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博士論文要旨

論文題目:家族・ジェンダー・企業社会 ― ジェンダー・アプローチの模索 ―
著者:木本 喜美子 (KIMOTO, Kimiko)
博士号取得年月日:1997年6月11日

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 本論文は、現代日本における家族が、企業営利と効率性を最大限に追求する〈企業社会〉との緊張関係においていかなる特性を付与されているのかを解明しようとする。そのために、現代日本における家族変動を把握する方法論の整序を行うことを第一の課題としている。そこでまずはじめに、従来の家族社会学における方法上の問題点を批判的に考察し、歴史的変動過程にある現代家族の基本的性格を明らかにしようとする。第二に、この家族変動過程の解明にとって重要な位置を占めると思われるジェンダー視角にたつ方法論を導入し、その到達地点から現代家族の基本的性格を把握しようとする。そして第三に、以上の方法に依拠し、実態調査データを用いて、現代日本における労働者家族の形成過程およびその現段階を解析する。

 第1章は、日本をはじめとする先進諸国における基本的な共通性に着目し、現代を「家族の危機」の時代ととらえる立場から、そのもつ意味を考察しつつ、家族研究に求められている現代的課題をとらえようとしている。従来、「典型家族」と考えられてきたのは、ヘテロセクシュアリティを基礎とし、夫婦愛・親子愛によって結ばれ、子育てに重点をおく核家族であり、さらにまた、「男性は外で働き、女性は家庭を守る」という固定的な性別分業を組み込んできた〈近代家族〉モデルであった。こうした従来の家族モデルを揺るがすような諸現象が先進工業諸国では増大しつつある。すなわちそれらは「非〈家族〉的現象」と名づけることができるものであり、具体的には、子どもを産まないカップル、事実婚、シングル、同性愛者同士の共同居住、婚外子の増大といった現象である。これらは、従来の中心的家族像を根底から脅かすような位置づけを与えることができる。ところで、こうした「非〈家族〉的現象」は、日本では近年増大しつつあるとはいえ、他の先進工業諸国に比べるならば相対的に低位にとどまっている。このことは後述するように、日本の社会構造における〈企業社会〉的特質が関わってるとみることができる。この点については後に詳しく触れたい。

 以上でみてきた「家族の危機」の時代は、家族の実態的変化に促されて生じる既存の支配的家族モデルに対する危機意識が胚胎する時代でもある。こうした時代には、家族が歴史変動の波に洗われつつ、それ自体として変質せざるをえないのであり、したがって家族社会学の方法論自体も研究対象のこうした変化に即して、自己革新が求められているといえよう。

 それにもかかわらず、従来の家族社会学における歴史変動に対する理論的射程は狭く、近代に誕生した家族モデルを「典型家族」モデルとしたうえで、これを家族の歴史貫通的な普遍的本質として措定する傾向がある。また、家族と社会とを切り離す方法論によって、男性、そして女性に求められる役割を不変のものとする家族論の横行を支えることに寄与している。第2章は、こうした従来の家族社会学に対して批判を加え、これを克服する上で、フェミニズム運動から発見されたジェンダー視角にたつアプローチが不可欠であることが明らかにされている。ジェンダー・アプローチのメリットは、〈近代家族〉を歴史の産物として相対化する立場に立っている点、および近代社会における女性抑圧の構造的解明という首尾一貫した問題意識に導かれることによって、家族と全体社会との相互連関をとりおさえる視角を示しえた点にある。

 第3章では、従来の家族社会学に欠けがちな歴史的、社会的視点を補う位置にあったはずの日本のマルクス主義家族論も、「愛の生活共同体」説に傾斜を深めることによって、従来の家族社会学と同じ誤りを犯す結果になっていることに批判が加えられている。その代表的論者として布施晶子のマルクス主義家族論をとりあげ、その詳細な批判的検討の結果、そこには大きな方法的欠陥があることが明らかにされている。すなわち家族の集団としての求心力を「人間性」の名のもとにア・プリオリなものとして前提し、家族の内部的関係と外部社会との関連についての解析がなされていない点、そして家族の個々の成員間の矛盾・対立・葛藤を含めた家族内諸関係のリアルな分析を避け、すべてを「愛」のヴェールのもとにくるんでしまっている点をあげなければならない。こうした方法的欠陥の根幹には、家族の「本来的な人間的なありよう」(「愛」の営為)を経済法則との対抗関係において把握しようとする二元論に陥っている問題がある。

 その結果、マルクス主義家族論は、従来の家族社会学の方法的弱点を克服しえないばかりか、歴史的視点を欠いた二元論をひきずったまま、家族社会学と弱点を共有する結果となっているのである。こうした限界をのりこえて現代家族を解析する方法論を構築するためには、近代固有の「家父長制」の問題にこだわるジェンダー・アプローチの導入が不可欠である。その手がかりは、近代的「家父長制」と階級・階層問題とを結び、歴史的視点をふまえることに求められよう。とりわけ、〈近代家族〉モデルが労働者家族に波及し、これが現代化する歴史過程において、「男性のひとりの稼ぎで家族が養われるべきである」という「家族賃金」という観念が果たした決定的役割を看過することはできない。

 第4章では、イギリスを中心とする「家族賃金」観念をめぐる研究を整理し、この観念が、現代家族の基本的性格を決定づけるうえで大きな役割を果たしたことが明らかにされる。ここでの焦点の第一は、労働者階級が家族の再生産軌道を形成する際に、いかにして中産階級の家族モデルを受容したのかという点にある。イギリスでは、男子労働者の最低賃金が妻の扶養費をも含むという観念は、18世紀を通じて存在しなかったにもかかわらず、19世紀から20世紀の初頭にかけて、労働組合に結集した労働者の賃上げ交渉の武器として、この観念が用いられるようになっている。そこには、19世紀を通じて中産階級の政治的、経済的そして文化的ヘゲモニーの全般化のもとで、労働者家族が貧困な生活状態、過酷な労働状態から逃れ出ようとした際、達成すべき生活目標として中産階級の家族モデルを設定し受容した経緯をみいだすことができる。そして第二に福祉国家体制が準備される20世紀以降、国家による労働者家族への介入をつうじて「ブルジョア家族モデルの奨励過程」が強力に展開する。

 こうして「家族賃金」という観念は、労働者家族にとっても内面化され、また国家的規模で補強され再生産されることによって、強い影響力を発揮するところとなった。しかし実際に夫のひとりの賃金で家族を扶養することができたのは、労働者家族の半分にも満たない人々であり、この観念は強固ではあるがしかし実現性に乏しい「神話」としての性格をあわせもっていた。また夫の単独稼得を実現しえた場合にも、その病気や失業による生活の不安定性をまぬがれない脆弱な再生産構造のもとで、労働者家族は家族を単位とする競争関係のなかへと不可避的に参入せざるをえない。ここから競争主義のエージェントとしての性格が、現代家族に付与されることになった。

 こうして労働者家族は、「家族賃金」という観念の受容を媒介として中産階級に範をとった〈近代家族〉モデルを追求することになったのだが、そのことによってかかえこまざるをえなくなった矛盾が、20世紀初頭以降今日にいたるまで、どのように展開しているのか。この問題に第5章では、変動過程にある現代家族の位置づけの解明という視点からせまっている。労働者家族が上位の階級の家族モデルに範をとったことから生じる主要な矛盾は、実現がきわめて困難な「家族賃金」という観念にしばられている点にある。したがって、経済的不安定性がもっとも大きな困難として現れるが、同時にこれとリンクしながら、〈近代家族〉に刻印されている濃密な情緒的関係性が絶えず動揺し不安定化せざるをえないという問題が同時に現れることになる。

 この生活困難という問題を扱ってきた生活問題研究の到達点の検討を通じて第5章では、第1章で位置づけた「家族の危機」の時代を示す諸現象(「非〈家族〉的現象」の増大は、〈近代家族〉のもつ経済的および情緒的不安定性の露呈過程そのものであることが明らかにされている。そしてこうした「非〈家族〉的現象」の増大によって、〈近代家族〉観念自体が、懐疑と批判にさらされていかざるをえないという点で、決定的に重要な転換点として「家族の危機」の時代が位置づけられることになる。そこでは、さまざまな諸要素が渾然一体として混じり合って発現しているが、われわれがそこからつかまなければならないのは、〈近代家族〉モデルに内在する根本的矛盾たる競争主義のエージェントとしての性格、および性別分業を組み込んでいることによるジェンダー間の相克を克服する契機が、「家族の危機」の時代に内在しているということである。

 第6章では、〈近代家族〉の問題の重要な一側面をなす性別分業を家事専業者としての〈主婦の誕生〉に焦点をおき、現代家族における家事領域を把握しようとする。〈主婦の誕生〉は、アン・オークレーがすでに分析しているように、近代社会における性別分業の重要なメルクマールであり、女性が社会的生産労働から切断された家事と育児に専業することを通じて、経済的には男性に依存する被扶養者として現れることは、近代的女性抑圧を語る場合に避けることができないポイントである。

 だが同時に〈主婦の誕生〉の背後にもうひとつの歴史的事実が隠されている。それは、家事という領域の誕生である。近代社会以前には、夫婦ともども生業にうち込む農民層にとっては、家事という領域の評価は無化されていた。これに対して乳幼児死亡率をくいとめ、生活文化や衛生思想を庶民にもたらすことにつらなる家事領域の誕生は、それ自体として画期的な意義をもつとみなければならいない。ぎりぎりの人間的生存を支える砦にすぎないという家族観から、ゆとりある生活文化を培う場としての意味づけが家族に与えられることになったからである。もちろん歴史的には、生活文化の創造とゆとりある生活の表象としての家事領域の誕生が、近代社会における女性抑圧の源泉としての〈主婦の誕生〉と不可分一体のものであったのだが、〈主婦の誕生〉による家事の担い手問題と、家事領域の誕生の意義について相対的に区別して議論する必要がある。

 補論1は、この点をより深めるために、〈近代家族〉において強調される情緒的関係性と家事との結合関係について、女性役割との関係から考察している。女性役割としての家事役割と「愛情」との結合状態が、主婦の賃労働者化と家事・育児サービスの外部化の進展のなかで分離されてくるなかで、家事=女性領域とするとする「家事神話」が解体せざるをえないプロセスが分析され、担い手問題を解決しつつ家事領域を意味づけ生かしていく道がありうることを主張している。

 ついで第7章以下では、以上の家族把握をめぐる方法論的整序をふまえて、現代日本における家族と〈企業社会〉との関連構造を探ろうとする。まず第7章では、近年、日本社会の構造を明らかにするうえで有効な視角として定着しつつある〈企業社会論〉をとりあげ、そこにおける家族の位置づけを検討している。現在のところ、両者を関連づける方法論は十分に準備されておらず、家族がブラックボックスに入れられたまま省みられない傾向が強い。家族を位置づけようとする議論においても、「企業社会が家族を崩壊させる」といったリアリティに欠ける議論にとどまっている。〈企業社会〉からの影響を強く受けながら、この企業営利と効率性を最大限に追求する〈企業社会〉の論理を受け入れ下支えしている家族の側の論理を正確に剔出しなければ、〈企業社会〉論自身が深まらないだけではなく、家族が背中にはりついている生きた人間・労働者主体の現実の姿を把握することはできない。その意味から、家族と〈企業社会〉の相互浸透過程を探ることは不可欠の課題となろう。

 そのためには少なくとも次のような論点が深められなければならない。まず家族が集団として〈企業社会〉的価値規範に組み込まれるプロセスの把握である。また〈企業社会〉は家族に対していかなる役割を期待し、家族はこれにどのように応えてきたのか。そのことを通じての矛盾は家族構成員にどのように現れているのか。〈企業社会〉への家族ぐるみの統合が家族に負荷を与えているとしたら、家族集団のなかで個々人の立っている位置によってその現れ方はどのようにちがっているのか。

 第8章は、こうした論点について、著者が参加した職業・生活研究会のトヨタ自動車における実態調査データからせまっている。本論文全体の最後にあたるこの章の記述においては、補論2を前提としているため、まずこれについて触れておこう。補論2は、家族の物質的生活基盤の形成過程が、労働者の企業内統合とどのようにかかわっているのかを解明しようとしている。ここではまず第一に、トヨタに入職した労働者が、企業内における地位の上昇と家族内イヴェント(結婚、第一子の出生、社宅から持ち家へ、第一子の高校卒業など)とを重ね合わせることによって、「企業内人生」の刻まれ方を解析している。第二には、家計費分析から、彼らの獲得する「相対的高賃金」が、労働者家族の家計運営にとって持つ実質的意味に迫っている。すなわちトヨタ労働者に特有の高密度・不規則・長時間の「苦患労働」のための不可欠な支出(マイカー、クーラー、そして持ち家の所有)が、「相対的高賃金」によって可能ではあるが、それらを賄うに十分ではないため、他の家計費部分の切りつめがなされているのである。第三に、生涯的三大生活課題の達成状況をみると、持ち家の達成率は高く、子どもの教育費への備えも早期に取り組まれている。しかしながら、老後生活への備えは手薄であって、そこには、大企業に依存しこれに寄り添ってこそ生活向上をなしとげうるという楽観的な姿勢を読みとることができる。企業内福利厚生制度を含めての大企業労働者の「相対的高賃金」は、企業内定着を決意した労働者の勤労意欲を引き出し、昇進=昇給競争への主体的参入への姿勢を自己調達させるうえで、有効なものとして機能することになるのである。

 この補論2をふまえて第8章では、夫の「苦患労働」によってなりたつ「相対的高賃金」によって安定した家族生活の物質的基礎を得ることになる家族が、同時にこれとひきかえに、夫=父親不在の常態化をうけいれることを問題としている。夫=父親不在は、現実に多くの問題を生み出しているが、それにもかかわらず調査データによれば、労働者本人の家族に対する認識はきわめて楽観的である。会社のいきすぎた営利追求の欲求が家族生活に大きなストレスを生むような事態(1987年における夏季変則勤務制の導入)に直面したときには、彼らの受けとめ方は厳しいものとなるが、通常は家族員自身も夫=父親の不在状況に慣れてきってしまっていることが、労働者本人の楽観的認識を支えていると思われる。そればかりか、父親不在の状態こそが家族に「相対的高賃金」を保障することになるとして、妻も子どもも父親不在の常態化を受容しているようにみうけられる。ここからは、物質的生活手段の稼ぎ手としての夫・父親像の定着を読みとることができるのである。

 以上のデータ分析からいえることは、家族員は一丸となって、彼らの共通の利益である家族生活の物質的基盤を安定的に構築できるという見通しから、「マイカンパニー主義」を受容しているということである。そこには、企業に寄り添って生活向上をとげようとする家族戦略をみいだすことができる。こうして物質的生活基盤を取引材料とする損得勘定のもとで、家族と〈企業社会〉は一種の均衡状態をたもっているとみなすことができるのである。このことはすなわち、「家族崩壊」といわれる現象とは相当な距離があり、世界に名だたる長時間労働体制と家族の「安定性」とは共存しえていることを示すものである。それを可能にしているもっとも重要な要因は、〈企業社会〉が〈近代家族〉モデルを労働者家族に積極的に付与し、これを企業内福利厚生制度を通じてバックアップしたからである。第二次大戦後の日本の法的家族像も〈近代家族〉モデルを支持したが、その土台の上で、大企業を中心とする家族諸手当、年功賃金システム、企業内福利厚生制度等の体系的整備こそが、夫のひとりの稼ぎで家族を養う性別分業構造を基本とする〈近代家族〉モデルが、堅固なものとして定着させたのである。第4章でみた「家族賃金」という観念は、日本でこそ物質的な基盤をともなって強力に定着した。現代日本の家族は必ずしも解体の淵には立っていないというのが、本論文がいきついたひとつの結論である。

 だがもちろん、こうして〈企業社会〉が主導した日本型〈近代家族〉モデルはなお、強固な社会的ヘゲモニーを保ちえているが、現代日本の家族にも、トヨタの調査データが示しているように、家族員相互の疎隔が部分的に生じつつある。国際的にみれば先進工業諸国にフェミニズム運動がたち現れ、〈近代家族〉モデルに疑義をさしはさみ始めた時期に、日本の場合には「家族賃金」観念が普及し、この家族モデルを定着させた。だが、主婦の大衆的誕生と同時に主婦の賃労働者化が進展するなかで、女性の自立化をめざす社会的気運が誕生した。したがって現代日本では〈近代家族〉モデルの影響力が圧倒的に強力ななかで、夫婦別姓運動のような新しいタイプの社会運動が一定の現実的な力をもつようになってきており、その意味で複雑な事態の進展がみられる。こうした自立化気運が、家族における物質的基盤の安定性とは相対的に区別される家族の人間関係の質に対する欲求と絡み合いながらたち現れるなかで、日本型〈近代家族〉も揺らぎをみせていくことになろう。

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