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博士論文要旨

論文題目:タイにおける開発言説――「開発の時代(1958-1973年)」を中心として――
著者:河村 雅美 (KAWAMURA, Masami)
博士号取得年月日:2005年7月22日

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本論文は、タイで「開発(phatthanaパッタナー)」という言葉が政策として使用され、一イデオロギーとして流通し始めた1950年代後半から1970年代前半の時代の「開発」をめぐる言説を明らかにすることを目的としたものである。
開発研究は、途上国の開発現象を経済的・社会的側面から分析的・還元主義的にとらえる実体論的研究から、開発の持つイデオロギー性に注目する言説研究まで多岐にわたっている。しかし、既存の研究では開発という概念が個々の主体のもとでいかに解釈、受容、拒絶されたのか、その解釈がどのような歴史的・空間的背景で生まれたのかについての問いがたてられておらず、特にある一時期の開発思想の多層的な面を明らかにするような歴史的アプローチはされていない。本研究は、そのような研究の欠落を埋める試みのひとつである。ここでは、タイにおける「開発の時代」と呼ばれる1958-1973年の(1)首相サリット・タナラットの開発像、(2)サリットが重視した行政府を支えた官僚教育機関の開発思想、(3)印刷メディアに表れた開発表象を分析する。

 「第1章 先行研究と本論考における課題設定」では、開発をめぐる先行研究を実体論的アプローチと認識論的アプローチに分け、それぞれを批判的に再検討した上で、本論文の視角と方法を示した。
 本研究は開発の認識論的アプローチの流れにあるが、既存研究においては、人類学からのフィールドワークによる研究が多くなされてきた。近年は、「西欧 / 第三世界」「搾取する側 / される側」のような二分法に陥りがちであった開発の言説研究を批判し、そのような二分法を乗り越える研究もなされるようになってきている。しかし開発という概念が世界的に提唱された時期に立ち戻って、個々の主体のもとでの開発の解釈の方法や、その解釈の生成の歴史的・空間的背景について分析する歴史的なアプローチによる研究は未だされていなかった。タイを対象とした認識論的な研究は、主に1980年代以降の農村開発を対象としたフィールドワークによるもので、歴史的、かつマクロ的な視点に欠けている。また、既存の認識論的研究が陥った、開発の特質を固定化してしまうという問題を逃れておらず、歴史的にタイの開発を「国家主導の、上からの開発」と一括りに概念化している。
 本研究はこのような研究上の欠落を埋めるために、タイの「開発の時代」と呼ばれる1958年から1973年に立ち返り、個々の主体がどのように開発を考えていたのかを分析することを試みる。本稿では以下の視点を重視する。
 1点目は「開発」というものが世界的な課題とされた時代、そしてタイにおいても「開発の時代」と呼ばれた時代に、個々の主体、特にその主導者であった為政者や、実行する行為体が開発をどのように考えたのかに着目することである。これまで、一括りにされてきた「国家」が、その概念に何をたくしたのか、何を課題としたのか、そしてそれは、どのような経緯により形成されたのかを探ることにより、先行研究が陥ったような、開発の特質を固定化してしまうという本質化の問題を解決することができる。2点目は、フィールドワークではカバーすることのできない領域、例えばタイの世界システム的な位置や、開発学の展開にみられるような知の領域まで研究領域を広げることである。開発の領域が、単に国家と農村との関係だけでなく、学問の領域にも及び、それが世界的な潮流であると同時に、国内における開発政策の考え方にも反映しているというマクロな視点を重視する。3点目は、これまでこの時代を分析する上で中心となってきた首相サリット・タナラットの開発像が、どれだけ官僚や一般国民に受容されたのかに着目することである。「開発の時代」の政治体制はサリットの政治スタイルゆえに、独裁的で抑圧的であったといわれてきた。しかしサリットの開発像がどのように解釈されたのかを分析し、複数の主体によるイメージの差異を提示することにより、単に開発というイデオロギーが上から注入され、受け手がそのままそれを受容し、動員されていったわけではなかったという過程の一部を描く。
 サリットと彼の死後にそのあとを継いだタノーム・キティカチョーンの時代は、単に1973年の民主化運動前の「抑圧の時代」として扱われ、平面的な理解をされがちな時代であるが、 開発の解釈過程をたどることにより、この時代を多面的に理解することが、本稿の副次的意義でもある。
 
 「第2章 首相サリット・タナラットによる開発の語り――『開発の精神』と『秩序』の論理――」では、当時の首相サリット・タナラットによる開発像について分析した。
サリット政権はタイの「開発の時代」の始まりとされている。サリットは前政権の首相であるピブーン・ソンクラームを1957年のクーデターで追放し、前政権との断絶性を示し、政権交代の正統性を得るために、その政権交代を「革命」と呼んだ。サリットは、ピブーン時代の政権の支柱とされていた憲法や議会といった民主主義制度の機能を停止した。それを代替するものとして政策の中心としたものが、「開発(パッタナー)」であった。
 サリットの開発政策には、このような国内事情に加えて、冷戦という国際的状況が大きく影響していた。1950年代半ばに、冷戦は米ソの軍事競争から、自由主義ブロックと社会主義ブロック間における第三世界の経済成長をめぐるシステム間戦争に拡張し、タイもその舞台となっていった。米タイ関係が本格的に始まったのはピブーン時代であるが、政治経済戦争のキーとなる概念であった”Development”に本格的に対応し、関係を緊密化したのはサリットの時代であった。
 サリット政権ではピブーン時代の議会制民主主義が政治的混乱を引き起こしたと考え、行政府を強化し、首相府を中心とした開発体制を築いていった。欧米留学組のテクノクラートを積極的に起用したこともサリット体制の特徴である。
 開発政策は1961年の「国家経済開発計画」をはじめとした「計画」化が行われ、「地方開発計画」、「教育計画」などが推進されていく。また、国王や仏教という伝統的な回路を用いて国家開発を推進し、国家秩序を乱すものは「共産主義者」として排除する専制的な政治を行っていった。
 サリットの演説、スローガンという語りからサリットの抱いていた開発像を抽出すると、以下のようにまとめられる。
 (1)サリットは国民を開発の担い手とすることをイメージしており、成長の方向へ人々を駆り立てる「開発の精神」を国民に植え付けようと試みた。それは、「働くことは金、金は働くこと」といったスローガンなどからもみることができるように、「お金」、「労働」、「教育」、「節約」といった開発に関する価値や精神を喚起することであった。
 (2)また、政府に依存せず、開発に主体的に関わる自立した国民形成を目指していた。しかしそれは、サリットの重視した秩序の枠内にとどまる制限付きの自立であった。
 (3)サリットの国家像は「政府-官僚-一般国民」の上下の三層からなるものであった。為政者と一般国民を父と子になぞらえ、官僚は政府の耳・目となって働く統治スタイルを考えていた。サリットは、国民に開発の担い手となることを望んでいたが、開発は精神面も含めた上からの社会変革と考え、政治的参加は認めず、上下の三層が固定された国家を目指していた。
 (4)サリットの統治の論理は、憲法や民主主義制度よりも秩序を優先させることであった。これはピブーン政権における政争の混乱が、憲法や民主主義制度によるものであると考えていたことに起因する。秩序が確立されないことには、開発は達成されないという論理がサリットの統治の論理であった。
 サリットの開発に関する語りとその実現度をみてみると、GDP、成長率、海外からの投資額など数値的には大きな伸びを示し、インフラ整備も進んだ。しかし、開発政策は教育を受けた人材を吸収する場を提供するまでには至らず、国民が開発の果実を実感することは難しかった。そのためサリット政権後半には、開発による楽観的な幸福像のみを発信することは困難になっていった。

 「第3章 官僚教育機関における開発思想――開発学における開発像の分析――」では、サリットの開発政策で強化された、行政府を支えた官僚の教育において、どのように開発がとらえられていたのかを分析した。開発の概念は「知」の領域に配置され、開発政策を支える開発学という、体系化された学問分野が形成されていった。本稿ではこの過程を開発学化と呼んだ。
 タイにおいても開発学は主にアメリカから流入し、まず経済学が開発学化された。サリット政権前まで、経済学はタイでは共産主義の学問であるとして体制側から危険視されていたが、「開発の時代」からは欧米留学組の経済テクノクラートが重用され、国内の大学も経済学部が充実し、経済学は国家開発を支える学問となった。
 ここでは、開発学の中でもサリットの行政府を支えた学問である開発行政学に焦点を当て、官僚教育機関である大学院、国家開発行政研究所(National Institute of Development Administration=NIDA)を対象とし、官僚教育機関内で開発がどのように考えられていたのかを分析した。NIDAはタイの国家開発という特定の目的のためにアメリカの支援によって1966年に設立され、行政学部、開発経済学部、経営学部、応用統計学部という開発を目的とする学問分野を集結させ、若手官僚への教育を行った機関であった。
 NIDAの中心学部は強い行政府を支えた行政学部であり、本稿では行政学部の教員の論文、使用教科書を用いてNIDAにおける開発思想を分析した。
 当時の開発学は「アメリカの模倣」と称されることが多いが、タイが影響を受けた部分は、アメリカの近代化論の中でも構造機能主義をベースにした発展史観、特にフレッド・W・リッグスによる、伝統社会と近代社会の間の中間社会をモデル化したプリズマティック社会理論であった。
 NIDAの教員の中において開発は、以下のように考えられていた。
 (1)開発は単なる経済成長ではなく、システム、制度、価値そのものの変化であるという開発観があった。
 (2)伝統社会にみられる不合理な状態を排除し、システム全体の機能分化の結果、合理性が実現された状態が開発の達成された状態と考えられていた。ゆえに、政治的な合理性という観点から、開発は民主制をも内包したものであった。
 (3)「先進国 / 低開発国」の序列だけではなく、タイの歴史における通時的なイメージの中でも開発を認識していた。つまり先進国との比較のみで開発を語るのではなく、タイにおいて近代的制度が確立されているにも関わらず、制度が機能しない理由を、自国の歴史と理念の中に探る内向きの分析の傾向があった。
 (4)開発が西欧世界からのインパクトの一つと考えられており、その内容を全面的に受容することへの抵抗があった。
 (5)教育対象である官僚に、開発という変化をおこす「変化の担い手(change agent)」としての役割を期待していた。
このような開発観の背景には、リッグスのプリズマティック社会が穏健な社会理論であり、当時のタイ社会の分析に適当なものであると教員間に認識され、受容されていたことが挙げられる。また、軍部の政治行政への介入に不満を持つ文官にとって、各制度が本来の役割へ機能分化するという理論が受け入れやすいものであったということも、彼らの開発観の背景として推測できる。
 
 「第4章 メディアにみられる開発表象――首相サリットの開発像の解釈を中心として――」では、メディア上では、開発がどのように表象されていたかを日刊新聞「サーン・セーリー(San Seri)」「サヤーム・ニコン(Sayam Nikon)」「ピム・タイ(Phim Thai)」、週刊誌「サヤーム・ラット・サップダー・ウィチャーン(Sayam Rat Sapda Wican)」という印刷メディア(以下、メディア)から抽出した。
 「サーン・セーリー」は政府系、「サヤーム・ニコン」「ピム・タイ」は反政府系、「サヤーム・ラット・サップダー・ウィチャーン」は反政府系であるが体制維持派という、各紙のスタンスの違いはみられるが、これらのメディア上である一定の共通の開発イメージが展開されていた。ここでは主に、2章におけるサリットの語りがどのように解釈されたかを分析した。
 メディア上で、開発がどのように表象されていたかについては以下のとおりである。
 (1)サリットは一般国民に開発の担い手としての役割を求め、開発への主体的な姿勢を期待していた。しかし、メディア上では、開発に対して受動的なイメージがあったことが、「開発を受け取る」といった表現や、サリットのスローガンを用いた陳情型投書などから見ることができた。
(2)また、開発は行事やイベントのように表象されていた。道の補修、橋の修復といった地方開発の様子が、宴会つきのお上の主催する行事のように記事では記述され、官僚が民衆の作業を監督し、開発活動とされるものもサリットの意に反し、国民の主体性の下ではなく、強制的に行われているイメージが描かれていた。
 (3)サリットが植え付けようとした「開発の精神」も「節約」の価値などが理解されず、単なる倹約を強要する命令と捉えられた。開発のエートスとして理解させようとした「節約」も、むしろ外国からの援助による開発資金を享受する政府を批判する道具となってしまっていた。
 (4)サリットのスローガン、演説という語りから構築されたもの以外からも、イメージ構築がなされていた。そのひとつとして、脅威としての「外国」観がある。サリットは外資導入政策を採用していたが、経済ナショナリズムに配慮し、自身の語りではそれについて触れていない。しかし経済を華人などの外国人にコントロールされているタイにとって、外国からの消費財の大量流入といった、可視化された「外国」はさらなる脅威と感じられ、開発と「外国」は結びつけて考えられるものとなっていた。また、以前から存在した経済ナショナリズムとも結びつき、外国援助に依存する開発政策に対する否定的な開発観というものがメディア上に表れていた。
 サリットの「開発の精神」が理解されなかった原因としては、個人の経済的なエートスを国家が要求するということが、それまでの政権ではなく、ロールモデルもなかったということがある。また、サリットの語り以外から形成された、開発と「外国」への脅威の結びつきや、外国に依存する開発に対してのネガティブなイメージは、前時代からの経済ナショナリズム的な思考形式がひきずられていたことに起因するものと推測できる。 

 「5章 開発観の比較――その共通点と差異の分析――」はこの各主体の開発観の差異について、3つの軸で論じた。
 1つ目の軸は、開発の到達像についてである。サリットは秩序を、NIDAは合理的な社会の実現を開発の到達像としたが、その差は各々が持つ課題の差異に起因していた。サリットは、前時代の政治的混乱の克服を課題とし、NIDAにおいては伝統社会に残る不合理性の排除を課題として認識していた。ゆえに、それぞれの課題を開発に託したために、その到達像にも差異が生じたのではないかと考察した。しかし、メディアにおいては開発は受動的なものとして考えられており、明確な到達像というものはなく、ひとつの「現象」としてとらえられていたといえよう。
 2つ目の軸は、国家像である。国家を「政府-官僚-一般国民」という上下の層で考える点においてはサリット、NIDA、メディアとも共通している。しかしサリットが官僚を下僕と考えている一方で、NIDAではより積極的な「変化の担い手」としてとらえ、メディアにおいては開発活動の「命令者」と表象されるなど、各々の役割についての認識については差異がみられた。
 3つ目の軸は対「外国」観という軸である。サリット、NIDA、メディアとも開発を「外国」と関連づけて認識していた。サリットは受容する「外国」(=経済的なるもの)と拒絶する「外国」(=西欧的民主主義などの政治的なるもの)というような外国観があった。NIDAにおいてもアメリカからの開発に関する思想を全面的に受容するのではなく、むしろ何を受容し拒絶するかという、取捨選択の能力の必要性が主張されていた。メディアにおいては、外国資本や援助という経済的なものの表象が多くみられ、それに対しての脅威と、経済的自立を伴う開発という理想像が描かれていた。
 最後に以下のとおり本論を総括した。
 本論では、「開発の時代」と呼ばれた時代に、個々の主体が開発をどのように捉えていたかに着目したが、一時代における複数の層の開発観を分析することにより、国家と括られる為政者と官僚においても開発観は同一のものではなく、それぞれが持つ歴史的な課題などを背景に形成されたものであったことを示すことができた。
 また、官僚教育機関の開発思想を分析することにより、世界システムにおけるタイの位置や、開発学という知の領域というような、これまでフィールドワークによる研究ではカバーできなかった領域に踏み込み、開発学がローカライズされ、展開されていく過程を描き、タイの開発への関わり方に関しての理解を深めることができたといえよう。
 さらにサリットの開発像というものが一般国民にどのように受容されていったのかについても、官僚教育の内容やメディアの中から見る限り、サリットの意図のとおり受けとられ、動員されたわけではなかったことが明らかになった。また、サリットの語り以外からも開発像は形成されており、経済ナショナリズムに起因した外国観をもとに、経済的に外国に依存しないという理想の開発像は、後の民主化運動への発端となった「日本商品不買運動」への萌芽などにつながったことを検証できる可能性がある。
 これらにより、既存研究で語られてきた「開発の時代」像の多面的理解をも促すことができたといえよう。サリット体制を分析したタック・チャルームティアロンのサリット像によれば、サリットは国民を「子」と考えていたという。しかし本研究により、サリットは政府に依存しない「開発の精神」を持ち得た国民を強く望んでいたことが明らかになった。これは2章で言及したとおり、「ネガティブ・ナショナリズム」を根底においたものである。それは植民地状況を経験してきた他の途上国の指導者も共通して持っていた国民像であった。植民地状況を経ていないタイの為政者であるサリットが、このようなコロニアリズムの言説である国民 =「問題だらけの他者」という視線を持ち、その後、どのように自己像および開発像を生成していったのか、またそれは他の植民地時代を経た途上国と、どのような違いがあったのかという課題は、タックのサリット像による観点からは生じることがないものである。本稿ではこのような、他の地域との比較につながる視点を提示することができた。

 以上のように、本稿ではこれまでなされてこなかった「開発の時代」という、開発というイデオロギーが称揚され、具体的な政策が開始された重要な時代にたちかえり、歴史的かつマクロなアプローチを行った。本稿で行った分析をさらに展開させ、「開発の時代」以降の開発観の変遷をたどることが、市民社会の成立、消費社会の深化など、タイ現代史ならびにアジア現代史を展望する大きな課題にせまる糸口につながることとなるだろう。

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