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博士論文要旨

論文題目:戦後日本の金融政策の政策科学的研究 ―高度成長期以降の日本銀行金融政策の歴史的考察―
著者:伊藤 武 (ITO, Takeru)
博士号取得年月日:2005年3月28日

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1 本研究の課題と対象
 本研究の課題は、戦後の日本銀行の金融政策について「政策科学の視点からの歴史的追求」にある。研究対象は、1950年代央に始まる高度成長期から1980年代の低成長期における日本銀行(以下日銀と略)の金融政策である。
 なお、この時期の金融政策の理解の一環として、1900年代から現在の日銀の取っている金融政策、いわゆるゼロ金利政策、量的緩和政策についても念頭においていくが、当論文の主たる研究対象は、50年代から80年代の日銀金融政策の歴史の追及においている。
 金融政策の概念については、多様な視点から考えられるが、まずは「通貨および金融の調節」と、把握する。問題は、その「通貨および金融調節」が戦後40年間においてどのように実施されてきたかにある。本研究の課題は、戦後日銀の金融政策の歴史を政策科学(policy sciences)の視点から浮き彫りにし、これを明らかにすることを試みたものである。

2 研究手法としての政策科学的アプローチによる問題関心
 本研究が金融政策について「政策科学的手法」を採用した理由は、金融理論、金融の統計的分析・エコノメトリクスからの分析や金融史に関する研究は極めて多いが、学際的研究といえる政策科学からの視点からの研究は極めて少ないことにある。

 政策科学的研究とは、本論文では、「金融政策の基にある日銀の政策理念・規範原理、政策目標、現実の政策決定、政策の遂行、そして政策結果についての評価」と理解する。
 とくに政策理念と政策決定については、平成9年(1997年)の新日本銀行法以前、旧日本銀行法(昭和17年法)下では、日銀を代表、業務を総理し、最終的な政策決定者であった総裁の意思、意見表明を重視した。これは、本論文の研究対象時期では、日銀政策委員会は、スリーピングボードともいわれ、十分な機能をしていなかったこと、副総裁以下は、結局は総裁の補佐であり日銀の最終的な政策決定は、総裁の決断にあったと思考されるからである。

 また、日銀の戦後金融政策のサクセスストーリよりも、幾多あった日銀金融政策の失敗の歴史を重視、これを摘出する。さらに政策決定を重視し、政策決定における官、政治とのかかわりを意識するものである。これは、平成9年の新日本銀行法において日銀の独立性は高まったとはいえ、今後も金融政策が過去における失敗を再び起こさないとは言い切れないのが金融政策の実態であると思考するからである。
 また、戦後日銀金融政策の成功の歴史・事例として予防的金融政策があるが、これが成功したとされる歴史を検討し、その歴史性を政策科学の視点から摘出することを意図した。

 また、日銀が最重視している物価安定の理念の主張についての中身とその歴史性、政策との乖離の歴史を追跡した。なお、日銀の強調する物価安定の日銀理念と国民の経済的厚生展望についての問題点を提起した。

 金融政策追跡の具体的な柱として、政策手段は多様化しているが、基本的に日銀の政策意思の表明とされる公定歩合の決定とその動きを基軸として追跡することとした。

 本論文テーマは、早急な結論を求めるものではなく、戦後日本の金融政策、日銀の実施してきた金融政策について、政策科学の手法により成功と失敗の歴史の追跡においている。そこから今後の金融政策のあり方、問題点の摘出を意図するものである。一試論である。

 なお、金融政策の用語には、特殊技術的であるものが少なくない。戦後金融政策手段も多様かつ変化してきている。また、金融の動きには多数の統計数字が必要となるが、これらは、なるべく大綱を理解、把握する手段として概念図、表、図に掲示することとした。とくに政策目的、政策実施、政治・政策環境、政策結果と評価についての概観は、「総括表」にまとめて本論文の末尾に掲示した。
 また、本論文に密接に関連しており、重視するべきものであるが、長いコメントを要する用語や日銀に関する法律などは、煩瑣をさけるため「別紙」あるいは「付」として掲示した。

 分析の基礎資料としては、資料の継続性と統一的把握を重視して、主として、「日銀を代表、業務を総理する日銀総裁の発言」「政策委員会議長談」「政策判断資料」「日本銀行調査月報」「日本銀行百年史第四・五・六巻・資料編」「経済企画庁・内閣府、経済白書」「本邦経済統計」を採用している。なお資料、脚注の時期表示については、原則として西暦とした。

3 本研究の構成と概要
 まず第1章では戦後金融政策の展開の背景の理解方法として、短期的な景気変動の流れの把握と、経済成長の段階的区分を作業仮説として採用し、これと金融政策とのかかわりを概観した。

 戦後日本の景気変動は、1980年代末までは上昇、後退の11回、40~50ヶ月の短期の循環的流れが観察される。日銀金融政策の発動はこの景気変動と深く関わる。

 また、経済成長は戦後復興期を経た後、大きくは5つに区分できる。すなはち
 1つは、前期高度成長期(1950年代央~60年代前半)である。国際収支の均衡が金融政策の主目標であった時期である。金融政策は、固定為替相場制(1ドル360円レート)下における国際収支をみてのストップ(金融引き締め)・アンド・ゴー(金融緩和)の政策展開の時期である。
 2は後期高度成長期(1960年代後半~70年代央)である。高度成長の下で国際収支の天井が高くなるとともに、物価高騰と景気対策が焦点となった時期である。また、いわゆる二クソンショックがあり、不動とみられた固定相場制が動揺した時期である。国際収支をみてのストップアンドゴーの金融政策が終焉した時期である。
 3は、低成長期(1970年代央~80年代央)である。国際収支の恒常的黒字と物価の高騰対策の時期である。変動為替相場制への移行と73年の第1次石油危機時における日銀金融政策の失敗が見られた時期である。
 そして、79年の第2次石油危機発生時における、日銀政策理念、物価安定による持続的成長観が具体的な金融政策となって遂行された予防的金融政策の展開の時期である。

 4は、バブルの醸成と崩壊期(1980年代末~1900年代)である。物価安定下の既存資産価格の崩壊である。
 5は長期不況期・デフレ対策期(199年代後半以降)である。日銀はゼロ金利政策を採用。金利機能の喪失が言われる。時期である。

 本論文の主たるテーマは、高度成長期から低成長期における日銀金融政策を政策科学の視点からの追跡においた。とくに日銀理念と政策決定とのかかわりを重視、政府の成長政策・低金利政策の推進、いわゆるニクソンショック、2度の石油危機時等、内外からの政治的圧力との金融政策の対応をみた。また、日銀理念と政策目的、政策決定が接近した予防的金融政策の歴史性を追及、これを明らかにすることにおいた。政策決定の核心は、政府トップと日銀総裁との意思疎通にあった。その意味で日銀金融政策の決定には、政治的影響は避けられない(仮説)。これを論証する。本論文の最大関心事とした。

 第2章では、まず政策科学の視点から見た、日銀金融政策の理念の主張を明らかにした。
 第1にまず、日銀理念の集大成といえる平成9(1997)年の新日銀法と、2000年10月の日銀発表の「物価安定の考えかた」により、持続的成長の前提となり、経済的厚生を展望するとする日銀の最近時の物価価安定理念の主張を明らかにした。
 第2は、高度成長期における日銀理念の主張を西川元彦、吉野俊彦、日銀法改正論議にみられる日銀理念の主張をみた。これらの主張、議論に内在する問題点は、新日銀法下においても依然伏在しているとみられる。
 第3は日銀出身の総裁、前川、三重野、速水の政策理念の主張を明らかにした。これら総裁は、まずは物価安定を日銀の政策理念とするが、その主張には力点の相違、歴史性があることを追跡した。

 第3章では、政策科学の視点から前期高度成長期(1956~65)の国際収支の均衡をみての金融政策・引締め、緩和の頻繁な、いわゆるストップアンドゴーゴーの金融政策の歴史を公定歩合の決定を中心に、政策目的と政策結果について明らかにした。
 池田内閣の高度成長政策下の低金利政策推進と山際総裁(以下日銀総裁の肩書きは略)の日銀政策理念との相克、結果として、金融政策の失敗、引締めの手遅れによる国際収支悪化と物価高騰の歴史を追跡した。
 第4章では国際収支が基調的に黒字化してきた後期高度成長期(1966~74)の金融政策について宇佐美の予防的金融政策と、佐々木の佐藤・田中内閣時の第1次石油危機、いわゆる狂乱物価醸成時の金融政策の歴史を追跡した。
 宇佐美の物価の安定による予防的金融政策の展開、日銀理念と政策目標の接近を検討した。ついで、佐々木の佐藤、田中内閣の列島改造ブーム時の金融の大緩和、本格的引締め転換の遅れ、過剰流動性の醸成、物価の高騰、さらに第一次石油危機時における狂乱物価の発生、国際収支の悪化と急激な金融引締め、既往最高の公定歩合9.0%への引上げ、日銀の戦後最大の失敗である不適切な日銀の政策対応を明らかにした。

 第5章では、高度成長(1955~73)と金融政策の総括的評価をした。黒木祥弘や伊藤隆文は日銀金融政策は大方の政策目的を達成、成功したとの評価に対して反論、高度成長にたいして日銀は結局、last lenderとして信用供与、高度成長に貢献したが、物価安定の日銀理念と政策結果から見れば、急ブレーキ型の金融引締め、狂乱物価発生、消費者物価の持続的上昇をもたらした視点から見れば幾多の失敗があったとの評価を示した。

 第6章では、補論として日銀の窓口指導における日銀の統制思想について一瞥した。また日銀の主張する景気平準化思想と金融政策についてみた。
 高度成長期では、宇佐美の予防的金融政策で、景気の波は、一時期平準化したが山際、佐々木の金融政策時では景気変動の波・振幅を大きくした。

 第7章では、第8章の予備的考察として、低成長期の金融政策について、第2次石油危機から1980年代後半以降バブル期までの金融政策を概観した。

 第8章では、第2次石油危機時における森永、前川の予防的金融引締政策を追跡した。
 日銀は、第1次石油危機の金融政策失敗の歴史から第2次石油危機時では早め早めの金融引締めを意図したが、日銀と政府諸官庁、財界の政策対応の相克は大きかった。しかも政界は混迷、与野党伯仲下にあった。
 この間における、大平首相・森永、前川のトップの折衝、連携による公定歩合(危機レート9.0%)引上げの政策決定を追跡した。日銀政策決定には総裁の決断と、政府トップとの連携が核心であり、その意味での日銀金融政策には政治的影響は避けられないことを明らかにした。
 なお、この時の日銀の予防的金融政策決定は、日銀理念からも政策結果からも早め早めの金融引締政策が、早めの金融緩和につながり、金融政策は成功したとの評価ができるが、日銀の予防的金融政策の主張も、第1次石油危機のいわゆる学習効果によるものであり、優れて歴史性をもつものであることを明らかにした。
 第9章では結語と今後の課題として、低成長期、第2次の石油危機、物価高騰懸念の予防的金融政策は、物価安定の理念からして成功したと評価できる。が、この政策成功は歴史的にみれば一つの政策主張を含意するものであり、その限りでは、今後、政策対象が超低成長、デフレ下においては物価安定の理念の主張のみでいけるかは疑念が残る。とくに物価安定の主張が国民の経済的厚生展望にあるとの視点からみればその主張には限界がると思われた。今後の研究課題になる。

 本論文では、次の点を明らかにした。

日銀金融政策理念、物価安定の規範原理の主張の吟味である。そして、日銀政策理念は、歴史に即してみれば日銀からの一つの政治的主張である。
森永、前川の予防的金融政策の実施は、物価、景気の平準化の結果からして高く評価できるが、これ自体が歴史的なものである。
日銀金融政策決定には、その核心では政治的影響は避けられない。政府トップと日銀トップの決断、連携如何に依存する。
なお、経済環境・構造が変化してきた時、今後も日銀がその理念とする「物価安定一本」で金融政策が推進することには国民の経済的厚生の視点からみれば疑念が持たれた。

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