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博士論文要旨

論文題目:論戦するロシア知識人-1860年代の論壇状況とトカチョーフの思想形成-
著者:下里 俊行 (SHIMOSATO, Toshiyuki)
博士号取得年月日:2005年10月12日

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本論は、帝政ロシアの知識人たちが互いに激しく論戦を交わしていた1860年代の論壇状況の一端を、いくつかのトピックに即して明らかにするとともに、この論壇状況と密接に関わりながら評論活動をおこなっていたピョートル・トカチョーフの青年時代の思想形成の過程を考察したものである。
 本論の目的は、次の3つである。第1に、ロシア社会のなかで「インテリゲンツィア」というロシア語がはじめて、「知識人」(知的労働にたずさわる人々)という意味で使われるようになった時代(1860年代)に、主としてジャーナリズム界で発言していた知識人たちは、どのように自己を表現し、どのように自己を規定していたのか、またどのようなスタイルで互いに論戦を交わしていたのか、について明らかにすることである。本論が、論壇での知識人たちの論戦に注目するのは、そもそも知識人というものは、一人では存在しえず、他の知識人との関わり合い(対話あるいは競合・共存関係)のなかで自分の言説の意味や価値を浮かび上がらせようとする人々である、と考えるからである。19世紀のロシアの知識人たちは、検閲による厳しい制約のなかで、自己の思想を表現したり、また他者の立場を代弁したりしながら、互いに論戦を繰り広げていたが、それはとりもなおさず、彼らが、立論するにあたって、何らかの或る「普遍的な」理念や価値、あるいは真実や共通の善を想定しており、また他者との論戦を通じて、また他者の議論に呼応しながら、それらの「普遍的な」理念や価値に接近していくことに大きな意義を見出していたからである。このような知識人たちの言説共同体、とりわけ、多数の読者によって共有されていたジャーナリズムにおける「論壇」は、言論知識人にとって自らの社会的な使命を果たすための主要な場であり、そこでの論戦は、彼らが自らの思想を彫塑し鍛錬する際の重要な契機の一つであった。本論が中心的に描こうとする「論戦するロシア知識人」とは、このようなロシアの論壇において、自らが信じる何らかの「普遍的」な理念を掲げながら、絶えず読者たちの支持を得ようと互いに論戦し、また論戦のなかでの読者たちの説得を通して自己の理念の実現をめざしていた知識人たちのことである。
 本論の第2の目的は、19世紀におけるロシア思想史の流れのなかで、「1860年代」(厳密にいえば1850年代後半から70年代初頭)という時代がもっていた独特の雰囲気を明らかにすることである。「1860年代」は、1855年に即位した皇帝アレクサンドル二世の政府のもとで、農奴制の廃止、地方自治制度の導入、司法制度の改革、軍制改革などの国家・社会体制の再編が押し進められていた時代であり、それらはのちに「大改革」とよばれることになった。このような大きな改革の潮流のなかで、検閲による言論統制も緩和され、それにともない新興ジャーナリズムが台頭し、言論界も活性化していった。こうしてにわかに活気を帯びたロシアの論壇では、旧来の「40年代人」とよばれた上層貴族出身の知識人だけでなく、聖職者や下級官吏、商人、町人などの比較的下層の雑多な身分出身の新しい知識人たち、すなわち「60年代人」も活躍するようになっていく。この新しいタイプの知識人たちは、古い価値観を批判し、新しい世界観をつくりあげていったが、それは、この時代の文学作品に格好の素材を提供するとともに、1870年代以降の「ヴ・ナロード」運動や「ナロードニチェストヴォ(ナロードニキ主義)」など、その後のロシア思想史の展開に深い痕跡を残すことになるのである。
 本論の第3の目的は、この1860年代に青年期を過ごして思想形成をおこなっていたピョートル・トカチョーフ(1844年生まれ)を取り上げ、彼の思想のなかでも、従来知られていなかった側面や十分注目されてこなかった側面に光を当てることである。本論が、トカチョーフに注目する理由は、彼が1860年代初頭に18歳という異例の若さで論壇にデビューして以降、一貫してロシアのジャーナリズム界のなかで発言し、激しい論戦を繰り広げながら思想形成をおこなっていた「60年代人」の典型の一人だからである。彼は、1860年代後半以降、代表的な急進派の雑誌の常任編集員として同誌の「書評欄」を担当するようになり、「書評」および「書評論文」というジャンルは彼の文筆活動のなかで非常に大きな比重を占めていた。彼の書評での議論は、彼自身の個人的な見解というだけではなく、雑誌全体およびその定期購読者たちの思想的気分や、さらに批評対象となった書物や論文が体現していた当時の様々な社会思潮とも密接にかかわっていた。このように書物を読み、批評することを通して形成されたトカチョーフの思想を、1860年代の同時代的な「読みかた」を踏まえて読解するというのが、本論の主要な構成部分である。
 もっとも、トカチョーフは、1873年に国外に亡命して以降、少数革命家による国家権力の奪取を基調とする独特の革命理論を提唱したことから、一般には「ロシア・ジャコバン派」あるいは「ボリシェヴィキの先駆者」とみなされてきた。また、多くの先行研究も、このような73年以降の亡命時代における「革命理論家」としての彼の強烈なイメージに引きずられ、このイメージを遡及的に、亡命以前の1860年代の彼の思想に投影させてきた。しかし、本論は、あえて亡命以降のトカチョーフの著述は取り扱わずに、もっぱら、亡命以前のロシア国内の論壇における彼と他の様々な論客たちとの間の幅広い関わりに関心を集中させることにより、亡命以降の「革命理論」に還元することができないような、「批評家」としての彼の思想がもつ固有の意味や多様な側面を明らかにすることを主要な課題とした。
 総じていえば、19世紀ロシア社会思想史の大きな流れのなかで独特な雰囲気をもっていた「1860年代」という時代に、それぞれの何らかの「普遍的な」理念を志向して互いに論戦していたトカチョーフらロシア知識人たちの個別具体的な議論の意味を、所与の時代のローカルな文脈のなかで解釈し、また彼らが掲げていた「普遍的な」理念の意義についても、やはりまた個別的でローカルな文脈を踏まえて理解する、というのが本論全体を貫く方法論上の立場である。

 論文の構成は、次の通りである。
序にかえて
第1章 「ナロードニキ」概念の再検討
     ―19世紀ロシア社会思想史研究のための論点整理―
第2章 土壌主義のゆらぎ
     ―1860年代初頭の論壇状況とトカチョーフの位置―
第3章 聖なるロシアの「乞食」
     ―1860年代の貧困と慈善をめぐる論争とトカチョーフの慈善論―
第4章 クリミア戦争後の「世界イメージ」
     ―刑法秩序をめぐる議論とトカチョーフの「力」の概念―
第5章 ロシアにおけるスペンサーの受容の諸側面とトカチョーフの対応
終 章 トカチョーフの目的論的世界観の樹立 ―ラヴローフとの未完の論争―

 各章の概要は、次の通りである。
 「序にかえて」では、本論のテーマの意味を説明し、関連する先行研究の概観と問題点の指摘をおこなったうえで、さらに戦後日本におけるロシア社会思想史研究の大きな流れとそのなかでの本研究の位置づけについて説明した。
 「第1章 『ナロードニキ』概念の再検討」では、1860年代におけるトカチョーフの思想の歴史的な意味を明らかにするための予備的な作業として、「ナロードニキ」概念の再検討をおこない、19世紀ロシア社会思想史研究のための論点を整理した。具体的には、19世紀後半から20世紀初頭における、「ナロードニキ」、「ナロードニチェストヴォ(ナロードニキ主義)」といった言葉の用語法、つまり、どのような文脈でこれらの言葉が用いられていたのか、について時系列にそって検証し、また戦後のアカデミズムのなかでの「ナロードニキ」の用語法に関する主要な議論を検討した。そのうえで、「ナロードニキ」概念を見直すための論点として、単一的な「ロシア」という時空間認識や「先進-後進」といった単線的な発展史観、あるいは「革命運動・思想」といった既存の概念の枠組みにとらわれることなく、様々なエスニシティや地域をめぐるローカルな状況、また「アジア」への西欧的視線といった諸問題を視野に入れる必要があることを指摘した。最後に、「ナロードニキ」、「ナロードニチェストヴォ」という用語が活動家のなかで初めて明確な「自称」として登場した時期(1870年代後半)に注目し、「ナロードニチェストヴォ」という概念の出発点には、70年代前半の「社会主義宣伝活動家(プロパガンディスト)」たちが「ナロード」という他者表象を想定したうえで、その外部の高見に立った位置から「ナロード」を自己の働きかけの対象としていたことへの強い反省があったことを指摘した。そして、「ナロードニチェストヴォ」とは、「国民国家」の形成という世界史の大きな流れのなかで、一部の知識人たちが、自らの「根無し草」的性格を拒否し、自己と「ナロード」という他者とを一体化させ、「ナロード」という他者を自己のうちに含み込ませて独自の主体性を形成しようとした態度である、という新しい定義を提起した。
 「第2章 土壌主義のゆらぎ」では、トカチョーフが雑誌『時代』で批評家としてデビューした1862年前後の論壇状況を検討し、作家ドストエフスキイが同誌で掲げていた「土壌主義」とよばれる思想とトカチョーフの議論との関連を考察した。具体的には、第1に、雑誌『時代』の編集綱領ともいうべき「土壌主義」とは、知識人と「土壌」、つまり「ナロード」との結合を掲げた思想であり、それは、ピョートル大帝の西欧化政策を肯定的に評価するとともに、西欧とは異なるロシア人の民族性(ナロードノスチ)を強調することによって、西欧で形成されつつあった「民族」原理を単位とする世界システムに積極的に参入していこうとする構想をもっていた独特の思想であると位置づけた。第2に、この「土壌主義」という『時代』誌の独自路線は、西欧派的な『同時代人』誌およびスラヴ派の新聞『日』との論争において、いっそう明瞭に打ち出されるようになり、それは、教養階級の西欧的な抽象理論によって「ナロード」を裁断するような姿勢や、また逆に教養階級が自己の西欧的な教養を否定して「ナロード」に拝跪するような姿勢をとるのではなく、むしろ教養階級と「ナロード」とが和解しながら共に国家の領域、統治行為の領域へと参画する道を模索していた点に特徴があり、また同誌に発表されたトカチョーフの諸論文もこの路線にそった議論を展開していたことを明らかにした。第3に、1861年秋の学生運動や1862年5月の首都での大火および檄文『若きロシア』の流布といった出来事をめぐる知識人たちの議論を検討した結果、『時代』誌編集部が「土壌主義」の立場から学生たちに特別な期待をかけ、また学生たちも『時代』誌の思想に自らの理想を見出していた、という相互関係があったことを指摘した。従来の研究では、「革命家」トカチョーフと、革命的傾向とは「無縁の」作家ドストエフスキイとの「奇妙な」取り合わせが一つの謎とされてきた。これにたいして、本論では、教養階級と「ナロード」との合流を構想するとともに、ロシアと西欧との和解の道を模索し、そのことによって全人類の「前衛思想」たることを志した雑誌『時代』の思想はトカチョーフの思想を育んだ重要な要因の一つであったと結論づけた。
 「第3章 聖なるロシアの『乞食』」では、伝統的なロシア社会において「聖なる」存在とされてきた「乞食」の歴史を概観し、1860年代初頭に巻き起こった貧困と慈善をめぐる論争を検討することによって、ロシアの知識人たちが「ナロード」や下層民衆をどのように理解していたのかを探るとともに、当時の論壇での議論のなかでのトカチョーフの慈善論の位置を明らかにした。具体的には、プルィジョフ著『聖なるルーシにおける乞食』および『モスクワ報知』紙の記事を端緒とした貧困・慈善論争の具体的な議論を詳細に検討した結果、第1に、この論争において、知識人の議論は、それまでキリスト教と結びついた神聖な存在とされてきた物乞いたちを「真の困窮者」と「偽の職業乞食」とに弁別することから始まっていることを明らかにし、第2に、論争のなかで一部の知識人たちの議論は、都市の周縁の人びとにたいする一層効果的な「慈善」のあり方を模索する方向へと向かうなかで、より合理化された救貧政策の提言(『モスクワ報知』紙)や、勤労と友愛に立脚した農村共同体の強化の要求(プルィジョフ)、さらには困窮者の経済的な自立をめざす協同組合を設立すべきだという主張(チェルヌィシェフスキイ)など、様々なかたちの社会政策論が展開されていたことを指摘した。第3に、これらの「慈善」改革論に反発した知識人たち(イワン・アクサーコフ、ストラーホフなど)の間でも慈善のあり方をめぐって互いに論戦が交わされていたが、総じていえば、彼らの主眼は、周縁の人びとの境遇を改善することよりも、むしろ喜捨を捧げようとする人びと(「ナロード」)の宗教的・道徳的精神、相互扶助の精神を鼓舞することにおかれていたことを指摘した。第4に、このような貧困・慈善論争の延長線上で展開されていたトカチョーフの「慈善」論は、ロシアでの「乞食」の問題を、同時代の西欧社会で危惧されていた「プロレタリアート」あるいは「窮乏状態(パウペリズム)」と同種の問題として位置づけたうえで、やはりまた西欧での経験に依拠するかたちで「中央集権化された社会的慈善」の整備を要求するという社会政策論へと向かっただけでなく、さらに「生産協同組合」の創設要求や、それらを支援するような立法をおこなうべき「労働者国家」の樹立の要求へと具体化されていったことを明らかにした。
 「第4章 クリミア戦争後の『世界イメージ』」では、クリミア戦争終結後の1850年代後半から1860年代前半の時期におけるロシア知識人たちの「世界イメージ」の問題、つまり、いわゆる「世界観」とは異なる、現前する世界についての漠然とした経験的な印象のあり方という問題領域に光を当てた。具体的には、クリミア戦争後の時期に、一部のロシア知識人のなかで、世界を予定調和的に編成する秩序原理としての「理性」にたいする啓蒙主義的な信仰の土台を揺さぶるような新たな「世界イメージ」が生まれていたこと、いいかえれば、彼らのあいだで、世界は偶然的な力や個々人の恣意に支配されている一種の「戦争状態」であるというイメージが共有されていたのではないか、という仮説にもとづいて、当時の刑法秩序をめぐる議論、とくに刑法学者スパソーヴィチの『刑法学教科書』とそれにたいするトカチョーフらの書評などを中心に検討した。その結果、第1に、スパソーヴィチの議論は、戦争・内乱・政治裁判およびテロリズムの頻発といった同時代の社会・政治情勢を念頭において、当時のロシア帝国の警察中心型の法秩序にたいして、法実証主義の立場から法治国家を志向し、専制国家の刑罰権に制限を加えようとするものであったことを指摘した。第2に、スパソーヴィチの議論にたいして、トカチョーフは、むしろ純粋な法理論の枠組みを超えて、刑法秩序の歴史的起源をたどる法哲学史の研究をおこなうなかで、古代インドの法観念である「力こそ法である」という命題に注目し、また刑罰執行の実態および刑罰の実際的効用の面から当時の刑法秩序の本質を理解しようとした結果、刑法秩序のもつ暴力性とその相対的・恣意的性格に主要な注意を向けることになったことを明らかにした。第3に、このようなトカチョーフの志向が生まれた背景として、ロシア人にとって「聖戦」であったはずのクリミア戦争が敗北し、また皇帝が急死したことによって世の中の雰囲気が激変するという体験があり、これらの出来事を「幸運な偶然性」として受け止めた一部の知識人たちのあいだで、偶然的で非決定的な要素に賭ける、ある種の「博打」的発想が共有されていたことを指摘した。最後に、こうした、世界を偶然性が支配する「戦争状態」ととらえるような「世界イメージ」を前提とするならば、1860年代以降の様々な思想の展開の意味も新たに再解釈できるのではないか、という今後の研究上の見通しを示唆した。
 「第5章 ロシアにおけるスペンサーの受容の諸側面とトカチョーフの対応」では、「生存闘争」という表現の発明者で、ロシアの論壇に大きな影響を与えたイギリスの思想家ハーバート・スペンサーの著作が、どのようなかたちでロシアの論壇に受容されたかを、1860年代後半から70年代初頭にかけて時系列にそって詳細に解明し、ロシアの知識人たちの「自然」観にかかわる議論およびそれらにたいするトカチョーフの対応を考察した。具体的には、ストラーホフの自然哲学にかんする議論を検討することにより、スペンサー受容の思想史的背景として、19世紀前半の有神論的・目的論的自然観から、ダーウィン理論の影響のもとで、偶然性が支配する世界イメージへと、一部の知識人のあいだで「自然」観の変容が生じていたことを指摘した。つづいて、1866年から始まるスペンサーの著作の翻訳の刊行状況と、それらにたいするロシア知識人たちの様々な反応を明らかにするために、スペンサー『著作集』(ロシア語版)の発行人チブレン、教育学者ウシンスキイ、批評家のミハイロフスキイ、ラヴローフ、トカチョーフによるスペンサー解釈を時系列にそって検討した。その結果、ロシアの書評家たちは、検閲の制限を回避しながらも、それぞれの思想的立場をスペンサーの議論に仮託するかたちで表明し、また先行する書評での解釈や論点を暗黙裏に批判したり摂取したり、またそこから新たな論点を切り開いたりするなどして、それぞれの独自の思想的立場を形成していたことを明らかにした。具体的にいえば、チブレンは1866年の皇帝暗殺未遂事件直後の不穏な時代のなかで、健全な家族と市民的自己形成の理念に立脚した社会秩序を理想とする立場からスペンサーの意義を宣伝したのにたいして、ウシンスキイは自分の教育学上の立場を鮮明に打ち出すためにスペンサーを「唯物論的心理学」の体系化の試みであると攻撃した。またミハイロフスキイは、社会の多様化・分業化を「進歩」と見なすスペンサーの「進歩の公式」について、それは分業体制のもとでの人間個体の「退化」を正当化するものであると批判し、分業を否定し個体の全面的発達を至上の価値とする立場を鮮明に打ち出した。これらの批評にたいして、ラヴローフは、スペンサーの立場はウシンスキイのいうような唯物論ではなく「不可知論」であることを強調し、ミハイロフスキイのスペンサー批判にたいしては、それに表面上は賛同しつつも、実質的な論点としてはスペンサーと同じく社会の分業化・専門化を支持する議論を展開していた。これらの様々なスペンサー論にたいして、トカチョーフは、スペンサーの議論を個体に立脚した「闘争」の原理を進歩の原動力とみなす立場であるとみなし、このようなスペンサーの立場とは正反対に、「社会の自己保存」あるいは「種の保存」という全体主義的な観点から、人類の再生産と個体の発達とが集団的権力によって「調整」されることこそ、個体間闘争が支配する「自然状態」とは異なる人間「社会」に固有のあり方であると主張した。このように各人と各人との闘争を「調整」する集団的権力による「立法」の役割を重視した点で、トカチョーフの議論は他の論者とは大きく異なる特徴をもっていたことを明らかにした。また、従来の先行研究では、トカチョーフのいう社会の「法則」について、いわば歴史の必然的な発展法則のことであるかのように解釈されてきたが、むしろ彼がスペンサー論で展開した「法則」とは、「社会的自己保存」のための経験的で個別具体的な実定法(つまり規範としての法律)のことを意味しており、実践的には、社会的な立法権力の要求や、立法権を皇帝が独占していたロシアの専制体制にたいする批判が含意されていた、という新しい解釈を提示した。
 「終章 トカチョーフの目的論的世界観の樹立」では、トカチョーフの目的論的世界観の構造をラヴローフの立場と対比させながら明らかにし、彼の世界観の歴史的意味をロシア帝国における監獄・監視制度のあり方と関連させて考察した。具体的にいえば、ロシアにおける1860年代の思想状況の特徴として、それ以前の啓蒙主義に固有の「理性的なもの」が、同時代に流行した実証主義の影響のもとで「科学的な真理」あるいは「科学的な法則」へと置き換えられていくなかで、当初、身分制的制限にたいする普遍的な人間の解放をめざしていた知識人たちが、一方で自由で自律的な理性的人格の要求と、他方で「科学」が提供すると称された「法則性」との矛盾に直面するという問題状況を抱え込むようになったことを指摘した。つづいて、1860年代末に、このようなロシアにおける啓蒙主義の危機的状況にたいする独自の解決策として登場したラヴローフの論文『歴史書簡』と、それへの批評論文として書かれたトカチョーフの獄中草稿「進歩の党とは何か」とを対照させながら、両者の主張の主要な論点を検討した。その結果、明らかになったことは次のことである。第1に、ラヴローフの『歴史書簡』は、歴史における人格の価値の第一義性を主張し、人間の認識と価値判断の「主観性」を積極的に位置づけることによって、実証諸科学の影響のもとで蔓延していた歴史や人間の宿命論的・決定論的な理解の仕方を打破するとともに、1866年の皇帝暗殺未遂事件以降の政府による社会統制の強化のなかで、意気阻喪していた若い知識人たちに新たな実践行動への刺激を与えようとした点にその思想史的な意義があること。第2に、『歴史書簡』にたいするトカチョーフの批判の矛先は、ラヴローフのいう主観的方法が形式的な行為規範を提起するだけであって、実質的な価値の内容については無規定であるだけでなく、それぞれの行為主体が採用すべき価値・規範の統一性が保証されていないということに向けられていたことを明らかにした。第3に、トカチョーフは、自らの価値論を展開するにあたって、スペンサーが提起した「生命」概念を手がかりにしながらも、諸個人間の「闘争」状態を調整するために、社会全体の「目的」という「絶対的規範」を打ち立てようとし、具体的には、等しく「生命」をもつ人間個体が可能な限り平等にその生存が保障されるような社会状態がどれだけ実現されたかが、歴史的な進歩の「絶対的な基準」であると主張したことを明らかにし、このような彼の議論は、同時代の大衆的窮乏化(パウペリズム)やマルサス的な人口制限論への批判を念頭においたものであったことを指摘した。第4に、トカチョーフの思想は、彼の「生命」概念や進歩の「絶対的な基準」にかんする議論など、きわめて抽象的で直線的な思考によって導出されたものであるが、これは彼自身の過酷な監獄体験と、独房生活のなかで独特に肥大化した自己意識のあり方と密接に関連していることを指摘した。そして、最後に、トカチョーフのいう「絶対的な基準」としての、万人に平等な生存の保障という主張は、人間の自然的な側面の保証なしには、「主体」の発達のみならず「社会」の存続も考えられないという自明性に立脚したものであったが、彼の思想は、この「自明性」を再確認しなければならないような時代、「生存闘争」の原理が社会秩序のなかで支配的なものになりつつあった時代の産物であったことを指摘した。
(以上)

                          
                         

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