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博士論文要旨

論文題目:中国東北延辺地区の農村社会と朝鮮人の教育 ―吉林省延吉県楊城村の事例を中心として(1930-1949)―
著者:金 美花 (JIN, Mei Hua)
博士号取得年月日:2005年3月28日

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現在の近代中国に関する研究において、中国社会の変容の過程を、「村の視点、農民の生活の視点」から見るものがある一方、多民族国家である中国を「周縁から見る」視点も存在するなど方法や視角は多様であるが、ともに近代中国の社会変動を理解する上で極めて重要な示唆を与えている。 本論文の目的は、生活主体側である朝鮮人の受け止め方に視点をおき、当時の間島朝鮮人の社会経済基盤を背景とする朝鮮人教育体系の形成と展開過程を考察することにより、間島朝鮮人社会の形成過程を明らかにすることである。 従って、間島朝鮮人全体としての教育だけでなく、延吉県楊城村の事例を中心としながら教育と経済の関連において朝鮮人の社会変動を検証する。村のレベルに視点を据え具体的に朝鮮人の生活実態と結びつけてそれを検証するところに本論文の特徴がある。 対象とする時期はおおよそ1930年から1949年までとし、それを(1)1932年の満洲国成立の前まで、(2)1932年から1945年満洲国の崩壊まで、(3)1945年から1949年中華人民共和国の成立までの3時期に区分し、延辺農村社会の変動、そして変動の要因と背景はどのようなものだったかを具体的に楊城村という一農村における、教育の展開過程に注目して明らかにした。 満洲国期の間島朝鮮人に関する先行研究においては、朝鮮人の近代教育と子どもを取り巻く社会経済的、背景を踏まえた研究はほとんど無く、朝鮮人の教育がそれぞれの個々人、家族、村、集団においてはどのような社会経済的状況のもとで行われたか、なぜ朝鮮人が植民地支配者であった日本側の普通学校へ通ったかについて充分な説明がなされていない。さらには、教育を受けた知識人の間島朝鮮人社会に対する役割も論じられていない。また、村のレベルにおいて朝鮮人の生活基盤を踏まえた研究はなされていない。 上記の問題意識と研究課題より、先行研究ではまだ、研究されていない間島朝鮮人社会と教育を以下のように検証した。 第一章では、本論で事例研究とする『農村実態調査報告書』所収「延吉県楊城村」の概況について述べた。現在まで楊城村の場所については正確に調査されておらず、本章では、現地での聞き取り調査、歴史文献資料を総合的に駆使して、1936年調査村が現在の頭道溝鎮広新村であることを明らかにし、現在の広新村の概況について述べた。 第二章では、満洲国期以前における朝鮮人の移住、定着過程における朝鮮人の社会経済状況を踏まえながら、初期に儒教教育を中心とした「書堂」、「旧学堂」が漸次近代的学校に改良されていく過程における朝鮮人の有志、知識人、村人の活動に注目し、朝鮮人がどのように教育活動に取り組んだかを考察した。 この時期の特徴は、朝鮮人私立学校がたくさん作られたことである。朝鮮人私立学校の設立者は民間の有力者、旧韓国における上層階級の人、村の有力者などであった。 朝鮮が日本の植民地になってから、間島朝鮮人は教育の重点を抗日民族独立の意識をもった人材養成におくようになり、儒教教育内容から近代的教科内容を多く取り入れるようになった。朝鮮人の近代的教科内容の特徴は民族意識を育て近代科学知識を教えることを目標としたことである。 一方、中国側の公立学校に通う人は少なかった。また、公立学校に改編させようとする中国側からの圧力に対しては、朝鮮人の独自性が保たれるよう対策が講じられた。 1919年の抗日民族主義運動が日本によって鎮圧されると、1920年初め龍井に6つの私立中学校が設立され、朝鮮人教育の体系をつくる努力がなされた。また、中学校教師、学生の社会主義運動についても触れ、1919年の3・1運動、1927年の間島朝鮮共産党検挙事件、1930年の中国共産党の指導による間島の元朝鮮共産党員たちの5・30暴動、1933年ごろまで激しく展開された小作争議では間島における知識人が指導者となったことを明らかにした。 満洲国期前、中国側の教育権回収運動により、朝鮮人学校は中国側の学校へ改編されたり、閉鎖されたりしたが、朝鮮人私立学校は増える一方であった。 第三章では、満洲国期における、朝鮮人の社会と教育の変動を述べた。 満洲国期には土地所有関係は変化をし、自作農創定政策が実施され、集団部落が建設されることによって土地所有関係が変化し、満洲国は農民に対する統制を強めた。それに伴って、間島には大地主が減少し、中小地主がそれに変わって増加し、自作農も増加していった。しかし、土地所有関係を見れば、満洲国及び東洋拓殖株式会社が中国人地主に変わっただけで、朝鮮人が借金を返済して土地所有権を得ることは難しいことであった。朝鮮人自作農の多くは土地所有権はなく、耕作権があるのみだったのである。 9・18事変後、政治的動向の変化とともに、中国側に編成されていた朝鮮人私立学校は減少し、日本側の学校数が増えることになった。 1932年から1935年まで朝鮮人学校は当時の政治情勢の影響で休校が多かった。従来の朝鮮人学校と中国側の学校は減少し、日本側の学校数が増えるようになった。従来の朝鮮人の学校体系は存在していたが、1938年新学制実施以降、朝鮮人学校体系は満洲国の学校体系に組み込まれることになった。 1938年、新学制の実施により朝鮮人学校の教育内容、体系も満洲国の統制下に置かれるようになった。日本語が主な言語となり、高等教育を受けられるかどうかは日本語ができるか否かにかかっていた。朝鮮語は1939年ごろまでは授業内容として少し存在したものの、1940年以降には朝鮮語は学校で習うことができなかった。 経済状況との関連でみると、1936年、延吉県楊城村の統計では、各農家の教育費支出に開きがあることが見てとれるが、それは通学する学校の授業料の差によって生じたことがわかる。中学校へ通う場合、あるいは朝鮮へ留学した場合には教育費がさらにかさばる。 間島社会において、教育は民衆の社会上昇を担う重要な役割を果たしていた。初等教育を終えた後の子どもの進路に関して言えば、日本語能力があることによって、農業より高収入が見込める仕事に就ける可能性があったのである。 国民高等学校卒業者のなかには、官公吏、教員、会社員がいた。社会的地位が高く、安定した収入を得る職業であった。しかし、国民高等学校へ通える子弟は経済的に豊かな一部の人たちに限られていた。 第四章では、国共内戦期における土地改革の推移と環境の変化について述べた。1946年7月、国共内戦が勃発し、延辺では国共内戦に多くの青年が参加した。一方では、土地改革が行われ、満洲国期の地主、富農、官吏、屯長、漢奸などの支配階級は打倒の対象となり、土地がなかった貧雇農は自分の土地を所有することになっただけでなく、農村での指導的立場になるようになった。 延辺の土地改革は1年8ヶ月(1946年7月~1948年4月)を経た。広範な大衆闘争に注目すると、第1次段階は「反奸清算」から第一次土地分配までの運動(1946年7月~1947年6月:生煮えを充分に煮る運動を含む)、第二次段階は「大物をたたき、隠し財を暴く」段階(1947年7月~10月)、第三次段階は大復査、隊伍の整理、大進軍から土地を均分に分ける運動(1947年11月~1948年4月)と主に三つの段階における大衆運動のピークがあった。この三つの運動は漸次発展し、同時に党の政策も漸次明確化され深く浸透した過程である。 土地改革は農村における土地所有関係を根本的に変えただけでなく、貧雇農が政治的に農村における中心階層となるに至った。貧雇農は経済的地位のみならず、政治的地位も上昇したのである一方、地主、富農の子弟は成分が悪いと進学が拒まれるなど立場は悪くなった。 さて、朝鮮人の学校は1945年9月初めごろから再開し始め、自主的に教育を展開した。延辺にいた知識人は「教育同盟」、「ハングル研究会」などの団体を組織して、朝鮮人の教育をリードした。 学校では、解放戦争の援護と土地改革という解放戦争期における中心任務を学校教育内容の中に取り入れるものものであり、とりわけ中学校教育は幹部養成の教育が中心となった。 教育事業を立て直すため多くの民衆団体が設立され、教育事業の建て直しを推進した。「董事会」、「後援会」、「学父兄会」、など民衆自身が学校を経営する組織を作って、農民の努力で民営学校を設立、経営した。農民の教育経費負担は多かったが、子女の教育に対する熱意は高く、民営学校と学生数が圧倒的に多かった。 このような朝鮮人の教育熱意が高かった結果、ついに1949年に延辺大学が設立され、東北朝鮮人の小学校から大学までの学校体系を完成するに至った。また、延辺大学設立過程においては、満洲国期に中学校を卒業し、大学を卒業したかつての間島龍井の中学生たちが中心人物となった。 解放後、朝鮮人の祖国観とアイデンテイテイを示す指標としてハングル教育の展開がある。1947年には小学校のハングル教科書を出版発行された。吉林省教育庁検閲済みであった。朝鮮人の学校ではハングルを重要な位置に置いていた。しかし、満洲国崩壊後から1949年の間の時期、朝鮮人の祖国観とアイデンティティははっきり決まったわけではない。朝鮮か、中国か、共産党か、国民党かの問題に関して揺れ動いたとき、朝鮮人の子どもたち、さらには朝鮮人の農民たちはハングルの教科書から延辺朝鮮人としての「共通の認識」を学び、共有することになったと言える。まさに、間島朝鮮人の教育は、日本・中国両勢力の交錯する領域で、激しい政治・社会変動の中を複雑な過程をたどって展開されたのである。 以下、これまで本論文で検討した事項について、朝鮮人の教育の果たした役割を中心に整理しておきたい。 満洲国期前、朝鮮人の教育は、国家等の公的機関によって行われたのではなく、そのほとんどは民間の朝鮮人が協力しあって設立した私立学校で展開されているものであった。そうした私立学校の設立者・経営者は、朝鮮人社会での有力者で、儒教教育を受けて村長等の役職を務めた人々であった。この点は、学校のほとんどが県立等の公立学校として運営されていた他の東北地域の中国側の学校との大きな相違点である。 しかし、朝鮮人学校にはさまざまな経営母体があって、教育のレベルはそれぞれ相違していた。しかし、朝鮮人の教育機会はその置かれた経済的状況によって制約を受けることとなり、朝鮮人村民の子どものほとんどは教育費が低廉な村の学校に通った。朝鮮人家庭のほとんどが小作農で生活は困窮しており、教育費支出は経済状況によって開きがあった。間島朝鮮人の村の私立学校と都市部の普通学校とでは、経費・教師・学制・教育レベルにおいて大きな相違があり、村の私立学校の教育環境は劣ったものであった。しかし、都市部の学校に進学するには、高い教育費等の経済的負担を担えるだけの経済力をもたなければならず、ほとんどの子どもは村の私立学校でその学業を終えることとなった。男子の就学率が女子よりはるかに高いが、男子のほとんどが、村の4年制の学校にとどまることになった。レベルの高い普通学校へ進学するには、交通、経済条件と日本語の能力が問われていた。 朝鮮人が教育を重視した理由は、子どもの社会的上昇を望むという目的と関連していた。より高い教育を受けた人々は間島の朝鮮人社会における指導的立場に立つことができた。また、農業以外に重要な産業のない間島においても、日本語をマスターした朝鮮人には、農業に比べて収入が高く安定した職業である店員になる機会が存在していた。より高いレベルの学校教育を受けることで、子どもが安定した職業につき、朝鮮人社会でも地位が上昇するようになることが親の教育要求であった。朝鮮人農民の大多数が小作農であった間島においては、農業だけではその生活を支えるのに十分な収入が得られないという現実があった。満洲国が間島において実施した自作農創定政策は朝鮮人農民の経済状況を根本的に改善することはなかった。 こうした事情から人数的には少数ではあったが、間島朝鮮人社会において中学校卒業生が果たす役割は大きかった。満洲国政府は、その「日満一徳一心」という建国精神と実業教育の重視という教育方針から初等教育を重視したため、設立された中学校は少数であってその生徒・卒業生は社会のエリート層に相当していた。学校の教師や官吏の職には中学校卒業生が就き、村においても知識人としてそこでのリーダーになった。満洲国崩壊後においても、間島朝鮮人教育をリードした学校は、間島普通学校のように教育レベルの高い学校であった。また、解放後に延辺大学設立に携わった主な人々は、満洲国期に中学校を卒業して高等教育を受けた人々であったことも注目すべき事実であろう。 一方、中学校卒業者の中にはまた共産主義運動の指導的立場に立った者もいた。抗日運動がとくに激しく展開した間島では、朝鮮人の教師・学生・卒業生が、その運動を指導する立場に立っていた。こうした抗日運動の展開は、解放後の間島における朝鮮人の立場を固める上で重要な意味をもっていた。土地改革の際には、中学校教育は幹部養成の一環に位置付けられ、中学校卒業生は政府機関に就職することができたが、満洲国期の知識人には思想改造が要求された。 以上、本論文では、満洲国成立前後から土地改革に至る時期について、朝鮮人の教育をその経済状況との関連において明らかにしたが、その後の展開との関連で今後の課題について整理しておきたい。 解放後、土地改革が行われて土地は平等に分配され、貧農の土地を求める要求は実現されたが、一方では旧来の営農関係が破壊されたため、改めて再組織する必要が生じ、「互助組」が組織された。さらに、その後集団化が急速に進められて高級合作社・人民公社が組織されたが、農民の意識はまだ集団化に対応できなかったため生産の向上をもたらさなかった。また、戸籍制度によって人々の移動は制限されて、農民は農村から移動できない状態となった。農村の青年層は農村に根を下ろして、教育を受け、労働し、生活することを義務づけられた。 今後の課題として残る問題は、「植民地奴隷化教育」の実態がどのようなものであったかを日本語教育の側面から解明することである。なぜなら、満洲国崩壊後の朝鮮語教育、そして次第に中国語がより多く教えられるようになっていったその後の言語教育は、間島朝鮮人の子どもの人格形成に重要な影響を与えていると考えられるからである。国家の支配と言語教育は深い関連をもっている。朝鮮人の内面における教育問題は検討されていない。そうした問題に向き合うためにも、「植民地奴隷化教育」の実態を解明する必要があるだろう。 さらに、解放以前間島で活動していたキリスト教等の宗教団体が間島の朝鮮人教育に果たした役割、村での土地改革における土地分配の具体的な状況、その後の農村組織の再編成のあり方等の問題も残されている。今後一層の解明に努めたい。

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