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博士論文要旨

論文題目:フッサールの時間意識の現象学――単線的時間経過からの脱却
著者:村田 憲郎 (MURATA, Norio)
博士号取得年月日:2005年7月22日

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 わたしたちの生きられた経験は、均質的で物理学的に計測可能な客観的・単線的時間によってではなく、感性的な意味の濃淡によって陰影づけられた時間性によって構成されている。本論文はこのことを、フッサールの時間意識の現象学の展開をあとづけながら示したものである。
 フッサールの現象学は、一方で単なる事実の集積に終始する事実学と、他方で精密な数学的合理性に基礎づけられている客観主義的科学とが、私たちが生活を営む場である「生活世界」から乖離してしまっているという問題を「危機」として捉え、この危機を克服すべく、具体的に生きられた世界としての「生活世界」における直観へと立ち返って、直観に与えられる「事象そのもの」から学問一般を基礎づけなおしていこうとする試みであった。本論は学問一般を基礎づけようとする野心はもっていないにしても、事実学と客観主義的科学とが共通に依拠している対象の自己同一性を、さらに深層で構成している現象学的な時間性へと立ち返り、それを差異の場として捉えなおすことによって、フッサールの「超越論的経験への回帰」という志向を徹底化するものである。
 その後の現象学の発展史的背景からすれば、こうした生きられた経験への回帰という方向性は、メルロ=ポンティへと受け継がれ、生きられた知覚経験において意味が発生してくるさまが大いに探求されたのだが、その後デリダによって、フッサールの現象学がそうした志向をもっているにもかかわらず、依然として現在点の自己同一性から出発する単線的時間経過に依拠してしまっており、旧来の形而上学的な時間性から脱却しきれていないという批判がなされた。そこで本論では、フッサールが内的時間意識の現象学において見出した現象学的な時間性を、デリダの差異の思想を読み込むような形で再構成しながら、それと平行して時間の単線的な捉え方を批判的に取り除いていく作業を行うことによって、間接的にデリダの批判に対するフッサールの応答ともなるようなフッサール像を打ち出した(参考論文『原エクリチュールと連合の現象学』参照)。
 フッサールの時間意識の現象学は、三つの時期に集中して取り組まれている。初期(1901-1911年)は『論理学研究』(1900/1901年)からおよそ『イデーンI』(1913年)までの過渡期にあたり、この時期に『内的時間意識の現象学講義』(1928年出版)のもととなった草稿が書かれた。中期(1916/1917年)は未刊の『イデーンII』に見られるような、自然事物・身体・精神的人格といった具体的な領域的問題にフッサールが取り組んでいた時期にあたり、静態的現象学から発生的現象学への過渡期にあたる。後期(1929-1934年)は、『デカルト的省察』が実際に執筆されていた時期の前後にあたり、自我の問題が焦点となっている。そこでこの三つの時期に対応して、本論は三部構成となっている。


1. 第一部 初期時間論

 初期時間論は、ブレンターノ(Franz Brentano, 1838-1917)、マイノンク(Alexius Meinong, 1853-1920)といった、フッサールの周辺の哲学者との対決から始まる。
 第一章では、フッサールの『論理学研究』におけるブレンターノの判断論の批判を見たあと、時間論の文脈でのフッサールのブレンターノ批判が、判断論における批判と同型的であることを示している。ブレンターノは、文法上の名辞に対応する「表象」があらゆる志向的体験の基礎となっており、その表象に対して態度決定することによって判断や価値判断が生じるとする判断論を構想したが、フッサールは基礎にある「表象」がすでに主観の態度決定を含んでおり、それゆえ同じ名辞が態度決定に応じて異なる志向的作用の相関者となりうると批判した。これと同じく、時間論においても、「いまの音」「たったいまの音」といった時間的変様について、ブレンターノはこれを内容的な変化と見なしたが、フッサールはこれを批判して、同じ音の内容に対して「いまの」「たったいまの」という変化は「統握(Auffassung)」という作用の性格の変化だとする「統握-内容」図式を採用した。そこから、内容的なものと、統握されたものとしての対象的なものとの区別が、時間化される以前のものと時間化されたものとの区別として立てられることになる。とはいえ、時間化される以前のものもまたそれ自身客観的時間ではないようなある種の時間性のうちにあるのだから、こうした内面的な時間性としての現象学的時間の解明が、客観的時間とは区別されるものとして要請されることになる
 第二章では、この現象学的時間性の特徴づけが、マイノンクとの対決を通じて明確化される。マイノンクもまた、フッサールの客観的時間と現象学的時間との区別と同様に、「対象時間」と「表象時間」とを区別している。そこでマイノンクは、「メロディー」や「物体の運動」などの時間的経過をもつような対象が構成されるためには、その運動が知覚されている時点のうちに、それまでの経過の諸表象が集約されて存立していなければならないと考えた。こうしたマイノンクの捉え方に批判的考察を加えながら、フッサールもまた、瞬間的位相のうちにそれまでの経過が「把持(Retention)」の働きによって連続体として成立しており、それゆえ知覚経過とは、それ自身が連続体でありながら、その連続体のどの瞬間的位相においてもそれまでの連続体全体が成立しているような「連続体の連続体」あるいは「二重の連続体」であると考えるようになった。こうして現象学的時間は、瞬間のうちにすでに厚みが存するような「相互嵌入(Ineinander)」としての時間性として性格づけられるのである。
 第三章では、このように性格づけられる現象学的時間に対して、客観的時間の単線的性格が明確化される。客観的時間の特徴をなすのは、各時間点がその不動の自己同一性において成立しているということであり、そうした自己同一的な各瞬間が相互に外的に系列をなしているのが客観的時間である。そこにおいては、「あのとき」「そのとき」といった時間位置は、時間が刻一刻と経過していくにもかかわらず不動の同一性を保っている。こうした時間位置は、現象学的時間においてあらかじめ成立している感性的な内容の統一を、反省的な統握作用によって「このもの」として客観化することによって成立する。つまり、能動的・反省的な統握作用が内容を取り上げなおし、志向的に対象化することによって、はじめて客観的時間性の特徴をなす時間位置の自己同一性が成立するのである。しかし他方フッサール自身、端的な現在点の同一性があらかじめ成立しており、そうした瞬間的な刻印の連続としての単線的時間を究極的に前提しているふしもある。そこで、時間位置賦与に関するこの「いまの刻印理論」とでも呼ぶべき先入観から、現象学的時間を純化することが、本論の具体的な課題となるのである。
 第四章では、初期時間論の最後期の構えが体系的に叙述されている。まず、第三章で明確化された客観的時間と、第一章・第二章で明確化された現象学的時間における感性的統一とが区別され、さらにそうした感性的統一を成立させる場としての、「絶対的意識流」が根底にあるという意識の三層構造が提示される。この「絶対的意識流」においては、把持が、一方で現象学的時間を絶えず流れさせつつ時間地平を形成する「縦の志向性」として、他方ではその流れにおいてとどまっている統一を形成する「横の志向性」として、二重に機能している。そしてこの把持のずれによって、絶対的意識流は、それ自身絶えず流れつつ、その流れることにおいて流れとして自己現出することにおいて、「構成するものと構成されるものとの合致」を成立させ、自己意識となるのである。


2. 第二部 中期時間論

 中期時間論は、1916/17年に集中的に執筆されたいわゆる『ベルナウ草稿』として近年刊行された。この時期は静態的現象学から発生的現象学への過渡期にあたるので、第二部はこの移行を大まかになぞるような構成となっている。
 まず第一章では、初期時間論において第三層として位置づけられた「絶対的意識流」について、その流れそのものをそれ自身としては名指しえないとフッサールが述べていることを取り上げ、この名指しえなさを限定不可能性、同定不可能性、反省不可能性といった諸性格に分析した上で、そうした問題が生じないようにいったん「絶対的意識流」の超越論的性格を解除し、『イデーンII』を参照しながら客観的世界の中で意識を、自然事物と対立する「心」として取り扱った。そこで明らかになるのは、心が自然事物と異なり、周囲の状況に依存するのではなく、自分自身の過去に依存する実在であるということであり、それゆえ心とは歴史的な実在であり、心にとって過去は本質的な構成要素であるということである。そこで、フッサールにおける準現在化としての再想起の理論を概観した。
 第二章では、この心と、精神的な人格との相違および共通点が明確化される。心とは自然主義的態度における理論的な考察の相関者であるが、人格は、そうした理論的態度以前に私たちが生きている世界における人格主義的態度の相関者であり、そこでは世界は私にとって価値あるものがそこに存立する環境世界として広がっている。またこうした人格は、間主観的に社会を形成すること、理性にしたがって自由に行為することができることといった点で、心と区別される。ここで、理性的な判断をくだし自由に行為することとの対比において、衝動的あるいは習慣的に行動してしまうことが明確化されることになり、こうしてフッサールは、受動的な層と能動的な層とを区別するにいたるのである。しかし他方で、精神的人格は自然的事物との対比において依然として心であり、過去を本質的な構成要素としてもつ実在である。それゆえこの人格の分析においては、過去に対する依存関係、しかも自然的因果性とは区別されるような依存関係としての動機づけ(Motivation)や、過去の経験の沈殿物としての習慣性(Gewoehnlichkeit, Habitualitaet)といった概念が重要になってくる。
 第三章では、1916/17年の『時間意識に関するベルナウ草稿』が扱われる。まず初期時間論と同じく、そこでも意識の三層構造が定式化されているが、初期時間論との相違は、そこでは三層構造が純粋に受動的な「感受性」の層、自我がそこにおいて触発される「興奮性」の層、そして能動的な「能動理性」の層として、つまり受動性-能動性の諸層として捉えられている点である。また、把持の二重の志向性は、『ベルナウ草稿』では予持の二重の充実化として捉えなおされる。つまり、把持が過ぎ去りつつあるものをとりまとめ引きとどめておく意識の働きであるのに対して、予持とは到来しつつあるものを待ち受ける意識の働きであるのだが、この予持が空虚志向としてそれ自身過ぎ去りつつ把持され、その把持されている空虚志向としての予持と、新たに到来した契機とが合致することによって、意識の流れ全体が連続性として形成されながら(一般的充実化)、また同時に個々の体験契機が充実化されたものとして統一として形成される(特殊的充実化)のである。この二点において、『ベルナウ草稿』は初期時間論の構えを大枠において引き継ぐものであるが、他方そこでは、『イデーンII』において詳述された習慣性や動機づけの議論が、超越論的意識のレベルに置き直されている。また、ブレンターノ批判以来の「統握-内容」図式が引き起こす無限遡行がそこでは問題となっている。フッサールによれば、現在の瞬間点における「原与件」においては、端的な自己同一性が成立しており、これに対して把持においては、現在における内容とそれが志向する過去とのずれが生じている。ところがそうなると、もともと志向性をもたない「原与件」が、把持においてどのようにして志向性をもつようになるのかが問題となる。というのも、志向性のみが志向性へと変様することができるからである。それゆえフッサールは、こうしたアポリアを解消するべく、現在の瞬間点における原与件にも、それを時間的なものとして構成する志向的な統握作用を認めた。すると今度は、その統握作用自身がさらに時間的なものとして構成されなければならず、さらに統握作用が要請され、かくして無限遡行に陥ってしまうのである。それゆえそうした無限遡行の代替案として、与件は程度差をもって意識に上ってくるが、意識に上ってくる限りにおいてはつねにすでに時間化されていると考えはじめた。そこで、意識に上りつつあるものを、時間位置の自己同一性ではなく、内容における隣接する契機との「際立ち」や「融合」といった差異性によって規定しながら、触発・刺激や自我の対向といった現象とあわせて捉えていく、『受動的綜合の分析』に見られるような連合と触発の現象学の必要性が自覚されるのである。
 第四章では、前章を受けて『受動的綜合の分析』における連合の現象学が位置づけなおされる。連合現象が生じる受動性の層を、時間位置の自己同一性ではなく内容的差異から規定されるものとして捉えなおしていくと、並存と継続、類似性、同等性と同一性といったフッサールが使用している諸カテゴリーのうち、根源的なのは類似性であることがわかる。その類似性の程度差によって「融合」ないし「際立ち」が起こり、感性的統一が形成されるのである。またそうした「際立ち」の強さは、自我に対する触発の強さと相対的であることも明らかとなる。さらには、対象的同一化以前に過去の契機が現在のうちに浮かび上がってくる『ベルナウ草稿』における受動的再想起や、時間的に遠く離れたものどうしが連合的に関係しあう『受動的綜合の分析』における再生的連合的の分析によって、「いま」と「たったいま」との絡みあいだけではなく、現在野と遠い過去との関係もまた「相互嵌入」の関係にあることが明らかとなる。


3. 第三部 後期時間論

 最後に、晩年のC群草稿と呼ばれる未編集の草稿における時間論の概要と、そこで扱われている自我の位置づけが問題になる。この章は、申請者がドイツ留学中にケルンのフッサール・アルヒーフで閲覧した草稿群をもとに執筆された。
 まず、これまでのフッサール研究史を概観する意味もこめて、現象学的還元の「デカルト的道」と、「志向的心理学の道」とが検討される。イゾ・ケルンは、『イデーンI』に典型的に見られるような、絶対的意識への還帰という「デカルト的道」の困難を、意識が顕在的な現在の瞬間として規定されているゆえに、具体的な主観性全体を獲得することができないという困難のうちに見ている。というのも、再想起や予期を考慮に入れたとき、明証的で疑いえないのはその形式のみであって、再想起されあるいは予期される内容に関してはそうではないことになるからである。そこで、ラントグレーベからナミン・リーに至るまで強調されてきたように、1922/23年に行われた『第一哲学』講義において、具体的な内容へと立ち返りながら、心的なものを超越論的意識へと一歩一歩純化していくような「志向的心理学の道」が採られることになる。この「志向的心理学の道」は、現象学的時間の固有性を内容的規定から特徴づけていくことによって、超越論的還元を行うことであると捉えなおすことができる。つまり「この志向的心理学の道」は、第二部でたどられたような道を、もう一度たどりなおすような道なのである。しかし、単線的時間の根である時間を構成する意識流にまで到達することができない限り、この道もまた単線的時間から脱却することはできない。
 そこで、三たび時間を構成する意識流にまで遡る徹底的還元が遂行される。この還元はデカルト的道の延長上に、時間を構成する意識にまで到達しようと試みるものであり、そうして発見されるのが「生き生きした現在」と呼ばれる、時間化しつつある体験生の現在である。そしてそこにおいて、自我の地位が問題となるのである。
 第二部の結論として、感性的統一を成立させている「際立ち」は触発に相対的なものであったが、その際触発される自我はどのような地位にあるのかが問われることになった。この自我はまず、能動的に作用を遂行し、まなざしの光線の放射の中心であるような能動的な「遂行-自我」ではなく、受動的に触発される自我である。こうした自我をフッサールは「機能する自我」と呼んでいる。しかしまた、能動性の極であることが自我の本質をなすのだから、この受動的な「機能する自我」それ自身は、能動的な「遂行-自我」の覚醒を動機づける根拠でなければならない。こうした、能動性と受動性との共通の根が、先反省的な、自己意識の原初的形態である、「自己触発」なのである。
 感性的な統一の「際立ち」によって、「機能する自我」は触発され、自己自身を目覚めさせる。この目覚めは「自我的な際立ち」として、感性的統一からの触発の大きさに対応して増幅される。そしてこのような「自己触発」が、能動的な作用においては放射極として機能するのである。
 しかしその一方で、フッサールはこの「機能する自我」を見ているこの私をさらに「現象学する自我」とも呼んでおり、また時間化する働きとしての「原-自我」の地位は、この両者のいずれでもあるという両義性を持っている。また「原-自我」はそれ自身時間の外側にあるともフッサールは述べており、現象学的時間の中には登場しない。つまり時間化の働きそのものは、時間のうちに現れることはできないのであり、ここに、現れたもの、「事象そのもの」に即して分析を進める現象学的分析の限界が露呈されることになる。


4. 結論

以上の論述から再構成された、同一性ではなく差異の原理が支配するような現象学的時間の諸特徴は、以下の7点に要約される。
1) 現在とは瞬間ではなく、それ自身厚みないし拡がりをもっている。
2) 過去とは現在と相互に外在的に対立するものではなく、現在のうちに侵入しており、相互陥入の関係にある。
3) 現在と過去とは、顕在的な明るみと、それを取り囲む潜在的な暗闇との関係にあるが、この場合現在と過去は反転可能なあやふやな関係にあり、この意味で時間は不可逆的ではない。
4) 未来はそれ自身ではまったく無規定的なものであり、過去によってはじめて規定されることができる。
5) もろもろの瞬間が時間位置として相互に外在的に、単線的に秩序づけられ、客観的時間となるのは、私たちの能動的な志向的作用の働きによってであって、この働きは現象学的時間における感性的統一に基づいてのみ行われる。したがって瞬間的な意識のいまにおいて、自動的に時間点が刻印され、あらかじめ単線的時間が構成されるのではなく、単線的な客観的時間はそのつど必要に応じて構成される。
6) 現象学的時間における感性的統一は、自己自身との同一性ではなく、「際立ち」と「融合」という差異性によって形成される。
7) こうした現象学的時間の層を構成する時間化の働きは、現象学的時間の中にそのものとして現れることはできない。あるいは、時間化されたものに転化し変様した限りにおいて現れる。それゆえ、その時間化の働きは謎としてとどまっている。

私たちの生きられた経験を構成しているのは、このような現象学的時間なのである。こうした現象学的時間の探求を通じて、私たちは生きられた経験の価値を再肯定することができる。私たちの経験が同一性に依拠する従来の諸科学と乖離してしまうのは、それが差異の場だからである。しかし現象学は「同一性」と「差異」とを単に概念の上で対立させるのではなく、まさしく具体的に生きられた「事象そのもの」へと沈潜することによって示そうとする方法論であるゆえに、「差異」という概念もまたそれ自身自己同一的な概念ではないかという安易な批判を免れることができるのである。
また哲学史的な意義としては、デリダがほのめかしていたように、ニーチェやベルクソンなど同時代のいわゆる「生の哲学」とのフッサールの近親性が明らかになる。ニーチェにおいて「力への意志」がプラトン-キリスト教的な超感性界の設定とその帰結としてのニヒリズムを克服する原理であるのも、ベルクソンにおいて「開かれた宗教」が社会の閉鎖性を打ち破る原理であるのも、これらが生の差異化の運動であるからなのだが、本論はこの運動が従来の科学的因果性によっては捉えられないという彼らの直観に、原理的な議論を通じて、一つの基盤を与えることになるだろう。

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