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博士論文要旨

論文題目:体験学習活動による生涯学習の基盤形成―生徒の意識変容のプロセス―
著者:杜 念慈 (TU, Nien Tzu)
博士号取得年月日:2005年7月22日

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本論文における筆者の問題関心は、台湾の中学校での一年半にわたる数学教師の経験から発している。台湾においても日本と同様に中学生の学力低下が大きな問題として認識されている。それに加えて、中学生の多様な逸脱行動が日常化しているということ、学習の必要性を感じない生徒が増えていることも大きな問題である。筆者の個人指導の経験から、学習意欲をなくした中学生に対してより早期に適切な指導を行うことが必要であること、特に学習の必要性と職業の多様性を自覚させる必要があることを痛感するようになった。そのために、学校教育を通じて積み重ねられた学習に対するマイナスイメージを転換し、学習を将来の希望につながるものとして認識させること、つまり、学習に対して肯定的なイメージを形成し、それを生涯にわたる学習につなげていくことが重要なのではないかと考えるようになった。自分が何のために学校で勉強しているのか、何について勉強したいのかをはっきりと自覚することが、学習意欲の向上につながるのではないか。それは学校教育においてのみならず、社会に出てからも学習意欲を持ちつづけ、生涯にわたって学習を続けることにつながるのではないだろうか。学校教育は、生涯学習の観点を取り入れたうえで、生徒の学習意欲を阻害する要因を取り除き、学習に対して肯定的なイメージが形成されるような取り組みをしなければならない。
こうした取り組みの一つとして、本論文では中学校における体験学習活動に注目する。中学校教育は義務教育の最終段階であり、人生の最初の進路選択を控えている。将来の自分を思い描きながら、目標のために何をすべきかを考え始める時期である。しかし学校の学習には実社会の現実感が希薄であり、中学校段階における進路選択は、学力に応じた配分に偏りがちである。こうした重要な時期に、将来の目標の自覚につながるような指導の取り組みとして体験学習活動を実施することには、大きな意味がある。体験学習活動への参加を通して学校以外の実社会を知り、生徒は大きな刺激を受けるだろう。視野が広がり、ものの見方、考えも変化するだろう。とりわけ、社会で働くことを体験することは、生徒の進路選択に大きな影響を与えうる。このことは、学校での学習の意味を考え直すことにもつながるだろう。
本論文は、上述のような問題関心にしたがって、中学校における体験学習活動が生徒の学習意欲の向上にどのような影響を与えうるのかを解明することを主題とするものである。本論文で検証すべき仮説は、体験学習活動を通じた生徒の意識変容が、学習に対する見方を肯定的なものにするのではないか、それが生涯学習につながるのではないか、というものである。学習意欲の維持につながるような、学習に対する肯定的なイメージの形成は、すなわち生涯学習の基盤が形成されるということである。本論文では、体験学習活動がこうした生涯学習の基盤形成にとっていかなる有効性を持ちうるのかを明らかにした。
序章では、三段階にわけて先行研究の批判的検討を行った。第一に生涯学習政策・生涯学習論における学校教育について主要な議論を整理した。取り上げたいくつかの研究が示すように、生涯学習は学校教育の段階ですでに諸問題をかかえている。支援者である大人の生涯学習に関する認識や意識に注目するだけでは、こうした問題には対処できない。多くの研究において様々な提言がなされてきたが、それらが実際にどのような効果を持つものなのかを検証するまでには至っていない。また、従来の研究では、生徒が生涯学習をどのように受け止めているのか、実際の生徒の意識とその変容の可能性が明示されてきたとはいえない。すなわち、生涯学習にとっての学校教育の重要性が繰り返し主張され、そのための多様な方法が提言されてはきたものの、学校教育におけるどのような取り組みが生涯学習にとってどのような意味をもつのかという点については、実証的な研究がいまだ不足しているといえる。これに対して本論文では、中学校における体験学習活動が生徒の学習意欲の向上に結びつき、それが生涯学習者の育成につながるという仮説の検証を試みた。
第二に、体験学習活動に関する先行研究について検討した。まとめれば、体験学習活動に関する従来の研究の多くにおいて、特に学校外での体験学習活動の成果が高く評価されてきた。しかしながら、その成果を通常の学校教育における指導につなげることについては、いまだ十分な検討がおこなわれていない。また、体験学習活動において実際に生徒にいかなる変容が生じているのか、それはどのような意味をもつのかを深く考察した研究も少ない。これらをふまえ、本論文では、学校外でおこなわれる体験学習活動を分析の対象とし、体験学習活動の成果として生徒に生じる変化とはいかなるものか、それは普段の学校生活にどのような影響を及ぼしうるのかを明らかにした。
具体的には、兵庫県で全県的に実施されている体験学習活動「地域に学ぶ トライやる・ウィーク」(以下、「トライやる・ウィーク」)を分析の対象とする。「トライやる・ウィーク」の特徴は以下の五点にまとめられる。第一に、従来実施されてきた体験学習活動に比べて、活動期間が5日間(月曜~金曜)と長期であることである。生徒は毎日家から直接体験先に行き、指導ボランティアと一緒に体験を行う。第二に、主として地域の事業所で実施されることにより、地域の支援ネットワークの連携、融合および協力のあり方が模索されつつあることである。第三に、この事業は1995年に起こった阪神大震災と1997年の児童殺害事件への緊急の対応として全県一斉に実施されており、実施の安定性があることである。第四に、1998年から毎年実施されていることから、学校や地域の事業所といった関係者のなかでの試行錯誤の結果を現在の実践から読み取ることができること、事業実施の経過と変遷を追うことが可能であることである。第五に、1999年にOECDによる調査(OECD/CERI「生涯学習に対する生徒のモチベーションを促す教育方法」)の対象となっており、すでに生涯学習の観点からも高い評価を得ていることである。
「トライやる・ウィーク」は、中学校の革新的試みの一例として、すべてを模索しながらゼロからスタートしたが、試行錯誤を重ねて7年目に突入した。文部科学省は、中学2年生を対象にした「トライやる・ウィーク」形式の体験学習活動を2005年4月から全国で展開する方針を発表している。とはいえ、「トライやる・ウィーク」の歴史はまだ浅く、活動の全貌は一般的にはあまり認知されていない。また、教師などの関係者による実践報告は多くあるものの、研究者による学術的な分析はいまだ多くはない。
「トライやる・ウィーク」における生徒の意識変容に関する研究は、主に兵庫県立教育研修所内「心の教育総合センター」の研究紀要において取り組まれてきた。ここで蓄積されてきた研究は、その多くが「生徒の意識変容」を解明しようとするものであるが、そのための方法はいまだ確立されていない。ここでの研究は、「トライやる・ウィーク」に先だって、継続的な心理学的・数量的な効果の測定を行い、同事業の在り方を検討する材料となることを目指して、検証を試みるものが多い。また、これらの研究における共通点は、「トライやる・ウィーク」のねらいの曖昧さである。複数のねらいを追究した結果、根本的な問題の存在を見失ってしまったと言える。「トライやる・ウィーク」の最大のねらいは、職業への理解を媒介に生徒が学習の意味を理解することであり、このねらいに焦点をあわせることによって「トライやる・ウィーク」をより一層有意義なものにすることができるのではないだろうか。本論文は、これらの研究成果を受け止め、残された課題を、質的調査方法を用いて検討した。
生徒の自己意識や意識変容に関するこれまでの研究状況をみると、その研究の歴史は心理学を中心としたものである。心理学における研究は、生徒の自己意識に対するさまざまな関連要因を検討するものが多いが、研究方法としては大部分が質問票による調査であり、その統計の分析を通して一定の事実を明らかにするというものであった。しかしながら、質問票調査は、量による統計的処理という点では優れた研究ではあるが、生徒の意識変容をとらえようとした場合には、限界がある。つまり、生徒の意識変容に関する生徒の心理や思いや思考のプロセスは、量的研究法によっては把握しにくいのである。なぜなら、活動のねらいが多様であるなかでは生徒の意識変容に関わる要因がつかみにくく、また生徒の変容過程は長期間を経ないと検証することが困難であるからである。生徒の意識変容をより詳しく把握するためには、こうした質問票調査の統計的研究方法の限界を若干なりとも補う研究方法が必要である。本論文においては、生徒の意識変容をとらえるために複数の調査データを組み合わせて分析し、こうした限界を補うこととした。
第1章では、兵庫県において体験学習活動「トライやる・ウィーク」が提唱、導入された背景を明らかにしたうえで、国の教育政策がどのように体験学習活動に注目してきたかを整理し、教育政策における体験学習活動の意義と目的を明らかにした。
兵庫県においては、1995年に発生した阪神・淡路大震災が、県の教育改革にとって極めて重要な転機となった。震災後の教育復興に取り組む中で、1996年に県立高等学校での生徒の自殺や凶悪事件が発生したことは、「『生きる力』をはぐくむ兵庫の教育」という取り組みが始まる契機となった。県教委は体験学習活動の実施に熱を入れ、県の教育改革には拍車がかかった。しかし、1997年にはさらに衝撃的な少年事件が起こる。県教育委員会は、1997年8月に「心の教育緊急会議」を設置し、ここでの提言を受けて、小学校においては従来からの「自然学校」、中学校においては新たに1998年から「トライやる・ウィーク」を実施することで、体験的学習活動の系統的な取り組みが展開されることとなった。ただし、「トライやる・ウィーク」の導入の背景には、1987年からつづく「こころ豊かな人づくり」県民運動があったことも看過できない。
このように、「トライやる・ウィーク」事業は、さしせまった県レベルの課題をクリアするために始められたものであり、県の教育改革として始められたものであった。こうした事業は、必ずしも国の教育改革に主導されるものではなく、むしろ国の改革を主導する場合もある。「トライやる・ウィーク」の成果は、国の教育政策に大きな影響を及ぼした。中教審答申に初めて体験学習活動に関わる提言が登場したのは1996年であったが、その後「心の教育」の提唱から「奉仕活動・体験活動」に至る教育改革の提言において、体験学習活動は様々なかたちで言及されてきた。とりわけ2000年12月に「教育改革国民会議」の「提案」が公表されてから2003年10月までの間に、文部科学省、中教審、調査研究協力会議等の公文書において、「トライやる・ウィーク」は体験学習学活動の事例として頻繁に取り上げられた。この過程で「トライやる・ウィーク」への注目の射程は確実に拡大していき、奉仕活動、学校週5日制、総合的な学習の時間、不登校問題、キャリア教育をなどをも視野に入れるものとなった。
「トライやる・ウィーク」は、もはや学校教育の枠内でのみ捉えることはできず、学校・家庭・地域が一体となって取り組まれる複合的な教育活動として認識されるようになっている。「トライやる・ウィーク」の全体像を把握しようとすることは、学校教育概念そのものの問い直しをせまることであるといえる。
第2章では、本論文の分析対象である「トライやる・ウィーク」事業の概要を説明した。行政による体験学習活動のガイドライン、学校の準備態勢、家庭の保護者と地域の支援者との参加・支援過程、および生徒からみた活動の流れを明らかにした。
各側面から実施過程をみると、学校、地域、家庭の連携が実際にはかなり難しいことがわかった。特に地域と家庭との意見交換の機会はほとんど見られない。学校は、保護者や地域との連携をとりつつ、子どもの参加過程にも目を配らなければならない。地域の支援者は、学校との連携のあり方を模索しているが、話し合いの機会が足りない。保護者は、学校からの通知を待つだけになりがちで、なかなか積極的に関わる機会がなく、活動の実態が把握できる保護者は、PTAの活動に積極的に参加しているか、受け入れ先になっている場合などに限られる。ここから、「トライやる・ウィーク」実施にあたって支援ネットワークの形成が重要なポイントとなるであろうことが示された。目的達成のためには、実施環境の整備だけでなく、人的な支援の連携が求められる。
さらに、「トライやる・ウィーク」の実施状況を、1998年から2003年までの統計データからまとめた。活動内容についてのデータからは、分野別に職場体験活動の参加者比率が違うこと、内容別には、毎年人気がある販売、幼児教育、役所・消防署が比率としてはあまり激しい変動をしていないことが読み取れた。一方、生徒の希望達成度のデータ結果からは、2002年度以降、第1希望が叶えられた生徒の比率が明らかに下がっていることがわかったが、2003年度にはやや上昇が見られた。さらに、「トライやる・ウィーク」は生徒に対してかなり魅力的な存在であることがうかがえた。
また、各関係者が「トライやる・ウィーク」の成果と課題をどのように捉えているのかについても詳しく検討した。行政側は課題として、生徒のニーズに応える活動場所の確保と、「トライやる・ウィーク」の日常化に向けた取り組みが求められることの二点を示している。しかし、これらの課題は、必ずしも今後の展開とむすびつけて深められているとはいえず、むしろ「トライやる・ウィーク」を他の事業と結びつけることが志向されているといえる。学校側の見解を示すものとしてよく見られるのは、校長や教頭らによる実践報告書であった。成果と課題に関しては、学校側の見解と教師の見解とでは若干の相違がみられた。校長や教頭の視点は、「トライやる・ウィーク」を日常生活に生かすことに置かれている。勿論、教師の役割の重視、親子の絆または生徒の気付きにもふれているが、より注目されたのは、「トライやる・ウィーク」の地域への貢献の多様性と他の事業とのつながりであった。教師の見解は、生徒に対してどのような影響が与えられるかを考えるものが多いが、高校教師の場合、やはり主要な関心は高校の進路指導との関連に傾いている。保護者の声は、これまであまり取り上げられることがなく、あったとしても初年度に子どもの勉強はどうなっているのかを気にする声などであったが、自分の子どもがこの一週間でわずかでも変わったことに気付いた親は少なくなかった。「トライやる・ウィーク」を通じた子どもの変化を見ることによって、親が地域の一員として積極的な支援者となっていくことも期待される。こうした関係者らの思いを、よりよい支援ネットワークの形成につなげるような仕組みをつくることが求められる。
第3章では、体験学習活動を通して生徒が得た学習経験を概念化し、それに基づいて生徒の意識変容をとらえることを試みた。第1節では、第1章で確認した体験学習活動の目的と意義をふまえた上で、兵庫県神戸市立長田中学校の「トライやる・ウィーク」の事例から、体験学習活動の実施過程を詳細に描いた。第2節では実施過程の各段階で行った実態調査の結果を、第3節では体験の一年後におこなった追跡調査の結果をまとめ、第4節では、それらのデータをもとに体験過程における生徒の意識変容の過程とその構造をさぐることを試みた。
「トライやる・ウィーク」の前身は、長田中学校において1997年に実施された「3DAY-CHALLENGE(就労体験学習)」であった。「3DAY-CHALLENGE(就労体験学習)」の枠組みに基づいて立ち上げられた「トライやる・ウィーク」は、1998年6月に県内の数地区のモデル校において先行実施された。そして、同年11月にはほぼ全県の中学校で実施された。筆者は2002年度に神戸市立長田中学校7回生(女子生徒59名、男子生徒45名)を対象とした調査をおこない、調査資料データをもとに、「トライやる・ウィーク」の実施のプロセスを明らかにした。
本調査は、「トライやる・ウィーク」を通じた生徒の学校観の変容を見ることを目的として構成したが、生徒の意識には様々な変容が生じていることがわかった。生徒の多様な意識変容は、「職業観」「学校観」「自己認識」「学習観」の4つに類別できる。これらはそれぞれが体験を通じて得られた変容であるが、個別の事例をみてみると、ある変容が別の変容を導いている場合がある。そうした意識変容のつながりを5つのパターンにわけて図式化した。すなわち、①職業観の変容→学習観の変容、②職業観の変容→学校観の変容、③職業観の変容→自己認識の変容、④自己認識の変容→職業観の変容、⑤自己認識の変容→学習観の変容、の5パターンである。これを、体験学習を通じて得られた生徒の意識変容の構造としてとらえた。
第4章では、これらの変容のパターンをふまえて、生徒の意識変容による生涯学習の基盤形成の促進が行われる可能性について検討した。
第1節では、第3章で明らかになった意識変容の連鎖の構造を分析するために、成人学習における意識変容のプロセスを理論化したパトリシア・クラントン(Patricia A. Cranton)クラントンの枠組みを一部アレンジして援用した。彼女の「意識変容の学習」理論は、従来の学習のように知識や技能の獲得を第一義とするのではなく、新たに獲得した知識や技能によってそれまでの経験やそれに基づく「パースペクティブ(perspective)」を支えている「前提(assumption)」を問い直す学習のプロセスを説明するものである。学習者がもともと持っている「前提」が周囲の人や出来事、社会的背景の変化などの「刺激」を受けて問い直され、「前提」を吟味するなかでもともとの「前提」が妥当であったかどうかが判断される。その結果、もともと自分が持っていた「前提」が正しかったという結論になれば、「前提」は再び安定するが、妥当でないと考えられた場合、「前提」は変更される。クラントンは、成人学習においてこうした一連のプロセスが循環していくモデルを提示しているが、本論文ではこのモデルを援用し、生徒が体験学習活動において受ける様々な「刺激」が、生徒の意識変容へとつながっていくプロセスを描いた。ただし、この理論は成人学習のためにつくられたものであることに留意し、これを子どもの意識変容に適用するにあたってはいくつかの点でアレンジが必要である。子どもは「前提」の安定した学習者ではないこと、内面化に時間がかかることに留意して、クラントン理論の適用可能性、適用範囲についても論文中で吟味した。
クラントンの理論に即して解釈すると、生徒の意識変容の過程は「前提」「刺激」「ふり返り」「前提の再形成」の循環としてとらえることができる。第3章で確認した職業観の変容、学校観の変容、自己認識の変容のそれぞれにこれを適用することができるが、学習観の変容についてはクラントン理論を若干アレンジする必要がある。すなわち、学習観が「ふり返り」の対象とならない成人とは異なり、子どもの場合は学習に対する「前提」が「刺激」「ふり返り」を経て「形成」される。クラントンのモデルが適用できるのはここまでであり、ここから先には適用されない。その代わりに、学習観の維持のための周囲の大人からの働きかけが考慮されなければならない。特に、生徒の学習観の形成・維持には、ポートフォリオ学習を通じた教師の事後指導が非常に重要である。
意識変容の過程において、「ふり返り」はつねに「経験」あるいは「刺激」とともにもたらされる。それは外的経験かもしれないし、内的経験かもしれない。この「経験」「刺激」が、意識変容の連鎖の鍵となる。第3章で確認した生徒の意識変容の連鎖の構造は、意識変容の連鎖が学習観の「形成」に収斂するようになっている。学習観の「形成」はすなわち「生涯学習の基盤形成」である。しかしながら原理的には、学習観も他の意識変容と同様に、何らかの「刺激」を受けることによって「ふり返り」が生じ揺らぎが生じる可能性を常にはらんでいる。確立された学習観に揺らぎが生じれば、せっかく形成されつつあった「生涯学習の基盤」が揺らぐこととなる。それを回避するためには、「形成」された学習観が維持されるような周囲からの働きかけが必要である。こうした働きかけがあってはじめて、体験学習活動における生徒の意識変容が生涯学習の基盤形成につながりうるのである。
第2節では、生涯学習の基盤形成が求められる背景を読み解き、体験学習活動の有効性について考察した。生涯学習の基盤形成が現代社会の緊急の課題であることを、90年代後半以降のOECDの取り組みと、2000年にOECDが提出した報告書「教育改革の効果―生徒の生涯学習への動機づけ」に基づき指摘した。
OECDは急速に変化する産業社会の要求に対応し経済発展をはかることを第一の課題として、主として成人教育の分野で職業技能教育に関する提言をおこなってきたが、90年代後半以降は中等教育段階の生徒の「生涯学習への動機づけ」を向上させる取り組みについても調査をおこなっている。言うまでもなく、OECD本来の生涯学習に対する志向性は本論文の課題とは異なるが、「生涯学習への動機づけ」にむけた取り組みに限定するならば、本論文における「生涯学習の基盤形成」と概ね一致しているといってよい。本論文の分析対象である兵庫県の「トライやる・ウィーク」も、OECDの調査対象の一つであり、学校外での体験活動学習の経験が生徒たちの学習意欲を高め、生徒を生涯学習へと動機づけるというOECDの主張は、「トライやる・ウィーク」に代表される中学校段階での体験学習活動の調査から導かれたものであった。OECDはこの主張を検証してはいないが、本論文でおこなった分析は、OECDが検証しなかった生徒の意識変容の過程を明らかにし、体験学習活動がもたらした意識変容が生涯学習の基盤形成につながりうることを示すものであった。
学校教育を生涯学習の過程に位置づけることの重要性は、生涯教育論・生涯学習論においては何度も指摘されてきた。本論文では、生涯学習の基盤形成にとっての体験学習活動の有効性について検証したが、現状においては体験学習活動とそれへの支援体制は万全ではなく、さらなる支援ネットワークの充実が求められる。それによって、子どもたちの生涯学習の基盤形成の促進のみならず、学校・家庭・地域社会の三者を生涯学習のネットワークに含みこむ効果も期待される。つまり、子どもを生涯学習者に育てるための取り組みが、同時に大人の生涯学習の実践にもなりうるのである。こうしたことをふまえて、第3節では、生涯学習の基盤形成を促進するための支援のありかたとその課題について検討し、若干の提言を試みた。
体験学習活動の支援ネットワークの構成員は、学校・地域(事業所)・家庭に行政を加えた四者である。これら四者によるワークチームが、すなわち生徒を取り巻く支援ネットワークであり、体験学習活動はこのネットワークのなかですすめられる。支援体制の現状からみると、家庭と学校、家庭と事業所の連携が弱いことと、行政の関わり方に偏りがみられることが課題として指摘される。また、行政から学校へのトップダウンは導入当初に比べれば弱まっているといえようが、行政による枠づけが強固なものである場合には、生徒一人ひとりにあわせた柔軟な対応が取りづらくなることも考えられ、行政との関わりのあり方も再考されるべきであると思われる。
これらをふまえ、目指すべき支援ネットワークのありかたとして、学校・事業所・家庭の強固な連携と、その連携に対して行政が緩やかに関わるモデルを提示した。こうした支援ネットワークが形成されれば、生徒の体験学習活動はより充実したものとなり、生涯学習の基盤形成が促進されることとなるだろう。また、体験学習活動に関わるなかで、教師、事業所の指導ボランティア、保護者がそれぞれに学習をしていることも本論文において明らかになった。こうした大人の学習が、支援ネットワークのありかたをよりよいものにしていく原動力となると思われる。支援ネットワークの形成は、生徒の支援のみならず、これに関わる大人の学びを促進する効果もある。体験学習活動をめぐる支援ネットワークの形成によって、地域社会が子どもから大人までを含みこんだ生涯学習社会となっていくことが期待されるのである。
上述のような分析から得られた本論文の成果の第一は、生涯学習と学校教育の関わりのありかたへの示唆である。学校教育を生涯学習の過程に位置づけることの重要性は、生涯教育論・生涯学習論においては何度も指摘されてきたが、学校教育におけるどのような取り組みが生涯学習にとってどのような意味をもつのかという点については、実証的な研究は十分ではなかった。本論文では、学習に対する肯定的なイメージの形成を「生涯学習の基盤形成」ととらえ、中学校における体験学習活動が生涯学習の基盤形成をもたらす可能性を検証することを試みた。分析の結果として、体験学習活動が生徒の意識変容をもたらしうること、それが学習に対する肯定的なイメージを形成することにつながることを示した。これによって、体験学習活動による生涯学習の基盤形成の可能性が示された。
第二に、体験学習活動の目的と意義を明示したことである。体験学習活動の実践例として兵庫県の「トライやる・ウィーク」を取り上げ、地方の教育政策と国レベルの教育政策との影響関係の一つの側面を示すとともに、「トライやる・ウィーク」をめぐる議論から、学校教育概念そのものの問い直しの必要性が導き出された。また、「トライやる・ウィーク」の実施状況の全体像を描き出したことにより、体験学習活動において支援ネットワークの形成が非常に大きな意味を持っていることが示された。
第三に、生徒の意識変容のプロセスを、学習観の形成にむけての意識変容の連鎖構造としてモデル化したことである。成人学習における意識変容プロセスを説明するクラントンの理論を、子どもの学習観の形成をめぐる特性に留意してアレンジしたことと、調査データに基づいてパターン化された意識変容の連鎖の構造をクラントン理論の援用によって示したことによって、第4章の図4-1に示したようなモデルが構築された。
第四に、体験学習活動をめぐる支援ネットワークの形成によって、地域社会が子どもから大人までを含みこんだ生涯学習社会となっていく可能性を示したことである。体験学習活動は、生徒の日常生活の空間外にある特定の地域施設での活動や、学校内での限られた活動になりがちである。本論文では、地域社会における体験学習活動に注目して、生徒が地域住民とともに労働と生活をめぐる共通体験をもつことの意味を吟味したが、これによって、生徒を中心に展開される体験学習活動が地域社会の連帯を生みだし、関係する大人の学びの契機にもなることが示された。体験学習活動を契機として、地域社会はまさしく生涯学習社会となりうるのである。

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