して、「天命」に随順し、「天命」という枠内において実践を行おうとしたのである。

 しかし、「天命」を自覚することは必ずしも人生を悲観視することと同一ではなく、徂徠学はまさにこの「天命」に対する認識に基づいた積極的な政治論を展開したのである。

 徂徠学における人性論及びその上で展開された徳・材という人才論は、朱子学における人性に内在する普遍的な「理」を受容しがたい日本社会に照合していることであろう。しかし徂徠学における「人性」が社会的次元において語られることは、社会の個人にたいする侵害を是認する論理でありながら、一方、分業体系である社会の中での個々人をその職業における有用性、いわば「天職」を媒介として、朱子学と違う方向から人々の主体形成をも促進したと評価できよう。

 孔子が弟子に園芸と農業技術を教授することを拒否してから、普遍的「理」にたいする追究にのみ重点を置く朱子学を経て、さらに現代中国における「紅(共産党と国家にたいする忠誠という道徳的実践)」の「専(専門的知識と技能)」にたいする絶対的優位に至るまで、中国において、一貫して人間の現実生活に即する専門的技能の養成を道徳的修養にたいして格段に軽視する傾向が内包されていると思われる。

 日本と同じく、清朝が西洋に「開国」が迫れた際にも、なぜ中国は日本のようにすぐに「富国強兵」という西洋化の道を選ばなかったのか、それもやはり西洋が確かに中国より優れた武器や技術を持っているが、しかし西洋にはそれしか持っていないと考えられて、実用的技術などのような「末技」が西洋より少々立ち遅れているが、中国には優れて道徳という世界編成の根本的原理を掌握しているので、西洋的社会政治制度の輸入には日本に比べて、はなはだ抵抗的だったのである。

 従って、徂徠は人間の能力や技術の養成についての必要性から可能性まで、及び人材の発見と使用など諸方面の問題にふれて、朱子学批判という形でその論理化と位置づけを行ったこと、つまり徂徠学におけるこうした実用的・功利的一面は日本儒学思想史の発展に大きく貢献したといってよかろう。

 また徂徠は、朱子学における「道」の背後にある、自然界から人間にまで一貫して内在する根本的原理である「「理」の絶対的妥当性を否定して、「道」の外在化を図ろうとした。もちろん、「道」という規範の外在化は人間の内面を道徳的リゴリズムから解放した同時に、人間の内面に立脚する「主体性」をも奪ったと意味していることは、すでに述べた通りである。にもかかわらず、外在化された「道」にさらに「人情」-「人性」において必然的発生する欲望・願望などを取り入れること、言い換えれば、理想的政治と現実的欲望と、それは相対立していて、道徳化された権力によって欲望を剥奪するのではなく、欲望を充分に政治に取り入れることが何を意味しているであろうか。

 つまり、朱子学では、人間の本質という部分と現実という部分とは「道心」「人心」のような二者択一の関係で、これにたいして、徂徠学において、「相親相愛」という社会性と現実の「人情」と二者択一の対立関係ではなく、同じレベルにおいて同一人格内に存在している。「道」の妥当性はこの社会性の一面に由来しているが、「人情」もこの「社会性」を損なわない限りにおいて、できるだけ「人情」を認めようとしたのである。

 徂徠は個人を社会の中においてしか見ないことは、個人解放の不徹底性であるが、しかしまた、徂徠はそれぞれの個別性や差異性が認められた個人を社会の構成分子として、個人と社会との関係づけをめぐる論理を構築しようとする所は、まさしく朱子学の欠如している所ではないであろうか。

 このように、徂徠学において西洋とも異なり、また朱子学とも異なる思想的性格が形成されていた。いわゆる「近代性」も、またいわゆる「前近代性」も、実は徂徠学の中で同時併存している状態なのである。この二つの側面のどちらかを切り落として、徂徠学を単純化するのではなく、両者を含めながら一つの思想体系としての徂徠学は、日本社会の発展にどのような役割を果たしたか、またどのような思想的限界を内包しているかについて、本論文はできるだけ具体的客観的に検討してきたつもりである。

 徂徠学における先行研究に見られるような一元的理念化された「近代観」に基づく方法論にたいして、筆者は意識的に結果論的な手法を用いて徂徠学分析に貫こうとした。つまり、現代にいわれる日本的近代化の特質、例えば、高速経済成長に大きく貢献した日本型雇用制度や自発的ではなく、外来移植的である故に、しばしば厳しい自己対決が欠く日本型民主主義などの思想的原型とか根源を、倒叙の形で徂徠学に掘り下げることをしてきたわけである。明治維新を挟んで、前近代の角度から近代の方へ眺めてみれば、恐らくいろんな思想的源泉が日本の近代という大きな川にめぐり集まってきたのであって、その際日本における未来の近代像というものにはいろんな可能性もあったのであろう。徂徠学もまたそういう思想的諸源泉の中の一つであり、その学説は日本の近代化という実践的過程において、どのように具体的に歴史に作用したのか、言い換えると、徂徠学における日本の近代化過程との関わり方、そして徂徠学のほかの同時期の諸思想との関わり方については、本論文はそれらを述べることができなかった。行文上的そして時間的な制約もあるが、それよりまず筆者自身の学力不足が主な原因であると言わなければならない。今の段階では徂徠学と日本の近代とを安易に結びついたと言われても仕方がないが、以上の未解決の問題点を今後の課題にして、引き続き徂徠学および日本思想について研究していきたいと思う。

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