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博士論文要旨

論文題目:「韓国併合」前後の間島問題―「間島協約(1909)」の適用をめぐって―
著者:小林 玲子 (KOBAYASHI, Reiko)
博士号取得年月日:2005年3月28日

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1909年9月4日に調印された「間島ニ関スル協約」(以下、間島協約と略記する)は、主に、間島 と呼ばれた豆満江北岸地域を清国の領土と定め(第1条)、間島内に「雑居地」として区画した朝鮮人の集住地域は、清国の法権下にあることを定めた(第3条、第4条)協約である。
 清国にとっては、間島が清国領となって決着した点には問題がなかった。しかし、間島朝鮮人の裁判管轄権問題では、日本に、清国による雑居地居住朝鮮人の裁判に対する立会権、知照権、覆審請求権が間島協約で定められたこと、また、間島のなかでも雑居地に指定されなかった地域である、雑居地「外」に居住する朝鮮人は、清国の法権に服することが間島協約で定められなかったという懸案を残す結果となった。したがって、間島協約は、日中間に裁判管轄権に関する争いを新たにもたらすという側面をもっていたのである。
 間島協約は、日本に対しては、間島に移住するようになっていた義兵や、教育や思想を通じて民族の独立を目指す運動家に対する取締を、いかにして、確実に行っていくかという問題を、また、中国に対しては、間島に居住する朝鮮人全員への裁判管轄権を、いかにして、確実に中国のものとし、間島において、中国の「主権」を完全にするかという問題を残した。このため、間島協約調印後も、日中間で対立が深まることになっていったのであった。
 本論文は、両国がどのようにして、それぞれの問題を解決しようとし、また、それによって、間島協約が形骸化するにいたったのか、なぜ、日本は、間島協約における間島朝鮮人の裁判に関する条文を消滅させ、代わりに、南満州に居住する「日本国臣民」の領事裁判権を定めた「南満州及東部内蒙古ニ関スル条約」(1915年5月25日調印)の条文を間島に適用することを1915年8月13日に閣議決定し、中国に対して主張していくようになったのかということを明らかにすることを目的としている。
 先行研究では、「南満州及東部内蒙古ニ関スル条約」の条文を一部適用すると日本が主張していくにいたった、それまでの間島の状況について、実態的に論じられることはなかった。実際には、日本は間島で、間島協約に定められた権利の活用を中国によって、非常に、巧妙に制限されるという事態が、間島協約調印直後から始まり、日本はそれを容認する状態が続いていたのである。
 論点は次の3つである。

  1、間島協約下で間島における中国の間島朝鮮人支配の展開はどのようなものであったか、また、それとは、対抗関係にあった日本はどのような方策に出ようとしたかを究明する。
  2、義兵や民族独立運動家の取締を中心とした日本による間島政策はどのようであったかを、間島の領事官、外務省本省、統監府・朝鮮総督府がそれぞれどのような方針、見解を持ち、連携あるいは対立していたかに留意しながら、明らかにする。
  3、日中が対抗関係にある間島において、間島朝鮮人の生活はどのようであったか、間島朝鮮人自身の権利はどのように「保護」されていたのか、あるいは、されていなかったのかを、間島朝鮮人の多様性に着目しながら追究する。
     本論文は、間島朝鮮人を、商埠地居住朝鮮人、雑居地居住朝鮮人、雑居地外区域居住朝鮮人に明確に区分して考察していくという独自性を持っている。先行研究では、この3タイプの朝鮮人は、居住地がそれぞれ違うために、法的地位が異なるにもかかわらず、正確に区別して論じられたことはなかった。それに対し、本論文は、これらの違いを十分に考慮した上で論じていくため、新たに明らかになることがあるという意義があると考える。また、朝鮮に本拠地を置きながら、間島に農業をしに来る、「出稼ぎ」の朝鮮人農民、「越江朝鮮人農民」も間島と深い関係があったことから考察の対象とする。

 これらのことを考察した結果、次のことが明らかとなった。
 1909年9月の間島協約調印から、「韓国併合」を経て、日本が1915年8月に「南満州及東部内蒙古ニ関スル条約」の一部を、間島協約の第3条、第4条と第5条の大部分を消滅させて、間島に適用すると閣議決定するまでの約6年間は、間島朝鮮人の裁判管轄権に関する問題において、中国が日本に対してほぼ一貫して優位に立ち、日本は中国の政策への対応に苦慮して推移していたのであった。
 中国は次の3点において、日本の権利を極力制限し、中国の「主権」を維持しようとしたのであった。
 まず、中国は、商埠地に居住して、商埠地外に土地を所有している朝鮮人については、たとえ、土地に関係のない事件で訴えられた場合であっても、決して日本の裁判管轄権を認めないという方針を貫いてきたのであった。中国は、商埠地居住朝鮮人が刑事事件の嫌疑者となった場合には、土地を所有しているかを確認する前に、先に逮捕して、身柄を清国官憲が拘束することによって、日本に対抗することすらあった。
 次に、間島朝鮮人に対する中国の裁判では、間島協約第4条の「人命ニ関スル重案[漢文では「人命重案」]ニ付テハ須ラク先ツ日本国領事官ニ知照スヘキモノトス」という箇所の解釈をめぐって、日本が、「人命に関わるような重案」は、中国はすべて日本の領事官に照会すべきであるという見解を持っていたのに対し、中国は、「致命犯」のみを指すとして、日本には、「致命犯」に関する裁判は照会しても、「普通案件」は必ずしも照会しなかった。このため、やはり、間島協約第4条で、日本に認められていた「自由ニ法廷ニ立会フ」権利も大きく制限されることになったのであった。しかも、中国は、「日本国領事官又ハ其委任ヲ受ケタル官吏」が、たとえ、裁判に立会えたとしても、発言する権利までは認めないという方針だったのである。
 3つめは、雑居地外区域に居住している朝鮮人も、中国の法権に服することを確立させるということは、中国にとっては重要な命題であったが、1912年5月に日本に照会せずに、雑居地外区域居住朝鮮人の強盗団に対する裁判を実行することにより、中国が雑居地外区域に居住している朝鮮人に対しても、裁判管轄権を有するのだという前例を作ったのであった。日本は、「日清通商航海条約」(1896年10月交付)の「被告主義」の条文に準拠して、雑居地外区域居住朝鮮人に対して裁判管轄権を持っていると反論したが、中国はその後も着々と日本に対抗して、雑居地外区域居住朝鮮人に対する裁判を行い、彼らに対する裁判管轄権を確立していったのである。
 北京政府は、間島協約締結交渉時の「会議録」をもとにして、協約実施後に日本と主張が対立するであろうと予測していたことへの対策6項目を「条約善後」にまとめて、間島の地方官に通知していたが、上記の3つのことはこの「条約善後」のうちの3項目に該当することであった。日本は、「満洲に関する懸案」を間島問題よりも優先させたため、「付け」が回ってきた格好となった。
 日本は、間島協約調印後、統監府臨時間島派出所と憲兵隊の間島分隊を撤退したが、すぐに、豆満江沿岸一帯で、義兵や民族独立運動家などに対する取締体制を拡充して対処した。また、間島に設置した総領事館、3つの分館、1つの出張所に、朝鮮総督府の憲兵を派遣して常駐させ、義兵や民族独立運動家を逮捕させ、朝鮮の憲兵隊に押送するようになった。取締は、日本側にとって間島協約を破ってでも、実行すべき重要な問題だったのである。
 間島の領事官のなかには、朝鮮総督府の方針に異論を持つ者がいたが、事実上、朝鮮総督府と間島の領事館は連携して、義兵や民族独立運動家の取締を行っていった。間島の領事館は、間島における取締の拠点となったのであった。また、1912年11月には、間島の総領事および副領事を朝鮮総督府高等官と兼任させるという勅令が出され、朝鮮総督と間島の領事官のつながりはより深まることになった。
 中国は、間島朝鮮人の裁判管轄権問題など日本と明らかに対立し、「主権」に直接関わってくる問題については、「速やか」かつ「適切」に対応していた一方で、1911年前半期以降は、とくに、巡警や巡防兵など、警備機関のいわゆる組織の「末端」に対しては、統制がとれないようになっていた。巡警や巡防兵が逃走したり、「馬賊」化したりするなどという事態となった。このため、1913年7月に、汪清県で、義兵らによって「砲手営」が組織され、「馬賊」討伐という警備機関の仕事を担うことが認可されたのであった。
 このことは、日本にとっては、義兵に銃と弾丸を中国官憲が供給するという義兵支援であった。中国は、間島協約調印直後から、1910年頃まで、義兵の取締を厳しく行っていたが、もはや、中国による義兵の取締を日本は期待できなくなった。このため、日本は、個別に義兵や民族独立運動家を逮捕してきたが、さらに、警戒しなくてはならなくなったのである。
 また、中国は、先に挙げた間島朝鮮人の裁判管轄権に関する3項目以外の、中国の「主権」維持とは直接関係のない、間島朝鮮人が当事者となる裁判では、間島朝鮮人を不当に処遇することがあった。にもかかわらず、日本は、間島朝鮮人の裁判に関与し、間島朝鮮人を「保護」する権利を行使することは中国によって阻止されていた。日本が間島朝鮮人の裁判に介入することは、間島朝鮮人の生活実態を把握することができる上に、日本への依頼心を植え付けて反抗心を弱め、日本の威信を高め、日本の「支配」を強化することが見込める側面を持つ権利であった。しかし、間島では、総督府の逮捕の対象とはならないまでも、常日頃から間島の領事官や領事館付警察官等に対し反抗的な態度をあからさまに示す朝鮮人が見受けられるようになっていたのである。
 日本には、間島協約上で認められていた裁判関係の権利はほとんど認められない状態となり、中国は、義兵支援も行うようになった。したがって、日本は、間島協約がこのように運用されている状態では、間島朝鮮人政策に行き詰らざるを得ないという認識にいたったのである。
 このため、寺内正毅総督の主導で、「南満州及東部内蒙古ニ関スル条約」の「日本国臣民」に対する日本の領事裁判権が認められた条文を間島に適用させるという方針が、1915年8月13日に閣議決定されたのであった。しかし、この日本側の方針は、当初から、日本の目論見どおりに実行に移すことはできなかった。日本にとって、間島における義兵と民族独立運動家の取締と、中国官憲との対抗関係は深く関連しあった問題で、解決されえない問題であった。今後、研究を進めれば明らかになるであろうが、「南満州及東部内蒙古ニ関スル条約」の一部適用という日本の方針は、もはや、彌縫措置に過ぎなかったと考えられる。
 本論文の独自性を挙げると次のとおりである。
 先行研究は、間島協約以降は、間島朝鮮人の裁判管轄権が日中間の懸案事項であったにもかかわらず、その点を十分に論究しきれていない観がある。このことをふまえて、本論文は、日中対抗関係の変化と流れのなかで、裁判管轄権問題を中心にして、間島協約後の間島問題を考察することを目的としている。
 方法は、史料による事例を多く検討し、考察を積み重ねていくことから、日中の間島政策の対抗関係や間島朝鮮人の置かれた状況、生活の実態を導き出すことを試みる点に、これまで間島問題研究とは異なる独自性があると考える。とくに、間島朝鮮人の裁判管轄権に着目することから、裁判に関する事例を検討している。
 また、本論文は、間島で、3・1民族独立運動が始まる以前、どのような条件下で、間島が民族独立運動の根拠地となっていったのかということを明らかにするので、1920年代以降の間島における朝鮮独立運動の研究に対して、いくらかは貢献しうるという意義もあるであろう。

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