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博士論文要旨

論文題目:中国国民政府統治区における農村建設の研究 -郷村建設運動及び国民政府の土地政策を中心に-
著者:山本 真 (YAMAMOTO, Makoto)
博士号取得年月日:2004年10月13日

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1,本論文の構成

序 章 問題の所在と本稿の構成

第1部  中国国民政府統治区における「郷村建設運動」
第1章  1930年代前半、中華平民教育促進会と河北省定県における県政改革の実験
第2章  「郷村建設運動」諸団体の組織化とその挫折―郷村工作討論会と華北農村建設協進会を中心に―
第3章  日中戦争初期、郷村基層建設と民衆動員
―中華平民教育促進会の湖南省における活動を中心に-
第4章  日中戦争初期、四川省における県政改革と郷村基層建設
第5章― 新都実験県に対する一考察―
     日中戦争中期から戦後内戦期にかけての「郷村建設運動」
―中華平民教育促進会郷村建設学院を中心として―
     
第2部  国民政府土地行政官僚による土地政策と「自作農創設」
第6章  日中戦争期から戦後内戦期にかけての国民政府の土地行政
      -地籍整理・人員・機構-
第7章  日中戦争時期、四川省北碚における「自作農創設」の実験
第8章  共産党旧?西革命根拠地の回復と土地問題の処理―福建省龍巖県の事例
第9章  日中戦争時期、西北地区における水利灌漑建設と「自作農創設」
―甘粛省湟恵渠灌漑区の事例を中心にして―
 第10章  戦後内戦期、全国的土地改革の試みとその挫折
―1948年の「農地改革法草案」をめぐる一考察―

第3部  中国農村復興聯合委員会による農村建設
第11章  中国農村復興聯合委員会の成立とその農村建設(1948-1949)
―中華平民教育促進会華西実験区への援助を中心として
第12章  戦後内戦期、中国農村復興聯合委員会と西南軍政長官公署による「二五減租」政策―四川省の事例を中心にして―
第13章  戦後内戦期、中国農村復興聯合委員会と華中軍政長官公署による広西省「減租・限田」政策
終章
 
 附録資料1 元中国地政研究所所長兼中国土地改革協会理事長李鴻毅氏訪問記録
附録資料2 元龍巖土地改革実験県長林詩旦氏訪問記録
文献目録

2,本論文の課題と問題意識

「五四運動」期以降、民衆啓蒙を通じた基層からの“国民の創出”・“国民統合”は中国における近代国家建設の必須用件と考えられることとなった。そうしたなか、民衆啓蒙の手段として識字教育・平民教育が提唱された。都市部から着手されたこれら教育運動は、その後中国人口の大半が居住する農村部に拡大されることとなった。さらに、1920年代末から30年代前半にかけて、中国農村の荒廃の危機が喧伝されると、農村教育運動は、経済の振興・行政制度改革を含んだ“総合的な農村建設”である「郷村建設運動」へと進展していったのである。
一方、中国の政治的“国家統合”は、中国国民党と中国共産党による国共合作を契機として、新たな展開を見せ、1920年代後半、南京国民政府は長らく渇望されてきた中国の統一に成功した。しかし、中央政府とはいえ、南京政府は成立当初においては、江南地区を実効統治したに過ぎず、地方への権力の浸透は希薄なものに止まっていた。地方派閥の割拠、そして清代以来綿々と引き継がれた伝統的政治・社会構造(紳士と宗族による地主的土地所有と地域社会に対する支配、そして紳士と胥吏による地方行政の請負)は、依然として旧態のままに存続していた。国民政府が名実ともに中央政府として、基層社会にまで権力を浸透させ、“国家統合”・“国民統合”を実現するためには、未だ多くの障碍が残されていたのである。さらに、30年代初頭においては、自然災害や世界恐慌の影響を受けた中国農村は深刻な危機に陥入っており、農村における社会不安の深刻化は国民政府の仇敵である中国共産党に活動の機会を与えることとなった。それゆえ、国民政府が“国家統合”・“国民統合”を推進し、基層社会に統治を浸透させるために、農業・農村問題は何としても解決しなければならない喫緊の課題であったのである。
 このように、1920~1930年代における中国の政治的課題は“国家統合”・“国民統合”・“基層への統治の浸透”であり、経済上の重要課題の一つは農業経済の振興であったと著者は考える。以上の認識に則り、本稿では1930~40年代に実施された中華平民教育促進会による「郷村建設運動」及び、国民政府土地行政官僚による土地政策、とりわけ「農地改革」に対する実証分析を行った。こうした作業を通じて、当該時期の中国国民政府統治区において推進された“国家統合”・“国民統合”・“基層への統治の浸透”の実態を解明することが本論文の目的である。

3,本論文各章における考察の内容

第1章、第2章、第3章、第4章、第5章では「郷村建設運動」の活動を中華平民教進
会を中心に検討した。

(1)「郷村建設運動」と国民政府による農村建設の関係
1920年代後半から30年代初頭(軍閥時期末期から国民政府成立初期)にかけて、政治的混乱により中央政府による農村建設の推進がほとんど期待できない中で、農村問題に関心を寄せる知識人は、民間社会団体や教育機関に拠り、農村建設の実践活動を開始した。これら団体・機関により実施された農村建設は、総じて「郷村建設運動」と呼ばれた。
1920年代の後半から開始された「郷村建設運動」は、1930年代初頭にはそれぞれの実験区において初歩的成果を収めつつあった。これに対し、同時期ようやく中央政府としての実力を蓄えつつあった南京国民政府も、「郷村建設運動」に注目し、これら団体を政権内部に取り込むことにより、自らの農村行政の脆弱性を補強することを試みた。当時中国では、長江の洪水、世界恐慌の波及などが重なり、農村復興政策の実施は、愁眉の課題となっていた。また、深化する日本の侵略に対抗するためには、農村末端からの国家統合を推進し、強力な中央集権体制を構築することが喫緊の課題であった。しかし、政権党である国民党が、国民革命末期の国共分裂の過程において、従来農村基層工作を担当していた共産党員や左派党員をパージしたこともあり、国民政府内部における農村工作の実務人員の欠乏は深刻であった。そこで国民政府は、農業や土地行政に関するテクノクラートを中央政治学校地政学院や中央大学農学院などで独自に養成する一方で、1920年代後半から農村建設に取り組んでいた「郷村建設運動」の諸団体と協力関係を構築することにより、深刻化する農村問題に対処することを試みたのである。
序章で指摘したように、近年の「郷村建設運動」に対する先行研究では、“国民政府から距離をおいた自律的活動”という側面が、再評価の対象とされてきた。これは国民政府を反動的と規定しつつ、共産党以外の勢力の動向に注意を払う「第三勢力」(民主党派)研究の視角に基づく再評価であったといえよう。しかし、国民政府による国家建設に対しての評価が一新した今日の研究水準に照らした場合、こうした評価基準が不十分なものであることは明らかであろう。もちろん、すべての民間団体が南京国民政府と協力体制を構築し農村建設を推進した訳ではない。しかし、第2章で考察したように、中華平民教育促進会や山東郷村建設研究院のような「郷村建設運動」を代表する団体が、政府の委託の下、実験県を運営し、またその他相当数の民間団体・教育機関が、政府行政機構との密接な関係の下で「郷村建設運動」を推進したことに、1930年代前半の「郷村建設運動」、そして国民政府の農村政策の特徴が見出せると著者は考える。
そこで、本稿第1章、第3章、第4章、第5章では、「郷村建設運動」に携わった諸団体の中でも一貫して指導的役割を果してきた中華平民教育促進会の動向を事例として、同会が国民政府による農村行政の一翼を担い、県行政制度の刷新や民衆の組織化、農村経済の改進に努めたことに着目し、その活動に対して具体的な考察を加えた。

(2)「郷村建設運動」と地域社会との関係
 1920年代後半に始まり、1930年代半ばに最盛期を迎えた「郷村建設運動」の特徴は、当該時期に全中国的政治課題として認識されていた“国家・国民の統合”、“ナショナリズムの発揚”、“地方行政制度の改革”、“農村経済の復興”などが、鋭くその農村建設に反映されていた点に認められよう。すなわち、「郷村建設運動」の目的は、特定地域の個別的振興ではなく、模範区における実験を通じて、全中国的に適応可能な農村建設のモデルを創出することにあったといえる。こうした“国家優先主義”或いは“上から下への視点”は、同じく地域社会の改進運動でありながら、地域社会の特殊性に根ざし、在地エリート層により地域の振興が試みられた清末民初期の地方自治運動とは、その目的と在り方を大きく異にするものであった。
 しかし、外部人員による“上から下への視点”に基づく改革は、地域社会の伝統的社会構造・秩序観念との間に強い摩擦を惹き起こす危険性を内包していた。第1章で検討した定県の事例に則して言えば、中華平民教育促進会は事業展開の当初、民国初期に盛んであった地方振興運動の指導勢力である米氏一族の協力を取り付けることで、その平民教育事業を軌道に乗せることに成功した。また、合作社の設立と農事改良・普及などの農村経済の振興において一定の成果を上げたことも事実である。しかし、中華平民教育促進会が実験県政府を委託され、県政府の政府権力を基層社会まで浸透させることを試みるや否や、反対派紳士層からの強い抵抗に直面することとなった。また、戦時体制の構築を企図し、徴兵制度の確立を試みた四川省新都県では、実験県政府の転覆を試みる地方勢力による武装攻撃を受けたのである。
このように、中華平民教育促進会が実施した改革は、当該地域社会の伝統的構造に変革をせまった段階で強い反発と抵抗を惹き起こすこととなった。そして、こうした反発は、単に地方紳士の既得権益に抵触したというだけではなく、清代以来綿々と引き継がれてきた統治構造である紳士と胥吏による地方行政の“請負体制”を打破し、実験県の政府権力を直接基層社会に浸透させることへの抵抗であったと考えられる。中華平民教育促進会が試みた、“国民国家中国”を支える下部構造としての農村社会の建設という理念と、現実の農村社会の在り方との間には、容易に乗り越えられないギャップが存在したのである。

(3)国民政府の土地行政官僚とその土地政策
以上のように「郷村建設運動」諸団体は1930年代前半の国民政府の農政において極めて重要な役割を果したといえる。ただし、国民政府の農村政策のなかで、民間社会団体が主体的に関与することが困難な領域が厳然として存在したことも事実である。それが土地政策、なかんずく小作料減額措置や「自作農創設」を含む「農地改革」であった。その実施は、伝統的な土地支配を権力の源泉とする地方有力者層との摩擦を不可避とし、たとえ実験県の運営を任されていたとしても、強制力としての軍事力をもたない「郷村建設運動」諸団体にとって対処不能な事態を惹起する恐れが存在した。それゆえ、「郷村建設運動」側は、中央政府の権力による土地問題の解決を期待するしかなかったといえる。それでは国民政府成立以降、政権内部で養成された土地行政の専門官僚は当時中国が直面していた土地問題をいかに認識し、どのような解決策を打ち出したのであろうか。本論文第6章、第7章、第8章、第9章、第10章では国民政府土地行政官僚による土地政策の実態を検討した。

(a)国民政府土地行政の理念
国民政府の土地行政の理念については第6章で検討した。国民政府の土地行政理念の起源は、孫文の提唱した「平均地権」や「耕者有其田」(「自作農創設」)に求められるが、具体的には1930年に公布された「土地法」に基礎を置いた。同法は従来の土地に対する重層的権利関係を整理し、権利の一元化、そして私的土地所有権の法の下での原則的保護(ただし、公共の利益のためには土地の私的所有権が制限される)を旨とした。これは所謂「近代的土地所有制度」の中国への導入の試みであったといえる。さらに、こうした土地制度は、土地測量と所有権登記による「地籍制度」を骨幹として成り立っていたが、これは同時に地籍図と登記簿の公開により、土地売買の潤滑な進展を保障する資本主義の発展に適合的な土地制度でもあった。

(b)土地行政官僚
国民政府は、自前の土地行政専門家を養成するために、国民党の高級幹部学校である中央政治学校に地政学院(大学院修士課程に相当)を設置し、高級技術官僚を養成した。また、地政学院の教官を中心とした専門家層は、蕭錚を指導者として1933年に中国地政学会を設立し、同学会における議論を通じて実質的な政策提言を行った。当時中国を襲った世界恐慌の影響により、農村の疲弊が喧伝されるなか、中国地政学会は1936年の第3回大会で「租佃問題(小作問題)」を、1937年の第4回大会では「いかにして耕者有其田を実現するのか」を討論し、土地問題の解決を真剣に模索した。土地行政官僚の建議は、彼らが属した国民党内CC派の政治力を背景に、政府の土地政策の中に取り入れられることとなり、日中戦争時期には、各地の実験区で「自作農創設」が実施されるに至った。その後、土地行政官僚は戦後内戦期には中国地政学会を社会団体としての中国土地改革協会に拡大改組し、共産党に対抗するための「農地改革」の必要性を訴えた。中国土地改革協会の原案を基にした「農地改革法草案」は、1948年秋の立法院で審議未了廃案とされたものの、土地行政官僚は同時期に成立した中国農村復興聯合委員会に参加し、四川省や広西省での「農地改革」を実施したのである。なお、国民政府の台湾への撤退には、土地行政官僚の多くもそれに従い、引き続き台湾における「農地改革」に貢献することとなった。

(c)戦時期から内戦前期までの実験的「自作農創設」
1941年に国民党第5期中央執行委員会第9回全体会議を通過した、「土地政策戦時実施綱要」を受けて、「自作農創設」が実験区において実施されることとなった。日中戦争時期における実験区での「自作農創設」は、①まず地籍整理を行い、政府が土地所有の実情を把握した上で、厳密な執行手続きを踏み実施された、②「自作農創設」と共に生産力の向上に関する措置が併せて実施されるなど、経済政策としての側面が重視された、③地主からの土地徴収に際して、中国農民銀行からの貸付(現金と土地債券)により、対価を補償するという穏健な方法が採用された点にある。戦時期の重点3実験区での具体的な実施状況は第7章、第8章、第9章で検討した。その成果は、四川省北碚実験区(1942-1943年 )では、自作戸の創設80戸、実施面積1,428 市畝、福建省龍巖実験県(1942-1947 年)では、自作戸の創設3万2,276戸、実施面積26万7,399 市畝、甘粛省湟恵渠実験区(1942-1945年 )では、自作戸の創設844 戸、実施面積2万3,087市畝であり、1948年秋までの「自作農創設」の成果は、全国で約117万6,000市畝、4万8,300戸の自作農が創設された。
このように、戦後内戦期前期までの「自作農創設」は、地権の集中が深刻と認定された地区、水利灌漑区のように地権の急速な集中が予想された地区、もしくは共産党の旧根拠地などを選定して、それぞれの特殊性に則したモデルの構築が目指された。しかし、国民政府が軍事的に守勢に立たされた戦後内戦期後半期には、共産党側の土地分配政策に政治的に対抗する意味で「自作農創設」の量的拡大の緊急性が強く認識されることとなった。そこで、土地行政官僚は、1948年9月に「農地改革法草案」を立法院に提出し、全国規模での「農地改革」の実施を訴えたのである。しかし、同法案自体は第10章で検討したように、保守派の抵抗、立法院内部における派閥対立という障碍に直面し、審議未了廃案に追い込まれてしまった。
以上のように、1947年から48年にかけて「農地改革」は、共産党と対抗するためには必須の措置と認識され、日中戦争時期の実験区でのモデルの構築から、全国での実施へと方針が転換された。ただし、「農地改革」を大規模に実施するためには、その実施方法の簡素化、潤沢な実施資金、そして何よりも強力な政治的・軍事的支援が不可欠であった。しかし、派閥対立のため分裂状況に陥っていた国民党中央には、党・政府・軍をまとめ上げ、「農地改革」を遂行する余力は残されていなかった。その結果、弱体化した国民党中央に代わって「農地改革」を実施する任務は、アメリカの援助により設立された中国農村復興聯合委員会により担われることとなったのである。

(4)中国農村復興聯合委員会の成立とその農村復興政策
 第11章、第12章、第13章では、1948年にアメリカによる対中国経済援助に基づき「郷村建設運動」の専門人員、そして国民政府内土地・農業官僚を網羅して組織された中国農村復興聯合委員会の施策を検討した。

(a)アメリカの対中国農村援助と中国農村復興聯合委員会の成立
中国農村復興聯合委員会の設立には、1930年代以来のアメリカ社会による中国農村援助という背景があった。中華平民教育促進会は、長い間アメリカの対中国農村援助の受領窓口として重要な役割を果してきた。こうした戦前・戦中に築かれたネットワークを通じて、中華平民教育促進会の指導者晏陽初は、戦後内戦時期に対中国農村援助の必要性をアメリカ社会と政府に訴えたのである。
当初、晏陽初は中華平民教育促進会が重慶周辺に設立した華西実験区の運営資金を調達することを目的として援助を要請した。しかし、国共内戦の形勢が国民政府にとって不利なものとなるにつれて、その要請においても単に中華平民教育促進会への支援に止まらず、中国の共産化を防止するための農村復興援助としての側面が強調された。そして、晏陽初による中国農村復興事業への援助の要請は、アメリカ各会の名士の支援、またメディアによる好意的な紹介により、政界をも動かすこととなった。その結果、アメリカ議会は、1948年4月に成立した中国援助法案に農村復興条項を盛り込み、それを基礎にアメリカ政府と中国政府は、両国合作の特殊農政機関である中国農村復興聯合委員会の設立を合意した。
中国農村復興聯合委員会は1948年10月に正式に成立したが、アメリカ側委員2人と共に同委員会を指導する中国側委員には、蒋夢麟・晏陽初・沈宗瀚が就任した。彼らはいずれもアメリカで教育を受けた親米派とみなせる人物であった。そして、委員会の下には、それぞれ専門業務を担う「組」が設置されたが、そこには多くの専門技術官僚が、高級実務人員として招請された。このように戦後内戦期最末期に至り、それまで個別的行政機構において分散的に実務に携わってきた農政・土地行政の専門人員が、一つの機関に糾合され、総合的な農村復興計画が立案されることとなった。さらに、中国農村復興聯合委員会は、共産党勢力の農村基層社会への浸透を排除することを目指す各地の地方長官(西南軍政長官張群・華中軍政長官白崇禧、そして台湾省主席兼警備総司令陳誠)とそれぞれ協力関係を打ち立てた。アメリカの援助による潤沢な資金とテクノクラート層を擁した中国農村復興聯合委員会であるが、軍権を握る地方長官を後ろ盾とすることにより、初めてその政策を強力に執行することが可能となったのである。

(b) 中国農村復興聯合委員会による農村復興事業
以上の経緯を経て成立した中国農村復興聯合委員会は、「郷村建設運動」の方式による「地区総合発展計画」・農事改良・衛生・水利・「農地改革」などのプログラムを、中国大陸と台湾で同時に推進した。その中でも晏陽初が主催する中華平民教育促進会華西実験区には、100万米ドルの巨額の予算が計上され、重慶付近の第3行政督察専員区10県において農村建設が推進された。これは戦略的拠点である重慶周囲の農村の安定化を図るという意味で、極めて重要な狙いをもった措置であった。華西実験区では、織布合作社による農村経済の振興・識字教育・そして生産合作社への農民の組織化、そして合作社を通じた土地の買収による土地問題の解決、などが企図された。
その他、農業技術官僚は農事改良・普及システムの構築を図り、さらに水利行政官僚によって洞庭湖や広東省雷州半島での堤防修築工事も遂行された。しかし、1949年における中国大陸での中国農村復興聯合委員会の事業において中心的役割を果したのは、第12章と第13章において検討を行った四川省と広西省における「農地改革」であった。土地行政官僚は「自作農創設」の前提として、まず地籍整理事業を遂行するという日中戦争時期以来の方針を棚上げし、農民の不満を緩和するために即効性のある措置を導入したのである。その結果、四川省では、西南軍政長官公署との協力関係の下、「二五減租」(小作料の25%減額)および小作契約の改訂が実施された。また、広西省では華中軍政長官公署と共に「減租・限田」(小作料の減額と地主保有地の制限)が、台湾省では「三七五減租」(小作料を収穫の37.5%以下に減額する措置)が実施されることとなった。四川省と広西省における「農地改革」は初歩的成果を収めながらも、国民政府の大陸喪失により中断を余儀なくされるが、台湾における「農地改革」は、国民政府中央と共に台湾に撤退した

中国農村復興聯合委員会により継続され、国民党政権の台湾統治の安定に重要な役割を果すことととなったのである。

4,結論と今後の課題

本論文各章で検討してきたように、1930年代から40年代にかけて、中国大陸の国民政府統治区において推進された農村建設は、元来の改良主義的・穏健な性質に加え、中国農村社会に内在した伝統的社会構造の壁に阻まれ、その進捗は緩慢なものとならざるを得なかった。さらに日中戦争という極めて大きな障碍に直面することにより、その順調な進展を阻まれたのである。また、「土地法」の理念が目指した「地籍制度」・「平均地権税制」(地権の集中を防ぐ累進課税制度)の導入は、都市部に限られ、「自作農創設」の試みも特定の実験区において実施されるに止まった。「郷村建設運動」の改良主義的農村建設の方法や土地行政官僚が目指した厳密な地籍整理を前提とした「自作農創設」の方法は、広大な面積と巨大な人口を抱える中国農村の現実を考慮に入れた場合、あまりにも理念的に過ぎ且つ迂遠な方法であったといえる。そのため、当時中国が抱えていた政治的・経済的諸問題を短期間に解決することができないまま、1949年の中国革命を迎えることとなったのである。
しかし、注目すべきは大陸での農村建設の経験が、中国農村復興聯合委員会に集約されることにより、国民政府が逃げ延びた先の台湾での農政に大きな影響を与えたという事実である。中国大陸で試みられた農村建設の方向性や、そこで確立された方法論は、先に述べた理由により中国農村においては十分な効果を生むことはなかったが、日本による資本主義的開発が一定程度進展しており、また領域も適度な規模であった台湾を統治するに際しては却って適合的な側面を多く有したと考えられる。もちろん、戦後台湾における国民党政権の農村建設を論じるためには、日本統治時期にまで遡り、台湾農業及び農村社会の実態に対する実証的検討を踏まえた上で、その成果を検討しなければならないことは言うまでもない。本稿における実証研究はあくまで、中国大陸での国民政府統治区における農村建設を主要対象とするものであり、台湾での中国農村復興聯合委員会の活動については先行研究の成果に依拠し、簡潔に紹介するに止まった。それゆえ、日本植民地統治を経て社会変容を遂げた台湾において、国民党政権が農政を遂行するにあたって、大陸での農村建設の経験が、いかなる役割を果したのかという問題を、台湾での実態に則して、より具体的に分析することは今後の課題とせざるを得ない。しかし、少なくとも本稿における検討から、国民政府による大陸での農村建設の経験が、1949年を以って烏有に帰した訳ではなく、その後の台湾における農村建設のあり方に対しても、中国農村復興聯合委員会を通じて極めて大きな影響を与えたという事実を明らかにすることができたと考える。

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