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博士論文審査要旨

論文題目:近代「客家(Hakka)社会」の形成 -清代中期から民国初期における広東客家社会の発展過程-
著者:飯島 典子 (IIJIMA, Noriko)
論文審査委員:三谷 孝、坂元ひろ子、浅見靖仁、江夏由樹

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一、論文の構成
 本論文は、清代中期以降中国の華南地域や東南アジアの華僑・華人社会で注目を集めるに至った「客家」が、どのようにその存在を知られ、どのような集団として認識されたのか、また「客家」自身がその自己認識と組織化をどのように進めていったのかを実証的に検討した論文であり、400字詰原稿用紙にして約650枚からなっている。
 その構成は以下のとおりである。

序論 
 第一節 客家の名称を巡って
 第二節 客家研究の濫觴
 第三節 客家語研究とその波及
第四節 先行研究に見る多角的な研究視点と論題の多様化
 第五節 客家研究における定義の問題点
第六節 問題提起と研究方法
第一章 宣教師文書に見る客家
 第一節 宣教師と客家の接触にあった背景
 第二節 ギュツラフと「客」の邂逅
 第三節 アメリカン・ボード(美国公理会)の初期客家認識
第四節 Hakkaという名称の登場
 小結
補論 蘭芳公司・バンカ・ビリトン概論
 はじめに
 一 蘭芳公司概論
 二 バンカ・ビリトンの経済と中国人苦力
 残された問題点

第二章 西江デルタの叛乱と動乱にみる客家
 第一節 西江に於ける土客の相克-その発端
 第二節 咸豊以降の土客衝突激化
第三節 天地会と広東客家
第四節 西江北岸の客土緩衝地帯
第五節 赤渓廳史再考
第六節 アメリカン・ボード宣教師の見た広州客家
小結
第三章 広東東北部の客家語圏-その社会・経済
 第一節 はじめに
 第二節 東北部の概略と先行研究
第三節 東北部の経済と社会
第四節 清代の銀流通と広東
第五節 鉱賊の活動範囲
第六節 広東東部の動乱
第七節 嘉應州の石炭採掘業
第八節 嘉應州と太平天国
第四章 「客人」の自己像とその歴史
第一節 「客」意識の濫觴
 第二節 嘉属会館設立の背景
第三節 崇正総会成立の発端と背景
第四節 大埔人の位置づけ
第五節 崇正総会の発展
第六節 梅県の教科書にみる自己像
第七節 葉亜来再考
第八節 ペラとペナンの「嘉應州人」
第八節 ペラとペナンの嘉應州会館
小結
結論
参考文献
付録 Things Chinese(1983)客家の項目

二、論文の概要
 「序論」では、これまでの客家研究の問題点が検討された上で、本論文の課題が設定される。客家が学術的研究の対象とされるのは、民国期に入ってからのことであるが、それまで少数民族や水上生活者の蛋家と混同される等さまざまな錯綜した雑多な情報に基づいて客家についての紹介が行われてきた中を、従来の諸説を整理し、少数民族説に全面的に反論して、客家が中原に源を発する漢族の直系を継承する子孫であることを立証しようとした羅香林の『客家研究導論』の刊行(1933年)がその画期をなしている。同書は、族譜を主要な史料として中原から華南への客家の移住ルートを推定するとともに、「客家の特性」として後に知られるようになる、教育の重視・女性の地位の高さ・勤労意欲の高さ・衛生概念の発達等を指摘し、洪秀全・孫文・朱徳等中国近代史上の重要人物が客家出身であったという事実を紹介しており、その後の客家研究に大きな影響を与えた。しかし、羅香林は客家の定義を行わないままに、客家としての自らの誇りをかけた立論を補強しうる史料は総動員して自説を展開したために、かえって客家についての冷静・客観的な認識を妨げる結果をももたらすこととなった。
 戦後には、太平天国等の反乱やキリスト教との関連という限られた視点からの客家の諸研究が見られるものの、香港新界地区のフィールドワークに基づく瀬川昌久氏の『客家-華南漢族のエスニシィテイとその境界』(1993年)を除くと、それらは客家それ自身の概念には疑問を差し挟むものではなかった。何よりも清代のある時期まで、その後に客家と呼ばれることになる集団を「客家」と明記するような文献が存在しないという史料的制約がこうした根本的な検討を妨げていたといえる。
 著者は、こうした制約を克服するために、まず東南アジアで西洋人宣教師に「発見」された客家の言語と活動の特徴、その広東省の故郷での生活、そこでの鉱山業との関連という順序で客家の源流を探る作業に着手している。そこで著者は、自らの課題は、清代後期に広東客家の置かれた社会・経済状況をできるだけ客観的に捉え、いつ頃どのような史料に客家が現れ、客家がどのように認識されていったのかを実証的に検討して、広東において客家とはどのような集団であったのかを解明することにあるとする。その際に、著者が検討の対象として限定したのは、(1)「官憲が客民と呼んだ人々」、(2)「西洋人が客、Hakkaと呼んだ人々」、(3)「祖籍乃至出身が嘉應州と明かにされているか、嘉應州に隣接する福建、江西、湖南の客家語圏に住んでいた人々」の3集団である。また、本研究において利用された主たる史料は、(1)華南地域の地方志・上奏文等の公的文書、(2)西洋人宣教師の書簡・報告文書、(3)鉱山・地質関係の調査報告書、④華僑・華人団体の出版物等である。
 第一章は、西洋人宣教師が客家をどのように「発見」し、認識したのかが論じられる。最も早い時期に客家の存在に注目したのは、オランダ伝道会に所属していて東南アジアと中国の間を往復していたカール・ギュツラフであった。ギュツラフは、タイ・ボルネオ・ビンタン島等に在住する中国人移民の中に「北京官話に近い方言」を話し、腕のいい職人や鉱夫として働いている「Kea-jin」という人々がいたことを1830年代初頭にバーゼル教会に報告している。ついで、広東省・海南島・ボルネオ等の地でこれらの人々に接触したアメリカン・ボードの宣教師たちは、彼らを「Khek」「Keh」(客)と呼んで、(1)広東省出身ではあるが広東語と異なる方言を話す点、(2)「客」の居住地が東南アジアの鉱山地域であるボルネオ・バンカである点に注目している。このように、当初は福建南部方言と考えられる「Kea」「kih」「ka」(客)と呼ばれていた人々が、広東語・客家語の「Hakka」という呼称で呼ばれるまでにおよそ30年を要し、1860年代以降に宣教師の書簡に「Hakka」の語が現れ、さらにダイヤー・ポールの著書"Things Chinese"(1893年)によって初めて一般に紹介されるに至ったとされる。
 「補論、蘭芳公司・バンカ・ビリトン概論」では、1840年代にボルネオで中国人鉱山労働者によって設立された蘭芳公司の概況が先行研究の成果に基づいて紹介される。また、バンカ・ビリトンの両島の鉱山地帯では中国本土では少数派であった客家語話者が中国人の多数派として鉱山開発に従事していた事実が明らかにされる。
 第二章では、広東省の西江デルタ地域において清朝の政府機関が「客民」をそれぞれの地域においてどのように捉えていたかが具体的に検討される。
 この地域では、清初以降広東東北部からの「客民」の移住によって「本地人」との間で科挙の応募資格をめぐる紛争等が生じて緊張が存在していた。1854年に開始される天地会の反乱の際に、清朝の呼びかけに応えて「客民」が「義勇軍」を組織して「賊」の鎮圧に協力したことから、天地会参加者の多かった「本地人」との関係は決定的に悪化し、「土客」の「械闘」(武装した集団的抗争)が蔓延していく。しかし、同じ広東省でも東江中流域では「本地人」からの圧迫に対抗するために「客民」の多くが天地会に参加しており、「賊」の武力強化のための火薬の製造・運搬という活動において客家語を話す「鉱賊」(鉱山労働者)が重要な役割を果たしていた。このように「本地人」との対立が表面化した地域では、他の地域からの移住民は「客民」と呼ばれることになったが、同時期に「土客相安」とされて両者の衝突が起こらなかった四會県の地方志には「客民」の名称は見られず、それに該当する人々は「嘉應州人」等とその出身地で表記されていた。従来の研究では、「本地人」と言語風俗が異なるためにその差別・迫害の対象となっていたことが客家の反乱参加の重要な動機として指摘されてきたが、著者によれば、西江デルタの事例には当てはまるこのような見解は、広東一省の範囲に限ってみても、他の地域ではそのまま通用するものではなかったとされる。
 最後に、激烈な「土客械闘」を終結させるために特別な客家居住区として設けられた赤渓廳(西江デルタ南端)の貧困と社会的孤立を指摘する宣教師の布教報告を紹介するとともに、ここから中南米へ移民した人々の団結の媒体となったのが「客」ではなく、会館名に記されている「赤渓」ないし「中華」であったことが指摘される。
 第三章では、客家の総本山ともいえる嘉應州を中心とする広東東北部の客家語圏における客家の動向が、その地域の社会・経済事情との関連の下に検討される。
 農業には不向きであったが鉱産資源に恵まれていた広東東北部では、住民の相当部分が石炭の私掘・山中での炭焼等に頼って生計を立てていた。明代中期以降、王朝末期の混乱の中でこの地域でも「鉱賊」「煤匪」等と呼ばれた人々による反乱が頻発することとなる。清朝の初期には人口増加への対策として山地の開発が実施されていくが、これを可能にしたのは新大陸から導入されたサツマイモ・トウモロコシ等の栽培であり、こうして拓かれた新開地には「無業の民」が各地から生計の途を求めて移動して行った。その中の相当部分は客家語話者であった。流動的な存在であって政府から見れば「難治」である人々が鉱山業の現場を支えているために、官憲と鉱徒とのトラブル(「鉱案」)は絶えず発生して清朝政府を悩ますこととなり、当時の上奏文や県志に多数の関連記事が記載された。しかし、そこには住民の言語(客家語)に関する記述はほとんど見当たらず、反乱との関係でその地の民衆は「鉱賊」「煤匪」等と表現されているにすぎない。公式文書にこの地域の客家が「客家」として記載されるに至るのは、1898年刊行の『嘉應州志』が最初であった。
 第四章では、客家がいつ頃から「客家」という言葉で自らのアイデンティティを主張しはじめたのかが考察される。前章までの検討に見られるように広東省に限っても客家語話者を結ぶ媒体は地域によって多様であり、広く省を越えての団結意識は形成されていなかった。嘉應州人も1875年に広州に初めて嘉應州会館という同郷組織の拠点を設立したことから知られるように他の地域の会館に比べて結束の歴史は極めて短いものであった。英文地理書における客家に対する差別的記述に対する抗議をきっかけにして、1921年に香港で設立された崇正総会は客家の親睦団体であったが、「本地人」との軋轢を避けるという慎重な配慮に基づいて「客」の名を組織名に使用しなかった。1930年代以降、崇正総会の支部は東南アジア各地をはじめ国外に次々に設立されていったが、他の同郷会館のように中国国内の諸都市に支部を置くことはまったくなかった。そして、こうした団体の会員資格は時とともにその条件をゆるやかなものとされて祖籍を越えて拡大していった。
 一方、広東省の嘉應州では1930年代にようやく住民が自らを「客」として認識し始めた事例が歴史の教科書に見られ、羅芳伯や葉亜来等の客家の人物の紹介が行われていくが、そこには客家の偉人の功績をことさら強調するために史実の潤色が見られることなる。
 著者は、東南アジア各地に設立されていく上記の団体の状況を丹念に追跡して「客」を名のる人々の連帯感は、まず香港や東南アジアの「客」が主導権を握って広げていき・それが嘉應州にフィードバックされたものと推察する。

三、成果と問題点
 近年客家という集団は、主として東南アジア等における華僑・華人の経済力の増大と関連して論及されることが多くなり、客家という名称も関連分野の研究者に止まらず一般的にもかなり知られるようになった。しかし、その実体をどのように認識しているかについては明らかにされないまま、その論者の客家観や「客家の特性」についての認識が披露され、客家出身の革命家・政治家・実業家の事績が列挙されることが多かった。客家とは何かという問題について十分な共通理解が形成されていないこと、「客家」に含まれる人々が時代とともに変動していくことが、そのような恣意的な客家理解の背景にあった。客家について初めて本格的に論じたものは、本論文でも指摘されているように羅香林の『客家研究導論』(1933年)であった。それは、客家の中華文明の継承者という正統な立場を学問的に裏付けるという目的をもった自己主張の書物として客家の存在を広く世に知らせる役割を果たしたが、主観的・独善的な主張も多く、その後に問題を残すこととなった。その刊行以後、羅香林の描いた客家像が権威あるものとされた結果、「客家についての学術的言説のほとんどは、……客家という明確な実体が存在するということを、全く疑念の余地のない大前提としてなされてきた」(瀬川昌久『客家-華南漢族のエスニシィテイとその境界』)からである。また、戦後に大いに発展した中国近代史研究の分野では、華南に展開した太平天国や天地会の反乱において、「本地人」から差別されていた客家が、その重要な構成員となって反乱に参加したことが明らかにされてきた。こうして客家は、東南アジアの華人社会の発展や華南の民衆反乱に関与した強い団結心を持つ集団としての知名度は上がったものの、それをとりあげる論者によって意味内容の曖昧なまま実証的根拠に基づかない議論が展開されることも多かった。
 このような研究動向への批判から出発した著者の研究の成果として以下の点をあげることができる。 第一に、客家は、当初西洋人宣教師が東南アジアにおいて「発見」した集団であったこと、すなわち東南アジア諸地域と華南との間を往復して布教活動を展開した宣教師たちは、東南アジアにおける客家の独自の言語と生活習慣の特徴を認識したことから、さらに華南の客家の存在に注目するに至ったことが明らかにされていることである。これは、従来利用されてこなかった宣教師関係の史料を閲覧するために、アメリカに1年間留学してそれらが所蔵されているハーバード大学・イエール大学の図書館に赴いて、それらの文書に客家がどのように表現されていたのかを丹念に解読した著者独自の成果といえる。
 第二に、清朝の官憲が「客民」を認識するのは、宣教師による「発見」から20年ほど遅れた1850年代のことであり、「客家」という用語が公的文書に現れるのはさらに40年程後の1890年代であることを史料的に明らかにした点である。しかも、こうした文書は清朝支配の維持・安定という大原則に基づいて書かれているために、支配の観点からこの集団をどのような特徴において捉えるかは、その居住する地域の実情によって異なり、さまざまな呼称で記述されることとなった。
 第三に、当時の反乱関係の記事や宣教師関係の史料に基づいて、客家には鉱山業に従事する人々が多かったことに注目し、それを裏付ける事例を多数紹介したことである。蘭芳公司や華南の「鉱賊」の事例から客家と鉱山業の密接な関係を指摘したことは今後の客家研究の進展に寄与する成果といえる。しかし、両者の関係の説明には類推による部分も多く、今後さらに鉱山業・鉱物輸送に携わる人々の実態が解明された上でより説得的な根拠が明らかにされることが望まれる。
 第四に、客家の親睦団体としての崇正総会の設立以降、それに入会しうる人々の範囲が、嘉應州出身者からより広く客家語圏出身者へと、さらにその周辺へと拡大して「客家」が膨張するとともに、羅香林の著書の影響もあって客家が中原文化の正統な後継者であるとする「神話」が、少なくとも客家の人々の間では史実として固定化されていく経緯を明らかにしている。
 以上のように、本論文は客家研究の進展に貢献する重要な成果をあげたものと評価できるが、残された問題も少なくない。
 第一に、すでに指摘したように鉱山業と客家との関連についてはなお周到な検討がなされるべきこと。第二に、著者は嘉應州出身者と客家語話者という条件を基準として公式文書の中に現れる客家の存在を確認するという手順で慎重に検討を進めており、相応の説得力をもつものと評価できるものの、たとえば客家語話者のすべてが客家といえるのかどうか等の点に異論の余地が存在している。また、出身地(祖籍)に基づく客家であるとの主張の根拠としての族譜自体の信憑性の検討等の問題は重要な課題として今後に残されている。さらに、一部漢文史料の読解には疑問の残る箇所も見られる。
 しかし、これらの問題点の多くは著者も自覚するところであり、これまで着実に研究成果を積み重ねてきた実績からみて、将来これらの点についてもより説得的な研究成果が達成されることを期待したい。
 以上、審査委員会は、本論文が当該分野の研究に寄与するに十分な成果をあげたものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2004年7月14日

2004年6月9日、学位論文提出者飯島典子氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、審査員が、提出論文「「近代『客家社会』の形成-清代中期から民国初期における広東客家社会の発展過程」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、飯島氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は飯島典子氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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