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博士論文要旨

論文題目:心的事実と社会的事実の形而上学 -クオリアと道徳の相対主義的実在論の試み-
著者:水本 正晴 (MIZUMOTO, Masaharu)
博士号取得年月日:2004年11月17日

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本論は、形而上学の再構築を目指す。特にそれは、クオリアや道徳の事実を実在論的に説明できる形而上学へ向けた再構築である。
 今日心の哲学の中で「クオリア」を巡る問題が盛んに論じられている。だが、それが難問として持ち上がってくるのは、現代哲学における広く共有されている物理主義的前提ゆえであると著者は考える。このことを第一部において、現代心の哲学に則してより詳しく見ていく。そこで「心とは何か」という主題を様々な観点から見ていくことを通して、心の科学一般の中で心の哲学の他の諸科学にない問題関心とは、まさに形而上学的関心なのだということが論じられる。さらにそこでの心の概念的分析によって、心が脳に局在するのではないということ、それゆえ心的事実は(歴史をも含む)脳の外の取り囲みに依存する社会的事実として捉えられる、ということが示される。だがそのような心的事実の中でも、例えばクオリアを伴う心的状態(「彼は(私は)頭が痛い」)についての事実は共有できても、クオリアそのものは共有できない以上、クオリアだけは何か「主観的」なものであり、社会的事実には還元できないように思われる。それどころか、物理主義の観点から見れば、クオリアについての事実がもしあるならば、それは物理的事実以上の何かであるように思われ、結局物理主義は偽であるとするか、あるいはそのような事実は錯覚のようなものであり、本当は存在しないとするか、という二者択一を迫られるように思われる。実際筆者は物理主義は正しくないと考える。しかしながら、それはクオリアに関する事実ゆえにそう考えるのではなく、それがそもそも神秘となるような形而上学的枠組みそのものが間違っていると考えるからである。そしてまさに本論は、それゆえ、そのような物理主義に代わる独自の形而上学の構築を目指すのである。
 ここで筆者は諸科学の理論を「認識能力」の一種と捉えることによって、諸科学が階層を成す、という物理主義(より一般に科学主義)が前提する「層化された世界」の描像を説明する。それによれば、諸層間の還元の関係は、認識的問題であり、還元の可能性/不可能性から形而上学的帰結は導けない、とされる。これによってクオリアの事実も、人間(や他の動物)に自然に備わった認識能力によって身体や環境(のあり方)が認識されるその仕方についての事実、として他の認識能力によって捉えられる事実と同様、自然に世界の中に位置づけられるように思われる。
 だが問題は、そのように言えるためにはそもそもその「認識能力」が正しいものである、という前提が必要であることである。我々はここで、認識能力が正しいことを言うために、まず認識されるものが事実としてある、ということを主張することはできない。認識されているものの実在性が問われている以上、それは論点先取であるからである。しかしでは、我々はいかにしてこの認識能力を正当化することができるのだろうか。
 第二部において、我々はこの問題に答えるために、伝統的懐疑論を考察し、それにより我々がいかなる時に「知っている」と言えるかを、世界の側の事実を前提することなしに説明する理論を与えることを試みる。そして形而上学的概念である「事実」を、そこで定義された知識によって、「知られたもの」として捉えることにより、「内在主義的」と呼べる形而上学を提示する。そこではクオリアの事実も、心的事実一般が還元されるところの社会的事実も、知られうる限りにおいて物理的事実と何ら劣らない実在性を認めることができる。問題は、それが内在主義的理論であるため、世界の諸事実の実在性は、我々の信念の「収束」に依存しているように思われることである。
 社会的事実は規範的事実であると言えるが、規範的事実をこのように信念の収束を手がかりに実在論的に擁護しようとするのが道徳実在論であると言える。そこで筆者は、すでに与えた知識の定義を助けに、今度はウィトゲンシュタイン解釈に基づく「アスペクト」という概念を用いて道徳実在論を再構成する。これは主に知覚的なモデルに依存するが、それゆえ(直接)実在論的なものであると言え、またこれを非知覚的な信念に一般化したものとして先の知識の分析を捉えなおすことにより、内在主義と実在論を繋げることができる。
 第三部は、第一部の心の分析の形而上学的帰結と第二部の知識の分析の形而上学的帰結とを「中心を持つ世界」という概念で総合することを目指す。
 第二部までで論じられた内在的実在論は、道徳実在論やクオリアの事実を論じる文脈では説得力があるとしても、「世界全体」についての形而上学の体系としては不完全なものである。中心を持つ世界という概念が持ち出されるのはこのためであるが、このような概念に基づく形而上学は、相対主義的なものにならざるを得ず、それを実在論的なものと考えるのは困難であるように思われる。そのためには特に、視点相対性(ある人にとっては存在し、別の人にとっては存在しない)と文脈相対性(ある文脈においては存在するのに、文脈が変われば存在すると言えなくなる)という、二つの相対性を克服する必要がある。両者ともよく知られた事実であるが、それは普通「見え」の問題として主観主義的に説明される。著者は、それに対し、これらを実在論的に説明する形而上学、すなわち相対主義的実在論と呼ぶべきものを提案する。クオリアの事実や道徳の事実はここで初めて「中心を持つ世界の事実」として、自然な仕方で実在的に捉えられることになる。
 このようにして、相対化され、かつ全体論化された形而上学は、世界のダイナミックな変化に対しても、ニヒリズムに陥って反実在論に屈しないための防波堤の役割を果たすことであろう。
 以下、章ごとに解説を加える。
第1章(「心を巡って」)では、第一部の「心とは何か」という考察の出発点として、「心」についての歴史的、概念的整理を行う。まず現代哲学の起源を19世紀後半のドイツ哲学界における「反心理主義」という運動に求め、同時期に成立した科学的心理学との微妙な関係を素描する。そしてその後の重要概念となる「意識」と「志向性」によって「心」を概念的に分析する。
第2章(「工学的観点から」)は、心をコンピュータ、人工知能といった工学的研究の文脈に位置づけ、そこに前提されている「機械としての心」という捉え方についての楽観的見解と悲観的見解、さらにそのあるべきモデルとしての記号操作主義とコネクショニズムの対立を描き出す。
第3章(「形而上学的観点から」)は、心の哲学が「自然主義」という考えの復権によって再び形而上学的問題を正面から論じるようになった経緯を解説し、現代の心の哲学において広く共有されたテーゼとなっている物理主義について、その様々なヴァリエーションを20世紀における展開に則して見た後、様々な反物理主義の立場と、それを指示するいくつかの有名な議論を紹介する。
第4章(「民間心理学的観点から」)では、心を「理論」として捉える見方を紹介する。その代表的な考えによれば、我々の日常的な心と心についての語り方は「理論」を構成し、しかも多くの点で「間違った」理論である。それゆえそこから消去主義という形而上学的見解が引き出されることになる。だがここには心的なものが「内的」なものである、という前提があることが確認される。
第5章(「社会的観点から」)は、前章の「心は内的なものである」という前提に対し、現代分析哲学の諸議論は、それに対する疑いを提供していることを見ていく。そしてそれらが心的事実はむしろ「社会的事実」であるということを示唆しているということを確認し、それを踏まえて改めて現代の「心」についての科学としての認知科学はいかなる科学であると考えられるのか、またそこにおける哲学の地位と役割とはどのようなものか、について考察する。
第6章(「クオリアの実在性」)では、一見社会的事実には還元できないように見える心の要素としてクオリアに注目し、それがいかにして神秘とならずに世界の中に位置づけられるかについて考察し、それを可能にする形而上学とはいかなるものか、を「認識能力」という概念によって素描する。
第7章(「懐疑論への形而上学的回答?」)は、第一部の終わりで見た「認識能力」という概念への訴えが正当なものとなるためには懐疑論との対決が不可避であると論じることから始める。それに対する解答をもって認識論と密接に結びついた形而上学を「内在的実在論」として展開することを目指すのが第二部であるが、この章ではデーヴィッド・チャルマーズによる懐疑論への解答を検討することから始める。そして最終的には、彼の議論は世界の存在についての懐疑に対しては有効であるが、「我々は世界についてほとんど何も知らない」といった知識についての伝統的懐疑に対しては解決となるか疑わしいということが示される。
第8章(「知識と真理と単調性」)は、前章の議論を受けて、懐疑に陥らない知識の分析を、「他の真理に対し単調な信念」として提案し、さらにそれが通常の知識の分析が直面するゲティアー問題をうまく解決することが示される。この知識概念はまた、個人の知識を超えて集団(「我々」)の知識へも適用され、それに基づいて規範や慣習についての知識が説明されると共に、そこから「知られるもの」としてのそれらの規範や慣習の事実の実在性を擁護する道が示唆される。だがそれは、知識概念が信念の単調性によって定義されている以上、実在をそれについての信念の収束によって説明する立場と似たものとなる。
第9章(「道徳的実在論と規則遵守問題」)は、前章で残された問題として、単なる信念の収束に終わらない道徳の、そして規範や慣習一般の事実、すなわち「我々」の世界の事実をいかに擁護するか、について考察する。そこではまず、道徳実在論に対する脅威として規則遵守問題を取り上げ、それに対抗する議論がどのようなものとなるか、そしてウィトゲンシュタイン自身はそれをどう考えていたのかを概観し、そこから「アスペクト」という概念に基づくより実在論的な知識と事実についての理論を取り出す。
第10章(「二次元様相論理と中心を持つ世界」)は、前章のアスペクト概念に対する懐疑を真面目に受け止め、それを「中心を持つ世界」という概念へと拡張、一般化し、それに基づく道徳意味論を二次元様相論理の意味論を用いて展開し、そのような概念によって道徳的事実がいかに実在論的なものとして解釈されうるかを示す。
第11章(「スピノザ的存在論」)からは、第三部として、これまでの議論に基づきいよいよ形而上学を体系的に構築することになる。前章で見た「中心を持つ世界」を実在的に捉える立場は、存在が視点相対的なものとなること、文脈相対的なものとなること、という二つの相対性が問題となる。まずこの章では、前者の視点相対性を、世界そのものが様々なアスペクトを持ち、それらが同等に実在的である、というスピノザ的存在論と呼ばれるべきものを展開する。それによれば、事実というものは常に誰か「にとって」の事実であるが、それでもなおそのような事実は正当に実在すると言えるものであるとされる。そのために必要な客観的「誤り」の事実は、時間についてのダイナミックな捉え方によって可能となることが示される。
第12章(「全体論的存在論」)は、まず1)世界は存在する、2)ビッグバン以降存在論的追加はあった、3)進化論は(神に訴えずに)存在論的追加を説明する理論である、といったテーゼにより、ここまで見てきた心的事実の存在を進化論的観点から自然に説明し、逆に物理主義というものは本来存在論的問いには無力な方法論的テーゼなのであると論じる。そしてこれまで前提されてきた「事実」という概念に基づく存在論が正当化されると共に、「選言的事実」の存在を擁護し、それが世界を単なる事実の集合論的集まりでない、全体論的ネットワークとして一つに統一し、我々が経験する世界のダイナミズムをも説明するのだと論じられる。

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