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博士論文要旨

論文題目:「部族」の創出―合衆国南西部における先住社会の再編過程―
著者:水野 由美子 (MIZUNO, Yumiko)
博士号取得年月日:2005年7月13日

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合衆国は移民国家である。このことは、合衆国史の概説書では自明の前提とされてきた。それとは対照的に、合衆国が開拓国家であることの歴史的意義は、近年までの日本におけるアメリカ研究に限ればむしろ等閑にされてきた傾向があった。いいかえれば、「国境の移動」よりも「人の移動」への学問的関心の方が圧倒的に高かったのである。もちろん、移民は、合衆国における自国史像の形成過程を考察するうえで不可欠な要因であることはいうまでもない。しかしそれと同時に、建国以来、国境線がたびたび変更されて領土が拡張されてきたという事実もまた、合衆国を規定する重要な歴史的要因なのである。
 合衆国の領域変動に注目することにより、どのような学問的地平が拡がるのだろうか。第一に、土地問題の重要性が浮上する。領土の膨張によって成立した合衆国においては、土地所有権の確立に代表される土地問題は建国以来の慢性的な法的・政治的課題であった。土地に関する法制度の確立こそが、かつての異国を自国化するために国家側が最初に着手しなければならない作業だったのである。そして第二に、領域変動に伴う合衆国―先住社会関係の再編過程そのものの検討という課題が挙げられる。通常の併合地の場合、国家間の取り決めによって国境が変動・画定され、合衆国の領域内ではまず合衆国が所有権を有する公有地とみなされ、その後、法に基づく払い下げなどを通じて大半は私有地化される。けれども実態として、併合地は無人の荒野ではなかったのみならず、あくまでも連邦法という法理の枠組みのなかでは、合衆国はそれを無主地(テラ・ヌリウス)としてはみなさなかった。それだからこそ為政者側からみれば、土地問題は先住者をいかに処遇するかという問題と直結することになったのである。

本研究の課題
 以上の点を踏まえて、本研究においては、「インディアン」/「市民」という法的地位がなぜ、どのように国家側から特定集団に付与されたのか、そしてそれに対して先住社会においてはどのような対応がみられたのかを検証することを課題とする。具体的には、プエブロとナヴァホ(と国家によって同定・認定された先住社会)に即して、かつては「インディアン」として国家によって同定された集団が、同時に「市民」でもあると認定されるようになった1920年代から1940年代に注目することで、「インディアン」「市民」という法的地位に国家側・先住諸社会側それぞれがどのような可能性を見出し、あるいは限界があると考えたのかを具体的・内在的に考察していく。とりわけ、国家側とプエブロ側・ナヴァホ側それぞれが「インディアン」や「市民」といった概念に託した願望や認識のずれに留意し、それが意味するところを分析・解釈していく。本研究においては、国家側による命名という法的措置を含めて、だれがどのような文脈においてどの集団を「インディアン」と同定したのか、そして同定された側はどのような対応をとったのかを具体的な事例に即して検証する作業を重視している。それによって、「インディアン」「市民」といった命名作業は場当たり主義と形容すべき曖昧さと矛盾に満ちたものであったこと、そして非対称的な権力構造におかれた被支配側にも多様な対応策や戦略がみられることを例証しながら、「強大で一枚岩的な支配側」や「無力な犠牲者である被支配側」を単純に措定することはできないことを示していきたい。
 本研究のねらいは、「大規模で集権化された」近代国民国家によって主権を一方的に宣言された「分節社会」(あるいは国家形態をもたない「小社会」)の歴史的事例研究を通じて、近代国民国家の成立によって所与のものとされた「市民」という概念について、その限界も含めて相対化し再検討することである。とりわけ、合衆国史における移民パラダイムにおいては最終目標とされてきた「市民」について、「インディアン」という法的概念の歴史的生成過程と比較・対比することによって、これまで等閑に付されてきた側面―「インディアン」固有の権利や市民的権利の範囲と限界―を浮き彫りにしていきたい。
 本研究の課題をこのように設定した場合、ここで「インディアン」というキーワードを定義しておく必要がある。
法学者フェリックス・コーエンによれば、「対インディアン政策という点で連邦政府が交渉相手としているのは、インディアン・トライブという政体(political entities)の成員あるいはその子孫であって、特定の人種に属する個人ではない」のである。さらにコーエンは、「インディアン」という用語を用いる際には、民族学的概念と法的概念とを区別することは非常に重要であると指摘している 。すでに述べたように本研究では、ある先住社会が「インディアン」(あるいはある文脈においては「市民」)として法的に認定され、そして1924年市民権法による市民権付与を経て1930年代には「自治政府」(self-government)のもとで「部族」(特定の「インディアン・トライブ」)として再編される歴史的過程の分析に重点を置いている。そのため本研究においては、コーエンにならい、「インディアン」とは「国家によって認定されたインディアン・トライブというある政体の成員あるいはその子孫」を指す法的概念であると定義する。なお、ヨーロッパ人入植以前から北米大陸に居住していた人々の総称として―国家による認定の有無に必ずしも規定されない民族学的概念として―「先住民」という呼称を用いる。ただし、引用文中や部局名(たとえば「内務省インディアン局」など)、あるいは法的概念であることを限定・強調する必要のある場合は「インディアン」という呼称を用いることとする。

章構成/史料について
 本研究の章構成は次の通りである。まず第I部「合衆国による併合と南西部先住社会:19世紀後半~1910年代」では、プエブロ(第一章)とナヴァホ(第二章)それぞれの社会に即して、一旦は「インディアン」として同定されたこれらの集団に対して「市民」としての同化圧力が次第に強まっていく経緯を追う。ただし、先住民への同化圧力が最も高まった19世紀末から20世紀初頭にかけてでさえ、同化推進を阻む諸条件が存在していたことにも注目する。次に、「先住民政策改革運動の高揚と南西部先住社会:1920年代~1930年代」と題した第II部においては、「われわれの市民的生活」への同化を唱えた諸施策が、実際には「圧政」ともいうべき著しい権利侵害や違法行為を黙認あるいは助長していたことが明らかとなり、改革の機運が高まっていく過程が明らかにされる。第三章はプエブロ、第四章はナヴァホに直接関連した改革運動や議会審議を取り上げ、為政者側と先住民側とを問わず、「インディアン」かつ「市民」という曖昧な法的地位ゆえに特定の施策や法制度に託した願望や解釈においてどのような対立がみられたのかを分析していく。そして第III部「『インディアン・ニューディール』と南西部先住社会:1930年代~1940年代」では、同化政策の代替を標榜し先住諸社会を「××部族」として再編することを目的とした諸改革について、プエブロ(第五章)ナヴァホ(第六章)それぞれの社会に即したケース・スタディーを行ない、首都ワシントンで語られる理念や構想と現場における実情や要望との乖離を比較検討していく。なお、第I部、第II部、第III部すべてにわたり、土地制度と法的地位、学校教育の三つの領域を重視し、諸施策の共時的な展開と通時的な変遷をともに重視した考察を行う。
 なお、本研究で扱う史料については以下の通りである。まず為政者側の言説分析に際しては、連邦政府内務省の内部文書や連邦議会議事録、連邦公聴会の議事録の他に、「インディアンの友」あるいは「改革者」(reformers)を自称していた非先住民を会員とするロビー団体の機関紙や同団体の代表者による新聞や有力雑誌への寄稿なども活用する。それによって「白人」対「インディアン」といった単純な図式に陥ることなく、為政者側の多様な意図や願望を分析することが可能となる。他方の先住民側の見解については、プエブロとナヴァホそれぞれの評議会議事録や嘆願書・上申書、公式・非公式の書簡を用いて、指導層内部の多様性や対立をも視野にいれた分析を行う。また、指導層ではない一般の人々の見解については、それを史料的に裏付けることは多くの困難を伴うものの、人類学などの隣接諸学の研究業績や近年盛んになってきたオーラルヒストリー・プロジェクトの成果を取り入れながら検討する。

第I部 合衆国による併合と南西部先住社会:19世紀後半~1910年代
 1846年に勃発したアメリカ・メキシコ戦争の結果、メキシコは国土の約半分に相当する広大な領土をアメリカ合衆国に割譲・売却することになった。第I部では、主に法的地位と土地所有、そして学校教育の観点から、19世紀後半から20世紀前半にかけて当該地域が合衆国に編入される過程を検証する。
第一章では、まず法的地位と土地所有に関して、旧スペイン植民地「ヌエボ・メヒコ」の土地下賜制度のもとでスペイン国王によって「下賜」されたプエブロの土地が、合衆国の法理のもとで「インディアン・カントリー」(保留地)として再編される経緯を追った。その過程で、プエブロは「市民」でも「インディアン」でも無権利状態におかれることになったが、最終的には「インディアン」として合衆国によって認定され、プエブロの土地は保留地とみなされることになった。ところが、南北戦争の混乱が収まりつつあった1880年代以降、国民統合の観点から、「インディアン」という特殊な法的地位を有する集団の存在は障害とみなされるようになった。そして、「インディアン」という法的地位を漸進的に解消することが新たな政策目標となり、保留地の個別土地割り当て政策と「文明化」教育の普及が先住民政策上の車の両輪となった。ただし、プエブロやナヴァホを含む南西部の先住社会に対しては、保留地の私有地化を促進するための法律である1887年ドーズ法は適用されなかった。入植地としての魅力に欠ける当該地域では、むしろ「変則的」かつ複雑な土地所有については保留しておき、まずは学校教育を通じて先住民を「文明化」する作業が進められることになった。
1880年代以降、保留地の解体のための立法措置と並行して、「文明化」を目標としたインディアン局所管のいわば国立の「インディアン・スクール」(先住民のみを対象とした学校)が急速に整備されることになった。しかし、「上からの」学校教育の普及はそれほど順調に進んだわけではない。国家側にとっての障害は、学校教育の無償化・義務化には莫大な経費がかかることであった。他方、先住民側からは、学校教育普及策への反発や同調など様々な反応がみられた。強制的な就学や学校での断髪への抗議は全国各地でみられた。ただしプエブロについては、保留地から遠く離れた寄宿学校への就学は反対する傾向があったものの、大きな抵抗はみられなかった。その背景には、スペイン植民地支配を経て、外部からの圧力をかわしつつ自文化を継承するシステム(エドワード・ドジャーのいう「コンパートメント化」)が確立していたため、英語の習得や官給品を目当てとした「実を取る」戦略がとられたこと、表立った抵抗が少ないうえに村落を形成しているため通学学校が普及しやすかったことなどの要因があった。それとは対照的に、同じように村落を形成する定住農耕民のホピの場合、スペイン植民地支配を受けていなかったため、就学の圧力は前代未聞の外部勢力からの干渉ととらえられ、村が二分されるほどの激しい内部対立へと発展した。19世紀末のホピの村々では、警察権力を動員した強制的な生徒募集が日常茶飯となっていた。そして1910年代には、村の中に通学学校が開校されるに従って、就学者数が増えていった。ホピの事例からは、合衆国の強大さへの恐れの感情が物質的豊かさや異質の「学校が伝える文化」への憧憬や好奇心と交錯しながら、学校教育反対派あるいは容認派を問わず、人々の心を支配してきたことがうかがえるのである。
次に第二章では、同時期のナヴァホ社会の再編過程に焦点を絞り、国家による統合の圧力とナヴァホ指導層側のそれへの対応とを検証した。この時期のナヴァホに対しては、1860年代に一旦施行された強制移住策(通称「ロング・ウォーク」)の撤回やその後の保留地拡張と1887年ドーズ法不適用にみられるように、通説とは異なる施策が講じられている。その背景には、首都ワシントンにおいて当該地域は入植地として「不毛」であり天然資源にも乏しいとの共通認識があった。それに対してナヴァホの人々は、従来の生産文化―スペイン系入植以前にプエブロやホピから伝授された農耕と、スペイン系入植者との接触によって広まった羊の移牧を組み合わせた複合形態―を維持しつつ、保留地の境界線を無視した土地利用を行うことによって、家畜数と人口を増やしていった。
また学校教育の普及に関しても、プエブロやホピとは対照的に、ナヴァホの場合は初等教育の就学率は一向に上昇しなかった。実際のところ、ナヴァホ社会においては1930年代初頭に至るまで、学校という公的機関に拠らない従来の教育システム(アーネスト・ゲルナーのいう「一対一の実地教育方式」)と学校教育システムが並存するという状況が数十年にわたり続くことになった。もちろんナヴァホ社会においても、他の先住社会と同様に、学校教育は、主に拡大家族を基盤とする「一対一の実地教育方式」ともいうべき従来の教育的再生産のシステムとは相容れないという理由で、脅威あるいは障害である受け止められた。ただしナヴァホの場合は、保留地が拡張される一方で人口も増加し、さらに移牧という移動を伴う生産文化ゆえに、支配権力との接触を避けることもある程度まで可能であった。家族のうちの一人か二人が英語の読み書き能力を習得するメリットは享受しつつ、学校やインディアン局事務局との距離を保ちながら、従来の経済的・教育的再生産のシステムを維持しつづけるという選択の余地が残されていたのである。

第Ⅱ部 先住民政策改革運動の高揚と南西部先住社会:1920年代~1930年代
 20世紀初頭には、それまで比較的放置されていた南西部の先住諸社会においても、土地や天然資源をめぐる争いが表面化するようになった。第三章では、1920年代の先住民政策改革運動の起点となったニューメキシコ州プエブロに焦点を絞り、改革運動の展開とその歴史的意義を明らかにした。端的にいえば、この運動の最大の成果は、先住民政策をめぐる新旧の思潮の対立を経て新しい政策の理念が形成されたことである。プエブロの土地所有権に関する法案(バーサム法案)と先住民の「ダンス」や信仰生活をめぐる論争の過程で、保留地におけるインディアン局の「圧政」―行政権のみならず一部の立法権や司法権までも行使しうるインディアン局の肥大化した権限―が連邦議会において問題化されるに至った。これらの論争においては先住民自身には発言の機会すら与えられていなかったという限界があったものの、その過程において、先住民のイニシアチブによる文化的・政治的活動が議論の対象となり、それらを隠蔽してきた従来の制度への批判が高まることになった。
 続いて第四章では、ナヴァホ保留地北東部における石油発見を契機として浮上した石油採掘権法案(ヘイデン法案)の審議過程と「トライバル・ファンド」(土地の売却やリースによって得た特定トライブの共有財産のうち、条約や各種制定法により現金や有価証券の形で合衆国政府の保管に属する資金の称)の流用をめぐる連邦議会での議論をとりあげ、先住民の権利が「合法的」に侵害されてきたことへの批判が連邦議会においてなぜ高まっていったのかを分析した。とりわけ注目すべきは、一部の連邦議員が「インディアン」を他の市民と同等の処遇をしないことに対して「不正」と断じたことである。従来、「インディアン」は一般市民とは別個の「変則的な存在」とみなされ、保留地のみで適用される「事実上の法律」や特異な司法制度の存在が正当化されてきた。ところが1924年市民権法の制定を境に、ある連邦議員の言葉を借りれば「インディアン市民」としての権利といった新しい視点から、先住民の諸権利を論じる動きがみられるようになった。実態としては、約八万五千人の先住民に直接かかわるヘイデン法案でさえ連邦公聴会に先住民の参考人がひとりも招致されなかったことが象徴しているように、1920年代のナヴァホ政策論争はナヴァホ不在という限界はあった。とはいうものの、その過程で、保留地全般の行政を統べる行政権の最高責任者(内務長官―インディアン局長)の肥大化した権限や、連邦議会における先住民の諸権利への「合法的」侵害のメカニズムが一部の議員によって可視化されたことの意義は認めねばならないだろう。温情主義や人道主義の見地からの従来の先住民政策改革論とは異なり、「インディアン市民」=市民権を有する「インディアン」という観点からの改革論では、個々のケースにとどまらず必然的に既存の法制度や慣習的な行政措置全般が議論の対象となるからである。さらに重要なことに、ナヴァホ自身の見解を重視すべきだとの主張がとくに連邦上院でみられたことは、その後の上院による包括的な調査や保留地各地での公聴会の開催へと結実していった点で、先住民政策史上における重要な転機となったといえよう。

第Ⅲ部 「インディアン・ニューディール」と南西部先住社会:1930年代~1940年代
 第Ⅱ部でみたように1920年代には、プエブロやナヴァホなど主に南西部の先住民社会に即して政策改革の機運が高まっていた。そして1930年代には、とくにプエブロの土地問題の解決に大きく貢献したロビー団体「インディアン擁護協会」のハロルド・イッキーズとジョン・コリアがそれぞれ内務長官とインディアン局長に就任するなど、同協会の改革派メンバーが先住民行政の要職に就く一方で、ローズベルト政権のもとでの不況対策として前例のない規模で様々な連邦公共事業が導入された。「インディアン・ニューディール」を標榜した一連の政策改革の理念は、コリア局長によれば「土地に根ざした経済的再建、インディアン・トライブが自らの手で業務を執り行うための組織化、インディアンのための市民的・文化的自由と機会の確保」という三つの骨子からなっていた。この三点に焦点を絞り、第五章では改革のモデルケースとなったプエブロ、第六章ではナヴァホ社会にそれぞれ即して、これらの諸改革を具体的に検討する。
第五章では、まず、コリア局長が当面の最優先課題として掲げた「土地基盤の回復」と「自治政府」の設立などを目的とした包括的法律・インディアン再組織法(以下再組織法とする)の法案審議過程について、とくに法案を起草したインディアン局とプエブロ指導層との審議会議事録の分析を行った。この分析を通じて明らかになったことは、1)1934年再組織法によって1887年ドーズ法が破棄されたことは、ドーズ法が適用されなかったプエブロにとっては即時的な影響はなかったが、将来の脅威(個別土地割り当て政策実施の可能性)がなくなったことを意味していたこと、そして2)再組織法案のなかで「自治政府」を構想した当局側の立案者は、プエブロ既存の統治機構を「自治政府」のモデルとしていたのみならず、その「自治政府」がプエブロの神聖首長の権限を侵害しないように腐心していたという事実であった。とりわけ後者の事実は注目に値する。なぜなら、それは構想立案者がウィル・キムリッカのいう「対内的制約」―「内部の異論(たとえば伝統的慣習や習慣に従わないという個々の成員の決断)のもたらす不安定化から保護することを意図した」「ある集団が自らの成員に対して行う権利要求」 ―の問題を認識していただけでなく、それがいかに論争的であるかをよく自覚していたことを示唆しているからである。つまり、このような「自治政府」を構想することで、仮に伝統的な信仰や慣習に従わない成員の自由を制限するという「対内的制約」の問題が浮上した場合でも、合法的な組織である「自治政府」による「自治」の権限のもとで外部者ではなくプエブロ指導層自らがイニシアチブを発揮できる余地を残しておこうとしたのである。それはまさに当時のプエブロ指導層が望んでいたことであった。
他方、19世紀後半以降、「主流文化への同化」政策の象徴とみなされてきた寄宿学校においても、ニューディール期の公共事業費を活用した衣食住環境の改善や校舎の増改築が相次いで行われた。改革のモデル校であり先住民文化への関心の高さという点で群を抜いていたサンタフェ寄宿学校(以下サンタフェ校とする)では、「文化的遺産の上に築こう」が標語として掲げられるなか、教室や食堂にはプエブロやナヴァホの日常生活を描いた壁画が描かれるなど、外観や内装だけをみても大きな変化がみられた。また、生徒の学校生活面においても、軍隊式行進が廃止され、英語以外の言語を禁止する規則が撤廃された。サンタフェ校を含む特定の寄宿学校を対象としたオーラルヒストリー・プロジェクトによれば、1930年代以降、先住民側の寄宿学校観は概ね肯定的・好意的なものへと変化してきたことが数多くの証言によって裏付けられるという。
しかし、サンタフェ校が掲げた理念は、散発的な実験的プロジェクトならまだしも、基礎教科や実業教育といった従来のカリキュラムのなかで、具体的に何をどのように教えるべきかという個々の教員が抱える疑問に対して具体案を提示するものではなかった。ドロシー・ダンという教員が始めた絵画教室(この教室は「工房」と呼ばれていた)をめぐる論争は、国民統合のための必須の機関として導入された寄宿学校において、先住民の「文化的遺産の上に築く」ことの矛盾を体現したものとなった。ダンの絵画教室はたちまち大人気のクラスとなり、プエブロの陶器の彩飾技術や伝統的モチーフを参考にして次第に「工房」スタイルともいうべき独特な画風―正確なブラシ使いや明暗のない彩色、背景の欠如などの特徴があった―がつくり上げられていった。ダンの生徒による絵画は、アメリカ国内のみならずヨーロッパの主要都市における展示会でも注目を集め、「インディアン・ペインティング」ブームを巻き起こしたものの、プエブロ側の反応は無関心あるいは冷淡なものであった。その背景には、過去のスペイン植民地支配や合衆国政府による習俗への干渉ゆえに、プエブロ社会においては、研究者や観光客に自文化に関する情報提供をすることは一種の秘密漏洩罪とみなされてきた経緯があった。ダンの試みはタブーに抵触するものではなかったものの、プエブロ側は、学校という外部の機関において自らの文化的伝統をすべて披露することに対しては一抹の懸念を抱いていたのである。1960年代には、ダンの「工房」への評価はかつての賞賛一辺倒から、「純粋主義者」的「インディアン・アート」観を助長したとの批判にさらされるようになった。「インディアン的なもの」をことごとく否定しさげすんできた「学校が伝える文化」とひとり対峙したダンではあったが、ダンの果たした役割にどのような評価を下すかについては、「インディアン・アート」全般に関わる論議と同様、現在でも論争的である。
 次に第六章では、「経済的リハビリテーション」や「文化的自由」といった「インディアン・ニューディール」を標榜した政策改革の理念と現実の乖離をナヴァホ社会に即して検討した。まず、ナヴァホ保留地において断行された過放牧対策としての家畜削減政策の経緯を追い、当局側の説明とは異なり、実際には無計画かつ強制的に実施されたことを明らかにした。約10年間で57パーセントもの家畜が削減されたことは無謀としかいいようがなかったが、この削減政策によってそれまで経済的に自立していたナヴァホ社会では、その後数十年にわたり政治的・社会的な混乱と経済的な(連邦助成金への)依存が続くことになった。ナヴァホ社会内部では、穏健派の指導者チー・ドッジに飽き足らない急進派がJ.C.モーガンを筆頭として台頭して内部対立が激化したため、再組織法案といった重要法案の審議もままならず、コリア率いるインディアン局改革派への不信感が強まっていった。とりわけ、再組織法に含まれる「自治政府」構想は、ナヴァホの指導層からみれば画餅にしかすぎないのみならず、憤りの対象となった。なぜなら、警官のみならず軍人まで登場する家畜削減政策が断行されるなかで、「自治」などあまりに現実離れしていたからであった。
 他方、学校教育政策においても、家畜削減政策とは異なった意味において、インディアン局と指導層の見解の乖離がみられた。当局側は、「コミュニティ・スクール」(通学学校)を増設することで就学率の向上と教育環境の改善を促す方針を打ち出した。それに対してナヴァホ保留地では、移牧という生産文化をもつナヴァホの場合、現時点では通学学校は非現実的であるとの「常識」があった。通学学校の建設に適した集住地が少ないうえに、道路が整備されていないため悪天候時にはスクールバスの運行は不可能だったからである。そして第二次大戦の勃発に伴い、従軍経験者や保留地外での雇用機会が増えてナヴァホの人々の就学への関心は高まったため、ナヴァホ指導層は通学学校ではなく寄宿学校による就学率の向上を連邦議会で訴えるようになった。人口の急増や土壌の浸食という自然条件に依拠する要因と、積年の土地紛争や家畜削減政策による混乱という政治的要因が錯綜してはいたものの、従来のように保留地内で生計を立てることは不可能となっていた。このような状況のなかで、ナヴァホ指導層が寄宿学校制度を支持した背景には、寄宿学校という異質な教育機関において英語や「白人のやり方」に精通した次世代を育成しなければ「連邦議会で嘆願すらできない」といった切迫感や葛藤があったのである。

終章
以上のように、19世紀末から20世紀前半にかけてのニューメキシコとアリゾナにおいては、「市民」と「インディアン」という二つの法的概念の並存が先住諸社会のあり方を規定する基本的要因であった。そして合衆国の他の地域とは異なり、天然資源や肥沃な農地に乏しい南西部では、領土拡張の過程で国家側が一旦創出した「インディアン」という「変則的な法的地位」を解消するメリットはあまりないと認識されており、結果的に、「市民」と「インディアン」という二つの法的概念が矛盾を孕みつつ並存する状況が半世紀以上も続くことになったのである。
ここで注目すべきは、このような再編過程において、「インディアン」という法的概念をめぐる見解や解釈が立場や時代によって大きく変化してきたという点である。とりわけ南西部においては、「インディアン」という法的地位が長らく維持され、その時々の為政者側の都合で定義・解釈されてきたが、このことは結果的に、先住民側にとってその解釈の揺れを利用しうる余地が(非常に限定的とはいえ)あったことを意味している。併合後の半世紀以上にわたり、「インディアン」として処遇されてきたプエブロやナヴァホのあいだで、「インディアン」という法的地位を利用して州による土地への課税と州裁判所の管轄から逃れたり、国家による保留地の線引きを無視して占有の既成事実をつくりあげ、結果的に保留地拡張を導きだす戦略が功を奏したのである。
では、先住民に市民権が付与されることになった1920年代以降、「インディアン」という法的地位と市民権との関係はどのように捉えられてきたのだろうか。興味深いことに、すべての先住民を対象とした1924年市民権法は、法制度上の重要さとは裏腹に、その制定過程においてほとんど議論がなされていない。その背景には、第一次大戦中に兵役義務がないにもかかわらず先住民の志願兵が存在していたことや、大国アメリカ合衆国における国内の差別問題への国際的関心の高まりなどの政治的要因があったため、法的整合性の問題を棚上げにして連邦議会が一方的に市民権付与を宣言したという事情があった。他方の先住民側にとって、市民権とは一定の限界を伴うものであった。なぜなら、「先住インディアン」としての権利要求は、「市民権」概念に基づく「市民」としての権利要求とは必ずしも一致しないからである。また、長年の占有地を守るためには法的擬制としての「インディアン」には「市民」にはない利点があることを見抜き、少なくとも1890年代から自らを「市民」としてではなく「インディアン」として処遇して欲しいと要求し、州の参政権は拒否したプエブロ指導層の事例にみられるように、参政権や権利章典といった市民的権利の根幹をなす権利と先住民の集団別権利としての自治権のあいだには一定の緊張関係があるのである。このように、参政権の付与がある種の支配(自治権の制限)を伴うのではないかと警戒したプエブロ指導層のように、先住民としての集団別権利を主張する立場からみれば、市民権にも一定の限界があることを認識すべきである。この点については今後、アフリカ系アメリカ人の参政権や非ヨーロッパ系移民の市民権問題との比較という視点から、さらに検討すべき課題である。
先住社会の再編を目的とした1934年再組織法に象徴されるように、1930年代の「インディアン・ニューディール」と総称される諸改革は、一言でいえば、現代社会に適合した法的擬制としての「部族」(「インディアン・トライブ」)を創出する政策であった。とりわけ注目すべきは、当局の掲げた「自治政府」構想はプエブロ既存の統治機構をモデルとしていた点である。そのため、「自治政府」構想はプエブロ社会に適合的であったのに対し、強制的な家畜削減政策の最中のナヴァホ社会においては画餅にすぎなかった。ただし「自治政府」構想の真の問題点は、連邦制への包摂によって「自治」を確保するという両義性にあり、それゆえに先住諸社会それぞれの文脈において実施される段階になると相反する反応と評価が生じることになったのである。
「自治政府」構想にみられる両義性は、教育改革においてもみられた。ジョン・コリア局長は、先住民政策において近代化と支配的文化への同化は同義ではないと考えていたという点で、従来の局長とは異なっていた。たしかに、近代化と同化は同義ではない。しかし、学校教育の分野では、近代化と同化の相克が最も先鋭化する傾向があることはすでにみてきたとおりである。それは、学校教育の果たす統合機能が、先住社会において従来の教育的・経済的再生産の方法を一部あるいは全面的に否定し、「次世代の育成方法」(広義の教育)や「経済的成功」などに関する価値観の変革を促す役割を果たすからであった。プエブロ指導層が祭祀に関する教育のために男児数名に学校を欠席させた事例や、削減政策直後のナヴァホ評議会において就学率の向上が文字通りの死活問題とみなされた一事が象徴しているように、先住民にとって近代化と同化の緊張関係は常に認識されていたのである。

「私たちは支配的文化について知らなければ生きていくことはできない。けれどもあなた方はわれわれの文化について知らなくても生きていくことはできる。それにもかかわらず、私たちの文化について関心をもって下さり感謝しています。」2000年夏に筆者が参加する機会を得たニューメキシコ大学主催の「プエブロ文化についての研修旅行」の最終日、プエブロの教育学者ジョセフ・スイーナはこのように述べていた。スイーナの言葉からは、プエブロの人々にとって「支配的文化」と「われわれの文化」のあいだにある非対称性は日常生活のなかで常に意識されていることがうかがわれるのである。支配的文化について知らなければ連邦議会で請願することすらできないという恐怖感や切迫感は、1940年代半ばのナヴァホの代表団のように、危機的状況におかれた先住社会のリーダーたちに共通していた集合的心性というべきものであった。南西部の歴史を振り返ってみても、「イスパーノ」(スペイン系支配層)や「アングロ」が先住民について知っていたことよりも、先住民の方が「イスパーノ」や「アングロ」についてより多くを知っていたし、知らなければ生きていけなかったのである。
このような歴史的経験に裏付けられた先住社会からのメッセージに耳を傾けることは、結果的に、合衆国の支配的文化を相対化する契機にもなるのである。これらのメッセージには、市民的権利や民主主義といった普遍的な原理にのっとった実践であっても、ある特定の文化のみに根ざしたやり方のみが押し付けられたり、他の実践方法が考慮されることなく抑圧されたりする恐れはないだろうかといった、極めて重要な問題提起があることを見逃してはならないだろう。

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