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博士論文審査要旨

論文題目:イルクーツク商人とキャフタ国境貿易―1792-1830年
著者:森永 貴子 (MORINAGA, Takako)
論文審査委員:土肥恒之、阪西紀子、三谷 孝、関 啓子

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本論文の構成
 シベリアは16世紀末にロシアに併合されて以来、豊富な毛皮資源を求める狩猟業者、商人、そしてコサックなどの流入によって「進取の気性に富んだ」独特の風土が形成されてきた。その軍事的・行政的拠点としてイルクーツク要塞が建設されたのは1661年のことだが、18世紀が進むにつれて急激な人口増加により、この町の商業的な意義も重要さを増した。1727年に結ばれたキャフタ条約は中国・ロシアの国境を画定したものだが、同時に両国にとってキャフタは唯一の貿易拠点となった。キャフタから近距離にあるイルクーツクの商人たちは国境貿易に積極的に参加したのである。本論文はイルクーツク商人のキャフタ国境貿易について特にその交易が中断なく実施される1792年から約40年間に限定して、多様な未刊行史料・統計資料を駆使して具体的な商品取引・品目とその変化、広域的なネットワークの形成、更には商人諸階層の変容を分析した力作である。
 目次は以下の通りである。

序論 研究史と課題の設定
第一章 毛皮産業とキャフタ貿易の成立
 第1節 イルクーツクの商業的位置と初期の中国貿易
 第2節 貿易中断の波紋
  1. 国境紛争と通商問題
  2. 毛皮ルートの変化―中国輸出からヨーロッパ輸出へ
 第3節 1792年の再開と貿易の諸問題
  1. ロシア商人と中国商人の商組織
  2. 1800年規則とカンパニオンの選出
第二章 イルクーツクの中継交易網
 第1節 交易所通過記録
  1. イルクーツクを通過した商品
  2. 参加商人の分布と流通ルート
 第2節 アンガラ川・バイカル湖輸送とレナ水系
 第3節 他都市商人の拒絶と受容
  1. 他都市商人への規制と毛皮取引
  2. イルクーツク・ギルドへの流入―地縁ネットワークの形成
第三章 商業環境の変化
 第1節 ぺステリ・トレスキン時代の商人追放
  1. イルクーツク市団と行政の関係
  2. ギルド商人の経営と行政の経済措置
 第2節 茶貿易への転換
 第3節 毛皮輸出の低下―イルクーツク商人の構造変化
結論
史料
参考文献
統計表
図版

本論文の要旨

 序論では研究史が概観されているが、帝政期に刊行された多くの諸史料・文献が今でも有効であるのに対して、この問題に対する旧ソヴィエト史学の扱いが公式的で偏りがあること、またソ連邦の崩壊後には商業・流通史への関心が高まり、商人の系譜というような新しい社会史的研究が活況を呈していることが指摘される。だが本論文が対象とするイルクーツク商人とキャフタ貿易の関連というような個別的な社会経済史的分析についてはまだほとんど手が付けられていない。
 第一章は、まず18世紀末までのキャフタ国境貿易へのイルクーツク商人の参加が考察されている。イルクーツクの人口は1700年には726人(男)を数えるにすぎなかったが、1744年には4078人、1791年には10522人と急増した。多くは毛皮取引の利益に魅せられた北ロシアの諸都市からの商人たちであり、人口に占める商人の比重は高いものがあった。キャフタでの国境貿易は、当初はロシアの毛皮と中国の南京木綿(キタイカ)のバーター貿易という性格を持っていたが、ロシアの輸出超過で取引に従事したイルクーツク商人たちを短期間に富裕化させた。1745-76年をとると、シベリア・カムチャツカ地域で捕獲された毛皮製品の七割が中国向けであった。だがキャフタ貿易はロシア・中国間の国境画定など外交問題によってしばしば中断され、最大で七年間にも及んだ。この問題について、著者は専制と農奴制を批判した著書の刊行によって「流刑」処分となったアレクサンドル・ラジーシチェフが当地の調査を基にして書いた「中国貿易に関する書簡」(1792)を詳しく紹介している。貿易の中断によってヨーロッパ・ロシアの商人たちは毛皮を直接ロシア、更にヨーロッパに運ぶようになったこと、また南京木綿の輸入の停止はかえってロシアの綿工業の成長に良い影響を与える、というのが彼の見解である。つまりキャフタ貿易はイルクーツク商人にとってのみ必要な「ローカルな貿易」であるというわけだが、もとより彼らにとって中断は死活問題であった。著者は大量の在庫を抱えたイルクーツク商人たちが政府に貿易再開を訴えた経緯を明らかにしている。
 キャフタ貿易は1792年に再開され、その後は中断されることはなく軌道にのったが、イルクーツク商人は対外的にも、国内的にも難しい問題に対処しなければならなかった。対外的には結束が固く商売上手な中国商人によって、ロシアの商人たちに不利益と混乱が生まれていた。ここで著者は清朝政府がキャフタの中国商人に宛てた17ヶ条の指示書のロシア語訳(1823、中国語原史料は不在)というきわめて興味深い史料を紹介している。混乱の解消のためにロシア政府は「カンパニオン」制度を設けて、価格の遵守を徹底させようとしたが、カンパニオンによる統制はかえって取引を抑圧する結果を招くことになった。他方で取り扱う商品もまた混乱に拍車をかけた。茶の需要が急増したためにイルクーツク商人は他都市商人との激しい競争に晒されることになるわけだが、その問題の本格的な考察は第三章で扱われる。
 第二章は中継交易都市としてのイルクーツクの具体的な実態分析が中心をなしている。町の中心に位置して商品の保管・販売施設であった伝統的な「交易所」の記録の分析から、著者はイルクーツクを通過した商品は毛皮、中国商品だけでなく、ヨーロッパ・ロシア、中近東、ヨーロッパなど各地からの多種多様なものであり、キャフタ貿易における取引品目と大きく重なっていたこと、その膨大な商品群を扱っていたのはモスクワをはじめとする中央ロシア諸都市、北ロシア諸都市、西シベリアの諸都市、あるいはカザン・タタールなどの地域の商人だが、取引量においては資金にまさるモスクワ商人が常に優位に立っていたこと、イルクーツク商人の場合、初期にあっては町人を含む小商人の取引高が比較的多いが、しだいに第一ギルドつまり大商人の取引中心となっていったことなどを明らかにしている。それに応じてイルクーツクの「交易所」は直接取引の場ではなく、商品の集荷所として機能するようになったが、キャフタ貿易の再開によって中継交易拠点としての機能を高めることになった。イルクーツク商人の荷馬車の多くはヨーロッパ・ロシアに向かったが、次いでキャフタ、ヤクーツク方面に向かった。河川運送としてのアンガラ川―バイカル湖―キャフタの旅程は二、三日で早期の輸送には便利なルートであったが、早瀬や強風による遭難の危険があった。お茶をヨーロッパ・ロシアに輸送する場合には陸路が利用された。バスニン家がイルクーツク商人としての基礎を築いたのはこの河川による商品運送であったが、著者はここでチモフェイ・バスニンの手記を用いて具体的に分析している。その他にもドゥドロフスキー家やシビリャコフ家などの大商人がキャフタとイルクーツクを結ぶバイカル湖運送にあたった。
 毛皮取引が生み出す大きな利益は他都市からの多くの商人を呼び込み、イルクーツク商人の競争者となった。したがって彼らは他都市商人の取引を規制しようとしたが、大した成果を挙げなかった。他方でイルクーツク商人家系はきわめて流動的であり、特に他都市からの流入者は多かった。中央ロシア、西シベリア、ザバイカリエなどの出身の商人、あるいは「ヴャズニキ」と呼ばれるウラジーミル県の農民などで、かつて北ロシアの諸都市が占めていた割合は低下した。著者は厖大な『ピョートル大帝の業績』を纏めた商人イヴァン・ゴリコフの甥で、クールスク商人のパレヴォイ始め数人の商人家系と経歴を詳しく紹介している。そうした新参のイルクーツク商人たちは自分の手代、代理人、あるいは血縁者とともに、更には地元の古い商人家系と血縁関係を結ぶことで広範なネットワークを築き、活動範囲を広げることに成功したのである。
 第三章では、まずイルクーツク商人と都市政治と関わりが考察される。商業都市イルクーツクでは商人の力が強く、「独立不羈の性格」の故につねに都市の行政官と対立する傾向があった。「市団」に結集していた有力商人たちは意に沿わぬ行政官の更迭を求め、しばしばそれに成功したのである。1806-19年にシベリア行政を支配した総督イヴァン・ペステリとイルクーツク知事ニコライ・トレスキンの時代に対立は頂点に達した。トレスキンの「専横」に対してペテルブルクに嘆願書を送ったシビリャコフ、ムィリコフ、ドゥドロフスキーなどの大商人が流刑処分を受けた。通説が言うように、この事件は必ずしもイルクーツクの商業と商人にネガティヴな影響を与えたわけではない。没落した有力商人の穴は別の商人家系の台頭によって埋められたし、そもそも「流刑」が商業活動の完全な停止を意味したわけではなかったからである。他方でトレスキンの政策のなかにはイルクーツク商業の現状に即した経済改革も見られた。かつてのような「階級対立」の視点は成立せず、トレスキンによる「市団」の抑圧はイルクーツク商人の構造にさほど強い打撃を与えるものではなかった、というのが著者の見解である。
 他方でキャフタ貿易の再開以来、その取引品目に大きな変化が生まれた。まず輸入面では茶の需要が急増しており、1806年には南京木綿の輸入を上回り、1820年には約80パーセントを占めるに至った。またそれまで輸入されていた磚茶に代わって、白毫茶が取引の大部分を占めたのである。それを扱ったのはモスクワ商人、ヴォログダ商人などで、高関税という問題はあったがロシア人消費者の求めに応じて取引を拡大していった。それまで南京木綿に依存していたイルクーツク商人が茶貿易に転換するのは1819年以降だが、メドヴェージェフ家、トラペズニコフ家、シビリャコフ家なども茶の取引を飛躍的に拡大させ、ヨーロッパ向けに再輸出する場合もみられた。バスニン家のようにイルクーツクからキャフタ商人へ移動することで、事業に成功するものも現れた。輸出の品目にも大きな変化が生まれた。19世紀初めには大部分を占めていた毛皮に代わってラシャ・綿製品(外国産製品の再輸出を含む)などの輸出が増加しており、上回るようになった。中国人の需要が増すことにより、ロシアでは中国向けの製品を生産する繊維工場が数多く生まれた。このことは毛皮取引に依存してきたイルクーツクの第三ギルドの商人たちに打撃を与え、没落させる要因となった。
1792年のキャフタ貿易の再開は、以上のようにイルクーツク商人に対して相反する二つの結果をもたらした。第一に、茶貿易の繁栄と工業製品などの輸出増加はキャフタ貿易を全ロシア的に重要な貿易に成長させた。イルクーツクの有力商人たちは、それに対応して中継交易機能を強化させるとともに、彼ら自身も茶貿易への転換によって利益を確保したのである。第二に、同じことだがキャフタ貿易が「ローカルな貿易」でなくなることによって、第三ギルドを始めとする大勢のイルクーツク商人たちが没落を余儀なくされたことである。毛皮以外の商品を持たなかった彼らは、再開後のキャフタ貿易の利益から排除されたからである。したがってイルクーツク商人の構造により大きな影響を及ぼしたのは、特定の大商人家系に向けられた「行政的な抑圧」ではなく、むしろキャフタ貿易の性格の変化にある、と著者は結んでいる。

本論文の成果と問題点
 本論文はシベリア社会経済史の中心問題の一つであるキャフタ国境貿易を対象とした初めての本格的な考察である。まず特筆されるべきは本論文が利用している史資料の豊富さである。著者は帝政期の刊行史料を漏らさず蒐集するとともに、文書館に眠っている数多くの未刊行史料を利用している。本論文には付録として約90ページの加工処理した史料が添付されているが、キャフタ貿易統計はもとより、未刊行の多様な史料からイルクーツク商人数とその変化、交易所の荷馬車の内訳と行き先、通過記録などを実に細かく整理している。圧巻は表5-1のイルクーツク・ギルド商人表(1791-1826)で、そこでは全体で約300人の商人の出自、家族構成、そして年次別のギルド所属について表と図でもって整理されており、それ自体独立の史料研究となっている。更に個々の大商人については別個に詳細な系図が作成されている。「キャフタで交換された中国商品」についても、扱った商人と個々の商品について細かな統計表が作成されている。本論文は以上のような厖大な史料蒐集とその精密な加工のなかで作成されたものである。
 具体的な成果としては、第一にキャフタ国境貿易とその構造変化、そしてそれに伴うイルクーツク商人の諸階層の分化が史料的裏付けをもって明確に示された点を挙げることが出来る。キャフタ貿易はかつて毛皮と南京木綿との「バーター貿易」であり、東シベリアの「ローカルな貿易」でしかなかったが、1792年の貿易再開後は茶の需要の急増によって、その性格を一変させた。つまり茶貿易によってキャフタ貿易はローカルな性格を脱して、ロシアの市場全体にとっても極めて重要な貿易に変貌したのだが、そのことは同時にイルクーツク商人を他のヨーロッパ・ロシア商人との激しい競争に晒すことになった。一部の大商人は自ら茶貿易に乗り出すことにより富裕化したが、伝統的に毛皮取引に従事していた大勢のイルクーツク商人は没落の方向をたどった。本論文の基本的な主張はきわめて明解で一貫したものであるが、以上の諸点が豊富な史料によって実証されており、最大の成果と言うことが出来るだろう。
 第二に著者は、イルクーツク商人の出自と開放性を描くことに成功している。彼らは元来北ロシア諸都市の出のものが多くを占めたが、決して閉鎖的ではなく、むしろ開放的であった。その後の経済的な繁栄に応じてヨーロッパ・ロシアからやってきた多くの商人たちがイルクーツク・ギルドに流入しており、彼らは古い有力商人の家系と血縁を結ぶことで、広範な地域的ネットワークを築くことに成功した。以上の点が著者による数人の大商人家系の分析から具体的に明らかにされている。また本論文にはバスニン文書などの史料紹介という形で個々の商人の具体的な活動が要所要所に組み込まれており、ともすれば単調になりがちな社会経済史分析を生きいきとしたものにしている。第三に、本論文で明らかにされた商人像はイルクーツクはもとより、シベリアに限られるものでもない。同時代のヨーロッパ・ロシアの商人研究についても多くの示唆を与えものであり、また大きなサモワールを前にしたロシア商人の周知の写真が示唆するように、この時期の茶貿易の重要性についても改めて注意を喚起させる。こうした点も本論文の貢献とみなすことが出来るだろう。 
 以上の他にも本論文の成果は少なくないが、もとより不十分な点がないわけではない。その一つは都市イルクーツクとその行政のあり方についての整理が欠けている点である。イルクーツクはシベリア最大の商業都市となり、市政に対する商人の発言力が強かったことは随所に指摘されているが、その具体的な構図が示されていない。そのため例えばペステリ・トレスキンと「市団」との対立というかなり重要な局面が十分に理解されない憾みがある。都市イルクーツクの行政と経済について一節を設けることで、更に説得的になったであろう。次に18世紀の毛皮取引についてももう少し全体的な展望が望まれたところである。ヨーロッパ・ロシアの商人にとっても、イルクーツク商人にとっても毛皮取引がキャフタ貿易の開始前からの商業活動であったとするならば、貿易の開始によってどのように変化したのか、イルクーツク商人の毛皮取引からの撤退が全体の動向にどう影響したのか。こうした諸点についても具体的な言及が望まれたところである。また章節の構成、そして文章表現についてももう少し工夫がほしいところである。慣用的な「ヨーロッパ・ロシア」という表現が用いられる一方、断りなく「ロシア」「ロシア商人」としている箇所も散見され、読者を若干戸惑わせる。章節のタイトルと構成についてももう一段の工夫が求められる。もとよりそうした問題点については著者もよく自覚しており、今後の研究のなかで克服されていくものと思われる。
 以上のように審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、森永貴子氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2004年7月14日

平成16年5月24日、学位論文提出者森永貴子氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「イルクーツク商人とキャフタ国境貿易-1792-1830年」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、森永貴子氏はいずれも十分な説明を与えた。

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