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博士論文要旨

論文題目:戦後新興紙とGHQ -新聞用紙をめぐる攻防-
著者:井川 充雄 (IKAWA, Mitsuo)
博士号取得年月日:2005年12月14日

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本論文は、占領期における用紙割当制度に着目し、CIE(民間情報教育局)をはじめとするGHQの各部局や、日本政府、新聞界、製紙業界などの動向も重ね合わせることによって、GHQのメディア政策について考察しようとするものである。
占領期の新聞社にとって、用紙の確保は経営上の最大の問題であった。日本の諸産業は戦争によって著しく疲弊したが、製紙業の受けた打撃も大きかった。これは、石炭が大幅に減産したことに加え、原料供給地でもあった樺太などの外地に持っていた工場を喪失したことによるところが大きかった。そのため、1945年の新聞用紙の生産量は、戦前の最高水準のわずか4分の1ほどであった。
 新聞用紙の配給・統制は、戦時下において戦争への物資総動員の一環として、開始された。戦争の泥沼化とともに新聞のページ数は減少し、敗戦の時点では、わずか2ページのペラ新聞となっていた。したがって、戦後、既存の新聞社はこぞって、用紙の戦前水準までの配給の復活を要望していた。他方、GHQの民主化政策によって言論の自由が認められると、新興紙の叢生という現象も見られた。
日本におけるジャーナリズムの問題を歴史的に考察する際、占領期が日本のジャーナリズムの一つの転換期であったことは言うまでもないだろう。日本の敗戦によって、それまでのジャーナリズムのあり方が問題とされ、その内外から改革が行われた。そのうち、新聞社内部の民主化運動は、内側からの改革の動きであった。他方、新興紙の叢生という状況は、既存の新聞に対する一種の外側からの改革の動きであったと考えることができる。つまり、新興紙の創刊は、敗戦を契機として、それまでの価値観の動揺・崩壊を実感し、解放感にひたった人々が、自らの意見を表明しようとした、いわば草の根のジャーナリズムの活動であったということができる。
 しかし、新興紙の創刊ラッシュは、GHQの奨励によるところも大きかった。すなわち、占領初期の用紙割当においては、既存紙に比べ新興紙が優遇されるような状況があったために、既存紙が、新興紙の看板を立てて夕刊紙や協力紙を創刊したからである。
 新聞用紙の生産がすぐには回復しない状況のもとで、新聞用紙に対する需要が一挙に増大したことから、戦後も新聞用紙の配給・割当が継続されたのであるが、それを政策的に決めることは、常に困難な問題に直面した。用紙の配分は新聞社にとって死活問題に関わるだけに、人為的に決めるとすれば、必ず批判にさらされざるを得なかったからである。用紙配給量の修正を図るための新聞購読調整は、そうした問題の解決を図ろうとしたものだが、かえって混乱を増幅させる結果となった。また、用紙割当制度をいつ撤廃するかという問題も、これが新聞界全体を再編の渦に投げ込むものであっただけに、つねに新聞界の注目を集めるものであった。
さらに、用紙割当は、たんに占領期の新聞社の経営上の問題ということにとどまらない。いかなる新聞社に用紙を配給するかということは、新聞の「戦争責任」の問題をどのように考えるか、戦後の日本においていかなる新聞を育成するかという問題と密接に関わっており、ひいては日本の文化と民主主義の問題ということができよう。
このように用紙割当政策には、経済政策としての側面と、言論政策としての側面の2つの側面があったと考えることができる。経済政策的な側面から見れば、公定価格や割当制度によって、用紙の生産流通を統制することは、当然、自由主義的な市場経済とは両立し得ない。しかしながら、用紙の需給関係が著しくバランスを欠いていたことから、戦後も配給・割当が継続されたのである。
他方、用紙割当制度が、言論政策的な性格を持っていたことも確かである。そもそも戦時下の用紙統制は、用紙の円滑な配給を期して実施されたのであるが、それが言論統制に用いられ、一県一紙への新聞統合の際にも大いに活用されたことからも、それは知ることができよう。占領期に関して言えば、「戦争責任」の問題を棚上げして既存の大新聞社に用紙を割り当てるか、経営が弱体で内容的に貧弱なものであっても小規模の新聞社や新興紙に積極的に用紙を割り当てるかということは、単に経済政策からは決定し得ない問題であり、いかなる新聞を育成するかという言論政策から決まるものであった。
 これまでの占領期の新聞政策に関する研究は、占領軍の実施した新聞検閲に関するものや、読売争議などの新聞社における労働運動、およびそこから派生した編集権に関する研究などが主で、用紙割当制度は軽視されてきたと言える。これらの先行研究では、概してGHQによる日本のメディアの統制という側面が強調されてきたわけであるが、それらの研究をより精緻なものにしていくとともに、より広範な言論報道政策全体の中でとらえ返すことも必要となっているように思われる。
とりわけ、先行研究においては、CCD(民間検閲支隊)の行った検閲が過大に取りあげられるきらいがあったと言わざるを得ない。たしかに、検閲という言論統制は、軍事占領の抑圧的な側面を如実に表している。しかし、その後のメディアの歩みを考える時、むしろCIE(民間情報教育局)の行ったさまざまな「改革」のほうがその影響の広範さ・強さからいって大きかったのではないだろうか。それゆえ、本研究でもCIEに着目して、その新聞政策の理念や変遷を描くことに腐心したのである。
本論文は、国立国会図書館憲政資料室所蔵のGHQ/SCAP資料、国立公文書館所蔵の新聞出版用紙割当局文書、東洋大学図書館所蔵の千葉雄次郎寄贈資料などの第一次資料を使いながら、上に述べた新聞用紙割当制度の理念と実態、その限界などを論じることでGHQのメディア政策について考察しようとするものである。
用紙割当政策が内包していた経済政策的側面と言論政策的側面の両方に着目しながら、以下の議論を進めていくこととする。本論文の構成は次のとおりである。
まず、第1部「戦後の新聞用紙割当制度と戦後新興紙」では、占領初期から1948年11月の購読調整までの時期を対象として、戦後の新聞用紙割当制度の創設から購読調整までの経緯、ならびにそれに対する既存紙・新興紙の対応などについて論じる。
 すなわち、第1章「戦後の新聞用紙割当制度の創設」では、戦時下の用紙統制と比較しながら、戦後の新聞用紙割当制度の創設の経緯を見る。戦時下の新聞用紙統制は1940(昭和15)年5月22日に内閣に、新聞雑誌用紙統制委員会が設置されたことをもって始まると考えることができる。政府は、新聞紙法などの法律による統制や検閲による行政的措置などとともに、新聞用紙に対する統制を強化することによって新聞社に対する指導を徹底しようとしたのである。実際、新聞統合において用紙統制は大きな力を発揮した。こうしたことから、戦後になってGHQは用紙割当制度の刷新を日本側に求め、1945(昭和20)年11月26日に新たに新聞及出版用紙割当委員会が創設された。この委員会は当初は情報局が、のちに商工省が所管した。ここでは、既存紙に対しては終戦時の実績をもとに割当を行うとともに、新興紙に対してはその申請に対して一律に用紙を割り当てた、これが新興紙の創刊ラッシュを招いたのである。
 つづく、第2章「新聞用紙の割当制度をめぐる政治力学」では、1946年の内閣への移管以降、同制度の変遷をたどるなかで、その時々の政治力学を明らかにした。出版界では、戦争責任の問題に端を発し、用紙割当に対する不満から大日本雄弁会講談社、旺文社、主婦之友社などの大手出版社が日本出版協会を脱退し、新たに日本自由出版協会を組織した。日本自由出版協会は、1946年の上半期、日本出版協会が用紙割当原案の作成に関与するのをきらい、用紙割当委員会を内閣に移管するよう画策した。内閣移管には新聞界からも反対論が噴出したが、とりわけCIEは難色を示した。その結果、内閣移管は、その年の11月になってようやく実現するが、日本新聞協会ならびに日本出版協会がひきつづき用紙割当委員の人選に関与するとともに用紙割当原案を作成することを認めさせたのである。こうしたCIEの姿勢は、政府からある程度の独立性を有したある種の独立行政委員会方式の採用を目指したものであるが、その狙いは日本新聞協会ならびに日本出版協会の2つの組織を利用してメディア全体に睨みをきかせ、メディア側の同調を引き出そうとしたものだと考えられる。
 第3章「新興紙の叢生と全国紙」では、新興紙の創刊ラッシュの原因となった用紙割当制度をめぐる既存紙や新興紙の思惑を明らかにする。第1章で述べたように、占領初期の用紙割当では新興紙を優遇したことが新興紙の誕生を促す契機の1つとなった。この背後には、一県一紙制を望ましいものとは考えなかったCIEが新興紙を育成しようという意図があったのではないかといわれている。新興紙には既存紙にない内容上の特色を持つものが多くあった。また創刊の経緯から大別すると、①戦時下の新聞統合で休刊したり、県紙へ合併された新聞の復刊、②既存紙の協力紙ないしは系統紙、③既存紙とは特に関係を持たず、それに対する批判的な立場から創刊された狭義の新興紙、の3種類があった。このように全国紙も全国各地に協力紙を創刊したのであるが、このうち『朝日新聞』とその協力紙の関係を見てみると、協力紙側は「協力新聞八社会」や共同の東京支局を設けたり、『朝日新聞』から写真や解説記事の配信を受けたりしていた。しかし、他方で人事面などでは朝日新聞社側の対応は一貫せず、次第に両者の溝は深まっていった。
 第4章「用紙割当制度の矛盾の顕在化」では用紙生産の状況と闇取引について述べ、同制度の矛盾が次第に露呈する経過を明らかにする。既存紙の多くは、新興紙や中小紙の印刷を請け負っていた。これは、印刷機を有効活用するというだけでなく、その際に生じる「白損紙」や「黒損紙」を自紙の印刷に使えるというメリットがあったからである。また、石炭や木材を直接製紙会社に持ち込んで用紙を獲得する「丸炭・丸木」と称されるバーター方式も見られた。他方、新興紙の側も、獲得した用紙を最初から印刷せずに横流しをしたり、残紙を袋紙用に業者に流すなどして利益を上げていた。こうした不正な取引については、用紙割当委員会やCIEも調査を行っているが、それを停止する有効な手だてはなかった。こうした紙の闇取引は、用紙割当制度に内在する構造的な矛盾であったと考えられる。すなわち、市場にそれを委ねるのでなく、行政的に上から割当を決定するという硬直性に対する反作用であった。
こうした用紙割当制度の矛盾は、読者が読みたい新聞を読めないという事態も招いた。そうした矛盾も解消するために、CIEは世論調査ならびに転読希望調査を実施するように日本側に求めた。第5章「『新聞に関する世論調査』の実施」では、用紙割当委員会が時事通信社に依頼して、1947年8月から9月にかけて実施した「新聞に関する世論調査」の実施方法やその経緯をたどるとともに、その結果から読み取れる当時の読者の嗜好を分析する。実施方法として全国41679世帯主を対象とした大がかりな調査であったが、より小さいエリアを対象とする新興紙や地方紙には不利な結果が出るという欠陥をもっていた。「新聞に関する世論調査」の結果は、「主読希望紙」「併読希望紙」「立売希望紙」ともに全国紙3紙や既存紙に希望が集まる結果であった。とくに「主読希望紙」では実に96%が既存紙を選択した。また、地方によっては地元の県紙が圧倒的な支持を得た。それに対して、新興紙の多くは苦戦したが、それでも復刊型のものや既存紙の夕刊代替紙として創刊されたものはある程度の購読希望を集めた。また、東京では娯楽を重視する夕刊紙は購読希望が少なくなかった。
 第6章「購読調整の実施とその影響」では、それに引き続いて実施された転読希望調査の実施過程をたどりながら、購読調整に対する既存紙や新興紙の対応を明らかにする。「新聞に関する世論調査」の結果は、CIEが期待していたものには反していたため、CIEは結果を公表せず、またこれに基づいた用紙割当の変更も行わなかった。そして、「新聞購読調整事務所」を設置して、直接読者にたいして「転読希望調査」を行うように日本側に強く求めた。これに対しては、日本側は公正な調査を期待できず、業界を混乱に陥れるとして反対したが、CIEの意向は強く、1948年11月1日に全日刊新聞に「転読希望申込票」刷り込むという形式で実施に移された。これは、事前に懸念されたとおり、新聞社がはじめから申込票を刷り込まなかったり、販売店が切り抜いたりなどの不正行為が続出し、大混乱を招いた。とりわけ、大都市近郊など、新聞販売競争の激しい地域では、申込票をめぐって争奪戦が繰り広げられた。その結果、2回目以降の「転読希望調査」の実施は不可能となったが、それでも地方の弱小紙や大都市の新興紙の統廃合を推し進めるなどの影響を新聞界にもたらした。そして、来たる自由競争への気運を高める結果となった。
第2部「戦後新興紙の盛衰 ~『中京新聞』の事例」では、視点を新興紙に移す。ここでは、1つの事例として、名古屋市で発刊された『中京新聞』を取りあげ、その創刊から廃刊までの経緯をたどりながら、用紙割当制度のもたらした影響について論じる。
ここで『中京新聞』を取りあげるのは、主に3つの理由からである。第1に、『中京新聞』は占領期のある時期まで精彩を放ちつつ、しかしその後衰退したという点で「新興紙の一典型」(香内三郎)と考えられること。第2に同紙が『朝日新聞』の協力紙としての一面を持っており、全国紙と新興紙の緊密で、しかし矛盾に満ちた関係をより実態に即して捉えるのにふさわしいこと。第3に、『中京新聞』が発行された名古屋では、東京・大阪につぐ大都市でありながら『中部日本新聞』(現、『中日新聞』)が高いシェアを誇っており、日本における地方紙の高い占有率、すなわち、一県一紙制の問題を考えるに当たって、名古屋は取り上げるにもっとも適切な地域であること。以上の3つである。
 第7章「『中京新聞』の創刊」は同紙の創刊の経緯を描く。これは、社会党の代議士・加藤勘十が新聞用紙の割当を受けたことに端を発する。加藤は、朝日新聞社代表取締役の野村秀雄に相談し、朝日から元編集総長の千葉雄次郎を社長とすることとなった。こうして、加藤らと朝日の提携により誕生した。名古屋では新聞統合により『名古屋新聞』と『新愛知』が合併し『中部日本新聞』という巨大な新聞社が誕生するとともに、『朝日新聞』は『毎日新聞』とともに印刷発行の撤退を余儀なくされた。したがって、朝日新聞社にとっては名古屋に協力紙をもつことが経営上の戦略として必要であった。こうしたことから、名古屋では、朝日新聞社系の『中京新聞』と『夕刊新東海』、毎日新聞社系の『東海毎日新聞』が生まれた。中部日本新聞社も『名古屋タイムズ』と『中部経済新聞』を創刊し、これに対抗した。『中京新聞』は、「発行の趣旨」として「クオリティーペーパー」の実現をめざすとしていたが、初期の紙面では毎日「文化欄」を設けたり、第1面のトップには地元の記事で重みのあるものを掲載しようと努力をしていた。
 第8章「中京新聞社の経営」では同紙の株主総会などの資料に基づいて経営の実態を検討する。発行エリアとしては、名古屋を中心に東海3県が中心であったが、静岡、滋賀、長野などでも購読されていた。また宅配よりも即売に依存しており、そのために経営は不安定であったが、初期には8万部程度が販売されていた。また、販売収入と広告収入の比立は6:4で、既存紙に比べると広告収入の比率は低かった。しかしながら、第2期(1947年上半期)にはわずかながら黒字を計上するまでに至った。1948年11月の新聞購読調整の結果が中京新聞社の経営を悪化させた。中部地区でもっとも減数が大きかったからである。中京新聞社は経営体制の立て直しを図るとともに、紙面を刷新して娯楽色を強めていく。これは短期的には読者の獲得に有効だったが、紙面の通俗化は「クオリティーペーパー」を求めていた読者を手放すことになり、結局は衰退への道をたどる一因となってしまった。
 第9章「『中京新聞』の最期」では1949年以降、次第に追い込まれていく同紙の姿を描く。1949年頃になると、統制外のセンカ紙が大量に生産されるようになり、各紙は一斉に増紙攻勢をかけ、発行部数の拡大、販売エリアの拡張を図った。中京新聞社も、1949年6~7月に増紙を試みるが、結局は他紙に食われる結果となり、相当な経費を浪費した。そのため、損益計算書上でも赤字に転落し、朝日新聞社に全面的に依存し、その肩入れなしには存続できない状態に陥った。さらに追い打ちをかけたのは、『朝日新聞』と『毎日新聞』が1950年2月1日から、名古屋での印刷発行を再開したことである。これは、朝日新聞社との関係を徹底的に変化させた。つまり、朝日新聞社にとっては『中京新聞』はもはや無用の長物となったからである。これに対して、中京新聞社は自前の印刷会社の創立し、『夕刊新東海』と合併することによって朝日新聞社からの自立を図ろうとするが、その過程で加藤グループと千葉ら朝日新聞社系の人々との路線対立が表面化し、千葉らが退社するに至った。結局、中京新聞社は朝日新聞社などからの借入金を返済できる見込みがなく、1951(昭和26)年5月5日付けの新聞をもって廃刊を余儀なくされたのである。
第3部「政策としての用紙割当制度」は、購読調整以降の占領末期の用紙割当制度の持った意味を考察する。ここでは通史的に論を展開するのではなく、いくつかの事件をもとに同制度の矛盾やそれがもたらした影響について論じる。
第10章「『アカハタ』と用紙割当」は、政党機関紙に対する用紙割当の問題を取り上げ、とくに言論政策としての側面から用紙割当政策を考察する。日本共産党の機関紙『アカハタ』は用紙割当を受けた上で、1945年10月に復刊した。当初は週刊であったが、次第に刊行頻度を増すとともに、発行部数も拡大していった。こうした『アカハタ』の伸張にGHQも目を光らせていた。そのため、紙の横流しがないかどうかなどを調査している。1949年3月、CIEのブラウン情報部長は、用紙割当委員会に対し、4度の覚書を発し、政党機関紙への割当の修正を求めた。これは、直近の総選挙での得票率に応じて、各党への用紙割当を行うというものであったが、実質的には『アカハタ』の用紙割当削減を意図していた。GHQ/SCAP資料によれば、こうしたCIEの姿勢は、GS(民政局)などとも協議を経たものであった。さらに重要なことは、この割当削減決定に至る経緯において、吉田茂首相がマッカーサー元帥宛の書簡の中で、政党機関紙への割当を全廃し、その分をい一般紙へ振り向けることを要請していたことであった。吉田にとっては、与党側の機関紙を作るよりも、自分を支持する一般紙への用紙割当を増やす方が有利だとの判断があったのである。このように、日本政府は、GHQの威光をかりて、共産党攻撃を行おうという意図があった。政党機関紙に対する用紙割当の修正によって、共産党はより高価なセンカ紙を使わざるを得なかった。1950年6月、朝鮮半島情勢が緊迫化すると、『アカハタ』とその後継紙はマッカーサーによって無期限停止とされた。もはや用紙割当の修正というような搦め手の策から、より直接的な弾圧へと変化したのである。
 第11章「用紙統制撤廃をめぐる政治過程」では、用紙割当制度の撤廃の経緯を、とくに日本政府の働きかけと、それに対するGHQ内部の対立を軸にしながら明らかにする。1949年7月12日、吉田茂首相は、マッカーサー元帥宛に、新聞用紙統制の全面撤廃を訴える書簡を送った。こうした要請はすぐには実らなかったが、ESS(経済科学局)内部ではかなり検討されたようである。実際、新聞用紙の生産は1949年頃からしだいに回復の兆しを見せたが、それ以上に急激な生産量の伸びを示したのがセンカ紙と呼ばれる統制外の印刷用紙であった。質の悪いセンカ紙のほうが、公定価格に縛られていた正規の新聞用紙よりも高い価格で取引されていたため、製紙業界は非統制紙の生産に積極的になるのも当然であった。また、当事者の新聞社の中からも新聞用紙の統制撤廃を求める議論がわき上がった。もっとも急先鋒だったのは『読売新聞』である。同紙は、社説で再三この問題を取りあげ、早期の統制撤廃を主張した。他方で、地方紙や新興紙は早期の統制撤廃には反対であった。結局、GHQは、1951年5月1日をもって新聞用紙の統制撤廃を認めたが、そこには、各部局の対立があった。ESS用紙割当制度の存廃を、もっぱら経済政策的側面から捉えていた。ESSは、1951年3月までは、新聞用紙の需給関係から価格の急激な変動を憂慮し、統制撤廃には慎重であったが、統制がむしろ増産の妨げになるという理由から統制撤廃に方針を転換した。他方、CIEやG-2(参謀第2部)は、経済政策というよりもむしろ言論報道政策の面から、用紙割当政策を捉えていた。しかし、両者の見方は、大きく異なっていた。すなわち、CIEは、用紙割当制度を活用することによって、あくまで小新聞を保護育成しようとする意図を持っており、また、用紙割当制度によって、最後まで新聞界に対して、睨みをきかそうとしていた。それに対して、G-2は、用紙割当制度の早期の撤廃により、自由競争システムの確立をめざしており、それによって保守的な大新聞を擁護しようとする立場であった。ここにはG-2の反共の姿勢が色濃く出ている。こうした対立は、用紙割当政策に、経済政策的な側面と言論政策的な側面の2つがあったことを如実に示している。
 第12章「日本出版協会の事業者団体法違反事件」は出版界に目を転じ、日本出版協会の持つ原案作成権やそれを後押しするCIEの姿勢を明らかにする。日本出版協会の事業者団体法違反事件とは、概略以下の通りである。1949年6月23日、公正取引委員会は、日本出版協会に対して、事業者団体法第5条第1項第1号の規定に違反するものとして、審判開始決定書を送達した。1950年5月9日、公正取引委員会は、日本出版協会の出版用紙割当に関する行為は事業者団体法に違反すると認め、それを禁止する審決を下す。それに対して、6月8日、日本出版協会が、審決を不服として、東京高等裁判所に対し審決取り消しの訴を提起。最終的には、1953年8月29日になって、東京高裁は原告の請求を棄却する判決を言い渡し、事件は終結した。GHQ/SCAP資料は、この事件の背後に、厳正な公正取引の実現を求めるESSと事業者団体をとおして日本のメディアを監督しようとするCIEの路線対立があったことを示している。そして、この事件が提起したのは、経済政策と、メディア政策の衝突である。そもそも、用紙割当制度とはどのような出版物に用紙を割り当てるかを政治的に価値判断する制度であり、市場経済を基軸とする経済的な自由主義とは矛盾するのは自明である。経済的な側面からは、政治的な思惑や恣意を極力排除し、消費者の需要に合わせて商品が流通することが「自由」であり、またそのために市場が公正に機能することが「民主的」であると言える。しかし、出版界でそれを極端に進めれば、中小の出版社が淘汰され、その結果、実質的には「言論の自由」が奪われることになりかねない。まして、その帰結として戦中の軍国主義的な言論が復活することにでもなれば、「民主主義」的な言論の育成に傾注してきたCIEの意図に反することになる。CIEとすれば、「自由」で「民主的」な言論を育成するには用紙割当制度を通じたコントロールはまだ必要なものであったのである。「自由」「民主的」といった理念は占領する側にとっては普遍的に共有されたものであったにせよ、それを戦後日本で具体化していく道筋については相違が生じてい。この事件で問われたのは、まさにこうした矛盾であったと言える。
 以上の論述にもとづいて、終章では、占領期における用紙割当政策の意義を明らかにするとともに、GHQ内部の問題、日本政府とGHQの関係、新聞の対応といった諸点から、占領史研究全般に関わる論点についても論及する。
 ここまで述べてきたように、占領期の用紙割当政策には、経済政策として一面と、言論政策としての一面があった。これは戦時下に確立したものだが、GHQも制度としてはそれを踏襲した。
 経済政策としては、新聞用紙の生産量が戦前の最高水準のわずか4分の1ほどしかないという状況において、公定価格や割当制度によって、用紙の生産流通を統制せざるをえなかった。しかし、それは、当然、自由主義的な市場経済とは両立し得ない。その結果、実勢の闇取り引き価格と公定価格の間に格差が生じてしまっているところに矛盾が生じていた。また、丸炭・丸木のバーター方式のような制度をとおさない流通取引が行われたり、製紙業界が利益の高いセンカ紙の生産に積極的になるといったところに、制度の破綻が見られた。そうした観点からすれば、割当制度はあくまで急場しのぎの一時的なもので、生産が回復すれば、取引を市場に委ねることになったのは当然の結末であった。
 他方、用紙割当制度が、言論政策的な性格も持っていたことも明らかである。占領初期には、新興紙を優遇するような割当が行われたし、末期には『アカハタ』に対する割当削減といったあからさまな言論への介入が行われた。この点、戦時下の用紙統制との間には、基本的な相違はない。そもそも戦時下の統制経済の一環として開始された用紙統制が、戦後も継続されること自体、「民主化」の観点から言って矛盾があったことは否めない。政策的に、新聞社に用紙を割り当て、育成していくということは、一面では、民主主義を日本に根づかせるための重要な方策ではあったが、割当を受けられないものにとっては言論弾圧という一面も持っていた。新聞用紙は新聞発行の生命線ともいうべきものであり、新聞社間では、激しい用紙獲得競争が繰り広げられていた。小新聞の側からは、用紙割当制度は大新聞を優遇し、現状維持的であるという批判があり、他方、大新聞の側からすれば、用紙割当がむしろ新興紙優遇であり、エロチックなものなど望ましくない新聞にも用紙を割り当てているという批判があった。いずれにしろ、政策的に用紙割当量を決定していくとすれば、読者の意向を反映していないという批判をうける結果となるのもやむを得ないことであった。
 こうした2つの側面を体現していたのが、ESS(経済科学局)とCIE(民間情報教育局)というGHQ内の2つの部局である。用紙割当は、価格統制・配給に関わることから、財閥解体の担い手であったESS(経済科学局)が直接の担当であった。経済政策的側面からすれば、統制を撤廃し、自由主義経済へ移行することは占領政策の根幹の1つであったし、そのために厳正な公正取引の導入を図った。それに対し、アメリカ流の民主主義の理念を宣伝啓蒙するために最大限メディアを利用しようとしたのがCIE(民間情報教育局)である。民主化プログラムないしは日本人の「再教育」を遂行していたCIEにとって、用紙割当制度は、日本の言論機関を監督するためのメカニズムであり、それゆえ最後まで用紙割当制度の存続を求めていた。ESSとCIEは用紙割当制度の撤廃時期や事業者団体の活動範囲をめぐって鋭く対立したが、それは用紙割当政策に対する理念が決定的に違ったという点に起因するのである。
 これに占領政策の安全かつ円滑な遂行のために検閲・情報収集を行い、情報を統制管理しようとしたG-2(参謀第2部)も加わり、GHQの政策は必ずしも整合性の取れたものではなかった。とくに米ソ冷戦の進行、それに朝鮮戦争の勃発といった国際情勢の変化につれて、政策も変化していったのである。
こうした状況は、GHQの「民主化」政策の限界を表しているとも言える。序で述べたように、GHQの政策の当初の究極的目的は、「民主化」と「非軍事化」にあったが、他方で占領政策を円滑に行う必要から「統制」にも腐心した。占領期の用紙割当政策にもこの両面が内在し、時に助長しあい、時に相互に反発しあった。
 すなわち、初期の用紙割当における新興紙優遇策は、多様な言論を確保するという意味で「民主化」政策の一環に位置づけられるが、それは既存紙に一定の枠をはめるという意味では「統制」でもあった。そもそも新聞のあり方を啓蒙・教化するということは、一面では為政者が新聞を統制することに他ならない。
 しかし、ここでより重要なのは、GHQは少なくとも用紙割当政策については、具体的な政策プランを十分に検討しておらず、時に場当たり的な対応に追われたという点であろう。CIEには、小新聞を保護育成しようとする意図があったと言われている。これは、おそらく、地方紙中心のアメリカの新聞界にモデルをとり、また、インボデン中佐のように、アメリカで新聞事業に関わっていた人物がGHQ内部にいたことに起因するものと思われる。しかし、CIEが、意図だけでなく、実際にどれだけ小新聞、地方紙、新興紙を育成するための方策を実施したかということについてははなはだ疑問である。確かに、初期の用紙割当では、新興紙を優遇したことが新興紙の創刊を奨励する効果を持ったということは事実である。けれども、既存紙の既得権益に手をつけなかったことも、また事実である。他の被占領国の例では、マス・メディアの戦争責任を追及し、それを廃刊させたのであるが、日本ではそうではなかった。日本側がそれを脅威に感じたことはあったかもしれないが、そもそもアメリカは新聞社の解体や廃刊を念頭においていなかったと考えられる。そして、戦争責任の追及よりもむしろ、占領政策の遂行に利用し、同調を引き出すことに重点をおいていたのである。
 新興紙に対しては、用紙割当を行うことで創刊の条件を与えたとは言えるものの、その後、積極的な育成策は見られない。また、新聞購読調整では、読者の意向を取り入れるという理念ばかりが先行し、新聞社や販売店による不正をどのように防いで読者の意向を確実に把握し、それを反映させるかについての具体策はまったく欠如していた。CIEなどは、新聞購読調整によって新興紙が伸びることを期待していたようであるが、それが裏目にでてからは新興紙が淘汰されるままでまったく無策であった。
 それに加えて、国際情勢の変化にともなって、連合国の政策それ自体にも大きな転換があった。それゆえ、新聞用紙割当政策においても、必ずしも政策に一貫性が見られなかった。アメリカが日本に根づかせようとしていた「民主主義」の本質が、新聞用紙の割当政策にも現れているように思われる。あくまでも、アメリカが許容する範囲内での、ないしはアメリカの意志に沿う形の「民主化」であった。そのため、情勢の変化にともなっていかようにも変化しうるものであった。
 次に、用紙割当をめぐる日本側の対応について検討したい。これまで、日本の関係者の回想などでは、GHQの力を過大に評価する傾向が強かったように思われる。しかし、本論文で明らかにしたように、日本側の対抗力も決して小さくはなかったのである。特に、日本政府は積極的にGHQに働きかけを行っている。それも、重要な事項について、吉田茂首相はたびたびマッカーサー元帥宛に書簡を送った。用紙割当の問題に関して言えば、1つは『アカハタ』への用紙割当削減についてであり、もう1つは用紙統制の全面的な撤廃の要請である。
前者に関連して、新聞用紙割当事務庁の成田勝四郎長官は、この修正がGHQの意向であると国会で答弁した。しかし、当時、吉田首相はCIEよりも強硬な政党機関紙対策を当時考えていた。政府は、GHQの覚書を盾に、この用紙問題を共産党攻撃に最大限に活用しようとしていたものと考えられる。このように占領者としてのGHQ、そしてその頂点に立ったマッカーサー元帥を絶対者として万能視し、その虎の威を借りながら、自己の考えを実行しようとしていく姿勢をたびたびとった。これは、「外圧」を利用して構造の修正をはかっていくというその後の日本の政治文化に近似していると言えよう。
当事者の新聞社側の動きについてであるが、新興紙に比べ、既存紙は常に優位な立場にあった。既存紙にとって、初期の用紙割当は不満ではあったが、協力紙ないしは系統紙という形態の新興紙によって、実質的には割当を受けることが可能であった。新聞購読調整にあたっても、販売店との関係をてこに有利な結果を得ることができたのである。
 それでは、こうした占領期の用紙割当政策はその後の日本の歴史にどのような影響を及ぼしたのだろうか。その最大の帰結は新興紙の衰退が、今日の五大紙+一県一紙の枠組みの確立を招いた頃である。戦時下の新聞統合と今日の新聞の布置はきわめて近似している。既存紙で占領期を乗り切れなかったのは1紙もない。新興紙で占領期を乗り切ったのは10数紙に限られ、しかも既存紙の影響力を脅かすような力を持つものはほとんどなかった。結局、あとに残ったのは、戦時統制の産物である一県一紙制である。その意味で、新聞界においても「1940年体制」(野口悠紀雄)が存続したのだと言える。しかし、これを戦時統制の遺物と考えるべきではない。むしろ、統合によりスケールメリットを得た県紙にとって、全国紙と競争するためには、県紙の座を維持し、それによる「うま味」を追求するほうが得策であるという経営判断が働いたのであり、新興紙の挑戦を退け、積極的に一県一紙制を指向したというべきである。
 その後の展開をみれば、県紙の躍進は目を見張るばかりである。県紙は、新聞だけにとどまらず、ラジオ局、テレビ局の開局にも積極的に関わった。そのため、県紙のオーナー一族が、新聞社・放送局など、その県内の言論機関のトップの座を独占し続けるという状況が多く発生している。このような、メディア間の資本の融合によって、さらに県紙はその地位を強固にしている。
しかし、県内に対等の力を持つ新聞が存在しない状態にあって、県紙は県政財界に対する報道が無批判で一面的になりやすく、また地元優先主義に徹しすぎて、視野が狭くなりがちなことも事実である。権力との間に一定の距離を保つことができず、持ちつ持たれつの関係になりやすい。そのため、県紙には、県政財界への迎合記事の氾濫、それに対する批判や反論の黙殺などによって、権力の監視というジャーナリズムの本来の機能が低下しているものも見られる。
新興紙の衰退は、言論の多様性を失わせる結果となった。たしかに、戦中の新聞統合は政策的に上から進められたのに対して、戦後の統合は新聞社間の競争の帰結である。しかし、それは必ずしも言論上の競争の結果ではなく、経営上の「自由競争」の結果である。それとても実際は戦前からの販売店との結びつきの強さなどが既存紙に有利に作用したので、「機会の平等」が確保されての競争ではなかった。
 逆に新興紙の限界は、印刷の委託や共販制への依存など経営上の自律性を持ち得なかったことである。それゆえ、初期の特色ある紙面を維持することができず、結果として独自性を喪失し、存在意義を薄めていった。本山彦一の「新聞商品論」を持ち出すまでもなく、言論の独自性の確保のための経営の安定は言論機関を支える基盤であるが、新興紙の場合、用紙割当権だけが財産という状況ではそれは望むべくもなかった。
 しかし、その後の歴史を見れば、新聞社は、一方で再販制度や株式譲渡制限制度などによって経済的自由競争に曝されずにすむ特権的な地位を得ながら、自らが合意した協定を無視した販売競争-ナベカマ戦争-に明け暮れていった。新聞社は紙面の内容よりも経営を重視し、新聞事業そのものの維持・拡大を自己目的化する。そしてこうした新聞社間の競争が、さらには放送事業なども取り込みながら、より上位のメディア・システムを形成していったのである。

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