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博士論文要旨

論文題目:戦国大名領国の権力構造
著者:則竹 雄一 (NORITAKE, Yuuichi)
博士号取得年月日:2006年3月8日

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戦国大名の研究は、村田修三氏の貫高制に基づく大名特質論の提起にはじまり、在地不掌握の荘園制的な権力論、在地領主制の深化からの大名領国制論、近代国家につながる戦国大名国家論など活況を呈したが、一九七〇年代後半からの戦国大名検地の性格をめぐる安良城盛昭・勝俣鎮夫論争の展開以降は、閉塞的な情況が生み出された。また、同時に戦国大名概念そのものに対する相対化の動向も見られるようになり、それを代表するのが幕府ー守護体制論と地域社会(中世村落)論からの戦国大名論批判であった。この戦国期権力論の特徴は、幕府ー守護体制論にしても、地域社会論にしてもその淵源を体制に求めるか、地域の合意や自立的な町村の成立に求めるかの相違はあるが、公的な領域支配権の存在にある点では共通性を持ち、家支配権や在地領主制を基礎として主従制的支配権を重視する従来の大名領国制論とは対立することになる。しかし、主従制的支配権と統治権的支配権の二者択一的でない理解が求められるのであり、両支配権の統一に大名領国制論の意味があろう。つまり、領主支配の視点を捨象すべきではなく、また、公共性を守護職や地域社会の同意だけに求めるべきでもないいうことである。戦国期権力である戦国大名がどのように自立を達成していくのかが権力論の課題である。自立性は地域での規定性をもって個別的な性格も有することになり、中央権力のとの関係でおいて一律に規定されるものではない。大名領国は多様性を含み込んで展開するものである。それぞれの地域社会の展開に対応して、個性を持ちながらも地域を統合し公儀として公共性を担う権力としては共通性を有するのである。この意味において戦国大名ないしは大名領国制概念は、戦国期権力の特徴を表す用語として有効性を失っていないと考えるのである。この点を踏まえながら本書での具体的な課題と視点は次の三点である。
 第一は検地ー貫高制の再検討である。近年の戦国大名権力に対する評価は、概念を肯定するかどうかは別として収取関係とは接点を持たない形で評価しようとする傾向にある。幕府ー守護体制論においてもまた自力村落論を前提とする裁定権力論も同様である。これは戦国大名権力の本質的理解を、在地掌握の象徴的な存在とも言うべき中間得分=加地子の掌握如何に収斂させ、戦国大名が検地で掌握した増分が、隠田なのか加地子得分なのかといった視点のみに集中してしまったことに原因すると考えられる。領主支配の根幹は年貢・公事収取にあると考えるが、守護職の再生や領主存在意味論からの権力形成論=権力正当化論へと関心が集中する中で、年貢・公事収取としての検地ー貫高制の問題を改めて検討する必要があるのではないだろうか。検地ー貫高制は、在地余剰としての加地子を加地子として把握するのではなく、あくまでも年貢として掌握するのであり、加地子が量的に年貢をはるかに超えるものであったとしても年貢が否定されるのではなく、年貢に取り込まれることで領主に掌握されることになり、領主ー百姓(村)関係は、年貢・公事収取の関係として現れるのである。一方、年貢・加地子を中心とする貫高制論については、公事論からの批判がある。年貢収取は、あくまでも領主ー百姓という個別領主支配の問題であり、個別領主を超える戦国大名の固有な支配は、領域支配の根幹にある公事賦課で捉えるべきだとする考え方である。しかし、検地ー貫高制の課題は、年貢か公事かといった二者択一の問題ではなく、年貢・公事論の統一の側面と個別在地領主支配=荘園制的支配と領域支配の統一の側面の両面から考察する必要があると考えるのである。また、荘園制的収取との関係で言えば貫高制の持つ意味は公事・年貢の統合と再編にあると考えられるのである。
 第二の課題は、戦国大名と村落との関係である。一九八〇年代以降の戦国期村落論の展開は目を見はるものがあることは言うまでもない。従来、領主ー百姓支配の構造は、検地帳に登録される作人の個別経営と領主との関係で捉えられてきた。これに対して中近世移行期村落論は、個々の百姓を問題とするのでなく、法人格として実力(自力)を有する存在としての中世村落に注目し、その実力(自力)の発動のあり方である「村落フェーデ」を発見してきたのである。しかし、事例の中心は畿内近国であり、ここでも従来の惣村論と同じように東国などは排除されてきた。いわゆる自力的中世村落は、東国には存在しないのだろうか。東国での中世村落のあり方を検証し、それと戦国大名との関係を考えなければならない。これが第二の課題である。しかし、ここで問題なのは、戦国期の村落と戦国大名関係をどのように考えるかである。自力的中世村落論の契機となった勝俣鎮夫氏の村町制は、想定に留まるものでありその概念自体が不明確である。村落を分析すれば戦国大名も分かるといった村落還元論では、大名権力自体の動向を明らかにできないし、ウクラード論を村落に置き換えたのに過ぎなくなってしまう危険性をはらんでいる。また、移行期村落論と共に提起された侍身分論は、いわゆる中間層として理解してきた階層を村落に押し込めることで、侍身分の村落による規定を重視し、公儀としての大名権力と村落が直接的に対峙する構成をとることになる。ここで必要な視点は二つあると考える。一つは大名権力と中世村落が直接対置するものではない=大名給人層位置づけが必要である点である。従来は大名権力への在地領主層の階級的結集が強調されてきたが、大名給人層と大名権力の役割分担的理解が必要なのであり、個別給地支配と大名領域支配の重層性を考慮べきである。もう一つは村落論と大名権力の在地支配の関係の解明は、年貢・公事を媒介とする=郷請に注目すべき点である。八〇年代以降の移行期村落論が村落間相論を具体的な村落の法人格を表す場として主な分析の対象としてきたために、紛争解決=法的側面での実力(自力)が明らかにされてきたが、経済的側面の注目は後退したことは確かである。
 第三の課題は、自力救済の主体としての大名権力を内発的な構造だけでなく大名間の関係として捉えることであり、いわば大名領国制の外側からの規定である。従来の大名領国制研究の問題点のひとつは、個々の大名領国での支配の展開をもって自己完結する面を有することである。幕府ー守護体制の持つ有効性は、列島トータルな戦国期像を描くことができていない個別戦国大名論に対する批判としては、有効であったのではないだろうか。戦国大名は自立的な権力であると理解するが、戦国期全体像の課題は残るのである。大名権力の自立的地域国家としての意味は、領国内の平和維持(「村落フェーデ」の規制)と自力発動としての外への戦争推進に象徴的に表現される。自立的地域国家だからこそ自力救済権を保持するのである。自力救済を中世社会の特質とするならば大名権力は中世社会の特質を体現するが、領国内のフェーデの一定度の規制を行うことで自力救済権を否定する側面も有する。しかし、自立性は紛争のみに発揮されるのではなく、大名領国間の交渉にも現れるのであり、平和裡に締結される領国間協定は、いわば国際法の役割を果たすのである。大名領国間関係の注目はいわゆる自立的地域国家間の国際的関係の解明にある。
以上のような課題に基づき、本書ではそれぞれ第一部・第二部・第三部で具体的な分析を行った。
 「第一部 戦国大名北条氏の検地ー貫高制」では、領国支配の根幹をなす検地ー貫高制に関する論考を中心に構成した。
 「第一章 北条氏の検地政策」は、北条氏の検地政策の具体像を深めることを目的とした。戦国大名検地論は、今川氏を軸に北条氏や武田氏を傍証として進められてきた。しかしながら、大名検地そのものの実態については、論文の数に比しては十分に明らかにされているとは言えない状況にあり、まずは北条氏の検地の実態を再確認することから始めた。従来も北条検地研究の中心として注目された『北条氏所領役帳』と「検地書出」と呼ばれる史料を分析した。北条検地の特徴は、永正一七年や天文一一・一二年の当主の代替わりに伴う検地が郡規模を単位とする広範囲な地域で実施された点にある。代替わりの観念に実施の正当性を求め、百姓中の検地反対闘争を回避しようとするものであった。しかし、惣郷検地が平均的に全領国を覆い尽くすことは不可能であり、郷村の様々な状況を反映し、「先年無検地郷村」が現れた。そこで惣郷検地に個別的・臨時的な小規模検地を組み合わせることによって北条氏は惣郷検地の限界性の克服を図った。「検地書出」史料に見られる多くの事例は、このような小規模検地の事例であり、特に武蔵国府川郷や三保谷郷での検地は、訴訟が発端となり実施された公事検地であった。北条検地の形態的な特徴は、惣郷的大規模検地と個別的な小規模検地との相互補完的実施による在地支配強化の点にあったのである。検地で掌握された貫高は、一定の郷村別基準貫高と厳密な田畠面積の掌握によって確定される。つまり、郷全体への基準貫高の強制的適用と隠田摘発の奨励・荒野開発の推進による田畠面積の大幅な踏出による貫高の増大には、結果的に加地子得分をも大幅に組み込むことになった。しかし、加地子得分を直接的に否定する性格を有する検地ではなかった。では戦国大名北条氏は在地不掌握の権力であったのであろうか。加地子得分の否定による百姓の直接掌握のみが在地掌握であったわけでなく、戦国大名は支配領域の地域性や歴史性に規定されて在地掌握の政策を進めたのであり、全国一律の政策があったわけではなく各戦国大名のそれぞれの在地掌握があったと考えるべきであろう。北条氏の場合、その検地実施過程は、①在地に精通した案内者の存在、②検地奉行派遣による丈量検地が行われた可能性の高いこと、③百姓中の請負のもとで検地書出が発給されることなど、これら一連の検地こそが戦国大名北条氏による在地掌握政策であったと言える。そして検地帳や検地書出は北条当主の手元で御前帳として公的な効力を有する帳簿として機能したのである。
 「第二章 東国における在家役と貫高制」は、貫高制の成立と構造について、戦国期以前の収取体系である在家(役)との関係を見ることで、北条領国の成立地域が東国であるという地域的特質の視点も含めて分析した。在家(役)は、本来人を客体とする公事賦課の単位として機能した。田を付属させない在家である古典的在家から田を付属させる田在家への支配形態の変化は、土地支配と人支配の統合の問題であると共に、田・畠支配のみならず山野河海での諸生産活動の編成の問題として捉えることができる。このことはいわば土地を客体とする賦課の年貢と人を客体とする賦課の公事との在家役への統合の問題でもあった。また、在家役の賦課基準は、その納物の多様性を反映して、貫高表示が取られるようになったのである。そして、在家支配から貫高制の成立の流れを理解するキーワードは、「公事免」である。上野の国人領主岩松氏の地検帳での「公事免」、甲斐の戦国大名武田氏の恵林寺検地帳・納物帳での「公事免」、北条氏検地書出での「公事免」と共通して見られ、それぞれ公事の確保を目的に年貢量が引き下げられていることに注目した。中世における公事賦課は人(在家)を基準としながら、検注帳などには見られないが実際には畠生産活動の存在などが、その実現を支えていたのであった。そのことが土地支配の中に畠の編成の組み替えを行えば、本来の公事を確保することができなくなり、年貢を引き下げにつながったと考えられる。応永年間に作成された岩松地検帳は、在家を単位に田畠が統一的に掌握されながらも、畠には「公事免」によって年貢高が引き下げられるという田在家役段階での公事の位置を示している。武田氏恵林寺検地帳は、農業生産部門では在家単位による土地支配方式が解体される一方で、三日市場・九日市場といった非農業部門での町場では在家役の継続という、在家役解体段階での公事のあり方を示している。北条氏の検地書出では、年貢賦課の基準を検地によって打ち出された郷村貫高としたが、「公事免」により郷村貫高が引き下げられたり、また、万雑公事を整理した懸銭が郷村畠貫高を基準に賦課されるという、貫高制的収取体系における公事のあり方を示している。戦国期の在地支配は、在家役編成での特徴を歴史的前提としながら、人々の多様な活動を編成するために、貫高という公事収奪の基準を残しながら、本来は人支配の客体であった畠を田に統合した郷村貫高による土地支配を行い、また、諸生産活動の主体である人を基準とする棟別支配(棟別銭賦課)へと在家役を解体と再編によって実現されたのである。特に棟別支配方式は、漁民・職人・商人といった非農業生産部門での掌握に有効性を発揮したのである。以上のように貫高制的収取体系の成立は、田畠の検地実施を前提に貫高による全耕地の掌握に基づく年貢と公事収取の統合という側面を有していたことを指摘できるが、これとともに従来の「公田」に基づく国家的収取と荘園制的な個別領主支配の再編統合という側面も有すると考える。戦国大名北条氏の反銭賦課は、棟別銭と共に国役と呼ばれ、反銭賦課が田地のみを基準とすることは、これが一国平均役などの賦課基準となった公田に基づく国家的収取を継承した面を持っている。しかしながら、北条氏の反銭賦課が、検地により新たに掌握された郷村の田貫高を基準にしていることや万雑公事・諸公事として荘園制的な収取に位置づけられてきたものを懸銭という形態で畠貫高を基準に再編したことは、郷村貫高に基づく新たな収取形態を構築したと理解すべきである。郷村貫高は様々な控除分があったとしても給人の軍役賦課基準として機能したことは明かであり、貫高制は公田の持つ国家的公田と領主的公田の二重構造を解体して、公田体制に代わるところの、大名検地に基づくいわば「公田畠」体制として評価できよう。
 「第二部 大名領国下の地頭支配と村落」は、大名領国の支配構造を村落との関係を中心に考察した。
 「第三章 後北条領国下の徳政問題」は、執筆当時の徳政研究が、徳政を天下一同の徳政と私徳政一般の理解へすべて解消してしまうような理解がされていたことに対して、個々の徳政(令)は債務破棄だけでなく、その法令が出された地域・権力の課題に応じて債務破棄に収斂しない特徴があったと考え、戦国大名北条氏の永禄三年徳政令の特徴と発給の背景を考察した。永禄三年徳政令の背景には、北条氏の年貢納入における精銭納要求、年貢未進分の借米化、御蔵銭貸借などの問題が存在した。この問題状況に対して領国内の百姓中は、直轄領や給人領の枠を超えて北条氏への侘言闘争を広範に展開した。北条氏は、北条一族の公的な高利貸し行為である御蔵銭を除いて一般的な借銭・借米の破棄を認めるとともに、年貢納入規定を精銭納から現物納に変更する税制改革を赦免=徳政として提示することで農民闘争に対応した。鎌倉幕府の永仁の徳政令以降、債務の破棄をその中心的課題としてきた徳政が、借銭・借米などの債務破棄だけでなく永禄三年徳政令のように年貢納入の新規定など後北条氏の税制改革が徳政=「赦免」位置づけれているのはなぜか。徳政令は、百姓側からみれば農民闘争=「侘言」闘争の成果として後北条氏から政策転換をかち取ったという意義を持ち、徳政と号して徳政状況を創り出し徳政令を大名権力から引き出すという抵抗の論理が示されている。しかし北条氏は、税制改革を債務破棄と抱合せで百姓中に提示することで、徳政を抵抗の論理から支配の論理に転換させ、農民闘争によって政策転換を迫られながらも、百姓中の上に支配の正当性を示すところの「公儀」として支配の確立の手段として徳政令は出されたのである。
 「第四章 戦国期における『開発』について」は、大名領国下の開発が百姓的開発を基盤に戦国大名の補完政策によって成立していたことを明らかにした。北条氏は開発予定地を「荒野」として諸役免除の与えて開発を進めた。開発地は不作田畠の再開発の事例が多い。開発主体は給人層や寺社や有力農民層・商人層が開発命令をうけて労働力を編成して行う場合と郷村が直接労働力を出して開発を推進する場合があり、労働力は郷村の居住者だけでなく他郷・他所の者も編成された。北条領国には農民的開発による隠田が存在したが、北条氏は隠田の密告を奨励するとともに、荒野の設定で隠田に向かう労働力を不作田畠の再開発に向かわせた。従来、流通拠点や商人居住地や伝馬負担地として位置づけられてきた宿(新宿)を開発との関係から見ると、新宿設定を示す史料には不作田畠の開発命令とセットになっている場合が多い。つまり、宿とは開発のための百姓中の居住地で「やど」としての意味を持ち、新宿内に開催される六歳市も開発のための物資供給の役割をしていたと理解すべきである。大名権力は、再開発を推進するために旧来の土地知行者の権利よりも、当作人の耕作権を優先する当作安堵の原則で臨んだ。また、大名権力の開発との関係は、直接的に労働力編成を行った形跡は見られなく、大普請役で大河川の築堤=治水を行うことで農民的開発を補完する役割を負っていた。
 「第五章 棟札にみる後北条領国下の地頭と村落」では、東国における村落文書が残存しないと言う資料的な限界を補うために、郷鎮守に残された棟札に注目して東国にも畿内近国の村落に匹敵する村落が存在したことを示し、郷鎮守を媒介とする大名給人層=地頭と村落の関係を明らかにした。棟札は建物造営に際してその事実を記した木製などの札であり、建造年月日・建造主や工事関係者の名前・由来などを記している。郷鎮守に残された棟札から社殿造営に関わった人名に注目するとⅠ型領主名のみ記載される、Ⅱ型領主層だけでなく百姓名が記載される、Ⅲ型百姓層のみが記載されるの大きく3種類に分けることができる。領主層として北条氏の家臣で地頭と表現され多数見られるが、棟札には「地頭代官」が記載される地頭層の被官が派遣されたり、現地で採用されて支配が行われていたことがわかる。また、戦国期にはⅡ・Ⅲ型に見られるように百姓層が登場することから郷鎮守の成立が確認でき、東国にも畿内近国に対応する村落が存在することを指摘した。成長した百姓層は自らの実力によって鎮守造営に関わったので、一方、領主層は郷鎮守造営に関与することで支配の正当化と安定化を図ったと考えられる。
 「第六章 大名領国下における年貢収取と村落」は、大名・給人層(地頭・代官)・郷村(百姓中)三者の関係を年貢収取の実現構造を中心に考察してきた。①戦国期の東国においても、郷鎮守を中心として結集し「百姓中」と関係文書に表現される郷村が存在している、②地頭・代官は、この郷村を前提として鎮守造営に関わる一方、春の「当作」実現を役割として、一札を取ることで契約された(=郷請)年貢を秋に収取した。そこには大名(地頭)―代官―郷村の重層的な利銭収取システムが存在し、蔵銭が年貢収取を補完していた、③しかし、戦乱・自然災害(水損・風損など)といった個別地頭支配を越える問題状況に対しては、大名権力が撫民政策(徳政など)で「当作」実現を図る。つまり、日常的な個別地頭層の、非日常的な大名権力の二重構造で年貢収取が実現されていた。このことから戦国大名権力の支配領域での専制性は、広域的な問題状況に対するときに発揮されるものであり、領主支配の根幹を成す勧農―収取関係から見ると、専制性を強調する戦国大名権力の評価のみでは一面的過ぎると言わざるを得ないと考える。
 「第三部 大名領国境界領域と戦争」は、近年盛んにとなった境界地域をめぐる中世史研究を前提に大名領国の境界地域を素材に境界紛争が大名権力の支配構造にどのような影響を与えたのかを解明することを課題とし、自力救済の主体としての戦国大名権力のあり方を考察した。
 「第七章 戦国期江戸湾における海賊と半手」は、境界地域としての海をどのように大名権力は支配しようとするのかを、北条氏と里見氏の境界である江戸湾を中心に、そこで活躍する北条氏の水軍=海賊衆の一人である山本氏と沿岸地域に見られる半手に注目して考察した。海賊山本氏の活動は、①「海上備」と呼ばれる沿岸の警備、②敵船に奪取された廻船=商船の取り返し、③海戦に際しては敵船を陸上に押し上げて勝利する海戦の作法を行い、さらに敵船の奪取を行った、④敵方沿岸郷村の焼き払いや焼き散らしに整理される。これらの活動が私的なものでなかったことは、大名権力が感状を発給してその行為を賞していることで示される。だからこそ海賊行為から逃れるためには、大名権力による海上中の通行権をみとめた手形や領国内の湊の使用権を認めた証文が必要であった。一元的にまた恒常的に海上支配権を掌握することの困難さが、江戸湾の両岸を行き来する両属的な商人などを認めることになったのであろう。一方、海上だけでなく沿岸の郷村でも両属的な状況が見られた。それを示すのが半手の郷村の存在である。半手は年貢を半分を敵方に納入することで郷村の平和を保つ行為である。北条氏は半手収納には、在地の有力者でしかも両属的な鋳物師商人と海賊山本氏の海上警備によって実現させようとした。沿岸の郷村は、常に海賊行為の対象となり、平和を保つために半手の郷村になるが、半手の収納・輸送はその困難さ故に海賊に任されるのである。自らの存在が半手による沿岸村落支配の不安定性・両属性を生み出さざるを得ない矛盾した存在であるとも言えよう。
 「第八章 戦国期駿豆境界地域における大名権力と民衆」は、典型的に大名領国が直接境界を接する駿河東部を素材として、境界相論としての大名間抗争を天正年間を中心に明らかにすると共に、境界の変動が民衆動向にどのような影響を与えたのかを人返問題を事例に考察した。戦国大名間の領土紛争は国分協定によって決着が付けられるが、駿豆境界地域に関係する協定は、天文一四年・永禄一二年・元亀二年・天正一〇年があり、この特徴に一つは確定された国境線は、駿豆の国境線を踏襲する場合だけでなく、実際の支配の及ぶ地域との関係から微妙に変動することを指摘した。このような地域で民衆は、一方では郷村に留まり、郷村の継続的な維持を図る努力も見られるものの、他方では、郷村を捨てて欠落する百姓たちも多く見られたのである。特に、境界地域においては大名分国内ではない欠落、分国外への欠落が同時に見られた。他国への欠落は、従来の領主支配からの逃走を実のあるものにした。しかしながら、新たなる国分による国境線の変動は、他国を自国に包摂する場合もあり、協定締結時を起点に同一領国内での人返を行った。また、新たなる国分協定で例え国境線の変動はなくても、欠落対策の大名間の合意によって国境線を越えた欠落は、次第に規制を受けるようになっていったことを指摘した。
 「第九章 戦国期『国郡境目相論』について」は、駿河国駿東郡域を中心に戦国争乱=「国郡境目相論」の視点から相論の開始から終結までの過程を概観・整理したものである。
「国郡境目相論」の特徴は、①「境目相論」の発生は、境界領域の支配権の掌握がそのものというよりも、同盟関係の破綻による大名間の抗争に起因する。境界紛争が大名間の抗争を生じさせたというよりも、同盟関係の破綻による大名間の対立が、抗争領域ととしての「境目」を生み出したと言える。②合戦の前には寺社への戦勝祈願や願文の奉納が行われた。この意味において大名間の抗争は神仏の抗争でもあった。③「境目」とは、領国間の境界線を示すものではなく、大名間の抗争が展開する半国とか郡といったある程度の領域を表している。この領域を象徴する存在が領域内に存在する「境目」の城館である。④このことから「境目相論」は、境界領域の軍事拠点としての城館に対する攻撃(城館攻防戦)と攻撃軍勢に対する後詰軍勢との決戦(後詰決戦)によって構成される。⑤停戦後の国分では、「境目」の決定が最重要課題ではあるが、それと共に領域内の城館処分も重要課題であった、と言える。
 「第一〇章 戦国期の領国間通行と大名権力」は、第七・八・九章が紛争時の境界地域をめぐる大名権力のあり方を問題にしたのに対して、平和時の境界領域での通行の様相と大名領国間の関係を東国戦国大名の伝馬制度を中心とする交通政策の面から考察した。伝馬制度は道路上に連絡する宿郷が駄馬や乗馬を仕立てる仕組みで、伝馬使用の許可書が伝馬手形である。この伝馬手形の中には使用許可が領国外まで及ぶものがある。これらの事例は全て領国間の同盟関係の締結期間のみに見られる。また、武田氏の天正年間の伝馬掟書は北条氏からの伝馬使用に関する規定があり、領国内の交通整備のみならず領国間協定としての面が見られる。他方、海上交通においても武田氏の許可朱印状をもつ船の北条領国内での自由通行を認めた協定が存在することを指摘した。国分協定による同盟・和平の実現は、単に国境線の確定化だけでなく領国間の通行協定を内包していたのではないだろうか。一時的であれ争乱の収束は領国間の通行を盛んとし、これにいかに応えるかが大名権力の課題となったのである。
素材のほとんどは戦国大名北条氏を取り上げた。一個別戦国大名の事例にしか過ぎないともいえるが、いわゆる北条氏が「典型的」戦国大名として評価・批判されてきた意味は大きい。北条氏研究への相対化はそのものが戦国大名概念の相対化でもあったからである。研究史で指摘したように戦国大名概念の相対化の多くは、北条氏を特殊として戦国大名から排除することで成り立ってきた。別の戦国期権力の典型を求める努力が成されてきたが、どこかに典型を求めるのではなく、それぞれの地域の歴史性や特徴に規定されてどのような権力が生み出され来るのかといった視点が求められるのではないだろうか。戦国大名概念に包括されてきた権力体のあり方は、それぞれの個性をもって存在するのであり、典型を想定してそれとの比較では評価できない地域権力としての存在意味を持つはずである。戦国時代とはそれぞれの個性が顕在化した時期として考えるべきである。

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