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博士論文要旨

論文題目:イタリア・ファシズム前夜の労働運動と政治運動-グラムシ・ダンヌンツィオ・ムッソリーニ-
著者:藤岡 寛己 (FUJIOKA, Hiromi)
博士号取得年月日:2005年11月9日

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第一次世界大戦は、敗戦国の独墺のみならず戦勝国にも未曾有の経済的・精神的な打撃をあたえ、また、欧州を世界の中心の地位からひきずり落としたという点においても近現代史の一大転機を画す戦争であった。そして、近代的統一国家の成立から半世紀あまりをすごしたイタリア王国にとっても、大戦は従来の政治秩序・社会秩序に亀裂を生じさせるできごとになった。
 大戦の直前直後のイタリアの政治・社会状況を略述すると以下のようになる。1913年6月、宰相ジョリッティはきたるべきイタリア史上初の男子普通選挙勝利に向けてカトリック勢力との間に秘密裏にジェンティローニ協定を結び、この協定が奏功してジョリッティは安定多数の議会をつくりあげた。しかしこの密約が暴露され、反教権派の支持を失ったとき、長かった「ジョリッティの時代」は終わりを告げた。ジョリッティ政府を継いだサランドラ政府は第一次世界大戦の勃発当初は局外中立の立場をとっていた。社会党やジョリッティ派をはじめ、議会でも戦争中立派が圧倒的であった。しかし、英仏露とロンドン秘密条約を締結した政府は、1915年5月23日、少数の熱狂的参戦主義者に背中を押されながら参戦する。4年後の1919年4月、首相オルランドが多大な憤懣と苦悩をかかえてパリ講和会議から退場したとき、それはまた、従来のイタリア政治を特色づけてきた妥協と均衡というジョリッティ型宥和政治が終焉し、さまざまな要素が対立する新しい時代のはじまりを意味するものでもあった。ヴェルサイユ講和体制下の正式な外交ルートでは、当てにしていたダルマツィア地方とフィウーメ市の領有は不可能になった。ナショナリズムの昂揚のなか、ダンヌンツィオはフィウーメに進入し、「イタリア性」(Italianita`)の回復を叫びつつ同市を占領した。駐留伊軍はもとより、一時的には国軍さえもこの占領行為を黙認する。
 他方では戦時中の権威主義国家から解放された諸勢力が国内各地の市街に一気に溢れでてきた。とりわけ産業動員体制という軛から解き放たれた労働者たちがもっともはげしく自己主張をはじめた。社会主義勢力の抬頭をまえにカトリック圏からも政治領域への参入をみることになる。シチリアの司祭ストゥルツォを書記長に頂くイタリア人民党の結成(1919年1月)がそれである。地方の独立・分権主義を説くストゥルツォは、「女性をふくめた普通選挙と比例代表制の下で、中央権力から自立し、公共事業や学校・農業・工業・商業・労働・保険・厚生といった諸点に関して法律制定力のある地域構造を」構想していた。農村部に圧倒的な影響力をもった人民党が、従来自由主義諸派に吸収されていたカトリック票を一つの方向性をもつ政党に集約させたことは、歴史的にきわめて重要であった。事実、人民党の誕生により、イタリア自由主義政府は文字どおり死の瀬戸際に立たされたのである。比例代表制となって最初の1919年11月選挙で人民党は得票率20.5%、506議席中100議席を獲得し、自由主義政府に対して閣内協力をおこないながら政策立案へのキャスティングボードを握った。前年3月にはカトリック系労働組合も創立している。
 この1919年選挙で社会党は得票率32.3%、156議席に躍進し、政府にとって一大脅威となった。イタリア社会党は、ヨーロッパの社会主義諸勢力のなかでもロシア革命にきわめて影響をうけた政党である。社会主義革命の総本山となったソヴィエト=ロシアへの西欧諸国の干渉にいち早く反対し、1919年7月のロシアおよびハンガリー支持の国際連帯ストライキを積極的に遂行した。また、これより前の同年3月初旬に第3インタナショナルが誕生すると、すぐさま加盟を決定している。さらに1919年10月の第16回党大会(ボローニャ)では党結成以来はじめて綱領を見直し、プロレタリア独裁を党是とした。ロシア革命は党主流派の最大限綱領派のみならず、反主流派やグラムシにも独自の革命構想に対する強力な推進力となった。すなわち、前者にはボリシェヴィキ思想すなわち党集権制思想を、後者にはイタリアのソヴィエトつまり工場評議会理念を暗示した。ただ、党内で事実上の実権を握る改良派のみは、西欧では確固とした労働者諸組織が存在しているゆえにソヴィエトや革命評議会は広まらないと信じていた。かれらはボリシェヴィキ体制に批判的であり、イタリア議会ではこれを擁護するものの、コミンテルンは「夢」であってボリシェヴィキ体制のような夢はおそらく長つづきしないと推測していた。
ボリシェヴィキ革命が至上命題の最大限綱領派を中心とする社会党が言葉のみの抽象論議に日々を費やす一方で、労働運動は日増しに激しさを増してくる。1919年6月にはラスペーツィアの労働者争議が起こり、これはエミーリア、マルケ、ウンブリアの各地に拡大した。物価騰貴に反対するデモや暴動も頻発する。同年8月には機械工や印刷工・水夫・鉄道員・日雇い農業労働者らによるストライキが展開され、9月にはピエモンテ、ロンバルディーア、リグーリア、エミーリアの金属機械工場で闘争が激化する。またイタリア各農村部では土地占拠も増大した。ストライキ総件数は、1917年470件、1918年313件であったものが、1919年1,871件、1920年には2,070件に跳ねあがった。翌々年の1922年の発生件数575件と比較すれば、この「赤い2年」がいかに突出しているかが理解されるだろう。
 本稿は、イタリアのファシズム前夜というべき時代、すなわち歴史的画期となった第一次世界大戦直後の「革命が待望された時代」のなかでも左翼革命がもっとも現実味を帯びて大写しになった1919年から1920年の「赤い2年」において、下の目次項目をみるごとく、イタリアの労働運動と政治運動におけるいくつかの断面を詳しく検討した論攷である。


第1部 「赤い2年」(1919年-1920年)の労働運動
-工場評議会運動の誕生から工場占拠まで-
第Ⅰ章 工場評議会運動と1920年4月ゼネスト    
はじめに  
[1]ON派の登場と工場評議会の形成・展開  
[2]1920年4月トリーノ労働者闘争  
[3]グラムシと社会党  
 第Ⅱ章 工場占拠     
はじめに  
[1]工場占拠の経緯  
[2]工場占拠の歴史的意義と当時の政治的・社会的状況  
[3]工場占拠の影響 
第Ⅲ章 アナーキズム勢力     
はじめに  
[1]当時のアナーキズム勢力  
[2]グラムシのアナーキズム観 
[3]グラムシ・アナーキスト・工場評議会
第Ⅳ章 カトリック労働組合(CIL)の動向      
はじめに 
[1]CIL綱領と傘下諸組織  
[2]農村部におけるCILの活動  
[3]CILと工場占拠闘争  
   むすび
 
第2部 アドリア海問題とフィウーメ占領
   第Ⅰ章 被抑圧諸民族ローマ会議(1918年4月)            
はじめに 
[1]ローマ会議への助走 
     [2]ローマ会議 
   (1)ローマ会議の開催とローマ協定の採択 
   (2)イタリア国内におけるローマ協定への反応 
  [3]ローマ会議の成果と限界 
  (1)連合国・米国への影響  
  (2)イタリア政府の対応 
   第Ⅱ章 フィウーメ占領期にみる革命的サンディカリズム        
はじめに
[1]A・デアンブリスのフィウーメ論 
 (1)デアンブリス(1874-1934)の個人史  
(2)デアンブリスのフィウーメ論 
        [2]カルナーロ憲章と協同体論  
(1)カルナーロ憲章へ 
(2)カルナーロ憲章 
(3)協同体 
[3]さまざまなカルナーロ憲章論・協同体論  
第Ⅲ章 グラムシとダンヌンツィオ-実現しなかった会見-  
はじめに  
[1]ダンヌンツィオのフィウーメ占領 
         (1)ダンヌンツィオの「受容」 
(2)フィウーメ占領 
[2]実現しなかった会見 
(1)1921年春・グラムシのイル=ヴィットリアーレ訪問 
  (2)1920年夏・ダンヌンツィオの招請 
(3)「実現されざる会見」、その主役 
        [3]グラムシのダンヌンツィオ評価 
(1)フィウーメ占領前後 
(2)『獄中ノート』におけるダンヌンツィオ評価 
むすび        

第3部 原初的ファシズムの誕生
-イタリア戦闘ファッシの形成-
   序論
第Ⅰ章 ムッソリーニと『イタリア人民』紙の「転向」
はじめに 
[1]『イタリア人民』紙にみる変化 
[2]『イタリア人民』紙の「財政」 
第Ⅱ章 アルディーティ                       
はじめに 
[1]アルディーティの歴史と行動 
[2]アルディーティの像と心理 
        [3]アルディーティの処遇と評価 
        [4]アルディーティの組織化   
第Ⅲ章 未来派の政治的発展                     
はじめに 
[1]未来派宣言から第一次大戦へ 
[2]第一次大戦と未来派 
        [3]「未来主義党宣言」  
[4]大戦後の未来派 
   第Ⅳ章 原初的ファシズムの誕生                   
はじめに 
[1]サンセポルクロ集会へ 
[2]集会におけるムッソリーニとマリネッティ  
(1)ムッソリーニの三つの宣言と演説 
(2)マリネッティ演説 
[3]4・15事件 
[4]歴史的捏造としてのサンセポルクロ綱領 
むすび 

 第1部は労働運動に関する記述である。さらにこれを、第Ⅰ章から第Ⅲ章までの左翼的労働運動と、第Ⅳ章のカトリック系労働運動の二つに分類し、また左翼運動においては、第Ⅰ章と第Ⅱ章では社会党系の労働(組合)運動を、第Ⅲ章ではアナーキズム系労働運動を論じた。
 第Ⅰ章では先進的工業都市トリーノにおける1920年4月のフィアット労働者による工場評議会運動を中心に、その状況的・精神的な展開を検討した。工場労働者の自立と自治をめざし、党派を超えて運動の基点・結節点になった組織こそ、グラムシやトリアッティらON派が樹立した工場評議会であった。労働者による生産管理・工場管理を標榜するこの工場評議会の誕生を契機にしてフィアットの労働者たちはドラスティックな戦略的転換をみせるが、このとき、グラムシによれば、労働者の間におおきな心理的変化が起こった。つまり戦闘的労働者たちは、資本主義体制下の無力な労働力商品の供給者という卑小感を払拭し、生産者という主体性を自らの内に確立しようとめざしはじめたのである。グラムシはそれを、「勤労者人民は特権諸階級の歴史をつくるための材料から、ついには自分自身の歴史を創出して自己の都市を建設することができるようになった」と表現した。
 戦間期の西欧諸国においてこれほどの根本的な意識変革を希求し、実践した労働運動は他にはみられないだろう。トリーノ労働者がもとめた産業権力が国家権力といかように連繋するのか、その構図と具体的方法はたしかに不鮮明ではあった。グラムシの描いた権力編制もまだ、評議会体制=評議会国家という抽象的なものにとどまっていた。もちろん、「作業特定部門→作業班(職場代表委員会)→部門別委員評議会→事業所執行委員会(工場評議会)」という工場評議会体制に、「地区委員会・執行委員会→都市評議会」をつなぎ、それらを農村評議会等々と接合させて評議会国家の成立をみる図式はあった。しかし数都市の突出による局所的変革で全体の転覆を可能にするような時代はもはや過ぎ去っていたのである。グラムシが獄中で思考の日々を重ねていたとき、その底部に溜まった澱(問題群)のなかでみいだしたものは、第一にこのトリーノの2年間で痛烈に認識させられたブルジョア社会の堅牢さであっただろう。そしてその堅牢さを支えているのは、なにも主要な敵対者であるブルジョア国家(体制)にかぎるものではなく、たとえばイタリア労働界の最大のナショナルセンターであるCGdL(労働総同盟)という、ひとしく隊列を組まねばならないはずの労働者諸組織にまで根深く浸透した資本主義的・ブルジョア的な価値観であった。のちにグラムシはこの内奥の病巣に迫ろうと「西方の革命」論を手はじめに、獄中での孤独な戦いを挑む。
 第Ⅱ章では1920年秋の工場占拠闘争を叙述しつつ、工場評議会運動の理念とグラムシの政治思想の形成をたどった。1970年、サルヴァドーリは50年前のこの工場占拠を産業民主主義の視点から注目し、「工場占拠は歴史的次元ではパリコミューンと異なり、また社会主義革命の道を開くことには失敗したが、消し去ることのできない里程標をイタリアに刻んだ。当時の歴史全体を覆っていた問題群のひとつである革新された社会民主主義の基本としての『産業民主主義』の問題を提示したからだ」と述べている。1920年9月の工場占拠を契機としてイタリアに社会主義革命が勃発する可能性はきわめて低かった。革命「的」危機であることは認められるにしろ、また都市部あるいは農村において、それぞれの評価は異なるにせよ、政府・カトリック勢力・改良主義労組・社会党のいずれも真の革命の到来を予期していなかった。ただ工業家たちのみが、工場占拠をまさに革命の危機として受けとめ、驚愕したのである。ファシズムの隆盛と工場占拠を結びつける要素があるとすれば、それは工業家の革命(および革命的労働者階級)に対する恐怖ではなかったか。これはまたファシストと工業家との連携を助長させた要因の一部をなしてもいるだろう。もっとも、ムッソリーニと一部の工業家は、大戦中から浅からぬ関係をもっていた。しかしともかく、工業家たちの抱いた恐怖はおそらくジョリッティ政府への失望と相乗的に倍加していったといえる。
 第Ⅲ章では、グラムシとアナーキズム勢力に関し、相互の思想的・実践的な関連性と異同に注目しつつ論を展開した。ブルジョア自由主義支配層のみならず既成左翼[マルクス主義]陣営からの激しい敵意と嫌悪で敬遠される宿命にあるのがアナーキストたちであった。つよい革命志向性を有するマラテスタやボルギに代表されるアナーキズムおよびアナルコ=サンディカリズム勢力が終戦直後の2年間に採用した方針を一言で表せば、より革命的な活動をおこなっている者に、そして国家崩壊をより予感させる行動に積極的に接近することであった。したがってかれらは、当時フィウーメ臨時政府を成立させてイタリア国家に対立する一方で一般大衆からはカリスマ的な熱狂的支持を獲得していたダンヌンツィオと合同し、ファシストのそれとは異なる「ローマ進軍」を試みようとこの臨時政府の支持を表明さえするのである。これはフィウーメの臨時政府体制がイタリアでの革命への扉を開くであろうと考え、フィウーメが革命の焦点となることを欲していた参戦主義革命的サンディカリストのデアンブリスと類似した見解であった。しかし、だからといって官僚的組織を善かれ悪しかれ持ちあわせていないアナーキズム勢力が、方向の定まらない無定形な集団であったと決めつけるわけにはいかない。1919年から1920年当時、アナーキズム勢力は組織された勢力としても決して看過しうる存在ではなかったからである。当時、アナーキストはおよそ2万人強、アナルコ=サンディカリズムのUSI加盟者は最盛期には50万人(一説には80万ともいわれる)にまで達している。社会党の無為消極性がこうしたUSIの急膨張を後押し、なにより驚いたのはその社会主義者たちだった。アナルコ=サンディカリズム労働者は、無視しえない勢力と行動力を展開し、工場評議会闘争および工場占拠闘争に臨んだのである。
 以上の3章の論述において、グラムシの思想と行動を考察のためのおおきな観測基点とした。現代にあってグラムシの思想あるいは思考方法は、政治学や歴史学にとどまらず、社会学や文化人類学など多くの学問領域で論じられ、参照されているが、社会党機関紙『アヴァンティ!』や『オルディネ=ヌオーヴォ』に執筆した数多くの文化評論記事とともに、グラムシが実際の労働運動に関与したわずか2年ほどの当時の実体験・実践経験こそ、のちの「獄中ノート」に結晶化する多様な問題群に対する考察へのひとつの重要な基礎を構築したといっても過言ではない。壮大深淵なグラムシ思想を知るひとつの手がかりという意味からでも、工場評議会運動期におけるグラムシの発言と行動を了解することは意義ある作業であろう。
 他方、第Ⅳ章では、サブカルチャーとしてもイタリア社会の深層を形成してきたカトリックが、第一次大戦後にみせた世俗的対応の一表現とみなしうるカトリック系労働組合のナショナルセンターCIL(イタリア勤労者同盟)を考察対象にした。1920年時で80%が農民組織からなるという構成比率からみても、大産業時代に突入したイタリア国家の工場労働者勢力中に占める位置はたしかに大きくはなかったが、ヴァティカンおよび人民党といった巨大な組織を背景にもつCILは、ジョリッティ自由主義政権にとって、「味方にしても大したことはないが、敵に廻すと非常に危険な」存在に他ならなかった。本章では、農村部にきわだって浸透し農民の組織化に成功したカトリック系組合の歴史をふまえ、工場評議会ならびに工場占拠闘争を題材にしてこの時期におけるCILと左翼運動(勢力)との関係およびCILの基本的な性格について言及した。さらに、カトリック系労働組合運動が経験せざるをえなかった最上点ヴァティカンとの確執、あるいは政治領域での人民党(カトリック政党)との接触についても検討することで、カトリック系労働組合のもった特長と限界に迫った。
 
 「アドリア海問題とフィウーメ占領」と題した第2部では、ヴェルサイユ講和体制における「オルランド-ソンニーノ」伊政府のなした外交政策のなかで最大の汚点であり、失脚の近因ともなったフィウーメ問題を中心にあつかった。アドリア海でも有数の港湾をもつフィウーメは、ダンヌンツィオに占領された都市として歴史に名をとどめるが、オーストリア=ハンガリー帝国の支配下でも多くのイタリア系住民が古くから居住していたこともあり、イタリア人にとっては比較的よく知られた土地だった。イタリアはロンドン秘密条約の締結とひきかえに第一次大戦に参戦したが、同条約はまさにイタリアによるアドリア海沿岸の諸地域の領有をも約束していた。他方、イタリアの民主主義参戦派や英国人その他の支援もうけ、帝国下の諸民族代表が1918年4月に会議をローマで開き、イタリアの有力政界人もふくめた連合国代表も非公式ながら諸民族の解放と自治を支持する。第Ⅰ章では、第一次世界大戦末期の1918年4月にローマで開催された墺洪帝国下被抑圧諸民族会議(ローマ会議)に至るまでの経緯、同会議および会議で決議されたイタリア-ユーゴスラヴィア人間の合意協定(ローマ協定)、さらにローマ会議とローマ協定がイタリア内外におよぼした影響、ならびにその限界について論じた。そして、次のことが行論であきらかになった。すなわち、ことにボリシェヴィキ革命による盟邦ロシア帝国の消滅以降、戦局が手詰まりにあった英仏伊を中心とする協商国陣営にとって、墺洪帝国内諸民族の解放運動への支援を戦争の大義名分とすることが、難局打開のための魅力的な戦略のひとつとしてクローズアップされてきた。とりわけ、カポレットの大敗によって物心ともまさに満身創痍の様相を呈していたイタリアでは、ローマ会議を率先準備した民主主義参戦派に、これを反墺勢力結集の好機とみた多様な潮流が合流することとなる。英国人協力者や英仏伊政府の関与もあって同会議は実現を見、伊-ユーゴスラヴィア人民間において、墺洪帝国支配下にあった南スラヴ諸民族の解放と独立を宣言したローマ協定が結ばれる。ところがこれはイタリアのアドリア海への野望を表現したロンドン秘密条約と矛盾するものであった。会議後には、連合国の積極的な対敵宣伝活動が奏功し、墺洪帝国軍は諸民族部隊の反乱や多数の脱走兵、軍情報の漏洩などによって甚大な打撃を蒙る。他方、米国もローマ会議の成功を受け、墺洪帝国の保全を前提に諸民族の自治を認める「14ヵ条」の立場から、さらにすすんで被抑圧諸民族の解放・独立支持へと外交方針を変更した。しかしイタリア政府内部では、ローマ協定に一定の理解をしめすオルランド首相が、ロンドン条約にあくまで固執するソンニーノ外相の強硬な反対によって、同協定の意図する進路を断念する。しかし、ローマ会議は戦局のみならず、戦後のパリ講和会議にも影響をあたえ、米国をふくむ連合諸国に墺洪帝国下被抑圧諸民族の解放・独立を重視させることとなるが、ソンニーノのイタリアは戦中戦後をつうじてローマ会議とローマ協定の意義を軽視し、このような国際情勢の変化にも目を塞いだ。結局、イタリア政府はロンドン条約とフィウーメ領有に固執することによって、アドリア海問題を自国に有利なかたちで解決する機会を逸したのであった。
 第Ⅱ章では、フィウーメ占領期にあって、イッレデンティズム的・ナショナリズム的傾向から自治的・革命主義的方向への転換を見せた占領の第二局面(1920年1月)の内実を知るため、カルナーロ憲章を分析した。地域的・歴史的には、あきらかにクロアティアに属するフィウーメは、2,500人の従者をひきつれたダンヌンツィオによって1919年9月から1921年1月まで直接支配されるが、占領の開始から4ヵ月を経過したのち、ダンヌンツィオは、閉塞状態に陥ったフィウーメの内外の難題を解決するために、革命的サンディカリストのデアンブリスを執政府首班として迎え入れる。統治を任されたデアンブリスは、きわめて先進的といわれる最高法規「カルナーロ憲章」を発布する。本稿は、デアンブリスのサンディカリズム思想が十全に反映された同憲章の内容を条文に沿って詳しく検討し、カルナーロ憲章が当時の諸憲法や最高法規と比較してもきわめて民主主義的な先進性をもつという特徴をあきらかにした。と同時に、憲章の素案であるデアンブリス版(【DE】)のもつ革新性とそれがある程度希釈されたダンヌンツィオによる最終版(【DA】)との政治的・イデオロギー的な差異を検証し、さらに憲章で規定された協同体理念とムッソリーニ=ファシズム下で制度化された協同体との異同にも触れ、後者が国家統合主義的な協調組合主義的サンディカリズムにすぎないことを示唆した。
 第Ⅲ章では、1920年夏と1921年春の二度にわたって試みられたダンヌンツィオとグラムシとの接触に関して論じた。ムッソリーニ=ファシズムのプロトタイプとみなされてきたダンヌンツィオ=フィウーメ占領であるが、そのダンヌンツィオとイタリア共産党創立者であるグラムシとが接触する可能性があったとする事実関係を検証するなかで、第Ⅱ章のデアンブリス=カルナーロ体制にも連なるフィウーメ主義左派の存在がクローズアップされてくる。このとき、グラムシはダンヌンツィオならびにフィウーメ主義左派に対していかなる評価と戦略をいだいていたのかについて考察し、さらにマックス=ヴェーバーによる政治支配の三分類を引くまでもなく、すぐうしろにムッソリーニがつづき、そして現代政治にも観察できるカリスマ的支配の実例をダンヌンツィオに認めたグラムシの先見性についても言及した。筆者をふくめ、グラムシとダンヌンツィオとの「接触」や「会見」も、ダンヌンツィオの政治観もフィウーメ主義も、グラムシ思想や当時の左翼運動にとっては、ある種スキャンダラスなエピソードである以外、なにほどかの意味も重要性ももっていないと考えられてきたが、グラムシはフィウーメ主義左派に対し一定の評価と相当の関心をもっていたことがわかった。すなわちダンヌンツィオの「革命」が社会主義革命とはまったく相い容れない性質であることを読みとったゆえに、グラムシは、ダンヌンツィオ個人の脆弱性や危険性を終始批判し警戒する一方で、「フィウーメ占領」勢力における多様な方向性を注意ぶかく観察するようになり、ついにはそのなかの左派を対ファシズム防衛に共闘できる要素として認識し、フィウーメ主義左派勢力との共闘戦線の拡大可能性を見いだそうと考えたのである。つまりグラムシは、1921年春にはすでに、共産党以外の勢力も視野に入れた、いうなれば「人民戦線」的意味合いの対ファシズム共闘をその可能性を模索したのではなかろうか。
 他方、ダンヌンツィオは、革命的サンディカリストのデアンブリスをフィウーメ執政府の首班に任じて以降、かれの革命構想に影響をうけることになる。それはダンヌンツィオを、フィウーメ=ナショナリズムから脱して、フィウーメを起点とするインターナショナリズム的傾向へと運ぼうとした。ジョリッティによって完膚なきまでに殲滅されたためにその「革命」は頓挫するが、しかしたとえジョリッティの介入がなかったとしても、フィウーメ内部の不統一からすれば、この「革命」路線も早晩、自滅したであろう。「武装せる詩人」ダンヌンツィオは、あくまでデカダンの徒であり、徹底した個人主義者であった。フィウーメ占領が明証するように、ダンヌンツィオがその絶大なるカリスマ性ゆえに集団を率いてある一定の社会空間を一時的に統制することは可能であっても、これを持続することは無理だった。さらに、第Ⅲ章では、グラムシの「獄中ノート」におけるダンヌンツィオ評にもとづき、ダンヌンツィオのナショナリスティックな思想的限界を指摘した。

 第3部は表題を「原初的ファシズムの誕生」としたが、ファシズムに「原初的」という形容句を冠するのはおそらくこれまで例がないだろう。「初期ファシズム」あるいは「ファシズムの誕生」といった表現が通例であった。「原初」とは、物事のいちばんはじまりを意味するが、筆者は1919年3月23日のサンセポルクロ集会でイタリア戦闘ファッシが誕生した瞬間のファシズムとはいかなる要素と方向性から構成されていたのかに照準を合わせて論じるために「原初的」との言葉を用いた。その原初的ファシズムの諸々の構成要素中、とりわけアルディーティと呼ばれた大戦期の突撃隊員と未来派に注目し、この両者が原初のファシズムに肉体と精神とを提供する最大要素と推定し、その言動や態様を検討し、ついで戦闘ファッシ結成の演出者であるムッソリーニの思想と行動との異同について検討した。
 まず第Ⅰ章では、上記の考察前提として、ムッソリーニが自身の活動拠点としていた『イタリア人民』紙の財政・資金調達の内実と政治的変化という二点に注目し、次の事実を確認した。すなわち、第一に、ムッソリーニはアンサルドをはじめ有力工業資本からの資金提供、およびフランス政府からの参戦工作資金をえることによって、大戦を挟んだ数度の経営危機を乗りきった。また第二に、第一次大戦中の1918年8月に自紙『イタリア人民』の副題を「社会主義日刊紙」から「戦士と生産者の日刊紙」へと変更し、生産者概念には工業資本家も組みこませた。この二点によって、ムッソリーニが社会主義イデオロギーから公然と決別したと同時に、組織すべき対象を労働者という一階級から、ブルジョワジーをふくむ全生産者ならびにとくに帰還兵士(戦士)へと移行した。こうして、経済的・イデオロギー的戦略の方向性を固めたムッソリーニは自陣の拡大をいそぎ、未来派のマリネッティ同様、戦士への共感と支持を積極的に表明することになる。そして戦士のなかでも現状に対する不満がとりわけおおきく、先鋭性と攻撃性において突出していたアルディーティ(突撃隊員)に勢力伸張の光明をみいだした。 
 第Ⅱ章では、アルディーティの経歴や行動や外部評価に関し、その起源にさかのぼって実像・実体に迫った。第一次大戦の軍制において特殊かつ特異な機能と存在感をもったアルディーティは、一般大衆のみならず軍上層部からも敬遠あるいは危険視され、戦後危機のなかで自己の将来的展望とアイデンティティを模索するが、1919年1月設立のアルディーティ協会に拠点を見いだし、さらにかれらの一部は戦闘ファッシの形成に参画する。
 第Ⅲ章では、1909年『フィガロ』紙上での未来派宣言の発表という起点にもどり、未来主義の主要な政治的文書を分析することで、とりわけ第一次大戦あるいは戦争と未来派との関係に注目しつつ、そのイデオロギー的な輪郭を画定した。こうした工程では、文字どおり未来派の政治的指導者であった作家マリネッティの一連の行動や発言や日記を解読し、「原初的ファシズム」の萌芽をさぐり、その政治領域において、未来派=マリネッティと規定して論をすすめた。20世紀芸術のなかで世界的規模の衝撃と影響を与えたイタリア未来派は、「唯一の世界の健康法である戦争」といった表現にみられるように、その産声である「未来派宣言」ではやくも、芸術革命にとどまらない政治革命への野望を現出していた。したがって、未来派の先導者であるマリネッティは、現実政治を未来派芸術的に結晶化するため、大戦後の政治運動にふかく関与してゆき、未来派でアルディーティでもあるカルリやヴェッキをつうじて、アルディーティの取りこみを図った。
 最後に、第Ⅳ章ではまず、ファシズム(組織・運動)の嚆矢とされる戦闘ファッシを立ち上げた1919年3月のサンセポルクロ集会におけるムッソリーニの宣言と演説の中身を検証した。さらに、マリネッティらの集会発言から、マリネッティ=未来派とムッソリーニ=『イタリア人民』との間には、「革命」や「綱領」の先進性に関し、暗渠というべき隔たりが認められ、未来派=マリネッティおよびアルディーティとムッソリーニという三者の間に存する政治的ズレが発見されることになった。このようなズレを未修整のまま、戦闘ファッシが形成され、ファシズム運動がはじまる。つぎに、「戦闘ファッシ綱領」(サンセポルクロ綱領)がこの集会から2ヵ月以上もおくれて隠れるように公表されたという事実は、「革命」を遠ざけ、資本家らと歩調を合わせつつ、ナショナル=サンディカリズムをファッシ運動の基底理念としたいムッソリーニの非革命性を露呈するものであった。 政治革命と社会革命を実現しようと1919年3月23日に集まった原初のファシズムつまり純正・真正のファシズムは、マリネッティら未来派のものであり、ムッソリーニのものではなかった。しかし、ブランキストだが決して社会主義者でもマルクス主義者でもなく、労働運動も知らなかったムッソリーニが、稀代のカリスマ性とバランス感覚、絶妙の判断力、権力の在処への鋭い嗅覚をもつ現実主義的な政治家として自陣内外で頻発する危機を乗りこえ、「ファシズム体制」の頂点に座し、その後の「黒い20年」を取りしきってゆくのである。

以上、本論文では、顧みれば文字どおりファシズム前夜というべきイタリアの「赤い2年」を刻んだ労働運動と政治運動の領域におけるいくつかの事象を分析することで、当時の社会状況・政治状況の一面を呈示した。事象とは、具体的には、国内における社会主義系ほかアナーキズム系・カトリック系の各労働運動であり、国際的政治事件となったフィウーメ占領であり、原初のファシズムの誕生であった。各場面での代表的な個人の名をあげれば、グラムシ、ダンヌンツィオ、ムッソリーニ、さらにはマリネッティとなろう。けれどもそれを大雑把に、ソーシャリズム(コミュニズム)、ナショナリズム、ファシズムと単純に置きかえ関連づけて説明できないところに、この時期が孕んでいだ問題の困難さと複雑さがあった。(了)

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