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博士論文要旨

論文題目:低出生体重による脳性まひ児の言語発達:「指示詞」、「否定表現」と「自―他の分化」との関連から
著者:平林 あゆ子 (HIRABAYASHI, Ayuko)
博士号取得年月日:2005年3月28日

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1.問題意識
 低出生体重児(いわゆる早産未熟児)における言語発達の研究は、顕著な障害をもたない低出生体重児の言語能力に対して検査結果の統計的検討などが僅かに見られるのみであって、障害をもつ低出生体重児の言語発達や自―他の関係の発達について詳細に検討した縦断的研究が殆ど見られないのが現状である。
 低出生体重児における脳性まひ障害を負う子どもの割合は、全国的にも増加傾向にあるのみでなく、「低出生体重児は初期の母子分離のため対人関係の発達が遅れる」(神谷・斎藤、1992)ことが指摘されていて、「ハイリスク児(低出生体重児)のとりわけ母子相互作用の特性を知ることが、障害の発生の予防につながる上で重要であるにもかかわらず、それに関する研究が少ない」(柏木・白瀧、1996)状況である。
 実際、麻生(1985)と松島(1986)も「小児の精神医学の分野から健常児の自―他関係の形成について説明理論が提示されたものの、障害をもつ乳幼児についてはほとんど全く触れられてこなかった」と述べているし、松田(1986)もこの分野について、研究の理論的モデルや方法論上の困難さが原因で体系化が行われていない領域であると指摘している。
 さらに麻生(1985、前掲)が組織だったデータの不足を指摘し、子どもの日常生活における様々な言動の縦断的な記述が何よりも必要であると強調していることは、注目すべき指摘であると思う。
 実際、神谷等(1992、前掲)が述べている通り筆者の経験でも、超低出生体重の脳性まひ児(以下CP児と略記する)には分離不安が強く言語発達の偏りが見られる。CP児は運動障害があるので、「自―他の分化」が遅れやすい。CP児の多くは低出生体重など未熟児で出生し哺育器で育つことが多く,その点においても「自―他の分化」が遅れやすい.そこで,「自―他の分化」や運動障害は指示詞の発達,否定表現の発達や自―他関係の言語化の発展に関連すると考えた。指示詞,否定表現や自―他関係の言語化は自己に関連して表現される性質のものである。そこでCP児のそれらの言語発達を調べ健常児と比較検討することにした。
2. 研究目的と意義
 本学位請求論文の目的はこのような低出生体重のCP児に関して、1)指示詞の発達、2)否定表現の発達、3)自―他の関係の言語化の発展の三項目を調査し、言語表現の発達と運動障害や自―他の分化の関連を解析し、健常児のそれらと比較検討しながらその特徴を明らかにすることにある。併せて、自己の投影としての人物画を分析することを通して、自―他関係の発達の側面的検討を実行してみたいと思う。なお筆者の言語治療臨床経験によれば、低出生体重CP児に出会う前の「生誕からNICU(新生児集中治療室)での経験」とその後の「退院してからの家庭における発達の様相」を詳細に分析することは、どのようなことが言語や自―他関係の発達に影響を及ぼすかを考える上で、重要な手がかりを与えるものである。これらNICUへの度重なる訪問の結果得られた観察結果を、その子どもの生誕まもない乳児期からの録画等とともに、分析資料とした。
 以下、1)指示詞の発達、2)否定表現の発達、3)「自―他」の関係の言語化の発展の各項目について、研究の目的と意義について説明しておきたい。
 まず1)指示詞の発達について述べる。本稿において指示詞とは、人称のうち自分や母親の呼称も含めたものと、いわゆるコソアド語(これ、それ、あれ、どれ等いわゆるコ・ソ・ア・ドを語頭に持つ一群の語)を意味する。自称や人称に関する指示詞、自己定点指示を示す指示詞「わたし、いま、ここ」の出現過程の特徴を捉えれば、自―他関係の発達や自己の定点についての様相を把握することが可能となる。実際、乳幼児の言語発達過程において指示詞は、自己との関連から出発して、乳幼児が世界を空間的・時間的にどのように把握し理解して行くかを知る上で重要な手がかりを提供するからである。すなわち、指示詞を言語運用力の発達過程の指標の一つと捉え、低出生体重のCP幼児における指示詞の変化過程を追跡調査し検討することが目的である。
 「他者との関係では否定表現こそ他者を意識化させ、自我の確立に寄与するものである」(フィヒテ)、そして「自己の要求を表現し、他者の要求を拒否する行動の中から自他の分化が生起する」(山田、1982)のであれば、否定の言語化を分析することから自―他の関係の発達過程が明らかになるはずであり、これが2)否定表現の発達を調査する所以である。フィヒテの言葉の哲学的内容の理解は筆者の力量を超えるところであるけれど、重度心身障害児の言語治療臨床経験と重ね合わせると、この言葉には深い真実が含まれているように感じられてならない。この重度心身障害児には「何も反応がない」という見方を覆すには、その子どもから「否定表現」を誘導してその子の意志を周囲の人々に明示することが最も直裁な方法であった。
3)自―他の関係の言語化の発展を解析する目的は、「(エークン)モ、(エークン)ノ、(エークン)ト」のような自分の名前を言っての発話や「家族の呼称」から「他の子どもの呼称」への発達、あるいは「ジブンデ」の言語化を、発話状況・他者や「もの」への関心・運動スキルとの関連の中で調査することにより、自―他の関係の発達を把握することにある。具体的には「写真やビデオ映像の中の自―他の区別の経過」と「自―他の関係の言語化の発展」の関連を調べることによって、いかなる体験が「自―他の関係の言語化の発展」の前提となっているかを分析したい。
また、自己投影としての人物画の発達経過を追跡調査し、障害児に特徴的な自己像を明らかにし、自―他の関係の発達を捉えるために資料分析する。

このような比較検討は、障害をもつ乳幼児の言語発達や自―他の関係の発達の研究の枠組みをつくる上で、方略と事例研究の集積の必要性から見て最も緊急な課題であると判断されるからである。また、急速な増加傾向にある障害を持つ低出生体重児の医療・教育・福祉の現場においても、切実な要求であると考えられるからでもある。それはまた、健常児にとっても重大な指摘となるであろう。
また、言語治療臨床(以下言語臨床と記す)において、標準化された乳幼児言語発達尺度が無いので、その把握を可能にするために、本研究を踏まえて自―他の関係の発達段階も同時に評価できる乳幼児言語発達尺度の作成を試みたいと思う。それにより、言語臨床上において、その言語発達の過程の特徴の把握ができ、障害児に対する言語治療の内容など、援助の方向性を示唆することができると考える。そして、未だ十分な学問的確立ができていない言語発達障害学の分野の確立に寄与できることを願うものである。
3.事例研究の対象児について
8事例の低出生体重の脳性まひ児へそれぞれ1年から5年間の言語臨床において把握し纏めた表「低出生体重の脳性まひ児の諸相(表4.1)」の中から、A児を中心として事例を紹介しながら議論を進める。
4. 方法
A児の事例では、1歳11ヶ月(初診時)から5歳8ヶ月に至る発達経過を中心として言語臨床毎のVTR録画、筆者による検査,観察,調査、保育場面や家庭場面の日誌、観察記録、医師の検査などから発話サンプルをはじめ言語発達に関連する資料を、多角的に収集した。その他の低体重のCP児7名(表4-1)についても、同様の方法で資料収集したが、詳細な検討は今後の課題とする。以上の調査においては、言語発達について、発話状況を踏まえた 対もの、対ひと、運動スキルの3つの視点から調査を行い、健常児データ 前田・前田(1996)、大久保(1984)、秦野(1984)、久慈・斎藤(1982)、山田(1982)、岩淵・村石(1976)、村井(1970)と比較しながら、その言語発達の様相と自―他の分化の発達の解析を行った。
 また、対象児A児を中心とした出生間際から乳幼児期の様相を、A児のビデオ録画による一日の生活の詳細な記録や、寝返り、這い這いの開始等からなる記録を再生観察し、時系列に従って整理し、A児の発達を記述し、健常児と比較し検討した(A-VTR記録1~9)。また、超低出生体重(1000g未満)のCP児A(3歳6ヶ月~6歳0ヶ月)と極低出生体重(1500g未満)CP児B(3歳6ヶ月~4歳4ヶ月)の「人物画の発達経過」を自―他関係の側面的検討のために継続的に把握し、健常児と比較し検討した。そして、低出生体重児の生育環境、認知や運動発達が自―他関係の発達にどのような影響を及ぼすかを検討するために、A児の生誕後の新生児治療室(NICU)への度重なる訪問の結果得られた観察結果も分析資料とした。
5.結果と考察
 このA児の事例研究から得られる知見は以下のとおりである。
 出会った当初のA児(1:11)は、母親と共生関係にあり完全に癒着していた世界の住人であったが,母親を「ママ」と呼ぶようになる(2:2)など、次第に自己以外の他者として母親を認識し同時に自分自身を「エークン」と呼称したり(2:4)、あるいは自分の所在する領域を「ココ」と発話(2:5)するなど、他者の視点と変換可能な「ボク」(3:9)という呼称を獲得する過程を辿る。健常児と比較するとこれらのことばの発語開始時期にはいずれもおよそ10ヶ月の遅滞が見られ、その遅れは他の指示詞と比較しても際立っていて、自―他関係の発達の遅れが窺われる。一方で、発語に於ける「コエ(これ)」・「アレ」など「もの」次元の指示詞の出現時期は、わずかに2・3ヶ月遅いだけである(図3-1,図3-2 指示詞の開始時期)。このことから、健常児においてはまず自分以外の他者の認識が先行するが、A児においては「もの」次元の「コエ(これ)」が先行することが確認される。物への関心の増大,接触防衛の改善,リーチング(手伸ばし行動)など運動スキルの向上に伴って,この指示詞「コエ(これ)」がより多用されたことは注目に値する.話し手の操作可能性の及ぶ対象の指示にコ系(これ、こっち等の「コ」を語頭とする一群の語)が用いられ操作可能性の増大や減少がコ系の使用頻度に大きく影響することを遠藤(1988)が示唆しているように、A児の事例でも物を手で指し示す動作の技術的洗練に伴い、聞き手に理解できるよう明瞭に「コエ(これ)」を伴いながら指し示す範囲が拡大している(表1)。このような「話し手の操作可能領域の拡大と言語の発達」という視点からは対象指示の明確化が語彙量の増加に重要な役割を果たしていると判断されるにもかかわらず、運動障害を主症状とする脳性麻痺児の場合は運動スキルの向上のみに執着するあまりリハビリ訓練へと追い立て、また言語聴覚士も徒に語彙量の増加を図ることに専念しがちであって、これを裏付け可能にする母子関係の改善や自―他の関係の発達促進という視点をなんら持たぬ言語臨床の現状は、少なくとも言語能力の発達という観点からは大きな課題を残すと考えざるを得ない。
表2の発話分析(VTR記録)にみるように、コエ(これ)の指示機能の本質は自
分に手の届く物に注目した要求表現や物の名を問うことにあり、指示内容の解釈は場面と共にA児の身振り・表情・身体や視線の向き・発話の音調などに大きく依存している。A児が長く使用していた「コレ」に見られるような直示的で状況依存的な世界は、実は「ココ」という自分の環境に埋め込まれ限定された狭い世界のことである。言語の発達には自己意識の発達が強く関連している(松田、1992)以上,A児のような障害を持つ子の言語能力の発達にはこのような「世界」そのものを拡大発展させることが肝要である。そして「世界」は「わたし」を基準に把握され、理解されるものである。それゆえに、自己意識の発達に基礎を置き、「もの」・「人」・「運動スキル」に支えられた居住世界の総合的拡大が不可欠であると考えられる。
実際、方向などの空間把握の発達は「コッチ、アッチ」の使用に繋がり、「コッチ、アッチ」の発話状況を調べることによって逆に、歩行困難なA児にとってそれらの発話が移動の方向を要求するための不可欠な指示詞であったことが明瞭となる。移動要求の具体的内容が「コッチ」と「アッチ」という対立性の理解を容易にする以上、両者の発語がほぼ同時期に獲得される理由でもある。
「コッチ」・「アッチ」の発話に伴う視線や手・身体の向きによる方向の限定は、具体的な距離や焦点の移動を自己にも他者にも理解しやすくさせるからであろう。
 一方でソ系の出現が困難である理由としては、ソ系が聞き手の領域を意識した発
語であり、(コ系やア系が必ずしも要しない)他者の視点をとる高い能力を必要とするからであると考えられる。自己原点指示詞(「ボク」・「イマ」・「ココ」)の出現時期について、健常児との比較ではA児は1年から1年3ヶ月の遅れが目立ち、同様に極低出生体重のCP児Bについても、コソア語のうちで健常児が最も早く獲得する「ココ」の出現時期の遅れが見られる。対人関係の発達はソ系の出現に大きな影響を及ぼすのである。
 否定表現について述べよう。「泣き」による拒否から発展し(母親に対し「イヤ」・「イラナイ」{(2:1:27)}と発語することに至る)主に自分自身の接触防衛による拒否表現が明確になりはじめ、やがて「名詞+チナイ(シナイ)」という形で多くの否定表現を造るようになり、様々な場面で様々な大人に対してこれらを使用するに至る。大人ばかりでなく、禁止の「ダメ」(3:7:21)が他の子どもたちに対して使用され始め、他の子ども達を明確に他者として認識・意識した上での意志表示として展開されるなど、発話に自―他関係の発達が見られるようになる。このようなA児の否定表現の分化が、ものを掴むという機能が(生物学的な)意図なき把握反射に端を発しやがてものに手を伸ばして意図的に多様な対象を掴むに至るという機能の発展と著しい類似を持つことは、単なる偶然であろうか。
以上、A児の事例を中心に対もの・対ひと・運動スキルとの関連で発話状況を記述しながら、指示詞の発達・否定表現の発達・自―他の関係の言語化とその発達特徴を検討し、健常児と比較しながら自―他関係の発展が言語発達にどのように関わるかを解析した。また、運動障害をもつ幼児の自―他の関係の発達をより深く理解できるよう、自己の投影としての人物画についても「自―他」の関係の発達を考える上で一定の役割を与えたつもりである。

6.乳幼児言語発達尺度(平林試案)について
現在の乳幼児言語発達の評価についての問題点と標準化された乳幼児言語発達尺度が皆無であることを指摘し、「5結果と考察」を踏まえ、乳幼児言語発達尺度(平林試案)を作成し提示した。自―他の関係の発達段階も同時に評価できる乳幼児言語発達尺度にし、言語臨床上においてその言語発達の過程の特徴の把握ができ指導の予測ができるように勘案した。

7. 結び
以上から、運動障害を主症状とする脳性まひ児にとっては、言語発達を母子関係や自―他の関係の発達という観点から解析し支援することが極めて重要かつ実際的な治療方法であると推測される。対象指示の明確化と語彙量の増加を目的とする操作スキル増強の重要性を否定するものではないが、運動スキルの向上に重点を置き語彙量の増加を図ることや発語の明瞭性にのみ注目し脳性まひ児を専らリハビリに追い立てる現在の治療法は、言語能力の生得的かつ自然な発達に反する「木を見て森を見ざる」行為に他ならないのではないだろうか。本研究が、障害をもつ乳幼児の言語発達や自―他の関係の発達の研究に基本的な枠組みを与えかつ方法論上の方略や乳幼児言語発達尺度(平林試案)を提示する上で、いくばくかの寄与があることを願って已まない。

8.今後の課題
急速な増加傾向にある低出生体重のCP児の言語発達研究の枠組みをつくるために、縦断研究および横断研究の事例研究の集積の必要性と、現在研究されつつあるコンピュータ解析が可能な発話記述の方法に障害児の発話の把握方法にも反映されるように働きかける必要性を課題とする。また、言語臨床上において自―他の関係の発達段階も同時に評価できる乳幼児言語発達尺度(平林試案)の標準化に向けて事例の集積を図ることを課題とする。

 また、本稿での事例研究において、使用した検査結果、既存の自―他関係の尺度等を資料として添付した。

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