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博士論文要旨

論文題目:厚生年金基金制度の形成と衰退-雇用慣行の史的展開に則して-
著者:大竹 晴佳 (OTAKE, Haruka)
博士号取得年月日:2004年7月23日

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本稿の目的は、近年急速に進められてきた企業年金をめぐる変化を踏まえ、従来の企業年金制度がどのように形成され、現在なぜ変化の途にあるのかについて考察することである。この目的の下、1965年における厚生年金法改正から2001年の企業年金二法の制定までの時期を対象に、厚生年金基金制度の展開過程を雇用慣行の史的展開に則して検討した。
これを通して考察される問題関心は、次の2点である。

 第一に、厚生年金基金制度の形成とその衰退が、戦後日本における雇用慣行の変容とどのように関連してきたのかという問題である。戦後日本の企業年金制度は確定給付型の形態をとるが、これは長期雇用と整合的な側面を強く持つものである。企業年金をめぐる近年の議論の中でも長期雇用の変容を踏まえて、確定拠出型の企業年金導入を提言するものが多い。本稿ではこうした雇用と企業年金との関連についてさらに掘り下げるために、次の点を踏まえる必要があると考える。それは厚生年金基金が前提とする雇用のあり方は、日本独自の内容を持つものであったということであり、そして雇用のあり方の変容それ自体をとってみれば、日本の雇用慣行は戦後を通して安定的に持続してきたわけではなかったということである。戦後の労働争議を経て大企業を中心に広い範囲に定着した日本的雇用慣行は、生産性の高さを発揮するように再編、効率化が重ねられ、常に変容の中にあった。この中でなぜ厚生年金基金は形成され機能してきたのか、そしてなぜ現在はその役割を終えようとしているのか、という問題について考察する。その際、労使諸アクターの意向をどのように反映し、それがどのような経済合理性を持ちながら展開してきたのかという雇用制度分析の視角も援用しながら検討を行う。

 第二に、厚生年金基金の形成と展開が、公的年金のあり方にどのようなインパクトを与えたかという問題である。企業年金改革は年金財政や労務管理における効果の観点から論じられることが多い。厚生年金基金制度は社会保険の代行機関としての機能を持たされてきたために、その展開と衰退は公的年金と密接な関連を持ち、企業内の労務管理における変容にとどまらないインパクトを持っている。2001年の確定給付企業年金法制定によって、厚生年金基金はその代行責任を返上することが認められた。これまで福祉諸制度に対して大きく関与し国家に代わってその役割を担ってきた企業は、90年代後半に入り、その役割から撤退を始めていると言ってよい。こうした変容をもたらした、制度の史的展開に内在した要因について探るためには、なぜ福祉諸制度に対する企業の関与がこのように大きかったのか、という問いから出発することが必要だと考える。本稿ではその一例として、なぜ戦後日本では企業年金が公的年金を代行するという形で両者が関連づけられてきたのか、という問題について考察を行う。

 以上の問題関心に従って、本論では時期区分ごとに4章に渡って、厚生年金基金制度と雇用慣行の関連について史的展開を論じた。
  第1章では、1950年代後半から70年代初頭における厚生年金基金制度の創設過程と高度成長期における展開を対象として、この過程で政労使のどのような意図が制度創設に反映し、企業年金は公的年金とどのようなつながりをもつものとして構築されたのかについて検討した。50年代後半には日本的雇用慣行の定着の中で、労使関係や賃金決定が企業別に括られていく一方、被用者を横断的に包摂した厚生年金の確立が厚生行政の課題として進められるという2つの動向が見られた。厚生年金基金制度の創設は、厚生年金の内部に企業別の退職年金制度を引き込み、その一部を代行させるという方式を採ることによって、これを両立しようとするものであった。

 厚生年金基金制度創設後、公的年金の給付水準は急速に改善していったが、こうした展開によって公的年金が企業による私的な退職給付の重要性を吸収するほどのものとなったとは言えない。73年改正による厚生年金へのスライド導入は、厚生年金基金の代行役割を実質的に弱め得る改正であった。しかし結果的にこのことを契機として厚生年金基金は企業年金としての性格を強め始めることになり、その後厚生年金の代行にとどまらない上積みの機能を発揮していくことになった。

 第2章では、70年代半ばに経済成長が鈍化した後から80年代初頭までを対象として、この間に大企業を中心として進められていった中高年層の処遇をめぐる労務管理の再編と、その過程で見られた企業年金の位置づけの変化について検討した。経済環境と人口構造の変化の中で、日本的雇用慣行は出向や転籍等を用いた内部労働市場型雇用調整を組み込んでいった。これによって労務構成における中高年層の過剰感を緩和させる一方で、正規労働者に対してライフサイクルに応じ、かつ生涯に渡る、家族も含めた生活保障を行うことで、企業内の統合を強めていった。企業による生活保障は、就業期のみならず、退職後にも現役時と変わらぬ生活を保障することも含むものであった。この時期には厚生年金基金制度の大きな変容はなく、むしろ基金の新設数は停滞していたが、企業年金はこの過程で福利厚生上の重要な位置を占めるようになっていく。このことは80年代における公的年金改革や厚生年金基金制度の改革を大きく方向付けていくこととなった。

 第3章では、1985年の公的年金改革と88年の厚生年金基金制度の改革を中心に、80年代における年金諸制度の変容を対象として、経済環境や労働市場、そして人口構造といった外的環境の変化に対して、日本的雇用慣行と年金諸制度との関連はどのように対応したのか、という問題について検討した。85年の公的年金改革では、拠出期間の長期化という手法によって給付抑制が行われた。また88年には厚生年金基金制度の拡充が行われ、基金の創設は総合設立という形態で小規模企業にまで広がり、新設基金数は再び上昇していった。このような給付抑制の行われ方や、厚生年金基金制度拡充の動向を見てみると、80年代に行われた諸改革は、70年代後半から続く高齢者の雇用調整や人件費抑制施策など大企業における労務管理の変容と整合している側面も強い。80年代初頭から雇用慣行を核とした「日本的経営」の変革が言われ始めると同時に、従来見られなかった非正規雇用を含む外部労働市場が形成され始め、雇用・労働市場が変容し始めた。しかしこの時期に行われた公的年金改革、厚生年金基金制度の拡充は、長期雇用が広く定着した従来型の労働市場を前提として行われたと言える。

 第4章では、90年代後半から進められていった企業年金改革の動きを跡づけ、厚生年金基金の代行返上が認められ、確定拠出年金という新たな企業年金の導入に至る流れを追った。バブル崩壊後の長期不況の中で、80年代から蓄積されてきた労働市場の変容と制度との間の齟齬がどのように顕在化していったのか、それに対する認識がどのような形で企業年金改革を後押ししていったかについて検討した。80年代に労働市場の変容が生じつつあったにもかかわらず、従来型の年金制度が維持され、厚生年金基金に関してはその役割が強化されていったことは、労働市場と年金制度との間の齟齬をもたらした。80年代末は日本経済が好調であったことからその齟齬はまだ顕在化していなかったが、90年代に入り長期不況の過程で労働力流動化が実質的な動きとなるにつれ、徐々に問題化していった。当初は制度の柔軟化によって維持が図られていた厚生年金基金制度は、財務上のメリットのみならず労務管理上のメリットも薄れると、それに代わる企業年金の形態の模索が急速に進められていった。戦後の企業年金の中核を担ってきた厚生年金基金制度は、その成立基盤となっていた長期雇用が崩れたことによって役割を終焉したと言える。

 以上、厚生年金基金制度の形成から衰退に至る過程について、雇用慣行の史的展開に則して論じてきた。厚生年金基金制度は、長期雇用を軸とする雇用慣行をその存立基盤として、形成され展開してきた。そしてその展開は、長期雇用の効率化のための労務管理再編と密接な関わりをもっていたのであった。また企業は労務管理再編を進める一方で、労働者の生涯に渡る福利厚生を充実させていき、この過程で企業年金は労務管理上の重要性を高めていった。このことは労働者が老後所得保障を企業に依存する傾向を強めていくこととなった。

 このような長期雇用の効率性と、労働者が企業に老後所得保障を依存する傾向との結びつきこそが、80年代以降の公的年金、企業年金の変化を、従来型の雇用・労働市場を前提とした方向性へと推し進め、また90年代半ば以降に雇用流動化が実質的なものになると共に、企業が福祉諸制度から撤退を始めた内在的要因であった。厚生年金基金の形成と衰退は、両者の結びつきに対する制度的な補完の始まりと終焉を示していると見ることができる。

以上

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