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博士論文要旨

論文題目:漢語の影響下におけるモンゴル語近代語彙の形成 ― 中国領内のモンゴル語定期刊行物発達史に沿って ―
著者:フフバートル (Huhbator)
博士号取得年月日:1998年3月27日

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序章 本研究の基本姿勢とモンゴル語の近代語彙
 本研究の基本姿勢としてここではまず、この研究テーマの対象となる具体的な研究内容、地域、時代及び当該研究とその隣接分野における先行研究について述べたほか、本研究の研究方法及び利用する資料の範囲などを具体的に提示した。

 次いで「モンゴル語の近代語彙」について、「近代語彙」という基本的な概念及び本研究で扱うモンゴル語近代語彙の語構成上の特徴と語彙弁別上考慮すべき諸点について具体的な例を分析することにより提示した。


本研究の基本姿勢

 中国領内のモンゴル語近代語彙は、今世紀以来のモンゴルをめぐる複雑な国際情勢を背景に、内モンゴルがおかれてきた歴史的情況の中で形成した。したがって、中国領内のモンゴル語近代語彙形成のプロセスは、1911年に民族独立を宣言し、1921年に社会主義革命の成功により独立国家として登場した現在のモンゴル国とは情況が異なるものであるため、本研究で扱うモンゴル語は現在の内モンゴル自治区を中心とする中国領内のモンゴル語に限定する。時代範囲は、モンゴル語に近代的語彙が登場した清朝末期、具体的には1908年に最初の正規 のモンゴル語定期刊行物であるMongGul UsUg-Un (Uge-yin) bodural『蒙話報』の創刊から1950年までの、モンゴル語が新語作成上、漢語の影響を直接受けた前半世紀を扱う。

 今世紀の半ばまで近代的なモンゴル語出版物が皆無同然だった内モンゴルにおいては、主として統治者側が発行する政治的定期刊行物が近代語彙の登場と変遷に場を提供し、中国領内のモンゴル語近代語彙の形成に最も重要な役割を果たした。さらに、各政治的勢力の支配地ではそれぞれ独自の新語作成を組織的に行い、それをその支配地内での定期刊行物を主とする出版物に使用していたので、中国領内のモンゴル語近代語彙の形成は多元的であった。したがって、この研究では時代及び地域の分類は、各歴代の政治的勢力の支配地に基づいて行い、以下のように分類される。括弧の中は当該政権側が発行したモンゴル語定期刊行物の時代を示す。その時代的背景及び本研究との関連については後述する本論の研究内容の中で述べる。

  「清朝政府側」 (1908~1910) 「中華民国側」 (1913~1948)
  「満州国側」 (1918~1944) 「蒙疆政府側」 (1938~1944)
  「内モンゴル側」 (1945~1950)

 モンゴル語定期刊行物の歴史からみれば、1911年の外モンゴル独立以来の内モンゴルにとっては、清朝末期から1945年8月以降の「内モンゴル自治運動」までのモンゴル語定期刊行物は、学生や知識人などモンゴル人が独自に創刊した数少ない定期刊行物を除けば、基本的に異民族がモンゴルを支配するための道具でしかなかったと言っても過言ではない。こうした政治的な要因によるモンゴル語定期刊行物の発行が中国領内のモンゴル語近代語彙に直接強い影響を及ぼし、その形成に大きな役割を果たした。

 実際に本研究の調査結果によれば、上記期間中に発行された77種類のモンゴル語定期刊行物の中で65種類が上に掲げた各時代や各地域の統治者の意志によって発行されたものである。

 この論文の中で「漢語の影響下におけるモンゴル語近代語彙の形成」をモンゴル語定期刊行物の発達史に沿って考察した目的は、基本的に次の二つの理由によるものである。

 まず、近代的なモンゴル語出版物が皆無同然だった今世紀の半ばまでの内モンゴルにおいては、モンゴル語の定期刊行物は最も基本的な語彙資料であること。

 近代語彙の研究のために、日本語や中国語の場合は辞書を語彙資料として用いるのが一般的であるが、モンゴル語の場合、辞書に近代語彙が登場するようになるのは定期刊行物の発行に比べればかなり遅く、ごく限られた語彙しか掲載されていなかった。それは近代の外国語対モンゴル語辞書が編纂されなかったことと深い関係がある。

 次は、定期刊行物のメディアとしての性質が新語の登場やその変遷のプロセスを考察するのに時間的情報を正確に提供する上で有益であること。それに、定期刊行物は一般の出版物とは異なり、地域性をもち、一定の配布範囲があるため、ことばの普及範囲を知るうえでも情報源になることがあげられる。特に地理的状況や政治的事情により言語的状況が異なる内モンゴルの地域性を考えるうえでは資料的価値が高い。

 中国領内のモンゴル語定期刊行物は、ほぼ全部が専門領域や特定の内容に拘束されない一般向けの刊行物であったため、また、定期刊行物は時間の拘束を受ける出版物であるため、近代モンゴル語に大量の新語を時代と共に生産し、それを特定の範囲内に伝達させるのに重要な役割を果たした。

 この分野の資料的情況からみても明かであるように、モンゴル語近代語彙の登場及び中国領内のモンゴル語の近代語彙の形成についての研究はまだ空白状態にある。それはただその研究のための基礎的資料が十分ではなかったこと以外に、モンゴル語研究の領域全体において「近代」があまり注目されなかったことと関係がある。

 本研究の隣接分野としての内モンゴルにおけるモンゴル語ターミノロジーの先行研究は、34名の執筆者による32編からなる『蒙古語名詞術語論文集』(モンゴル語 1991年)という一冊の本にほぼ包括されているが、その内容はほとんどが1950年代以降のことを共時的に扱ったもので、本研究とは時代も研究方法も異なる。本研究は時代的範囲からして、ちょうど上記研究が空白にしてきた歴史的変遷を扱うもので、通時的研究である。

 本研究のもう一つの隣接分野として、中国領内で発行された古いモンゴル語定期刊行物の研究をあげることができるが、今世紀前半、特に1945年の日本敗戦以前のモンゴル語定期刊行物は現在の内モンゴル自治区領内よりも、北京、南京、奉天、新京、張家口といった各歴代の政治勢力の中心地で発行され、その多くが戦乱や「文化大革命」などの動乱の中で紛失されているため、内蒙古自治区図書館から『建国前内蒙古地方報刊考録』という書物を発行し、古いモンゴル語定期刊行物の全体の情況を把握したのが1987年であったが、そこに収録されているのは中国領内における古いモンゴル語定期刊行物全体の70%弱であることがこの研究による調査で明らかになった。

 しかし、中国側でまったく所蔵されていない、また、現在までのモンゴル学の諸分野でまったく知られていなかった古いモンゴル語定期刊行物及びそれに関する貴重な資料が日本各地の資料収集施設から数多く見つかり、それが本研究の進展にとって決定的な役割を果たしたのである。これは特筆すべきことである。

 古いモンゴル語定期刊行物の収録情況は具体的に、中国側で発表された上記資料に収録された清朝末期から中華人民共和国建国(1949)までのモンゴル語定期刊行物は、「蒙漢合璧」を含む74種(雑誌44種、新聞30種)で、中には所在がまだ確認されていないものが28種(雑誌14種、新聞14種)含まれている。これに対し、本研究の調査により収録された古いモンゴル語定期刊行物は109種類で、その中で実際に本研究で利用されたのは約80種類である。

 さらに、中国領内のモンゴル語近代語彙形成の研究にとってもう一つ重要なことは、各政治的勢力範囲内でモンゴル語新語や術語の創出と統一を図るための組織的な新語審議作業などが行われたかどうかを考察することであったが、本研究では資料に基づき、その歴史的事実を考察することから着手し、新語審議作業に関する情況及びその結果とその後の効果などを視野に入れた研究を行い、場合によっては審議された新語についての分析を行った。

 本研究では古いモンゴル語定期刊行物を基本的にモンゴル語近代語彙を考察するための一次資料として位置付けた。しかし、その発行年代、発行地及び発行機関、編集者などの歴史的事実関係を知ることはその定期刊行物の語彙的特徴を把握するうえでもたいへん重要であり、また中国側で発行された多くの古いモンゴル語定期刊行物の存在及びそれに関する事実関係が知られていない現段階では、本研究で古いモンゴル語定期刊行物に関する空白の部分を埋めていくことが必要であると考え、古いモンゴル語定期刊行物について考察を深めていったが、この関連の研究は本題の補足的研究として行われたものである。


モンゴル語の近代語彙

 19世紀末のアジアでは、明治維新以降の日本に続いて中国でも近代への模索が始まった。社会の近代化は同時に言語の近代化をも要求するもので、そのころの中国語も日本が明治維新で経験した近代語彙を作り出す問題に直面した。その後の中国語には日本で作られた新漢語が積極的に取り入れられ、中国語近代語彙の基盤となった。漢字文化圏にある朝鮮語においても日本で作られた新漢語が導入されたことは同じであった。

 しかし、漢字文化圏に入らないながらも漢文化の本源である中国大陸と陸続きで、その直接の政治的、文化的影響下にあった内モンゴルにおいても、近代語彙の形成が一貫して漢語の影響を受けてきたことが前半世紀にわたる本研究における考察によって明らかにされた。

 早期モンゴル語定期刊行物をはじめ、今世紀前半のモンゴル語には、中国語に日本語から逆流入されたと認められる漢語や中国で作られた漢語による近代語彙が初期は中国語から、そして日本支配下の内モンゴルでは直接日本語から大量に、体系的に翻訳されていた。その多くが日本敗戦と国民党政府の中国大陸での敗北とほぼ同時に行われたモンゴル人民共和国からの新語導入により、または、自治区成立以降の内モンゴルで独自の新語が作られたために淘汰された。しかし、現在のモンゴル国を含め、モンゴル人が近代的な生活を営むうえで何気なく使われている一般用語の中に漢語で作られた近代語彙の字訳、あるいは意訳語が多く含まれていることは事実であり、そのほとんどがモンゴル革命以前の清朝末期にモンゴル語の中にすでに定着していた語彙である。したがって、本研究ではモンゴル語の近代語彙の形成に中国語の近代語彙、さらに日本語の中の新漢語が直接、または間接的に影響を及ぼしたという姿勢をとるものである。事実、本論の研究内容から明らかであるように、中国語の強い影響を受け、さらに、一時的ではあるが、日本語の影響を直接受けてきた内モンゴル側のモンゴル語近代語彙は、基本的に漢語からの翻訳借用により形成したものであった。

 次に、「近代語彙」という概念をどう理解するべきかについて述べる。

 本研究では「近代」ということばを単なる歴史時代の時間的区分の意味でではなく、西洋の近代文明の伝来との関連で考える。したがって、ここでは「近代語彙」ということばをある歴史時代の語彙ではなく、主として西洋文明の伝来により現われた新しい概念や用語、または近代工業生産品の名称などの近代的社会生活を営むうえで必要な一般語彙を指す意味で用いる。

 また、「モンゴル語の近代語彙」は何を基準に弁別するべきかという問題については、モンゴル語の単語にみられる言語形式よりもその単語によって表わされる意味、もしくは概念によって判断する。モンゴル語の近代語彙を考える場合、その単語が新しいか古いかということは表面上のことにすぎず、本質的なことはその単語によって現わされる意味や概念がモンゴルにとって近代的かどうかである。もしそれが近代的であれば、それを訳すのに古くからあったモンゴル語が使われたとしてもその単語を近代語彙とみなければならない。

 明治初期の日本で西洋の新しい概念を日本語に翻訳するのに漢籍の中の古い漢語を使ったことがよく知られている。このように、同じ単語でも近代以前と近代以降は意味が変わることがあり、この点はモンゴル語の場合も例外ではない。しかし、近代語彙を表わすのに古い単語が使われたとしても、現在の人々はそれを近代的な意味で理解し、近代的な意味で使っている。

 そのために、本研究ではモンゴル語の近代語彙を弁別するうえで基本的なこととして、漢語との関連で次の諸点に注目しなければならないと考えるものである。

1)近代以前のモンゴル語(清朝末期までの辞書を基準にする)が漢語による近代語彙の訳語として使われていること。

例:


モンゴル語 前近代中国語訳 近代中国語訳 日本語の意味
oyutan 生員 大学生 大学生
sekegeten 童生 知識分子 知識人
erdemten 賢者 学者 学者
surGaGuli 教(三教の) 学校 学校
qauli 例 法律 法律
Un-e 租子 価格 値段
UyiledbUri 工程 工厰 工場
kiciyel 工夫 課 授業

2)中国語の意味が前近代(A)と近代(B)は異なるように、その単語に当たるモンゴル語も近代以前と現在は意味が違うこと。

例:


中国語 意味 前近代モンゴル語訳 モンゴル語近代語彙
博士 A 勉強した役人 surulcaGsan tUsimel 〓〓〓〓
博士 B doctor 〓〓〓〓 doktur
教授 A 教える役人 surGaGci tUsimel 〓〓〓〓
教授 B professor 〓〓〓〓 professor
学生 A 教わるための子供 surGaGuli -yin keUked 〓〓〓〓
学生 B student 〓〓〓〓 suruGci
学院 A 教えるための役所 surGaGuli-yin yamun 〓〓〓〓
学院 B college 〓〓〓〓 degedU surGaGuli
助教 A 助けて教える役人 tusalan surGaGci tUsimel 〓〓〓〓
助教 B assistant 〓〓〓〓 tusalaGci baGsi

 ここで中国語の場合は近代以前と近代以降は言語形式は変わらず、本来あった単語で近代語彙の意味を表わしている。これに対し、モンゴル語の場合は中国語のその単語が示す近代概念に対して近代以前とはまったく別の形の単語を音訳借用、または翻訳借用している。したがって、近代以前の中国語の言語形式(A)の意味に当たるモンゴル語近代語彙は存在せず、存在するのは中国語の近代語彙としての言語形式(B)の意味に当たる近代語彙だと考えなければならない。逆に、中国語Bに当たるモンゴル語は近代以前からあったものではないということを知っておかなければならない。

 すなわち、中国語において同一の言語形式をもつ単語でも前近代と近代は表わす意味が異なるということをモンゴル語との関係で明瞭に区別する必要がある。

3)基本的に1)の類に属するが、その単語が形式からみても、表わされる内容からみても近代語彙と判断されにくい語彙があること

 この類に属するモンゴル語近代語彙としては次の二種類の単語をあげることができるが、いずれも1)と2)の場合のような共時的な単純な例ではなく、情況は複雑で、その単語が近代語彙であるかどうかを判断するためには通時的に考察を行うことが必要である。

 この類の例としてはまずモンゴル語のshasinが、近代語彙としての中国語の「宗教」によって示されるreligionの概念に一致するようになったプロセスを、中国領内のモンゴル語近代語彙形成において時代性と地域性をもつ基本的な資料に基づいて分析した。

 モンゴル語のshasin(shajin~shasin<梵casana)は、現在「宗教」の意味で使われる単語として定着しているが、18世紀のモンゴル語辞書である『欽定蒙文彙書』などではこの単語に中国語の「法度」があたるようになっていた。しかし、中国語で「宗教」が英語のreligionの訳語として使われるようになってからは、この「宗教」に対するモンゴル語訳は多くの異なる形をもちながら本日のshasinとして定着した。本論ではその変遷のプロセスを例示した。

 すなわち、前者のshasinが中国語の「法度」が表わす意味に当たる単語であったとすれば、後者のshasinは「宗教」という「日本漢語」が表わすreligionの概念を表わす単語である。

 3)の類のもう一つの例に、モンゴル語近代語彙としてのulus(国、国家)を挙げた。

 世界に高度に組織化された社会集団としての国民国家(nation-state)が次第に増えてくるにつれてモンゴル語でも近代語彙としての「国家」(state)という漢語を訳さなければならなくなったが、その訳語には古くからモンゴル語にあったulus(国)が当たっているように思われがちである。しかし、それは必ずしも古くからあったこのulusがここにそのまま流用されたものではないことは、今世紀以来の各地の資料によって立証されるものである。ここでは資料の例示を省略する。

 結論は、現在モンゴル語において「国家」を意味するulusは、『元朝秘史』などモンゴル語の古い文献にも見られるulusがそのまま使われていると見るべきではなく、近代国民国家の「国家」という概念を主としてulus tOrUと翻訳することにより表わし、その使用頻度が高くなるにつれてulus tOrUのtOrUが省略されるようになり、ulusのみが「国家」の意味で定着したとみるべきであろう。これは本論でみるように、sonin bicig(新聞)のbicigが次第に省略され、soninだけが「新聞」の意味で定着したのと酷似している。

 現在モンゴル語でulus tOrUという単語は「政治」(politics)の意味であるが、1910年代半ばの資料では、ulus tOrUという単語はulus tOrU bayiGulqu(国家を作る)という形で現われることが多かった。しかし、ulusが次第に「国家」(state)の意味で定着するに連れてulus tOrUが「政治」(politics)を表わすように意味の変化が生じたものとみられる。内モンゴル側のモンゴル語で「政治」がjasaG jasalta からulus tOrUに関わったのは1945年8月の日本敗戦以降のことである。


第一部 モンゴル語近代語彙登場の時代

 第一章、第二章、第三章からなる。


第一章 モンゴル語定期刊行物の登場とその文化的背景
  ~ 『嬰報』が生まれた土壌ハラチン右旗を中心に ~

 第一章は本論全体の内容にわたる内モンゴルにおける文化的背景を紹介することが目的で、章全体の内容は大きく二つに分けることができる。

一、モンゴル語に定期刊行物が登場したことについて、ロシア領内で登場した最初のモンゴル語定期刊行物及びモンゴルで発行された最初のモンゴル語定期刊行物を論じるにあたって、その後者であるnilq-a sedgUl (嬰報)が「蒙漢合璧」であったことの文化的な背景を分析した。nilq-a sedgUl (嬰報)は、1905年に当時のモンゴルでは最も改革的な王であったハラチン右旗のグンセンノロブによって創刊されたが、それが「蒙漢合璧」という形をとっていたのは、当時のハラチン右旗では民族構造からみても、モンゴル人の教育の事情からみても中国語はすでに文字言語として重要な位置を占めていたからである。

 本章では今世紀初期当時「入蒙」し、ハラチン右旗でのモンゴル人の教育にあたっていた日本人教師河原操子の『蒙古土産』(明治42年)及び現地出身者の回想録、モンゴル人大作家であったインジャナシの作品などを参照にしつつ、19世紀末期、今世紀初期のハラチン右旗、さらに広く、ジョスティン・チョールガーン全体の状況をみることにより、内モンゴルの東部における漢文化の浸透ぶりを論じた。これを通して本研究で扱う数多くの「蒙漢合璧」の定期刊行物が生じた歴史的要因を追及した。

二、内モンゴルの東部およびその他の広い地域での漢文化への同化について、その歴史的事情を清朝末期における清朝政府の対蒙政策の変化から考察した。上述のハラチン右旗やジョスティン・チョールガーン全体の情況からみれば、少なくともこれらの地域においては、今世紀初期に清朝政府が行った「漢文各條」など従来の古い条例に対する解禁令はさほど意味をもっていなかったことが明らかである。清朝政府の対蒙政策と東モンゴルの現実における食い違いは大きいものである。


第二章 モンゴル語近代語彙登場の母体 ― 『蒙話報』

 日清戦争と日露戦争後の清朝にとってモンゴルへの脅威はロシアのみではなく、日本に対しても警戒を強める必要が増してきた。こうした国際情勢の中で国内情勢を維持していくために清朝は他の辺境地よりもまずモンゴル民衆に対するイデオロギー的な宣伝を始めなければならなかった。そのために創刊されたのが中国領内で発行された最初の正規のモンゴル語定期刊行物 ― MongGul UsUg-Un bodurul 『蒙話報』(1908年4月)という月刊誌であった。この雑誌は少なくとも1910年5月までに第25期まで発行されたため、おびただしいモンゴル語近代語彙を生みだし、本研究では「モンゴル語近代語彙登場の母体」として位置付けられ、本研究において最も基礎的な部分をなすものである。本章ではこの雑誌が発行されていた中国の吉林省を訪れることにより入手した同省档案館の資料及び本誌をもとにこの『蒙話報』というモンゴル語雑誌について詳細に考察した。その内容は大きく二つに分けられる。

一、『蒙話報』というモンゴル語雑誌(一)
 1、趣旨と発行機関 
 2、創刊及び廃刊年代 付録資料 一 
 3、発行部数
 4、所蔵状況
 5、サイズと量及び各欄
 6、経費 付録資料 二
二、『蒙話報』というモンゴル語雑誌(二)
 1、モンゴル語名称
 2、モンゴル語訳者
 3、『吉林蒙文報』誌
 4、 編訳上の特徴



第三章 『蒙話報』モンゴル語近代語彙研究

 独立以前の外モンゴルのモンゴル語を含め、『蒙話報』誌は本研究では「モンゴル語近代語彙登場の母体」と位置付けられるため、その語彙がモンゴル語近代語彙形成の土台になるとの判断により、本章では現在利用できる『蒙話報』誌の23冊を通してすべての語彙に対する綿密な考察を行った。その具体的な内容は以下の二つの部分からなる。

一、見出し語と語彙の分類
 1、見出し語の抽出
 2、語彙の分野別分類
二、見出し語の比較と訳語定着度の確認
 1、『蒙漢合璧五方元音』(1912年)との比較
 2、『蒙譯名辭選輯』(1942年)との比較
 3、『漢蒙詞典』(1982年現在)との比較
 4、『蒙話報』誌モンゴル語近代語彙の現在定着語例

比較の結果1


『蒙話報』誌(1908~10)と『蒙漢合璧五方元音』(1912)の語彙比較表
両者の語彙の一致率 語彙数 『蒙話報』誌の近代語彙との一致率
見出し語 が一致する語彙 21 2.5 %
訳語が完全不一致の語彙 10 1.2 %
訳語が部分一致する語彙 3 0.4 %
訳語が完全一致する語彙 8 0.9 %


比較の結果2


『蒙話報』誌(1908~10)と『蒙譯名辭選輯』(1942)の語彙比較表
両者の語彙の一致率 語彙数 『蒙話報』誌の近代語彙との一致率

見出し語 が一致する語彙 337 40 %
訳語が完全不一致の語彙 159 18.8 %
訳語が部分一致する語彙 72 8.6 %
訳語が完全一致する語彙 106 12.7 %


比較の結果3


『蒙話報』誌(1908~10)と『漢蒙詞典』(1982現在)の語彙比較表
両者の語彙の一致率 語彙数 『蒙話報』誌の近代語彙との一致率
見出し語 が一致する語彙 765 91.4 %
訳語が完全不一致の語彙 659 78.7 %
訳語が部分一致する語彙 28 3.3 %
訳語が完全一致する語彙 78 9.3 %


 本研究の調査結果により明らかになったことは、1908~1910に発行された最初の正規のモンゴル語定期刊行物である『蒙話報』誌に含まれる中国語による見出し語は849語で、その中で『漢蒙詞典』(1982現在)と見出し語が一致する語彙は765語で、全体の91.4%を占め、その中で訳語が完全一致する語彙は78語で、全体の 9.3 %を占めるものである。


第二部 モンゴル語近代語彙多元化形成の時代

 第四章、第五章、第六章、第七章からなる。


第四章  中国の共和制とモンゴル語近代語彙の発展

 1911年の中国辛亥革命の成果により、1912年に誕生した中華民国新政権にとって、清朝支配の領土をいかに維持するかということは重要な課題であり、そのためには何よりもまずモンゴルへの対策を積極的に行わなければならなかった。それは清朝の崩壊とともに外モンゴルで民族独立が宣言され、内モンゴルがそれに連動したため、モンゴル情勢が一気に緊迫したからである。そのために、中華民国の新政権はほぼその発動と同時に1912年11月にYekede neyitelekU mongGul bicig-Un sedgUl (蒙文大同報)というモンゴル語雑誌を創刊し、次いで北洋軍閥時代は5種類のモンゴル語定期刊行物を発行した。

 本章ではまず北洋軍閥時代のモンゴル語定期刊行物及びそれに対抗するために独立宣言を行っていた外モンゴルで発行されたモンゴル語定期刊行物について論じ、次いで、この時代に最も刊行が安定していた『蒙文白話報』誌のモンゴル語近代語彙を前述『蒙話報』と比較することによりこの時代のモンゴル語近代語彙の特徴を分析した。


結論

 『蒙話報』誌23冊に含まれるモンゴル語近代語彙849語と『蒙文白話報』の第三期と第四期のモンゴル語近代語彙154語を比較した結果、一致する中国語の見出し語99語の中で、訳語が完全不一致の語彙が32語、部分一致する語彙が37語、完全一致する語彙が20語、動詞の名詞化が10語であることが確認された。

 このサンプル調査のデーターをもとに『蒙文白話報』のモンゴル語近代語彙の特徴を次のようにまとめた。

 1、『蒙文白話報』は『蒙話報』に比べ、近代語彙が多く、その使用頻度が高いことがあげられる。『蒙文白話報』のばあいがサンプル調査であるために、両者の毎期の近代語彙平均数を単純に比較することはできないが、その平均数は『蒙文白話報』の77語に対し、『蒙話報』のばあいは36.9語である。

 2、両者の比較の結果、部分一致する語彙が37語で、最も多い。これが全体の37.3%を占めるということは、二語の複合語による中国語近代語彙がここでも基本的に字訳され、その二語の中でどれかが同じ、または類似の訳をもっているばあいが多いことを意味するものであろう。

 3、訳語が完全不一致の語彙が32語で、全体の32.3%を占めるのは、『蒙話報』誌のモンゴル語近代語彙がこの時点では、完全一致する語彙の20.2%(20語)より12.1%も多いことを意味し、当然の結果とも言える。それに対し、両者の間で完全一致する語彙が20語あり、全体の20.2%をしめるということは、それ自体が『蒙話報』のモンゴル語近代語彙の生存率を表示するものである。

 4、『蒙話報』で動詞であった意味的に類似する語彙が『蒙文白話報』では名詞の形で登場した語彙が10語あり、全体の10.1%を占める。比率は最も低いけれども、モンゴル語近代語彙の形成において最も注目すべき特徴がここに現われている。モンゴル語近代語彙の形成はある意味では動詞の名詞化のプロセスでもあるからである。


第五章 南京政府「蒙藏語文研究会」とモンゴル語術語

 外モンゴルが1921年の社会主義革命で独立し、ソ連の影響下に入ったことに次いで、1932年の「満州国」の建国により、中国東北各省に管轄されていた東部モンゴル諸旗及び熱河のモンゴル人地帯は、その地域とともに「満州国」の一部を構成し、日本の支配下に入った。モンゴル全土の主権を主張する中華民国南京政府は、こうした事態を前に対モンゴル宣伝工作を強化しなければならなくなった。南京では1936年3月に、1933年冬参謀本部の直轄で創設された「邉務研究所」を継承する形で、国民党中央執行委員会組織部直轄の研究機関として「蒙藏語文研究会」を発足した。その目的は実際に、国民党政府のプロパガンダ刊行物の翻訳のため、モンゴル語とチベット語に政治用語など近代語を作らせることにあった。

 本章ではまずこの「蒙藏語文研究会」についてその成立と構成、「研究会」の目的及び術語審議の仕組みを分析し、次いで同研究会のモンゴル語術語の作成について、当時の会議録をもとに、政治用語の審議過程を整理、分析したほか、審議された政治用語456語を含む合計1273語について、調査した。


まとめ

 1940年1月発行『蒙古語文研究専刊』(第一、二、三集合刊)に掲載された1273語彙の中で現在中国側のモンゴル語に定着しているのは固有名詞を含めて45語で、その身元の内訳は次のようになる。

 1、近代以前の語彙 A8 B2 ○ 1 11
 2、 中国語からの訳語 D1 C2 ○25 28
 3、モンゴル人民共和国の近代語彙 E5 F1 6


  記号○は現時点で最初の使用例が未確定の近代語彙を指す。

  A:『御製五体清文鑑』( 一、二、三) 清朝乾隆時代編成 民族出版社 1957年
  B:『欽定蒙文彙書』光緒17(1891) 年
  C:『蒙話報』(第1期~第25期、第8、24期欠)光緒34 (1908)年4月創刊 吉林
  D:『蒙文白話報』(第1期~第16期)民国2(1913) 年1月創刊 北京
  E: 内蒙古国民革命党機関誌『内蒙国民旬刊』民国14(1925) 年11月創刊
  F: 内蒙古人民革命党中央 DotuGadu mongGul-un jobalang-tu bayidal 1926年3 月17日


第六章 「満州国」のモンゴル語近代語彙と日本語の影響

 「満州国」の建国後、内モンゴル中部と西部の察哈爾及び綏遠はオルドス地域(イヘジョー盟)を除いて「蒙疆政府」(後述)の重要な部分をなすようになった。そして、その西部、具体的には包頭市より西にはまた、この両政権、すなわち日帝の支配圏外にある地域として、西南部のオルドス地域と寧夏省領であったアラシャー両旗がなお国民政府の支配下にあったが、オルドスは地理的な状況からして、当時中国共産党の根拠地であった延安から近いため、中国共産党の影響を比較的受けやすい地域であった。

 当時の資料によれば、国民党政府の支配下に残っていたモンゴル人は青海と新疆を含み、約30~40万人であった。この数字は同じ資料に示す他の統計から推定して、当時の中国領内のモンゴル人の約15%を占めるものであったので、残りの85%のモンゴル人が直接、あるいは間接的に日本の支配下に入っていたことがわかる。したがって、言語的にも内モンゴルのモンゴル語はこの二つの勢力の影響を受けていたことは容易に想像できる。具体的にモンゴル語定期刊行物について言えば、南京発行のモンゴル語定期刊行物が中国語の影響を受けていたに対し、新京発行のモンゴル語定期刊行物が日本語の影響を受けていた。しかし、日本語の影響はその支配地域の広さにより、モンゴル語出版物に関しては、短期的ではあるが、中国語より遙かに強かったものとみられる。満州国のモンゴル語定期刊行物がそうであったように、「蒙疆政府」側で発行されていたモンゴル語定期刊行物も、日本語から直接影響を受けていたことはいうまでもない。そのほかに、日本の文化的影響を受けていたモンゴル語定期刊行物の中に、日本滞在のモンゴル人たちが発行していたものも含まれる。本章では「満州国」のモンゴル語近代語彙の状況を考察するにあたって、「満州国」のモンゴル語近代語彙の成立に大きく貢献したUlaGan bars(丙寅)誌及びその発行機関である「蒙文学会」のモンゴル語新語作成に関する諸活動、さらに「蒙文学会」の創設者であるブフヘシグという人物に焦点を絞って考察を行った。

一、「蒙文学会」と『丙寅』 誌
 1、「満州国」のモンゴル語定期刊行物 
 2、UlaGan bars (丙寅) 誌
 3、「蒙文学会」
二、ブフヘシグ
 1、ブフヘシグという人物
 2、オーエン・ラティモアとの交流
 3、『蒙古』誌との関わり
 4、ブフヘシグの死因について
三、「蒙文学会」の新語審議と「満州国」のモンゴル語近代語彙の成立
 1、「蒙文学会」の新語審議
 2、「蒙文学会」翻訳『新名辞字典』の語彙

 「蒙文学会」が康徳3年12月から康徳7年12月まで23回にわたり審議発表した日本語からの翻訳語1066語が、1941年8月にブフヘシグの監修により石印印刷で「蒙文学会」から出版された。

 しかし、『新名辞字典』には『丙寅』で発表されなかった語彙が25語追加されたほか、翻訳修正語彙15語、中国語の説明を削除した語彙4語、中国語の意味から日本語の意味に換えた語彙1語が含まれている。

 これにより「満州国」側のモンゴル語近代語彙は完全に日本語の翻訳によるものであることが明らかになった。


第七章 「蒙疆政府」の新語と青年作家の語彙

 「満州国」の建国以降、内モンゴルの西部で「蒙疆政府」の前身である「蒙古軍政府」という政権が誕生したのは1936年5月のここである。1937年10月に「蒙古軍政府」は「蒙古連盟自治政府」と改名し、さらに、1939年9月には「蒙疆連合自治政府」となる。日本の中国北部、内モンゴル西部への勢力拡大により樹立されたこの短命の政権を普通「蒙疆政府」、またはその主席であった徳王(デムチュグドンロブ)の呼称により、「徳王政府」とも呼ぶことがある。

 「蒙疆政府」の成立以来、内モンゴルは行政的には大きく三つに分断されたが、事実上は二つの勢力下におかれ、言語的には中国語と日本語の影響を受けていたことには変わりなかった。内モンゴルの政治的分断により生じたモンゴル語近代語彙形成の多元化という面から見たばあい、日本語がモンゴル語に与えた影響は、日本の対蒙文化政策の共通性により、「満州国」においても、「蒙疆政府」においても基本的に同じであった。しかし、「蒙疆政府」は「満州国」に管轄されない別の政治実体であったために、そこで作られたモンゴル語近代語彙は「満州国」のばあいとは必ずしも一致するものではなかった。実際に「蒙疆政権」では独自の新語作成が行われていた。そういう意味では「蒙疆政府」で作られたモンゴル語近代語彙も、内モンゴルにおけるモンゴル語近代語彙の形成過程において特別な位置を占め、そこで発行されたモンゴル語定期刊行物をはじめとする出版物は、「蒙疆政府」のモンゴル語近代語彙を研究するうえで重要な言語資料になる。しかし、資料上の都合により、「蒙疆政府」側が組織的に行ったモンゴル語新語作成のプロセス及びその結果については、「南京政府」や「満州国」のばあいのように詳細に扱うことは不可能である。したがって、本章では「蒙疆政府」のモンゴル語近代語彙の形成に関しては、その時代に発行された同政府側のモンゴル語定期刊行物など現段階で知ることの可能な歴史的事実関係および「蒙疆政府」側が生んだ著名な青年作家であるサイチンガの近代語彙に絞って分析を行うことにした。

 本章全体の内容は以下の通りである。
一、「蒙疆政府」モンゴル語定期刊行物と新語作成
 1、「蒙疆政府」モンゴル語定期刊行物
 2、MongGul-un sonin sedgUlという新聞と新語作成
 3、「徳王辞典」の編集と新語
二、「蒙疆政府」青年作家サイチンガの近代語彙
 1、サイチンガと「蒙文学会」
 2、サイチンガの作品にみるモンゴル語近代語彙
 3、『砂漠、わがふるさと』の近代語彙とその特徴

 サイチンガは「蒙疆政府」時代に詩を主とする多くの作品を出したが、ここでは「蒙疆政府」と「満州国」という日本語の影響下にあった異なる政治的実体のモンゴル近代語彙を比較する目的で、彼のElesU mangqan-u eke nutuG(砂漠、わがふるさと)という作品を語彙調査の対象にした。いうまでもなく、サイチンガの語彙が「蒙疆政府」側全体を代表するとは限らない。しかし、資料上の都合により「蒙疆政府」側の近代語彙を体系的に考察することができない現時点では、サンプル調査の対象としてこの作品の近代語彙を体系的に分析することが最も適当であると判断される。

 ElesU mangqan-u eke nutuG(砂漠、わがふるさと)は、サイチンガが来日してから3年目の1940年に書いた長編日記文である。内容は、彼が同年夏休みに帰国した際に綴った7月11日から9月2日までの52日間にわたる日記である。この作品は外国や都会での見聞などをリアルに描写しているため、近代社会の諸現象をモンゴル語で表現した作品としてはそれまでのモンゴル文学作品とは異なる特徴をもっている。したがってそれまでモンゴル語になかった、あるいは統一していなかった近代的な語彙をサイチンガが作品の中でどのように工夫していたのか、注目に値する。この作品の中には近代語彙として認められる単語が84語ある。当然、その大部分がサイチンガ以前から用いられていた語彙であるが、サイチンガによる独創的な翻訳借用語も少なからずある。 

 サイチンガの作品に見られるこれらの近代語彙の中で上記「満州国」側のモンゴル語辞書 ― 『新名辞字典』の中でその対訳語が見られるのは19語だけである。しかし、サイチンガの語彙は、『新名辞字典』のように「日蒙対訳」の形で対比されたものではなく、使われている意味から日本語の当該単語に当たると判断されるものである。

 「満州国」側の語彙との関係でここに例示されたサイチンガの近代語彙19語の中で実際に「満州国」側の語彙と完全一致するものは、せいぜい「蓄音機」「問題」「教育」の訳語3語にすぎず、この3語も厳密に言えば「完全一致」とは言えない。部分一致すると判断される語彙は、「新聞」「写真」「運動会」「図書」「獣医」の5語なので、残りの11語が完全不一致の語彙になるわけである。このように、『新名辞字典』と『砂漠、わがふるさと』の語彙を比較するかぎり、「満州国」側と「蒙疆政府」側のモンゴル語近代語彙は共通点よりもむしろ相違点が多いと言える。しかし、見逃してはいけないことは、「満州国」内においても、「蒙疆政府」側においても、組織的に審議され、公表された近代語彙自体がその地域内において普及していたとは限らず、近代語彙の使い方には著しい個人差があったことである。


第三部 モンゴル語近代語彙統一の時代

 第八章、第九章からなる。


第八章 モンゴル語定期刊行物の統合と民族の言語的統一

 1945年8月以降は、ソ連軍の対日宣戦により「満州国」が解体し、東モンゴルの政治的情勢は、「満州国」時代も潜在していたと言われる「内蒙古人民革命党」により掌握されるようになった。したがって、この時期のモンゴル語定期刊行物も初期のものに内蒙古人民革命党筋の刊行物が多かった。しかし、1946年5月に内蒙古人民革命青年団東蒙中央により王爺廟で創刊されたOlan tUmen(群衆)という新聞は、その二か月後の7月に発行機関が変更し、内蒙古自治運動連合会東蒙総分会から発行されるようになったことに象徴されるように、その後の東モンゴルでのモンゴル語定期刊行物はそのほとんどが内蒙古自治運動連合会筋のものになっている。

 このように、「満州国」支配下にあった東モンゴルの政治的情勢も日本敗戦後、8ヶ月後の「四三会議」によって大きく転回するようになったのである。それは1946年3 月30日から同年4 月2 日まで、現在の河北省の承徳市で行われた内モンゴル東部と西部の自治運動統一会議において、4月3日に「内蒙古自治運動統一会議主要決議」が採択されたからである。これにより、それまでの内モンゴルにおける分断情況に終止符が打たれ、それまでの東蒙古人民自治政府が、中国共産党の指導による内蒙古自治運動連合会側に統一したのである。これが言語に与えた影響は、定期刊行物が中国共産党の機関誌として単純化していくにつれて発行部数が急増し、それにより内モンゴルの東部と西部が同一のメディアで結ばれたことである。

 本章ではこうしたイデオロギーによるモンゴル語定期刊行物の統合を以下の順で考察した。

  1、政治的過度期のモンゴル語定期刊行物
  2、内蒙古自治運動連合会モンゴル語定期刊行物の登場
  3、モンゴル語定期刊行物の「機関紙」化

 その次は、日本敗戦とソ連軍の満州への進攻による東部モンゴルでのモンゴル人民共和国の言語的影響について以下の順で考察した。
  1、ソ連軍主導のモンゴル語新聞とモンゴル人民共和国の宣伝
  2、モンゴル人民共和国近代文化の導入
  3、漢語直訳近代語彙の淘汰とモンゴル人民共和国新語の普及

 今世紀初期、漢語の直訳を介してモンゴル語に入ってきた夥しい近代語彙は、外モンゴルにおいては、1911年の独立をきっかけにロシアで教育を受けたジャムツァラ-ノなどのブリヤート人知識人たちによって発行されたモンゴル語刊行物などにより徐々に改善された。1921年のモンゴル社会主義革命以降は、ソ連から政治的、文化的影響を直接受けるようになったため、ロシア語を介しての近代語彙が急増した。しかし、内モンゴル側においては、清朝に次ぐ支配者側の中華民国も日本も漢字文化圏の国であることに変わりなかったので、中国語と日本語を介して作られた内モンゴル側のモンゴル語近代語彙は一貫して漢語直訳型であった。長期にわたり漢語の強い影響を受けてきた内モンゴル側のモンゴル人にとってモンゴル人民共和国の新しい用語は当初理解されないことは当然であった。そのためにそのころのモンゴル語定期刊行物は記事の中で所々新語について説明を加え、括弧の中に漢語を入れての解釈をしなければならなかった。定期刊行物によっては非定期的に「新語欄」を設けるばあいも珍しくなかったが、「満州国」や「蒙疆政府」、あるいは、国民政府側のばあいのように、新語に番号を付けて体系的に新語の発表を行ったことは1950年までのどの定期刊行物からも確認されなかった。

 しかし、1949年10月中華人民共和国建国以降は中国語からの翻訳出版物も急増するにつれて、名詞術語の翻訳問題もだんだん提起されるようになってきたが、1953年5月に「内蒙古蒙古語文研究会」が発足され、同研究会の目前の任務としてあげられた七つの項目の中で、一番先に「術語の統一と辞書編纂」をあげていた。

 その後間もなく、内蒙古蒙古語文研究会よって編纂された「漢蒙簡略辞典」の完成が発表され、1955年に内蒙古人民出版社から出版された。この辞典は中国語の見出し語16000語を含む事実上の「漢蒙近代語彙辞典」であった。しかし、この辞典の序文にも書いてあるように、この辞典に収められたモンゴル語語彙は実際は中国語辞典の訳語ではなく、それまでのモンゴル語定期刊行物に登場した新語を収録したもので、むしろ中国語の語彙の方がモンゴル語に与えられたものであった。これはそれまでに中国側で発行されたモンゴル語近代語彙集の作り方とは異なるものであり、一貫して漢字の字訳や漢語の直訳に依存してきた中国領内のモンゴル語近代語彙が始めて漢語の影響から抜け出したことを意味するものであったが、漢語の影響を完全に排除したということではない。

 このように、内モンゴルの東西統一後の近代語彙の統一は、それまでの新京を拠点とする東部の日本語訳を主とするものでもなければ、南京を拠点とする西部の中国語訳を主とするものでもなく、実際は、第三者の北部のロシア語訳を主とするモンゴル人民共和国側に統一したことになる。それは東部モンゴルの支配者であった日本も、西部モンゴルの支配者であった国民党政権もともに敗者であったからである。逆にモンゴル人民共和国の文化的影響を受けることができたのは、東西統一後の内モンゴルが目指した政治的目標及び当時の内モンゴルを取り巻く国際情勢がそれを可能にしたものと言える。1950年代以降は、中ソ「蜜月」の時代が到来したために、その傘の下で内モンゴルがモンゴル人民共和国の文化的影響を更に受けやすくなり、その状態が1950年代の末期まで続いた。その十年間は内モンゴルが文化的に目覚ましい発展を遂げた時代でもあったので、モンゴル語の術語体系も充実し、内モンゴル側のモンゴル語は近代的民族語として自立する第一歩を踏み出したのである。


第九章 定期刊行物名称の変遷プロセスにみるモンゴル語近代語彙形成パターン

  モンゴル語の近代語彙は、近代化の産物である定期刊行物の登場と発展を共にしてきたと言っても過言ではない。本章では第八章まで考察してきた中国領内のモンゴル語近代語彙形成について、定期刊行物を場に変遷を見せてきた数多くのモンゴル語近代語彙の中から定期刊行物を意味する用語に焦点を絞り、具体的な用語の変遷のプロセスを考察していくことにした。

 内モンゴルでは古いモンゴル語定期刊行物の名称を中国語の資料からモンゴル語に復元する際に、中国語で「~報」と書いてあればそれを現在のモンゴル語の知識で ~ soninと訳してしまうことがしばしば見られる。しかし、内モンゴルにおいて soninが「報」の意味で用いられるようになるのは戦後のことである。いうまでもなく、それはモンゴル語のオリジナルの資料が利用できないために生じる問題である。

 本論で論じられた定期刊行物を意味する主なモンゴル語は、その登場順により、bodurul,sedgUl,darumal,soninであるが、これらの名称が各時代の各政治勢力側において用いられた具体的なデーター及び古いモンゴル語定期刊行物名称の分類については「付録 一」と「付録 二」を付した。

 定期刊行物を意味するモンゴル語は、清朝末期はbodurulの一語のみだったが、中華民国になってからsedgUl、さらにdarumalという語が登場した。sedgUlは中国語の「報」と同様、「新聞」と「雑誌」両方の意味で用いられ、当時のモンゴル語には日本語の「新聞」と「雑誌」の区別はなかった。この点は中国語と同じであった。しかし、「満州国」時代はモンゴル語でも「新聞」と「雑誌」の概念を区別するようになり、「雑誌」をeldeb bicimelとも言っていたが、日本語の影響であった。「蒙疆政府」でも「新聞」をsonin sedgUlと言うことがあった。darumalは中国語「刊」の訳語として登場し、常に「雑誌」の場合に用いられた。一方、soninは最初sonin bicig という形で使われることがあったのは外モンゴル語を通してのボリヤードモンゴルからの影響であろう。しかし、1945年以降はモンゴル人民共和国の影響により、定期刊行物を意味するこれらの語彙も整理され、モンゴル人民共和国の場合のように、sedgUlは「雑誌」のみを指し、darumalは基本的に淘汰し、「新聞」はsoninだけで表わされるようになった。

 ここに観察される結果は、第八章まで見てきた中国領内におけるモンゴル語近代語彙の全般的な情況と酷似している。すなわち、中国領内におけるモンゴル語近代語彙は清朝末期に、漢語からの直訳か、または単純なモンゴル語基本語彙により発生し、中華民国、特に「満州国」時代以降は多元化し、1945年8月の日本敗戦以降はそれまでの多元的な形成による近代語彙が主としてモンゴル人民共和国側のモンゴル語に統一するような形で整理されていくというパターンである。

 今世紀前半の内モンゴルの政治的情勢によりモンゴル語がおかれてきた全体の状況から見て、ここに観察されるパターンは、定期刊行物を意味する近代語彙のみならず、内モンゴルを中心とする中国領内のモンゴル語近代語彙一般に見られる共通のパターンであると考えられる。そういう意味で本章の対象である定期刊行物を意味する語彙は内モンゴル側のモンゴル語近代語彙の形成過程にみられる典型的な例である認められるものである。


むすび

 中国領内におけるモンゴル語近代語彙は、中国領内で発行されたモンゴル語定期刊行物と発展をともしてきた。その発展段階により、中国領内のモンゴル語近代語彙を、登場の時代、多元的形成の時代、統一の時代と三つの時代に分類することができる。西洋の近代的概念や用語のモンゴル語への導入という意味では、清朝末期がその登場の時代にあたり、モンゴル語近代語彙はその後も時代とともに絶え間なく続出してきた。

 今世紀初期、主として漢語の直訳を介してモンゴル語に入ってきた夥しい近代語彙は、外モンゴルにおいては、1911年の独立宣言以降、独自のモンゴル語定期刊行物が発行されるようになってから徐々に改善された。さらに、外モンゴルでは1921年のモンゴル社会主義革命以降は、ソ連から政治的、文化的影響を直接受けるようになったため、ロシア語を介しての近代語彙が急増し、漢語の影響を受けなくなった。しかし、内モンゴルでは、中華民国という共和制の近代国家が登場するにつれて発生した新しい時代の近代語彙を翻訳して受け入れることにより、さらに漢語の影響を強く受けるようになった。1932年の「満州国」建国以降、内モンゴル側は西部一帯を除き、ほぼ全土において日本語の強い影響を受けるようになった。近代語彙のレベルにおいて日本語は漢字語が多いので、この場合「日本語の影響」とは事実上、前者と同様に漢語の影響を指すものである。そのころ、中国領内のモンゴル語近代語彙は多元的な形成段階に入り、中国語の漢語からの翻訳借用と日本語の漢語からの翻訳借用による新語の導入を各政権のもとでほぼ同時に行っていた。当然ながらそれは異なる効果を生み出し、中国領内のモンゴル語近代語彙の発展は全体において大きな混乱の時期にあった。しかし、1945年8月の日本敗戦とその後の国民政府の中国大陸での敗北により、内モンゴルはモンゴル人民共和国からの文化的影響を受けられる時代を迎えるようになった。そのため、中国領内のモンゴル語近代語彙は、漢語直訳の一筋道に終止符を付け、発展の新しい時代を迎えるようになった。しかし、それはその後中国領内のモンゴル語近代語彙が漢語の影響受けなくなったことを意味するものではない。

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