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博士論文要旨

論文題目:イギリスのスポーツ・フォー・オール-福祉国家のスポーツ政策-
著者:内海 和雄 (UCHIUMI, Kazuo)
博士号取得年月日:2006年3月8日

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本論文は表題のごとく、イギリスのスポーツ・フォー・オール政策を福祉国家政策の一環として捉え、その政策の歴史的、構造的な分析を行い、そしてその各論としての青少年のスポーツ推進政策を分析した。こうしたスポーツ政策研究は、今後のスポーツ政策推進の上で必須にも関わらず、イギリス自体においても十分ではなく、また日本ではほぼ皆無に近い。
スポーツ政策が記述されるとき、イギリスにおいても、そして日本においても、それは他の諸領域とは分離して、個別領域として論じられることが多い。それ故、スポーツ・フォー・オール政策それ自体の推移は記述されるが、その政治経済的な基盤までに掘り下げた分析が十分でなかった。本論文では、その基盤を福祉国家政策の一環としての福祉政策に求めて、スポーツ政策を位置付けた。こうした試みはイギリスでは萌芽的であり、日本では前例が無く、従って、本研究はスポーツ政策研究としてパイオニア的存在となる。
 さて、本論文は4部14章から構成している。
第1部は、「福祉国家とスポーツ政策研究」であり、先行研究の総括である。最初に、社会科学における比較研究の前提として、「なぜイギリス研究をするのか」という問いを発している。ともすれば本国の課題を曖昧にしたまま、外国に埋没しがちな傾向のある中で、本国の課題ときり結んだ外国研究の必要性を確認した。第1部は2章で構成している。
 第1章は「イギリススポーツ政策研究」で、日本とイギリスのそれぞれにおけるイギリススポーツ政策研究の総括である。1970年代以降、スポーツ研究分野においても、日本からのイギリスへの留学は増加した。英語圏という語学上の利点もあるが、イギリスが近代スポーツの発祥地であることが決定的である。しかも、60年代後半から始まったスポーツカウンシルの活動は公共スポーツ政策の代名詞として、多くの日本人研究者、行政者の注目を集めた。しかし、日本でのイギリススポーツ政策研究は殆どが断片的紹介であり、長い研究の蓄積によって提起されたものではない。一方イギリスにおいても、スポーツ政策それ自体は60年代後半から徐々に開始されたが、そのスポーツ政策研究は80年代以降であり、90年代後半に入って、歴史的な研究も少しずつ提起されてきている。しかし、イギリスにおいても、福祉国家の一環としての研究は極めて不十分であるのが実態である。
 第2章は、従って、これまでの福祉国家論とそれとの関係におけるスポーツ政策研究の課題を明確化にした。イギリスは戦後いち早く福祉国家を誕生させた。この背景は、ドイツの侵略に抗し、戦後社会を展望した1942年のベヴァリッジレポートに始まるが、東欧社会主義圏の福祉向上への対抗策として発展した。こうして福祉が重視されたが、戦後直後の福祉内容は主に、住宅、教育、医療等の生活基盤に限定されていた。それ故、スポーツは未だ一部の有産階級の所有として享受されていた。国民のスポーツ奨励策は未だ対象外であった。しかし50年代後半から始まった先進諸国の高度経済成長は、福祉国家を第2段階へと押し上げた。つまりこれまでは公共機関(国や自治体)の福祉の対象外であった文化、芸術、スポーツ、自然環境の享受も、この段階で、その一環に含められ始めた。それが西欧諸国で提唱され、やがて欧州審議会(CE)でも1966年以降に提唱され始めたスポーツ・フォー・オール政策である。イギリスは労働者階級をスポーツから排除し、資本家階級に独占しようとしたアマチュアリズムの誕生国でもあり、スポーツの個人主義を色濃く引きずっていた。つまり、スポーツは個人の責任(私財)で享受するものであり、公共の援助を投入するなどはあり得ないことだとする政策観が、長い間支配してきた。それ故、高度経済成長期の国民の労働の機械化、生活の省力化による健康対策の対応の中でも、そして文化としてのスポーツ普及という点でも、イギリスの公共的スポーツ政策の推進は西欧では最も遅れた国の1つであった。
しかし、社会状況はそうしたスポーツ観、政策観の継続を許さず、まさに、スポーツ・フォー・オール政策を国と自治体が率先することをイギリスでも求め始めた。こうして、第2章は福祉国家論と、イギリスにおけるスポーツ政策研究の動向について、整理をした。
 第2部は戦後のイギリススポーツ政策の変遷を分析した。時期区分はイアン・ヘンリー教授の時期区分の批判的検討から、著者の独自な視点を形成した。60年代までを一括して扱い、その後は大まかに60年代、70年代、80年代そして90年代と区分した。(第3~7章、補論)各時代の政治経済的な動向、福祉政策の動向の分析を基盤として、スポーツ政策の分析を行った。こうした詳細な分析はイギリス研究者の中にも未だ不十分である。
 第3章は1960年までの社会背景とスポーツ政策の検討である。アマチュアリズムの強い社会の中で、スポーツは未だに中産階級の独占物であったが、高度経済成長の始まりに伴う労働形態・生活形態の省力化の中での健康対策、そして福祉国家の2つの側面である国民の文化要求の高揚と一方での国民の不満を管理する社会統制的な側面とがない合わさって、スポーツ政策として意識され始めた。こうして、スポーツ政策における「自由放任の終焉」を迎えた。つまり、国家の介在を必須とし始めたのである。
 第4章は60年代の「権利・公共性の台頭」の時代である。スポーツ・フォー・オール政策の採用による階級独占から全階級へのスポーツ振興策が採られ始めた時代である。先述のように、近代スポーツの発祥の地、アマチュアリズムの発祥の地であるイギリスは、大衆スポーツへの公共機関からの援助もアマチュアリズムに抵触するとして、長い間敬遠されてきた。この点で、アマチュアリズムの相対的に弱い他の西欧諸国よりも、大きく遅れた。しかし、1960年のウォルフェンデンレポートをきっかけとして、その政策は大きく転換し、大衆のスポーツ参加の促進のための政策とそのための国家的組織であるスポーツカウンシルを設立した。それはいわゆる特殊法人(Quango)であり、ネオ・コーポラティズムの政治経済下で、政府は経済的な援助はすれどもスポーツ政策には直接的に介在すべきでないとした。この点にも、イギリス的アマチュアリズムが反映されている。このスポーツカウンシルの制度がスポーツ行政のあり方の上で、世界的に注目されたものである。
第5章は70年代であり、福祉国家が最も充実した時期である。この時期イギリスのスポーツ・フォー・オール政策も最も伸展した。特に、その基盤としてのスポーツ施設の建設は内需拡大策と結合して極めて急速に伸展した。体育館、屋内プール、屋外スポーツグラウンド等の建設である。それと同時に多くのスポーツクラブ育成奨励策も採られた。こうして、イギリスの福祉国家政策の一環としてのスポーツ政策はこの70年代に確立した。そして1975年には当時のスポーツ行政を所管する環境省が政府のスポーツ政策として歴史上初めてのスポーツ白書「スポーツとレクリエーション」を提起し、欧州審議会(CE)のスポーツ政策と併行しながら、スポーツ権を承認した。それはスポーツ政策の直接的な実施機関である地方自治体のスポーツ行政推進に大きく貢献した。こうして70年代は「スポーツの権利・公共性の発展」の時期である。
 第6章は80年代である。サッチャリズム下でイギリスの政治経済と福祉政策が大きく転換した時期であり、新自由主義的な諸政策はスポーツ政策をも包み込んだ。国や自治体業務の民営化、多国籍企業を中心とする市場化、福祉の削減の中で、80年代の中頃には失業率が13%、実数は350万人(人口6000万)となった。こうした中で、80年代初頭には大都市のスラム街では大きな都市暴動が勃発した。また、そうした背景も一部には指摘されながら、サッカーファンの大規模なフーリガン化も進行し、国際問題化した。当初、スポーツカウンシルなどの特殊法人はスクラップの対象との噂があったが、これらの社会不安に対処する上からも、スポーツ政策は社会統制の有力な手段として、削減の対象とはならなかった。しかし、社会不安が少し安定し始めた80年代後半からは国や自治体のスポーツ予算は少しずつ削減の対象となった。こうして80年代のスポーツ政策は「新自由主義と貧困格差拡大」の時代となった。
第7章は90年代のスポーツ政策である。政権がサッチャー、メージャー、ブレアと交代した。しかしサッチャリズムと言われる新自由主義的政治経済、福祉政策は大きな転換を経験することなく21世紀に突入した。しかし、スポーツ政策では90年代初頭から自治体では強制競争入札が導入され、行政施策の一定の民営化が図られることになった。これによって、自治体の補助金は大きく削減された。一方で、イギリスの国際的威信、あるいは国民の健康問題の深刻化により、スポーツの高度化と大衆化、特に青少年のそれは喫緊の課題となった。こうして1995年と2000年にはメジャー首相とブレア首相の音頭による政府のスポーツ政策が確定され、これまでの「援助非介入」の原則は大きく後退した。これらの背景となるスポーツ政策の財源は1994年以降実施されている国営宝くじ(National Lottery)に依るところが大きい。こうして、90年代のスポーツ政策は「私事化と公共性の拮抗」の時期である。
「補論 デニス・ハウエル研究」は、労働党スポーツ大臣として11年間在位し、イギリスのスポーツ政策の基礎を築き、発展させたデニス・ハウエルに焦点化したものである。2度にわたるインタビューと諸資料から氏の思想、政策、影響について分析した。
第3部はイギリススポーツ行政の構造分析である。(第8~11章)
第8章は国の行政機関におけるスポーツ行政組織「スポーツ・レクリエーション課(SARD)」と所管省の概略である。イギリスでは、極端に言えば政権交代の度に省庁再編が起きる。SARDの所管も、教育省、環境省、地方・保険省、教育雇用省、国民文化遺産省と変遷し、97年のブレア政権において初めてスポーツを冠した文化・メディア・スポーツ省が誕生した。そして、95年と2000年の政府によるスポーツ政策の提示は、これまで一定の独立性を維持してきたスポーツカウンシルとの確執を一層激しいものとしており、90年代終盤から、スポーツカウンシルの再編も行われ、権限も縮小された。こうして、特殊法人(Quango)としてのスポーツカウンシルの危機が指摘されている。
第9章はスポーツカウンシルをはじめとする、全国レベルのスポーツ組織の検討である。特に、スポーツカウンシル誕生の物的、精神的基盤であった「身体レクリエーション中央評議会(CCPR)」との関連は発足当初から現在もまだ、組織上の諸問題を抱えている。
また、SARDの所属する省庁、その背景にある政権党(特に保守党)との関係も複雑である。それはスポーツカウンシルが政策決定、予算執行を有する特殊法人であり、時の政権からは相対的に独立して機能することを意図して設立されたが、現実にはその関係がぎくしゃくしてきた。この点は、行政組織とスポーツ組織の関係の在り方を考える上で、大きな問題を提起している。
第10章は地方自治体のスポーツ行政の構造である。現実のスポーツ・フォー・オール政策は殆ど地方自治体の政策を通して具体化される。それだけに地方自治体の政策の在り方が重要である。その中でも特に、地域住民に直接に接する市町村の行政の在り方は決定的に重要である。80年代以降のサッチャリズムの下で、イギリスの地方自治体も大きな福祉削減を求められてきたが、社会不安が比較的安定した80年代後半以降もスポーツ政策、予算は大きくは削減されなかった。しかし、90年代に入っての強制競争入札導入以降は自治体の補助金は停滞している。この章では、地域で活動する地域スポーツクラブ、スポーツリーグも分析し、自治体の援助との関連も解明した。特に、スポーツ享受の前提となるグラウンド、コート、体育館やクラブハウス等の施設が、多く自治体から長期、低料金契約で貸与されている実態は、スポーツ・フォー・オールの実情である。
第11章は、ヨーロッパにおけるスポーツ政策とイギリスとの関連の分析である。その場合、ユネスコ(UNESCO)、欧州審議会(CE:Council of Europe)、欧州連合(EU:European Union)のスポーツ政策と、そこにおけるイギリスの位置である。近年EUのスポーツ政策が拡大しつつあり、EU内の国際的スポーツイベントや施設建設への援助が大きな役割を有しつつあるが、スポーツ・フォー・オール政策それ自体の推進はCEが率先してきた。1976年には「ヨーロッパ・みんなのスポーツ憲章」を採択し、スポーツを享受することはすべての人々の基本的権利として謳い、そのための条件整備として公共機関が中心的な責任を果たすことを提起したものである。つまりスポーツ政策として「スポーツ権」を提起した。これは2年後にユネスコの「体育・スポーツ国際憲章」に引き継がれ、全世界へ敷衍された。これと平行してイギリス内でも環境省白書『スポーツとレクリエーション』(75年)が提起され、スポーツ権としての明記はされなかったが、実質的な政策が推進された。こうしてイギリスのスポーツ政策は西欧の中で、福祉国家の一環としてやっと他国に追いついたのであった。
 第4部はこれまでの一般的政策を、特殊に青少年のスポーツ振興の政策として検討した。(第12~14章)青少年を取り巻く生活環境の変化は著しく、ファーストフードの普及による栄養過多による肥満の増加、ファミリーコンピュータ・ゲームの普及による運動不足とそれによる青少年の「成人病化」はイギリスにおいてもその深刻度は年々増している。
一方、80年代以降のスポーツ・フォー・オール政策の停滞は、国民全般とその一環として、青少年のスポーツ文化の衰退をももたらした。近代スポーツ発祥の地であるイギリスの国際的競技力の水準も低下してきた。これは国民のプライド、志気にも関わる問題である。これらの諸々の状況が、国民全般のスポーツ・フォー・オール政策の新たなる高揚を要請しているが、ここでは学校(授業と部活動)、地域での青少年のスポーツ振興の政策を検討した。
第12章は全国ジュニアスポーツ計画の概要である。これまで、青少年のためのスポーツ振興は学校と地域スポーツクラブに依存してきており、特別な政策を有しなかった。95年のメージャー首相のスポーツ政策『スポーツ:ゲームを盛り上げよう』(1995年)を切っ掛けに、学校での体育科、運動部活動の発展のために各種の賞を設け、補助金を給与し、奨励した。また、学校と地域の連携、そのための指導者の養成計画なども設定した。この計画はスポーツカウンシルが担い、資金は94年から始まった国営宝くじの配分金である。学校にも採用され、教育行政上の柔軟性が示された。
 第13章はイギリスの部活動行政の分析である。日本の部活動は歴史的にはイギリスのそれの導入であり、イギリスの動向は日本への影響も必至である。しかし、これまでイギリスの部活動研究は、日本では皆無であり、本論文が歴史上初である。さて、イギリスの部活動は19世紀のパブリックスクールのスポーツ活動にも遡り、部活動は学校教育の一部としての伝統を有してきた。しかし、1985年の教員スト以降、そして競争主義的教育政策の導入により、部活動は大きく後退した。パブリックスクールを中心とする私立の学校では80年代以降も部活動は一層進展している一方で、公立の学校の部活動の衰退は顕著である。これにより、子どもたちの健康問題のみならず、生活上の行動変容にまで影響を与えている。
 第14章は、そうした実態を改善すべく学校で採用され始めた「学校スポーツコーディネーター」制度の検討である。部活動自体の推進と同時に、子どもたちが学校外でもスポーツに参加できるように、地域スポーツクラブとの連携活動を推進しようと言うものである。当面は各学校に1人、主に体育教師を任命してその任に当たらせるが、1つの中等学校地区の中等学校と小学校の連携が強調されている。この教師は、週に1~2日、授業を離れて上記の活動に専念するが、その分の授業の欠損はスポーツカウンシルと教育委員会で折半して補助員を補充している。こうした予算措置を伴った政策で、部活動参加の、種目数、参加生徒数、参加教員数が明らかに改善されており、5年の時限計画が延長された。こうした試みは、これまでの教師概念、あるいは学校概念を越えた要素を持っており、新たな試みとして注目される。それはとりもなおさず、同じように部活動のあり方をめぐって激動する日本にとっても示唆する点は多い。
 以上、イギリスのスポーツ政策の変遷と構造を福祉国家政策の一環として把握した。先行研究の不十分さは本論文をも規定したが、いくつかの点で突破しつつ、イギリスのスポーツ政策の全体像を把握した。今後の課題として、一層の福祉国家研究の探究と、それとスポーツ政策研究のより一層の内的な関連性について究明してゆくことである。

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