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博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:初期ヘーゲル論考
著者:松村 健吾 (MATSUMURA, Kengo)
博士号取得年月日:2005年11月9日

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はじめに
 ヘルマン・ノールの編集になる Hegels theologische Jugendschriftenが出版された1907年から初期ヘーゲル研究という特異な分野がヘーゲル研究の内部に形成され、多くの研究者の関心を集めてきたが、その歴史も既に一世紀に及ぼうとしている。私は初期ヘーゲルの草稿の内在的研究を、以下の心構えでもって遂行していきたい。
第一に何よりもヘーゲル自身の草稿に付き従いながらそれを読み解いてゆくこと。それをあえてブーフシュタビィーレン(一文字ずつ読む)の立場と呼ぶ。それは自分なりの解釈を作り上げて、その解釈に都合のいい部分をヘーゲルの草稿の中から拾い出すという態度をできるだけ避けるためである。
第二にそれらヘーゲルの草稿を時代の文化・精神の中で理解する。ヘーゲルが影響を受けたのは、著名人だけからではなく、現在では忘れ去られているような同時代人からも幾多の影響を受けたと思われる。それらを可能な限り発掘してゆくこともヘーゲル研究の大きな課題であろう。
第三にヘーゲルの個性ある性格を把握すること。ヘーゲルが何を大切にし、何にどう反応するのかという基本パターンを取り出すこと。この基本的性格の上に時代の様々な文化が影響を及ぼしてくるのである。
第四に、時代の動きの中でヘーゲルの思想を捉えること。具体的にはドイツの政治的現実とフランス革命である。以下で私は、具体的にフランス革命やドイツの現状とヘーゲルの思想形成を関連付けて捉えるよう努力するつもりである。
第五に、若いヘーゲルの思想形成の内で作用している概念を取り出し、その意味内容を問うとともに、その概念のその後の消息を調べること、いわゆる「概念史的方法」を初期ヘーゲル研究にも導入したい。「民族宗教」「道徳性」「実践理性」「実定性」といった初期ヘーゲル固有の概念の誕生・展開・行方を追跡する。
なお1989年にはアカデミー版のヘーゲル全集の第一巻が出版された(以下、『新全集1』と呼ぶ)。以下、私はこの新全集の第一巻を基本のテキストとして初期ヘーゲル思想の生成の跡を追ってゆくことにする。私のこの研究は、『新全集1』に依拠した最初の全面的な初期ヘーゲル研究である。

序章 ヘーゲルにおけるVolksreligionの誕生
 ノールはヘーゲルの最初期の草稿に『民族宗教とキリスト教 Volksreligion und Christentum 』という表題を付けた。これこそが初期ヘーゲルを代表する作品として注目を集めてきた。しかしノールは、その表題そのものについてはとりたてて説明はしていない。その後の研究者も同様である。ヘーゲル自身が使用しているこのVolksreligionという言葉は耳慣れない言葉であるにもかかわらず、そこにおけるVolkとReligionが余りに耳慣れた言葉であることもあり、これまで合成語としてのこの言葉そのものは注目されることがなかった。先ずはこの言葉の由来を探る必要がある。
1 Volksreligionという言葉
Volksreligionという言葉は、どうももともとのドイツ語ではないようである。ただしそれはヘーゲルの造語というわけでもないようであり、当時幾人かの人々によって使用されていたようである。当時ルソーが用いていたフランス語のreligion nationaleやヒュームが用いていた英語の popular religion, national religionが当時のドイツ啓蒙思想界の一部でドイツ語でVolksreligionと訳されて1780年頃から受容され、ヘーゲルが眼にするところとなった、と思われる。それは新しい言葉であり、古くからのドイツ語としては Volksglaubeがあり、当時もそちらが一般的には使用されていた。この言葉を最初は特別の意義を与えることなく使用していたヘーゲルは、チュービンゲン時代のある時期からそれに特別の意味を込めて、つまりは自分固有の「概念」として使用し始めたのである。その時Volksreligionはまさにヘーゲルの造語となったのである。
2 ヘーゲルにおけるVolksreligionの最初の出現個所
 このVolksreligion なる言葉がヘーゲルの文書に出てくる最初の個所はギムナジウム時代に遡る。その中のText4にVolksreligionという言葉が最初に登場する。それは『ギリシア人とローマ人の宗教について』と題された作文である。ヘーゲルは17歳になろとしていた。私見によればそれはヒュームの『宗教の自然史』を援用した作文である。ヒュームは民衆をvulgarと呼んで、宗教が迷信化する大きな原因をそこに見ようとしている。無知な大衆が迷信的な宗教の源となっているという認識がヒュームの宗教論の特色なのである。「民衆」への根強い関心がヘーゲルの基本的性格の一つと言える。後のヘーゲルのVolksreligionの根は「民衆」にあったと言える。
3 ヘーゲルの少年時代の日記と抜粋における民衆と啓蒙
ある日の日記では賢者とペーベルという対立図式を「啓蒙」という概念で新たに捉えなおそうとしている。そこでヘーゲルは啓蒙を二つに区別している。一つは学者の啓蒙、もう一つは一般大衆の啓蒙である。ヘーゲルは「一般大衆の啓蒙は常にその時代の宗教に従って生じる」と言っている。この二つの啓蒙の区分は当時のヘーゲルの考えを知る上で非常に重要である、とりわけ民衆が宗教と密接不可分に把握されていることに注目すべきである。ヘーゲルにとって民衆を論じることは、宗教を論じることであった。
4 チュービンゲン時代
 ヘーゲルのチュービンゲン時代に関しては、残されている文書資料は最初期の作文一つと、四つの説教と、Text12からText16までの草稿とヘーゲルの記念帳だけである。これまで多くのヘーゲル研究者(ローゼンクランツも含めて)は、残されたヘーゲルの四つの説教にほとんど関心を払ってこなかったが、それは誤りと思われる。それらを当時のヘーゲルの思想の中に位置づける必要がある。第一の説教では、摂理の問題が取り扱われる。第二の説教の頃にはヘーゲルは既に自分の宗教論、『民族宗教とキリスト教』の準備草稿を書き始めていた頃である。ヘーゲルはこの第二の説教において、「人間愛」と「徳」に強い関心を示しており、注目に値する。フランス革命がヘーゲルたちの精神に具体的に影響を及ぼし始めたことが推察される。第三の説教は、真実の信仰について、第四の説教は、「神の国」について、と題されている。ヘーゲルたちの有名な「神の国」という合言葉の背後にそれを育んだ組織、精神の同盟を真面目に想定すべきかもしれない。後で見るように、『民族宗教とキリスト教』の草稿の一部は既に書かれていた頃である。自分たちを「光の子供」として、闇を嫌う姿の内に、フランス革命に感激してカントと共に歩もうとするヘーゲルたちの姿を読み取ることができる。この説教はカントの『宗教論』を読んだ後と考えて間違いないであろう。
 他に記録として唯一残っているのは学生時代の記念帳だけである。それには多くの学友たちが寄せ書きを寄せている。時期的には1791年から1793年までのものが含まれている。それらは層としては二つに分かれているように思われる。一つは1791年のものであり、そこには「こころ Herz 」という言葉があふれている。一つの例を除くと革命的な言辞は全く見られない。そしてもう一つは1792年秋から1793年のものであり、革命的言辞が増大する。フランスでの共和政の開始が、ヘーゲルたちを熱狂させたと思われる。
ロイトヴァインの手紙 ヘーゲルの友人のロイトヴァインの手紙の現物が20世紀になって発見され、ヘンリッヒによって紹介された。ロイトヴァインの手紙はへーゲルの大学生活の知られざる一面を示していて興味深い。ポイントは二つある。一つはへーゲルなる哲学者が誕生する秘密(ロイトヴァインがそう考えている)として、へーゲルの席次が同郷の同級生メルクリンに抜かれたこと。もう一点は、当時チュービンゲン大学にカントの研究クラブがあり、ロイトヴァインをはじめ多くの学生が参加していたこと。しかし、へーゲルはカントには殆ど興味を示さず、むしろ「彼の英雄はジャン・ジャック・ルソーであった」とされていることである。ヘンリッヒは、ロイトヴァインのこの記述をそれだけで取り出し、際立たせることに反対して、ルソーの影響を、他のヤコービやヘルダーといった当時のへーゲルに影響を与えた人物の一人として限定的に捉えようとしている。しかし、ロイトヴァインの手紙はそれらの人物の名を挙げているのではなく、敢えて「ルソー」を当時のへーゲルの「英雄」だったとしている以上、素直に読めばへーゲルが学生時代の大半を熱烈なルソー主義者として過ごしたと考えていいであろう。ルソー崇拝は当時のフランス革命への熱狂と合流してヘーゲルの思想を形成し始めた。それを示すのが、草稿『民族宗教とキリスト教』である。

第一章「民族宗教」概念の成立                  
 1 最初期宗教論準備草稿
 ヘーゲルはいわゆる『民族宗教とキリスト教』という草稿群を書く以前に、それへのメモ風の草稿を幾つか残している。『新全集1』のText12,13,14,15がそれに当たる。成立時期はおそらく1792年の秋から1793年初めの頃であろう。そこにはフランス革命の影響が強く感じられる。ヘーゲルはそうした時代の中で自分の宗教論を構想し始めた。そこではそれと同時にフィヒテとメンデルスゾーンが大きな役割を果たしており、彼らの理論に依拠しながら、宗教を論じてゆく過程で、ヘーゲルはメンデルスゾーンの著作でVolksreligionという言葉に出会ったと思われる。Text12にその言葉が登場する。しかしそれはまだ言葉に過ぎず、ヘーゲル固有の概念とはなっていない。
 2 『民族宗教とキリスト教 (上)』
ノールが『民族宗教とキリスト教』と名づけた草稿群は『新全集1』ではText16からText26までであり、その内Text16はチュービンゲン時代に、Text17以降は大きく字体も変化することから、ベルン時代に書かれたと推定されており、この推定に間違いはないと思われる。そこで我々はText16を『民族宗教とキリスト教 (上) 』と呼び、それ以降のものを『民族宗教とキリスト教(下)』と呼ぶことにする。
『民族宗教とキリスト教 (上)』は、新全集の編集者やハリスは1793年の夏頃シュトットガルトの自宅で書かれたと推定しているが、一部はText12よりも前に、大部分はText12が書かれた直後に書き始められたことはほぼ間違いないと思われるので、1792年後半から書かれ始めても何の不思議もない。この草稿にはヘーゲル自身がa,b,cといった番号を付けているので、それに沿ってみてゆくことにする(GW1,473-4参照)。概略を述べておく。最初のaは最も古い草稿で、おそらくText12などよりももっと古いものであろう。1792年初秋と推定しておく。次のbはヘーゲルがVolksreligionという概念を初めて思いついた記念すべき草稿である。このbと続くc,d,f,gの草稿は1792年から1793年春までに書かれたと思われる。この後のh,i,k,lの草稿はひとまとまりのものであり、カントの『宗教論』を読んだ後の草稿と思われる。1793年夏の成立と思われる。
ヘーゲルの民族宗教は民衆に自己の尊厳を自覚させる解放の宗教であり、多くの規則に縛られた不自由な信仰ではなく、民族の祝祭、歌謡、踊りに彩られた「バッカス風の陶酔」である。それは隣国フランスの国民祭典と切り離すことは出来ない宗教構想である。しかしそうした革新的な宗教構想の中にもヘーゲル自身も自覚しないヘーゲルの保守的な信仰が至るところに顔を出しているのである。ヘーゲルの「民族宗教」は、宗教的伝統の上に、つまりキリスト教の上に花咲いた新しい時代(フランス革命)の宗教であった。

第二章「民族宗教」の行方                    
 1 キリスト教批判の本格化     『民族宗教とキリスト教 (下)』
ここからがベルン期である。『民族宗教とキリスト教 (下)』とは、Text17--Text26を含むものである。Text23までは全てが短い断片であり、ある程度のまとまりのあるものはText24,25だけであり、最後のText26も断片である。この事実は、ヘーゲルはベルンに来た当初は自分の宗教論を再び新たに構想しようとしていたことをうかがわせる。Text17には共和主義と融合したヒューマニズムが色濃く現れており、ヒューマニズムの視点から以下、Text18—Text22までキリスト教批判がそれぞれ固有のテーマを持ちながら展開される。こうしたキリスト教批判の上に、Text23—Text25までヘーゲルの民族宗教論が展開される。そしてText25を最後に若いヘーゲルの代表的な概念である民族宗教Volksreligionなる言葉は消失する。大きな衝撃がヘーゲルの精神を襲ったことが推察される。
 2 ベルン時代の「民族宗教」論   『民族宗教とキリスト教 (下)』
 Text23,24でヘーゲルは自分の民族宗教論を積極的に展開しようとする。しかしその宗教の教義を具体的に検討する段になると、ヘーゲルにとって宗教とはキリスト教以外にはなかった。ヘーゲルは自分の民族宗教に採用可能な教義をそこから探り出そうとしたのである。そのとき大きな問題となったのが神の子イエスの問題であり、これはフランス革命の進展とも絡んでヘーゲルを悩ませることになるが、若いヘーゲルはイエスへの絶対的信頼を保持していた、それが私の想定である。
 3  Volksreligionの消滅  フランス革命とヘーゲル
 しかしヘーゲルのVolksreligionなる言葉は、Text25を最後に突然消滅する。この単純な事実にこれまで多くのヘーゲル研究者がまるで気づかなかったということは何とも不思議である。概念史的研究の視点が欠落していたと言う他はない。生方卓の推測のようにこの出来事にはロベスピエールの失脚が関係していたと考えられる。時代のカリスマ、ロベスピエールは熱烈なルソー主義者であり、当時表舞台に登場し始めた無神論と対決した革命家であり、1794年の6月には「最高存在の祭典」という国家宗教の樹立浸透を図り、有徳な市民の育成を目指した。ヘーゲルの「民族宗教」はそれと同質のものであり、ロベスピエールの失脚がヘーゲルにその言葉の使用を断念させたのである。

第三章 神性としての実践理性                   
 1 1794—95年前半までのヘーゲル、シェリング、ヘルダーリンの手紙
ヘーゲルはベルンに到着してから一年ほどたってから、ヘルダーリンやシェリングと文通を始めた。そこから多くの刺激を受けることになるが、その最大のものはシェリングの次の手紙である。「その疑問はぼくを驚かせた、レッシングの信奉者である君からそんな質問が出るとは !! 君はぼくをからかっているんだね、きっとぼくを試しているんだ。ともかく人格神という正統派の神概念は我々には存在しない。ぼくはこの間、スピノザ主義者になった。」
 ヘーゲルにとっては、キリスト教を批判しながらも、イエスが神の子であるという信仰は疑ったことさえもない当然のことであった。だがシェリングにこのような形で自分の幼稚さを暴露されたことは、ヘーゲルに強烈な衝撃を与えずにはおかなかった。心ならずもヘーゲルは自分の素朴な信仰を洗い直して、理性の目で神の子イエスと対峙することになる。それが『イエスの生涯』である。
 2 哲学との出会い
 シェリングからの刺激を受けてヘーゲルは初めて自覚的に哲学に接近し、いわゆる「実践理性の断片」において、神性とは実践理性を行使することであるという結論に到達する。そしてこの視点から『イエスの生涯』を描くことになる。
 3 理性の純化
 実践理性を神とすることによって、ヘーゲルはようやくシェリングに自分の思想を語る準備が出来て、しばらくぶりに手紙を書き、哲学への接近を表明する。この時のヘーゲルにとって、哲学とはカントの実践理性を意味した。
 4 ヘーゲルの信仰告白   『イエスの生涯』
 ヘーゲルはここで実践理性を基準にすえて、福音書を頼りにしながらイエスの生涯を描ききる。ヘーゲルの理性が認めない不合理なこと、奇跡信仰などはことごとく切り捨てられて、イエスはまるでカント主義者であったかのような姿で描かれる。若いヘーゲルのカント主義が強調されるゆえんである。しかしこの時期のカント主義はヘーゲルの表層に触れるだけであり、内実はルソー主義、更にはまたロベスピエールと同質の徳の騎士である。ただヘーゲルとしてはこの作品で、メシア待望論を批判してゆく過程で、党派を諸悪の根源として認識するに到り、それをフランス革命挫折の原因ともダブらせて、シェリングからの衝撃だけでなく、ロベスピエール失脚の衝撃からも立ち直ったのである。まさにそれは一石二鳥の成果をヘーゲルにもたらしたのである。

第四章 道徳性と実定性                      
 1 『キリスト教の実定性』の準備草稿
 「実定性」は初期ヘーゲルを代表する概念であるが、学生時代から使用していたわけではなく、私見によればText29の頃に、つまり1795年の中頃に、成立をみた概念である。それは道徳性・実践理性の対極に位置するものとして、以後ヘーゲルの厳しい批判にさらされる概念である。それはヘーゲルにとっては、宗教と密接に結びついていた。
 2 1795年後半の手紙
 シェリングとの文通が再開されるが、そこでヘーゲルは自分なりの研究計画を抱くにいたり、それを遂行し始めたことを示している。
 3 『キリスト教の実定性 基本稿』
 文字通りキリスト教の実定性が批判される。この草稿は次のような構成になっている。序論部分、哲学的党派と実定的党派。ヘーゲルは前者に共感しているが、基本的にはどちらにも属していない。本論、第一部、イエスとその弟子たちの実定性。ここでのキリスト教批判には発展史的には見るべきものはない。ヘーゲルのイエスへの信頼は失われていない。本論、第二部、キリスト教教会の実定性(教会と国家)。ここはヘーゲルが新しく開拓した分野であるが、ほとんど研究がなされていない個所でもある。ヘーゲルは教会組織の肥大化を研究する中で、実定性概念に社会的歴史的視野を付与することによって、これまでの主観主義を克服してゆくことになる。結論部、党派発生の必然性。結論部においてキリスト教の実定性の根源を党派に求めたヘーゲルは思わぬディアレクティークに巻き込まれて、「実践理性」なる概念を使用できなくなったと思われる。自分のことは自分で決めるという実践理性の原則は、キリスト教の各々の宗派の原則でもあったのである。実践理性から党派争いが生まれてきたのである。ヘーゲルの新たな挫折である。
4 補論 最初期ヘーゲルの国家像
 ヘーゲルは最初期から国家・社会に強い関心を持っていたというイメージが流布しているが、実はそうではなく、この時期に至ってもヘーゲルはどこでも自分の国家観を述べたことがない。ヘーゲルの国家観を研究した古典的な研究もこの時期に関しては国家観の代わりに、初期ヘーゲル研究でお茶を濁している。私はわずかではあるがそれを推測して描いてみた。それは各人の所有を保護することを国家の使命とするロック的な国家観であり、また道徳性の促進を目指す道徳性国家であり、それと結びついた古代共和政国家、つまり自己犠牲的精神に溢れ、私的所有の制限をも辞さない国家であり、何よりも直接民主政を是とする国家であった。ただしいかなる国家も代議制度を欠くことは出来ず、ヘーゲルとしてはおそらく命令的委任による代議制を考えていたであろう。

第五章 歴史と精神                        
 1 実践理性の要請論批判  『キリスト教の実定性 続稿』Text33
ここではヘーゲルはシェリングの『哲学書簡』の影響を受けながら「実践理性の要請論」を批判する。要請論の立場は理性の無力の告白に他ならない、それがヘーゲルの批判である。一部とはいえ、理性が批判され始めたことに注目すべきであり、直前での実践理性のディアレクティークの経験と結び付けるべきであろう。
 2 絶対自由の哲学 (シェリングの16番の手紙と『哲学書簡』)
 シェリングの『哲学書簡』は18世紀を代表する概念たる道徳性を絶対自由という新しい概念で乗り越えようとしたものであり、この時期のヘーゲルにも刺激を与えた。
 3 自由な国家の消滅とイデーの変容 『キリスト教の実定性 続稿』Text34
 実定性の概念を批判研究していたヘーゲルは、実定性を「時代の精神」として捉える視点を獲得し、ヘーゲル独自の「精神の哲学」の立場を樹立し始める。精神の哲学は同時に歴史の哲学でもある。各々の古い民族の宗教がキリスト教に取って代わられた原因を、ヘーゲルは自由な国家=共和国の消滅に求めた。こうして国家は歴史の中に姿を現した。ヘーゲルはようやくにして「国家」を対象とし得る位置にたどり着いた。だがそれはまだ抽象的可能性であり、対象としての国家と格闘するのはまだ少し後のことである。国家は現象したとたんに消滅した。けだし現代には自由な国家はもう存在しないからである。この認識はいわゆる『ドイツ観念論最古の体系プログラム』での国家観と繋がるものである。
 4 アルプス旅行記
 これは思想をそのまま表明したものではなく、楽しい旅行記に過ぎない。ただし至るところに実定性を嫌い自由を求めるヘーゲルの姿が見られる。また精神と生命とがヘーゲルの内で大きな意味を持ち始めたことを推測させる。
  5 パンとぶどう酒=エレウシスの密儀 (二つの精神の交流)
 ヘーゲルがヘルダーリンに捧げた詩『エレウシス』は汎神論に傾斜しようとするヘーゲルの精神を窺わせるが、それは少し前からのヘルダーリンの動向でもあり、やがてフランクフルトで二つの精神は出会い、共鳴することになる。その精神の交流の前兆をここで分析した。具体的にはヘーゲルのその詩を、ヘルダーリンが改作したものがヘルダーリンの代表作『パンとぶどう酒』である、というのが私の主張である。古代ギリシアの宗教とキリスト教との関係は、この時期以降も両者それぞれが取り組まざるを得ない大きな問題の一つであり、その解決の仕方に両者の別れが暗示されている。

終章 初期ヘーゲルの概念の展開                 
 ここは、以上見てきた初期ヘーゲルの動向をその中心概念、民族宗教・実践理性・実定性・道徳性という四つの概念として抽出し、これらの概念をイエナ期までを視野に入れて概観したものである。「民族宗教」なるヘーゲル独自の概念は言葉として消失した後も、理念として折に触れて顔をのぞかせており、1803年のいわゆる『人倫の体系の続稿』にまでその理念は作用している。「実践理性」はヘーゲルの概念としては短い期間のものであった。「実定性」はそれに対して長く概念として作用し、1803年頃まで概念として機能し続ける。「道徳性」はフランクフルト時代には早くも批判され始め、イエナ時代初めには人倫の概念によって克服される。これらの四つの概念は全て宗教を軸に相互に関連しながら、またその中心的役割を交代しながら、運動して来た。初期ヘーゲルをこれら概念を軸に全体として振り返って気づくのは、それら概念はほとんど全て1803年頃までに決着を見て、克服されるということであり、その意味でその頃が「初期ヘーゲル」の終わりということである。その視点から一つの結論を引き出すなら、初期ヘーゲルとはヘーゲルが「新しい宗教」を構想した時期である、と言えるであろう。それ以降はヘーゲルは新しい宗教ではなく、新しい哲学を構築してゆくことになる。若い宗教改革者は哲学者に成ったのである。

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