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博士論文要旨

論文題目:心的概念の論理文法――医療実践の社会学的記述へ向けて
著者:前田 泰樹 (MAEDA, Hiroki)
博士号取得年月日:2006年1月18日

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1.問題の所在

 本論の目的は,「心」にかかわると考えられている概念を用いてなされる実践に対して,それがいかになされているのか,一定の見取りを与えることにある.本論で主題として取り上げているのは,動機,感覚,感情,記憶といった概念である.私たちは,ふだんからこのような概念を用いて日常生活を営んでいるが,本論であつかうのは,一歩踏み込んで,心にかかわる概念を用いてなされる実践のあり方について,どのようになされているのか,あるいは,どのようになされるべきなのか,強く問われるような場面,すなわち,医療に関わる様々な人々が,実際に患者や利用者と向かい合うような場面である.例えば,歯科診療の場面で,歯科医師は,患者の痛みの訴えをどう理解し,どう扱うのか.あるいは,問診や電話相談で訴えられた不安は,どのように受け止められるのか.あるいは,言語療法において,ある言葉が想い出せたり想い出せなかったり,といったことは,どのようなこととして理解されているのか.このような様々な状況のなかで,実際に心にかかわる概念を用いてなされる実践について,それがいかに成り立っているのか,その実践の論理を記述している.こうした実践は,医療者に専門性が求められるがゆえの難しさや,病者の経験の重さゆえの難しさに際立たされているが,それでもなお,そのようなものとして,私たちの生活の一部をなしている.だから,本論でなされるのは,ある特定の状況での実践の論理を記述しながらも,それ自体,あくまでも私たちがとりうる生活の形式に展望を与えようとする試みである.
 もちろん,心にかかわる概念については,様々な学問分野で論じられてきており,そのさい,様々な仕方で定義されることで,理論構築の出発点となってきた.古典的には,J.L.オースティン(Austin 1962=1984)が指摘したように,知識の不可謬性を獲得するための近道として,その知識が「主観的」に「知覚」されたものである,と考えることは,ありふれたことであったし,このように知覚する主体という人間像をもとに,説明図式を精緻化していく試みも多くなされてきた.そして,筆者の考えるところでは,このような説明図式のいくつかは,感情や記憶を個人の心理状態や,個人の能力へと還元しようとする傾向をもっている.
 それに対して,本論では,心にかかわる概念をどのようなものとして用いるか,ということそれ自体が,実践に参加している人々にとっての問題であるはずだ,という考え方をとる.例えば,本論でみていくような医療の実践においては,言葉が想い出せないということをどのように理解する(べき)か,といったことは,その場面に参加している人々にとってこそ問題である.また,不安にどのように対処する(べき)か,そしてその不安を誰にどのように訴える(べき)か,訴えられた不安にどのように応対する(べき)か,といったことについて,その場面に参加している人々は,そのための方法を使用している.あるいは,M.リンチ(Lynch2000=2000)が強調するように,「~~の場合には,~~すべきだ」というような方法論を用いたり実際に述べなおしたりすることが,その実践を成り立たせる重要な差し手になっていることもある(そして,そのような実践の参加者たち自身の方法論のなかに,先に述べたような説明図式が埋め込まれていることもある).本論では,このような実践の参加者たちが用いる方法(ないし方法論)を記述している.
 先に述べたような還元主義的な説明がもっともなものとして受け入れられるとき,ときに私たちは,そのような説明の適切さが私たちの帰属の実践に依存していることを見落としてしまう.その結果,参加者たちの方法を記述することなく,説明図式の精緻化に終始するのであれば,その図式のもとで捉えられた人間像は,H.ガーフィンケル(Garfinkel 1964=1989; 1967)が判断力喪失者(judgemental dope)と呼んだものにとどまり続けることになる.だからこそ,本論では繰り返し以下のようなことが確認される.例えば,共感や傾聴を求める要請の適切さが,感情をめぐる権利/義務の分配/帰属の実践に依存している,ということ.あるいは,記憶についての一般的な説明の適切さが,想起についての能力帰属の実践に依存している,ということ.これらの実践に私たちは,(少なくとも可能的には)参加しているのであり,そのことに目を向けるために,本論は書かれている.すなわち,本論は,心にかかわる概念の位置づけを,私たちが参加し荷担している実践へと置き直すことによって,代替的な見取りを提示する試みである.
 
2.対象と方法,および両者の結びつきについて

 本論で主題として取り上げるのは,動機,感覚,感情,記憶といった概念であるが,これらの概念を厳密に定義して,それに統一的な説明を与える,という方向性はとらない.これらの概念は,何か一般的な共通点があるというよりは,L.ウィトゲンシュタイン(Wittgenstein [1953]1958=1976)のいういみで,家族的に類似しているにすぎない.しかし他方で,これらの概念が実際に使用される場面に参加する人たちは,何らかの方法で,それぞれの概念の用法の微妙な差異を区別しているはずである.これらの概念を用いて何ごとかを繰り返し記述することができる以上,その概念の用法自体がまず記述可能であるはずだ.このような概念の用法を記述する方針を,H.サックスは,「私たちが主題として取り上げたものは,それがなんであれ記述されなければならない.なんであれ,それ自身がすでに記述されているのでなければ,私たちの記述装置の一部となることはありえない」(Sacks 1963: 85)と述べていた.この方針に従うのであれば,医療実践についての社会学的記述は,病いの当事者や医療の専門職を含む医療実践に参加する人々が用いている記述装置を記述することから始めなければならない.
 以上の考え方をふまえて展開される具体的な分析は,筆者が,1996年から2003年の間までに行ってきた,複数の調査研究にもとづいている.その調査は,脳神経外科と老人保健施設が併設されている施設,歯科診療所,臨床経験のある看護師対象の再教育機関などで,行われたものである.これらの調査において入手されたデータにもとづいて,問診において検査結果を説明する場面,歯科診療場面,電話相談のロール・プレイの場面,言語療法場面などにおける実践が分析されている.その分析においてなされるのは,歯の「痛み」やペースメーカーの故障への「不安」や終戦の日の「想い出」といった概念が,他の様々な概念とどのように結びついたり(あるいは結びつかなかったり)して,用いられたり(あるいは用いられなかったり)するのか,ということを記述することである.
 もちろん,以上の作業においては,とりわけ「個人」という特異なカテゴリーとそれに結びつけられる様々な概念をめぐって,社会学方法論上の議論も参照される.だがそれは,こうした概念を社会学が採用してきた事実に即してなされているのであって,個々の分析的な記述を基礎づけるためになされるのではない.むしろ,方法論的な知見と分析的な知見との概念上の結びつきを明らかにするためになされているのである.本論でなされた記述は,知識,経験,能力,権利,義務といった他の様々な概念との結びつきを,何度もいったりきたりしながらたどることによって,心にかかわる概念の多様性の一つ一つを,それ自体秩序だったものとして理解する方向性を示している.
 このような概念の結びつきを記述していく作業は,つうじょう概念の論理文法の分析と呼ばれている.これは,W.シャロック,J.クルター,M. リンチといった,ウィトゲンシュタイン派といわれることもあるエスノメソドロジストたちによってなされてきたものである.かれらは,一方で,ウィトゲンシュタインや日常言語学派哲学の影響を受けつつ,他方で,ガーフィンケルやサックスが示した方針を継承してきた.こうした方針のもとでなされた記述は,概念の連関としての「論理文法」がいわば水路の網の目のように形づくっている「生活形式(Lebensform: a form of life)」(Wittgenstein [1953]1958=1976)に展望を与えようとする作業にほかならない.本論の記述は,取り上げた概念の全ての用法を網羅するものではないが,それでも,ともすれば見落としてしまいがちな概念の用法の複雑さに,展望を与えるような記述ではあるはずである.

3.本論の構成

 以下では,本論の構成について簡単に示しておく.まず,第一部「心の理解可能性」では,動機や感覚といった概念を主題として取り上げる.「どのようなつもりなのだろう?」と行為の動機を問いただそうとするとき,ともすれば,閉じた空間のように表象される個々人の心の中で生じていることに関心が集中される傾向がある.そして,この傾向は,他者理解をめぐる様々な懐疑論を生みだす温床となってきた.しかしながら,私たちは,どのような記述のもとで行為を理解していたかによって,意図的であったかどうかを区別し,動機を帰属させるのだから,ここで用いられる概念は,その実践に参加している人々にとって使用可能なものであるはずである.このような考えにもとづいて,第一部で示したのは,様々な懐疑論から離れて,心的な概念の位置づけを,私たちが参加し荷担している実践へと置き直して考える方向性である.
 第1章では,互いの行為を理解する私たちの実践のあり方に展望を与えることを試みた.私たちは不断に互いの行為を記述することによって(ないし,そうした記述のもとで相手や自分の行為を理解していることを示すことによって)生活を営んでいる.このような行為の記述のもとでの理解可能性は,概念の連関の理解可能性に依拠しており,記述される経験が入手可能であることに,論理的に先行している.そして,私たちは,行為を記述することによって,その行為をある記述のもとで知っている(はずだ)という知識の(さらには能力の)問題として,動機を様々なメンバーシップ・カテゴリーへと帰属させている.つまり,実践においてなされる行為の記述は,動機や責任を帰属するといった一つの活動として,何らかの実践を編成する差し手であるはずなのだ.このような考え方にもとづいて,第1章では,検査技師が検査結果を説明した上で生活上の助言を提示する場面を分析し,行為を記述することが,いかに実践の編成に結びついているのかを明らかにした.行為を記述することは,メンバーをカテゴリー化し,そのカテゴリーへと責任を帰属/免除し,非難し,弁解し,正当化する,そういった活動である.また,責任の帰属という活動も,「助言する―相談する」といったその他の様々な実践に結びついている.例えば,専門職が,医療サービスの利用者の行為を記述しなおすことは,利用者の責任を免除しつつ,助言を組み立てることであった.あるいは,利用者が自責の語りを「語りなおす」ことは,「助言を拒否する」ことであり,「助言の拒否を正当化する」ことであった.また,そのように理解可能だからこそ,その語りは専門職によって「傾聴」されていた.行為をどのような記述のもとで理解するか,ということは,実践の参加者にとっても重要な課題であり,そのための方法が用いられているのである.第1章では,こうした実践における概念の結びつきを,「参加者たち自身の方法」として一つずつ記述していく方向性を示した.
 第2章では,以上の考え方を受けて,概念的な理解になじまないと言われることも多いであろう,「痛み」のような感覚について考察した.確かに,私たちは,「私の痛み」はかけがえのないものだ,という印象を日常的にもっている.歯が痛いのは,私が痛いのであって,誰も代わって痛んでくれたりはしないだろうし,言葉にして誰かに説明してみたりしなくても,痛いものは痛い.また,私たちは他人に対して痛みを隠しとおしたり,痛いふりをしたりすることもできる.このように考えれば考えるほど,私の痛みは私の内面の問題で,他人から理解しがたいもののように思われてくるかもしれない.しかし他方で,私たちは,他人の痛みに気づいて心配する,ということを日常的に行ってもいる.第2章で強調されたのは,痛みを我慢したり痛いふりをしたりすることが経験的に問題となったり,自分と他人の痛みの異同が問題になったりすること自体が,「痛みの振る舞いを基準として痛みを知ること」の論理的な可能性を前提にしているのだ,ということである.そして,このようになされる痛みの三人称的な帰属が,痛みの一人称的表出の強さを損なわないかたちでなされるからこそ,私たちは痛みをいわゆる「私的経験」として理解している.第2章では,この論点に展望を与えるため,歯科診療場面においてなされた痛みの表出をめぐる実践を分析した.この分析により,歯科医師が,患者からなされた「痛みの報告」に対して疑いを向けることなく,診療のための推論を維持していく方法が記述された.このように,痛みの一人称による表出が(三人称的な介入に対して)強いものであり,痛みを感じる当人とその他の人々を区別する差し手になることが,「痛み」のような感覚を「私的」な経験だと理解する私たちの日常の印象を支えているのである.ここに見られる(一人称/三人称の)非対称性は,他者理解にとっての原理的な困難ではなく,むしろ,感覚をめぐる実践の一つの帰結として理解することができる.
 
 次に,第二部「感情と経験」では,感情や情緒を主題として取り上げている.第2章でみたように,「痛み」に対して,直接,三人称的な介入がなされることがあまりないのだとはしても,痛みに関する不安や苦しみといった感情に関してはこの限りではない.ある種の感情を,持つ「べき」ではない,と非難されることもあれば,ある仕方で感情に関わる「べき」だ,と期待されることもある.例えば,ある種の医療に関わる専門職が患者や病者とどのように向かい合うべきかが問題とされるとき,自らの感情を管理することが求められ,「共感すべき」という理念が語られ,「傾聴」といった技法の重要性が強調されることがある.第3章では,このような語り方の中にみられる難しさを網羅的に整理するかわりに,自ら感情を感じたり,表出したりするあり方について,あるいは,他者の感情に関わるさいのあり方について,最低限の概念的な展望を与えている.概略を記せば,感情を経験したり,表出したり,配慮したり,といった実践は,メンバーシップ・カテゴリー化の実践の中で,様々な権利/義務の帰属の実践を含みこんだものとして,理解することができる.むしろ,感情を個人的な(私的な)ものとして経験したり,表出したり,配慮したりすることは,そうした帰属の実践の一つの帰結なのである.このような考え方のもとで,感情をめぐる規範的期待がどのように,様々なカテゴリーに結びついたり/結びつかなかったりするのか,について記述していく方向性を示している.
 第4章,第5章では,第3章を受けて,医療専門職による利用者の感情を配慮する実践と,そこで用いられている方法について,記述を行っている.第4章では,検査技師が検査結果を説明した上で生活上の助言を提示する場面を分析した.{助言者(専門職)―相談者(利用者)}というカテゴリー対が適切である場合,感情をめぐる出来事が双方からそれなりの仕方で言及されるのであれば,個人的な経験の重みがことさらに際立つことはなく,配慮することが困難になることもあまりない.むしろ困難が生じるのは,第4章の事例のように,助言がただちには受け入れられず,利用者によるトラブルの語りが続けられる場合である.もしここで,{トラブルの語り手―トラブルの語りの受け手}というカテゴリー対のもとで,単なるトラブルの語りの受け手として共感的な応答をし,それによって感情(とそれへの権利)を共有することができるのであれば,特別な困難は生じないかもしれない.けれども,医療専門職が専門職たる助言者でありつづけるためには,この方策はとれない.それゆえ,あえて助言を控え,助言を行う(べき)という実践のレリヴァンスを維持したまま,「問題を解決すること」をいわば棚上げしつつ,「患者の感情を(個人的な経験として)配慮する」という実践がなされることになる.このように,そもそも情緒的な側面を個人的な経験として尊重するという事態は,医療上の出会いに参加する参加者たちによってなされるカテゴリー化において,感情への権利/義務を帰属/分配する実践の一つの帰結なのである.
 続く第5章では,電話相談看護のロール・プレイの分析を行い,傾聴という活動に結びついている概念の連関としての「論理文法」の概略を以下のように提示した.第一に,情報提供などで助言が可能な場合,「傾聴」活動を行うことが関連性をもたない可能性がある.第二に,第4章でみた事例もそうだが,「助言」はなされたが,直ちには受け入れられない場合,すなわち,「助言」に対する「相談者からの拒否」の理由を聴く機会を持たなければならない場合には,「傾聴」の重要性は高まる.とりわけ,医学的な理由などから「助言」内容の変更の可能性が低い場合,相手の「拒否の理由」を聴くことと,その上で,「同じ」内容の助言を「受諾」してもらうことがなされなければならないため,「傾聴」活動の重要性は高まる.第三に,助言が困難である場合,傾聴的技法の一部は,医療的文脈に引き戻され,トラブルを助長させる可能性がある.もしも,助言ができないまま話を聴きつづけることによって,かえって感情への権利/義務の分配の失調が可視化されてしまうのであれば,傾聴することのレリヴァンスが失われるだけでなく,「助言者」の資格さえ危うくなることもある.これらの概略が示しているのは,様々な実践のレリヴァンスを管理しつつ,情報提供などの助言を行ったり,助言をあえて控えて相談者の語りを傾聴したりするための「参加者たち自身の方法」である.こうした論理文法上の制約に則ってなされる実践の詳細をみることなく,抽象的な理念の教育や発話表現上の技法の教育に終始してしまうと,電話相談を行う個人に対して過重な責任を負わせることにもなりかねないだろう.第二部では,こうした「参加者たち自身の方法」を記述することで,医療上の出会いにおいて感情を配慮する実践が,様々なメンバーシップ・カテゴリー化を行いつつ,権利/義務を帰属/分配する実践である,ということの内実を示したのである.
 
 最後に,第三部「記憶と想起」では,記憶や想起を主題として取り上げている.これらの概念もまた,記憶の連続性が,人格の同一性の重要な要件として持ち出されることがあるように,個人の経験や,個人の能力といった概念と結びついているのは間違いない.だからこそ,経験を想起し語ることによってなされることを,個人の記憶内容の単なる再現のように理解しようとする傾向も生じるのだろう.しかし他方で,記憶を個人的なものであることを前提とするこのような考え方は,知識として記憶を共有したり,経験の記憶を語り聴いたりする私たちの実践の多様さに対して,必ずしも敏感なものではないように思われる.第6章では,記憶を対象化する知の一つである失語症研究を取り上げて論じることによって,個人の能力(の欠如)に関心を向ける考え方について概観し,そしてそれがゆえにかえって,私たちの能力帰属の実践に対する注意が奪われてしまう可能性があるということ,このことを明らかにした.第1章の論点の繰り返しであるが,「思い出した」とか「忘れてしまった」といった,行為の記述がなされるとき,それは心理状態の記述であるよりも,むしろ,一つの活動として,何らかの実践を編成する差し手である.やはり概略的に述べるならば,想起の実践,すなわちその適切さを示し承認する実践とは,メンバーシップ・カテゴリー化をともないつつ能力や権利を帰属/分配する実践なのである.
 第7章,第8章では,第6章を受けて,言語療法場面の実践を記述することで,私たちが,「思い出した」とか,「覚えている」とか,「忘れていた」といった記述のもとで理解するような現象の多様さについて展望を与えたい.記憶の科学を用いて営まれる言語療法という実践は,それ自体複雑に編成された実践である.そこでは,個人の能力を特定するという実践や,経験の記憶を語り聴く実践が,実際にその場面の参加者たちによって,他の実践から区別可能な仕方で成り立っている.第7章では,言語療法場面におけるトラブルの修復の編成の分析を通じて,個人の能力を特定する実践が,他の実践からいかに区別されているかを示した.失語症をもつ人との会話においては,他者による修復が多く見られると言われているが,その場合でも,相手自身による修復の機会を気にかけながら修復を行うために,様々な方法が用いられており,そのいみでは,自己修復が優先されるという規範は維持されている.課題訓練の局面のように,個人の能力への関心が焦点化する場合でも,トラブルの修復を個人で行う作業としたり,協働的な作業としたりするなど,様々な実践のレリヴァンスを管理するための方法が用いられている.第7章で記述された様々な方法は,コミュニケーション上のトラブル(とその修復)を,コミュニケーション環境に参加しうる参加者たち全体の問題として捉え返していくような,「参加者たち自身の方法」なのである.
 第8章では,やはり言語療法場面の分析を通じて,記憶が問題化される実践において,知識を示す能力を焦点化する実践と,経験を語り聴く実践との差異について分析した.前者においては,専門職による質問は課題提示を構成していたし,そこでなされる課題への回答には,修復のきっかけづけや評価があった.すなわち,{専門職―(「記憶障害」という医学的カテゴリーのもとで記述可能な)利用者}というカテゴリー対のもとで,知識(の記憶)についての個人の能力を焦点化する実践がなされているのである.一方,後者において,経験を語り聴く実践においては,修復のきっかけづけや評価がなされるレリヴァンスが失われていた.ここでは,{経験者―未経験者}といったカテゴリー対のもとで,経験の記憶を語り聴く実践がなされているのであり,そこには語る権利をそのままに承認するという実践が含みこまれている.言語療法の一回のセッションにおいても,こうした様々な実践のレリヴァンスを管理しつつ,知識(の記憶)についての個人の能力を焦点化したり,経験者の個人的な経験(の記憶)を傾聴したり,といった「参加者たち自身の方法」が用いられている.第三部では,こうした「参加者たち自身の方法」を記述することで,コミュニケーション環境に参加する人たちによって織りなされる想起の実践が,様々なメンバーシップ・カテゴリー化を行いつつ,能力や権利を帰属/分配する実践である,ということの内実を示したのである.
 
 以上の概観からもわかるように,それぞれ動機,感覚,感情,記憶といった概念を主題として取り上げながらも,全編を通じて示されるのは,個人の能力に関心を向けたり,経験を個人的なものとして配慮したりする,実践のあり方についての,一つの見取りである.心にかかわる概念を用いてなされる実践は,メンバーシップ・カテゴリー化の実践を不可避的に含みこんでいる.カテゴリー化の実践の帰結として,個人の能力への関心を焦点化したり,互いに配慮を示しあったり,個人的な経験の語りを聴き,それに配慮を示したり,といった様々な実践が編成されていく.全編を通じて示されるのは,そうした実践の編成のあり方についての,一つの見取りなのである.

4.結びにかえて

 問題の所在で述べたように,心にかかわる概念をめぐるトピックは,様々な学問分野で論じられてきた.また,本論に登場する実践の参加者たちも(専門職カテゴリーに含まれている場合には)様々な医学的な説明の方法を持っている.そうした知見に対して,本論では,心にかかわる概念の位置づけを,私たちが参加し荷担している実践へと置き直すことによって,代替的な見取りを提示している.ただし,ここで提示された見取りによって,様々な分野における各種の知見が直接否定されることはないし,本論でなされているのは,そのようないみでの批判ではない.ただ,本来あるべき論理的身分を越えて知見が使用されることに対して,そこで忘却されてしまうことへの注意を喚起している.繰り返しになるが,共感や傾聴を求める要請の適切さは,感情をめぐる権利/義務の分配の実践に,記憶についての一般的な説明の適切さは,想起についての能力帰属の実践に,徹頭徹尾依存している.これらの実践に私たちは,(少なくとも可能的には)参加しているのである.
 先に述べたような還元主義的な説明のもとでの知見は,本論が取り上げた課題を,そのままに残すことで産出されてきた.社会生活において心にかかわる概念を用いてなされる実践が編成されていく手続きを明らかにすることと,心にかかわる概念についての知見を具体的な場面から引き離して理論化することとは,別のことである.心にかかわる概念については,多くの分野で様々に議論されてきたが,本論のように前者の関心から論じられたことは,少ない.しかし,私たちの生活において心にかかわる概念を用いる実践が決して小さくない比重を占めている以上,このような実践はいかなる文法的位置で理解可能なものとなるのか,という問いは,「生活形式」に展望を与える作業の一環として,継続されるべき課題である.不安を訴えること.それに配慮を示すこと.経験を語ること.それを聴くこと.これらの活動は,私たちの生活の一部をなしている.本論で記述されたいかなる実践であっても,体系的な医学的知識のみによって規定されるものでもなければ,一枚岩の日常生活を基盤とするものでもない.本論で記述された実践は,医療者に専門性が求められるがゆえの難しさや,病者の経験の重さゆえの難しさに際立たされているが,それでもなお,そのようなものとして,私たちの生活の一部をなしているのである.そしてそうであるならば,私たちが「医療」と呼ぶ実践についての社会学的記述もまた,述べてきたような「生活形式」に展望を与える作業の延長上において,継続されるべき課題である.本論は,このような作業に求められる基本的な方向性を示したものである.

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