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博士論文要旨

論文題目:近代ドイツにおける都市の電化プロセス―フランクフルト・アム・マイン 1886-1933年―
著者:森 宜人 (MORI, Takahito)
博士号取得年月日:2005年3月28日

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要 旨
1.問題の所在と本研究の課題
 近代における都市化は,人口集中による都市規模の拡大過程としてだけでなく,それへの対応としての都市内社会資本の蓄積過程としても捉えることができる。都市内の社会資本は,都市経済を支える基盤として機能するとともに,都市の社会生活全体のあり方を左右するストックとして,都市の歴史そのものを規定する。
 第二帝政期ドイツの都市では,国際的水準からみてもきわめて先進的な社会資本の整備が進められたが,その主体となったのは各都市自治体である。1880年代に開始されたドイツでの都市への電力導入は, 1890年代に入って加速化され,早くも20世紀初頭には,人口2~5万人の小都市の77.6%と人口5万人以上の大中都市すべてに電力が供給されるに至る。その内,人口2~5万人の小都市の57.9%,人口5万~10万人の中都市の74.1%,そして人口10万人以上の大都市の80.5%で,それぞれ都市自治体が電力供給を担っていた。すなわち,電力事業においても自治体が重要な役割を果たしていたのである。
 これは,1880年代以降のドイツ都市自治が,都市経済の公共部門における行政活動の拡大深化,行政組織の官僚制化・専門化,そしてこれらの結果としての財政の肥大化を主たる指標とする「自治体給付行政」(kommunale Leistungsverwaltung)によって刻印されていたためである。「自治体給付行政」とは,戦後西ドイツの主導的な国法学者の1人であるE・フォルストホーフによって提唱された「給付行政」概念に由来するものである。フォルストホーフは,都市住民への必需的消費財・サービス財の供給,すなわち,「生存配慮」(Daseinvorsorge)を「近代行政の課題」と位置付け,そのための施設の建設やサービスの提供を「給付行政」と定義し,それ以前の,住民に負担を強いるだけの「侵害行政」(Eingriffsverwaltung)と区別した。自治体給付行政の対象範囲は広く,電力,水道,ガスの供給事業,道路や市街鉄道,港湾,橋梁,倉庫などの経済インフラの整備・運営,病院経営やゴミ処理,街路清掃,屠畜及び屠畜売買,食品検査などの衛生・保健制度,さらには職業紹介所のような社会施設の運営にまで至る。
 ところで,「自治体給付行政」による近代的社会資本の拡充は,都市生活の質に大きな変化をもたらし,とりわけ大都市を発信源とする新たな都市的生活様式を生み出した。このような都市社会の変化は,現在のドイツ近代都市史研究では「都市社会化」(Urbanisierung)と称され,それに対比される「都市化」(Verstadterung)とともに,近代都市における社会変動を理解するための重要な概念となっている。後者の「都市化」は,総人口に占める都市人口比率の増加,大都市及び大都市人口の増加,人口稠密地帯における都市群の形成,都市数の増加などの量的変化を意味する概念である。これに対して,前者の「都市社会化」は,「都市化」に伴う都市社会のみならず社会一般の質的変化を示す概念であり,新たな「都市性」(Urbanitat)の生成と,その社会全体への普及を意味する。
 「都市社会化」を理解する上で重要な鍵となる「都市性」に関して,K・テーンフェルデは,10のメルクマールを指摘しているが,中でも,「都市性」の生成・普遍化プロセスとしての「都市社会化」を社会史の観点より照射するには,「都市空間ならびに時間感覚の変容」や,「都市的生活様式及び価値観」の変容によってもたらされる「都市知覚」(Stadtwahrnehmung)の変容,換言すれば人々の抱く都市イメージの変化に特に着目する必要がある。都市の視覚的イメージに関しては,「都市化」や工業化の激甚な影響にもかかわらず,ドイツ近代都市の景観は比較的よく保たれたといわれている。だが,その一方で,建築や社会資本における技術革新が人々に新たな都市イメージを刻印した。中でも決定的な役割を果たしたのが,電力である。例えば,都市の「近代性」のシンボルと考えられた電灯は,その光度が従来のどの照明器具をもしのぎ,都市の夜景を一変させるとともに,都市の夜を昼に変えた。また,1890年代から広く普及し始めた市街電車は,都市住民の距離感覚や空間感覚,そして都市構造のあり方を大きく変容させたのである。
 さて,ドイツ近代都市史研究では,1980年代より自治体給付行政が研究の主対象となり,専ら第二帝政期を中心に,都市内公益事業や社会政策の発展過程,都市行政の専門化・官僚制化プロセス,そしてその帰結としての都市財政の構造変化,さらには都市自治体内部の政治化問題を中心に研究が進められた。これらの研究では,1970/80年代に先鋭化し始めた「福祉国家の危機」を背景に,近・現代の福祉国家,ドイツ流にいえば「社会国家」(Sozialstaat)の広範な社会政策や公益事業の源流を近代都市の給付行政に求め,社会国家の歴史的意義を都市史の側面から再検討することに主眼がおかれていた。こうした問題意識は,「近代化」プロセス一般における「都市社会化」の意義を解明する上で大きな意味を持つ。だが,他面で,都市の自治権が強く,かつ自律的な財政運営が可能であった第二帝政期に専ら研究を集中させることとなり,行財政の中央集権化が進んだヴァイマル期についての研究がきわめて手薄となっている点が大きな課題として残されている。
 というのも,たしかにヴァイマル期の都市自治体は,1919/20年のエルツベルガーの財政改革によって,その財政的自律性を大きく低下させたものの,自主的な給付行政展開の余地が完全になくなったわけではない。また,中央に多くの税源を吸収された結果,公益事業の収入は,第二帝政期以上に重視されることとなった。中でも,電力事業の比重は大きく,「相対的安定期」には都市自治体の公益事業収入の4~6割を占めていた。従って,自治体給付行政の一環として電力事業の歴史を扱う場合,時代を第二帝政期にとどめず,ヴァイマル期にまでのばす必要がある。
 自治体給付行政研究のもう1つの問題は,その視点が行政・制度史や財政史に偏っているために,電力事業の社会経済史的実態分析が欠如している点である。この点に批判を加えたD・ショットは,ダルムシュタット,マンハイム,マインツ3都市の比較研究を通じて,「都市のネットワーク化」論を展開させた。これは,近年の歴史学一般における社会文化史の影響を,都市史の文脈の中で電力史研究に反映させたもので,各都市の社会経済史的特質の相違に留意しつつ,発電所建設の計画策定過程や電力事業政策に焦点をあて,電力導入の目的や動機を解明するとともに,電力ネットワークの形成を「都市の心理的生成」(mentale Produktion der Stadt)とする観点から,同時代人の電力導入をめぐる言説に注目して,都市の電化の社会史的帰結を明らかにしている。しかしながら,分析時期に関しては,従来の自治体給付行政研究の枠組みと同じく,対象が第二帝政期に限定されている点が問題として指摘できる。
 たしかに,都市における消費電力量は世紀転換期に急激に増大したが,第二帝政期を通じて,照明の主体的エネルギーは電力ではなく,ガスであった。このため,第一次大戦前夜においても一般家庭への電灯の普及率は10%前後にとどまり,電灯は,都市の顔ともいうべき街路や公共スペースでのみ利用され得る「奢侈品」にすぎなかった。すなわち,電力はまだ,現在のように必需的に消費される一般的なエネルギーとして都市生活に定着していなかったのである。したがって,ショットの「都市のネットワーク化」とは,都市への電力導入を意味しているだけで,電力が「奢侈品」から必需的消費財へと移行するプロセスまではカバーしていないのである。
 以上の研究状況をふまえ,本研究では,ドイツ諸都市の中でも特に充実した電力事業を実現させた都市フランクフルト・アム・マインを事例に取上げ,1880年代~1930年代初頭の同市における電力事業の発展経過を検討し,自治体給付行政の実態の一端を明らかにすることを第1の課題とする。すなわち,本研究では,財政史的見地より第二帝政期とヴァイマル期の断絶を自明視してきた,これまでの自治体給付行政研究とは異なり,両時代を連続的に捉える。これにより,都市自治体の自治権の強かった第二帝政期と,都市自治体の財政的自律性が低下したヴァイマル期の両時代における自治体給付行政のあり方を比較することが可能となる。
 次いで,本研究の第2の課題は,電力を「都市性」形成の一要素とする観点より,都市の電化を「都市社会化」の一形態と捉え,そのプロセスを社会史的観点より照射することである。そのために,電力が都市に導入され,その後,奢侈品的消費財から必需的消費財へと移行するプロセスを「都市の電化」プロセスと捉え,その実態を解明したい。その際,特に電力料金政策と,電力の利用を呼びかける宣伝政策に着目し,また,そのためのポスターなどを図版史料として用いることによって,同時代人が電力に対して抱いていた観念にも併せて言及する。また,都市での電力利用が開始された19世紀後半,電力の用途は大別して,照明,市街鉄道,そして工業用電動機の3つと考えられていたが,本研究では,電力が都市イメージに与えた影響を考察する観点より,特に照明と市街鉄道部門における電力消費に注目する。
 以上のように,本研究は,自治体給付行政の一環としての電力事業政策と,都市の電化の社会史的帰結を統一的に把握することにより,動態的なドイツ近代都市史像を織りなすための試みであるといえよう。

2.本研究の概要
 第一章では,フランクフルト国際電気技術博覧会とその前後のフランクフルト市の動向を取り上げ,都市への電力導入過程を検討した。
 フランクフルト国際電気技術博覧会は,直流システムから交流システムの過渡期に生じた「システム論争」を背景に開催され,三相交流システムによる遠距離送電実験の成功によって交流システムの優位を証明し,その後の電力システムの世界規格を決定づけた。博覧会の開催には,L・ゾンネマンを中心とするフランクフルト市民の力が原動力となったが,それは,当時の最新技術である電力を導入するにあたって,「システム論争」によって顕在化した電力技術の問題点を解明し,より合理的かつ経済的なシステムを導入したいという願いによるものであった。
 博覧会以外にも,市は様々な実験・調査を実施したが,その目的は,市営発電所を起点とする一元的な電力ネットワークによって市全域に電力を供給することにあった。また,電力事業の目的はそもそも照明用電力の供給実現に限定されていたが,発電所建設計画の策定が進むうちに,市街鉄道の電化や,手工業者層の電動機のための動力用電力も目的につけ加えられ,電力事業は広義の都市計画の重要な構成要素に位置づけられるようになったのである。このような経緯により,フランクフルトは交流システムを選択することとなったが,それは博覧会で成功を収めた三相交流システムではなく,単相交流システムであった。その原因は,三相交流システムの技術的経験の浅さにあり,この局面でも市は技術的リスクを回避したのである。
 第二章では,当初公設民営形態がとられた電力事業の公営化から市街鉄道の電化に至るまでの過程を扱った。
 国際電気技術博覧会を経て,単相交流システムによる電力ネットワークが完成したものの,市は当初,経営リスクを回避するために,発電所を建設したブラウン・ボヴェリィ社と,電力網の敷設工事を実施したフェルテン・ギヨーム社に電力事業の経営を委ねた。しかし,電力事業が開始され,同事業の収益性が確証されると,市は収益増大を図るために,発電所の公営化に踏み切る。また,並行して実施されていた市街鉄道の公営化と電化も電力事業公営化の重要な契機となり,以後,電力事業と市街鉄道事業は,電力・鉄道部局の下で統一的に経営されることとなる。
 発電所の公営化以降,市は電力ネットワークの拡充につとめ,第一次大戦前夜には,市域内だけでなく,郊外にまで電力が供給されるに至った。市の電力事業政策は,社会政策的側面と収益主義的側面の両面を併せ持っていた。前者は,特に経営規模の小さい手工業者層を優遇する動力用電力の料金政策に反映されていた。対蹠的に,照明用電力については,大口需要家に有利な従量料金体系が維持され,収益の拡大が図られた。このため,第二帝政期に電灯を積極的に利用できたのは,デパートやホテル,レストランなどの大規模経営に限られ,小規模な小売店では電灯の利用はきわめて困難であった。住宅での電灯利用もごく一部の上層市民層の家庭に限られ,1910年時点で電灯を利用していた住宅は全体のわずか6.32%に過ぎなかった。従って,照明用電力は第二帝政期を通じて,「奢侈品的消費財」だったのであり,街路照明も含めて,電灯のライバルであるガス灯が照明の主体であった。
 この当時,電力が広範囲の人々に利用されたのは,電灯よりも,むしろ市街鉄道の領域であった。前述のように,市は電力事業の公営化と並行して世紀転換期に,それまで私的資本の経営に委ねていた市街鉄道の公営化を実施し,さらに,効率的な運行のためにその電化を実施した。市の市街鉄道事業の主眼は,周辺自治体の合併を含む都市計画を円滑に遂行するための前提として,公共交通機関としてより多くの住民の利用に供することにあり,そのために,月極定期券を初めとする社会政策的な料金政策が導入された。その結果,市街電車は第一次大戦前夜までに,後のヴァイマル期とほぼ同程度の頻度で広範な住民に利用されるようになり,人々の日常的な足として都市生活に定着した。すなわち,都市の電化は,まず市街鉄道の領域において実現したのである。
 第三章では,フランクフルトから周辺自治体への電力網の拡張過程を自治体合併との関連の中で照射した。ドイツ近代都市史の通説では,経済力の弱い小規模な自治体にとって,電力事業などの供給事業の実現には大都市との合併が有力な手段であった,と考えられている。だが本章では,対照的な帰結がもたらされた,ニーダーラート,エッシャースハイム,ヘッデルンハイム,シュヴァンハイムの4事例の比較分析を通じて,周辺自治体にとって,合併は供給事業実現のための必要条件でも十分条件でもなく,むしろ,周辺自治体の経済状況が中心都市の収益主義的政策に適合するか否かが問題とされていたことを明らかにした。
 第四章では,ヴァイマル期における広域発電企業との対抗を分析した。ヴァイマル期は,RWEに代表されるように,広域発電網が台頭した時代であり,フランクフルトを含む各都市発電所は,相対的にその意義を低下させることとなった。だが,ヴァイマル期の各都市自治体は,第一次大戦とインフレ,さらにはエルツベルガーの財政改革を中心とする行財政の中央集権化の影響によって,深刻な財政難に陥り,最も収益率の高い電力事業は,貴重な収入源として重視されていた。そのため,広域発電網の発展に抗して,電力事業の自律性を守ることが,都市自治体にとって重要な課題であった。
 しかし,構造的な財政難は,増大しつつある電力需要に対応するための設備投資を困難にし,フランクフルトは,応急的な処置として1925年よりPKOから電力を購入することとなる。市はその後,電力事業の自律性を維持するとともに,安定的な電力供給を維持するために,発電設備の刷新と,電力ネットワークの単相交流システムから三相交流システムへの切替えを計画する。システムの切替えはほぼ予定通り進めることができたものの,外国債調達が不首尾に終わったために,発電所の拡張は,市内の電力需要すべてをカバーするには不十分なものとなってしまった。
 この間,ライン地方を支配下に収めたRWEは,フランクフルトへの進出を企図するが,市は,私的資本によって電力事業が掌握される事態を回避しようとし,独自の電力供給源の開拓を模索する。その一環として,Hefragプロジェクトがヘッセン政府と共同で実施された。同プロジェクトは,市の北に位置するオーバーヘッセン州ヴェルファースハイムの褐炭を火力発電に利用しようとするもので,最新の褐炭乾留技術を用いた発電所の建設が計画された。だが,技術上の諸問題と,ヴェルファースハイムの地政学的な問題点のために,Hefragプロジェクトは初期の目的を果たすことができなかった。これに対して,ライヒ政府とのウンターマイン開発計画は成功を収めることとなる。同計画は,ウンターマイン航路の拡充と並行して,エッダースハイムとグリースハイムに水力発電所を建設することを目的とし,この内,グリースハイム発電所は1931年に完成し,フランクフルトのベース電力用発電所として機能することとなる。
 このように,ライヒ政府とのウンターマイン・プロジェクトは計画通り進められたものの,その資金調達はきわめて困難な課題であった。しかし,この問題は1929年のプロイセンエレクトラとの交渉によって解消される。この交渉は,ウンターマイン・プロジェクトのための財源確保を可能としただけでなく,プロイセンエレクトラへのHefrag株式の売却,フランクフルト市によるプロイセンエレクトラ株式の購入など,その帰結は多岐にわたるが,何よりも,電力購入契約の改定によって電力事業の自律性の確保が可能となったことが重要である。
 第五章では,相対的安定期に照明用電力が「奢侈品的消費財」から「必需的消費財」へと移行する過程,すなわち都市の電化プロセスの最終局面を考察した。照明用電力の「必需的消費財」への転換を検討する上で,宣伝活動と料金政策が特に重要である。
 宣伝活動に関しては,1927年12月に開催された「光の祭典」がもっとも大規模であった。この「光の祭典」は,商店のショーウィンドー照明利用を啓蒙するために企画され,ショーウィンドーの「効果的な照明方法」の普及と,夜間の電力需要の喚起に効果があった。「光の祭典」については,商店主の啓蒙活動のために配布されたポストカードが,同時代人の電力照明に対する観念を認識する上で特に興味深く,この当時,依然として広範な電灯の利用が「贅沢」と認識され,また,照明方法の技術が未成熟であったことが明らかとなった。だが,「光の祭典」を契機に,こういった事態は改善され,「近代的な大都市」に相応しい夜景が実現されることとなったのである。
 照明用電力の消費が一般化される上で,宣伝活動以上に直接的な効果があったのは,料金政策である。他の消費財と比較すると,照明用電力の基本料金は,第二帝政期からヴァイマル期にかけて,実質2/3に低下した。その上,フランクフルトでは小住宅に有利な「フランクフルト式住宅用電力料金」が1925年に導入され,照明用電力の実質的な平均価格は第二帝政期の約1/3にまで低下した。これにより,1929年度までに実に82.96%の住宅で電灯が利用されるに至り,電灯はガス灯に代わって一般的な照明手段となったのである。また,世界恐慌期には,動力用電力の消費量が急激に低下したのに対して,照明用電力の消費はほとんど鈍らなかった。すなわち,電灯利用の普及とあいまって,照明用電力は,相対的安定期の宣伝活動と料金政策を通じて,景気変動からほとんど影響を受けない必需的消費財へと転換したのである。
 ところで,ヴァイマル期には家電製品という電力消費の新たな領域が開拓され,完全に電化された住宅というのが理想となった。しかし,ヴァイマル期にこの理想が実現されることはなく,レーマーシュタット団地に代表される新興住宅地において実験的に試みられたにすぎない。レーマーシュタット団地での生活を検討すると,電力料金体系の特性によって,入浴時間や食事時間を中心とする人々の生活リズムが規定され,また,完全電化生活の実現には電力料金の水準が依然として高かったことが明らかとなった。しかしながら,住民の間には,完全に電化された生活を受け入れるメンタリティーが共有されており,第二次大戦後の大衆消費社会形成の素地は既にヴァイマル期に形成されていたといえよう。

 以上のように本研究は,都市自治体の電力事業政策を土台として,その上で,都市の電化プロセスの社会史的側面を照射する,近代都市史の1つのケーススタディーである。その特徴は,従来の研究と異なり,第二帝政期とヴァイマル期の両時代を連続的に捉えた点にあろう。
 この点を前提として,本研究の第1の目的は,都市自治の強い第二帝政期と,中央集権化の進んだヴァイマル期の両時代における電力事業を,自治体給付行政の観点より比較することにあった。まず,第二帝政期の電力事業に関しては,広域発電網が存在せず,市財政が比較的良好な状況にあったため,市の経済戦略と財政戦略の調和のみを念頭に置き,直線的な発展過程を辿ることができた。これに対して,ヴァイマル期には慢性的な財政難がすべての議論の大前提となり,需要の増大に応じた電力事業の拡充には常に財政問題が足枷となっていた。さらに,RWEによる電力市場掌握の可能性が出てきたため,ライヒ,プロイセン,ヘッセンの各政府との共同プロジェクトを通じて,市は電力事業の自律性確保につとめた。すなわち,第二帝政期と異なり,ヴァイマル期の電力事業は上級政府との関係がなくては立ち行かなくなり,特にプロイセンとの密接な関係が電力事業の自律性を維持する上で不可欠な条件となった。このように大きな環境の変化にもかかわらず,フランクフルト市は終始,私的資本を排除して,市域内への電力供給を自治体の管理下に置こうとしていた。その背景には,無論電力事業から得られる収入の確保という財政的要請もあったが,私的資本の下では,電力事業の公共性が確保され得ないという思想が一貫してあったのである。
 次に,本研究の第2の課題である都市の電化の社会史的プロセスについては,まず,第二帝政期に市街鉄道の電化によって第1の局面が実現され,次いで,ヴァイマル期に電灯が奢侈品的消費財から必需的消費財へ移行することによって,電力の用途として最初に想定されていた,両領域における電力利用の一般化は果たされたのである。その際,どちらの領域においても,料金政策が重要な役割を果たした。特に照明用電力における料金政策の効果は顕著で,大口需要家に有利な従量料金体系がとられた第二帝政期には,ごく限られた社会層の家庭でしか電灯が利用されていなかったのに対して,ヴァイマル期には基本料金の実質価格が下がり,その上,小口需要家に有利な「フランクフルト式住宅用電力料金」が導入され,ヴァイマル末期にはほとんどの住宅で電灯が利用されるに至った。また,電力利用が一般化する上で,宣伝政策の機能も重要であった。特に「光の祭典」は,ショーウィンドー照明の利用を促進し,電灯の光に満ち溢れた「近代的」な都市の夜景の実現に大きく寄与したのである。その後,「光の祭典」はドイツ各都市に普及したので,フランクフルトを起点に都市の夜景が改善されていったといっても過言ではない。このように,電力はヴァイマル期に,都市性の1つのファクターとして,量的にも質的にも都市生活に定着したのであり,これをもって,「都市社会化」としての都市の電化プロセスは完了したといえよう。

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