博士論文一覧

博士論文審査要旨

論文題目:アメリカ社会運動史研究――産業別組織会議(CIO)の諸問題
著者:長沼 秀世 (NAGANUMA, Hideyo)
論文審査委員:中野聡、高田一夫、貴堂嘉之

→論文要旨へ

1 本論文の構成
 長沼秀世氏(以下、著者と記す)の学位請求論文「アメリカ社会運動史研究―産業別組織会議(CIO)の諸問題」は、1935年にアメリカ労働総同盟(American Federation of Labor以下、AFL)から分裂して発足、ニューディール期のアメリカ合衆国において産業部門労働者の組織化に著しい成功を収めるとともに、AFLの政治活動に対する消極的態度とは対照的に労働組合としての積極的な政治活動を志向した産業別組織会議(Congress of Industrial Organizations以下、CIO)が、1955年にAFLと合同するまでの20年史を検討した、わが国で初めての本格的な通史であり、筆者の長年にわたる研究の集大成である。
 本論文は、以下の通り、CIOの運動史そのものを扱った第1部と、CIO運動史研究にかかわる史学史上の問題および関連性が強い第三政党運動・公民権運動との関係を扱った補論を収めた第2部から構成されている。

序論

第1部 CIO史の諸問題
第1章 ニューディール以前のアメリカ労働運動
第2章 大恐慌とニューディール
第3章 CIOの成立
第4章 初期CIOの政治経済論
第5章 第二次世界大戦期のCIO
第6章 「オペレーション・ディクシー」
第7章 CIOの「共産系」組合追放
第8章 「オペレーション・ディクシー」の終了
第9章 ALFとCIOの合同・・・CIOの終焉
第2部 CIO史の周辺
第1章 アメリカ労働運動と政治活動
第2章 アメリカにおける社会主義の問題
第3章 ニューディール期における労働党運動
第4章 1948年の進歩党について
第5章 ハイランダー・フォーク・スクール・・・「南部CIO学校」から「公民権学校」へ
結語
文献目録

2 本論文の概要
 まず第1部第1章は、CIO結成の歴史的前提として、アメリカ労働運動史を略述する。そこでは、CIO以前に100年以上に及ぶ労働運動の歴史があったものの、そのほとんどが、技能労働者を中心とする職能別組合(craft union)であったことが示される。それらの連合体として、1886年にAFLが発足したが、AFLは経済発展・技術変化に伴って求められ始めた産業別組合の組織形態を原則的に認めようとしなかった。その結果、1930年代半ばに到ってもなお、アメリカの基本的かつ主要な産業部門に労働組合が存在しない事態になったと筆者は指摘する。
 第1部第2章は、産業部門労働者組織化の重要な前提条件を提供したニューディールの労働政策史を概観する。すなわち、1929年より大恐慌が始まり、1933年よりその克服のための包括的なニューディール政策が展開されたが、そのひとつとして、労働者の団結権、団体交渉権の法的承認が全国産業復興法(National Industrial Recovery Act)に盛り込まれた。それは2年後に違憲判決を受けたが、時を同じくして、それ以上に労働者の基本権を寄り積極的に承認し、保護するワグナー法(全国労働関係法National Labor Relations Act)が成立した。
 以上のような歴史的背景を概観したうえで筆者は、第1部第3章で、大会議事録などの1次史料を徹底的に精査しつつ、AFLに対抗する全国的労働組合連合体としてCIOが発足した過程を検討する。すなわち1934年のAFL大会では職能別組合派と産業別組合派がかろうじて妥協して、自動車その他の産業部門労働者の組織化を推進する決議が成立したが、1年後にも主要産業の組織化の成果が十分ではなかったことから、1935年のAFL大会で両派は再び激しく対立し、大会終了直後、炭鉱組合のジョン・L・ルイスの呼びかけによって、8組合の委員長が参加する産業別組織委員会(Committee for Industrial Organizations)が結成された。ここで筆者は、当初、労組委員長レベルの委員会として発足したCIOが本格的な労働組合連合体として発展するためには労働者自体の積極的な活動と既存組合からの支援が必要であり、全米自動車労組を初めとする諸組合の資金援助、活動家の参与が重要かつ有効であったことを強調し、とくに1937年初めのジェネラル・モーターズ・ストライキの成功、AFL未加入の電機組合などのCIOへの参加、U.S.スチール社に後の鉄鋼組合を承認させたことなどがCIO確立に大きな意味を持ったとする。こうして1937年のAFL大会ではCIO参加組合の除名方針が示される一方、CIOも全国協議会を開き、事実上、CIOが別個の組合連合体となることが既定の事実となり、1938年、CIOは産業別組織会議として正式に成立したのである。
 次に第1部第4章で筆者は、CIOが積極的な政治活動を展開した経緯を検討する。CIOにとってニューディールは自己の誕生を可能ならしめた重要な前提条件であり、また労働者および多数の国民にとっても大いに好ましいものであったから、CIOがニューディールとくにその代表者であるフランクリン・ローズヴェルト大統領を積極的に支持したことは、なかば必然であった。しかしここで筆者は、CIOがすでにその委員会段階から「労働者無党派連盟」を結成して1936年の大統領選挙で活発にローズヴェルト再選に努力したことは、それ以前のアメリカ労働運動に類を見ないものであり、その後、労働運動がアメリカの政治過程における重要なファクターとなる第一歩であったと指摘する。
 続く第1部第5章でも筆者は、第2次世界大戦期のCIOの政治的動向を検討する。それは概してローズヴェルト支持を基本とするものであった。1940年段階において連合国へ傾斜するローズヴェルトに対して、孤立主義的立場から反対した会長ルイスが辞任することになり、その後CIOはローズヴェルト支持、すなわち戦争支持の態度を鮮明にした。さらに戦争中は、賃金・物価統制などで若干の批判的立場を表明したとはいえ、基本的には反ファシズム・民主主義擁護のための戦争との位置づけから協力を惜しまなかった。そのため下部組織の若干の抵抗があったとはいえ、労働争議の自粛を堅持し、さらに戦後の展望としては、ニューディール的な労使公三者の協力による経済体制を望んだ。また新しい世界情勢を踏まえて国際的な労働者組織への参加を目指し、短期間ながら、CIOが事実上のアメリカ代表として世界労連の一員となった。
 次に、第1部第7章をはさむ第6章と第8章において筆者は、CIOが第二次世界大戦直後から取り組んだ、アメリカ南部における組織活動「オペレーション・ディクシー」を検討する。アメリカ労働組合の勢力は1930年代後半から第二次世界大戦期にかけて急速に拡大して、大戦終了時には雇用労働者の半数近くを組織するに到ったが、地域別に見ると南部の組織率は極めて低く、人種差別主義を温存する南部社会には、それとも連動した強烈な反労働者的態度が存在した。このことがまた、ニューディール与党としてCIOが支持する民主党の内部に強固な保守的・反組合的な政治勢力として南部民主党が存在するというねじれ現象をもたらしていた。このような状況を打開するために始まった「1937年以来最大の組織活動」が「オペレーション・ディクシー」すなわち「南部作戦」であった。しかしそれは暴力的な抵抗にも遭遇する困難な活動で、その成果は貧しく、また個別組合を超えたCIO自体による組織活動であるために参加組合の協力を維持できず、「オペレーション・ディクシー」の規模は徐々に縮小され、やがて組織の合理化の一環として1953年に活動は終了した。以上の経緯を「CIOの敗北」として総括するバーバラ・グリフィスの先行研究に対して筆者は、これまで全く利用されてこなかった末端の組織活動家のマニュスクリプトを精査してその組織活動の実態を初めて明らかにしたうえで、CIOの力量からして成果が上がらなかったことは不可避的であったとしつつ、反労働運動的な南部社会にあえてCIOが挑戦した点や、公民権運動の開始のほぼ10年前に白人労働者・黒人労働者をともに組織したこと、ある意味では公民権運動を先取りしていたその意義を高く評価すべきだと主張する。
 次に第1部第7章で筆者は、第二次世界大戦後のアメリカ社会全体に大きな影響を及ぼした、反ソ・反共主義いわゆる「アカ狩り」の嵐の中で、CIOもその重要な一端を担った「共産系組合追放問題」を検討する。CIOには、その成立期に積極的に活動する共産主義者たちが参加したため、その中に相当数の共産党系活動家が存在した。冷戦開始とともに、アメリカではさまざまな分野で共産主義者追放の動きが始まり、いわゆるマッカーシズムが展開された。こうした中で、1947年からは政府による忠誠審査がおこなわれ、また同年成立のタフト・ハートレー法が、非共産主義者であるとの宣誓を労働組合指導者に求めることを定めた。こうしてCIOも「アカ狩り」をすることになり、1947年の大会においては、かろうじて左右両派の妥協が成立したものの、その方向は明らかになった。翌48年、ヘンリー・ウォーレスの進歩党活動とともに左右の対立は激化し、CIOは大きく分裂することになった。さらに1949年の大会において、共産主義者追放の規則が採択され、その直後から翌50年にかけて計11組合がCIOから追放された。それは、CIOの性格変化をもたらす重要な転換点になった。以上の経緯を大会議事録の詳細な検討から精査したうえで、筆者は、マーシャル・プラン問題とウォーレスの進歩党(第三政党)運動への協賛の可否が共産系組合追放の決定的な契機であったこと、そしてCIOの反共的な行動が国内の反ソ・反共的な政治風土と相互に作用しあっていたことを指摘する。
 第1部最後の第9章で筆者は、CIOが1955年にAFLと合同するに至った経過を1次史料に基づき検討する。表面的には対等の合同として名称も両者を併記したAFL-CIOとなったが、実質的にはCIOがAFLの一部門となり、この合同は同時にCIOの終焉を意味するものとなった。このようにCIOが20年の歴史の幕を閉じた理由について、筆者は、(1)第二次世界大戦後の産業分野における技術革新に伴う労働形態の変化などによってCIOの組織化の発展条件が悪化したこと、(2)AFLが職能組合による組織原理に固執することをやめてある程度まで産業別組合方式を容認する態度に転じたこと、(3)CIOの活動に貢献しただけでなく組合数にして約3分の1の組合で指導的な地位を確保していた共産主義者が追放されたこと、(4)1952年11月にAFL、CIO両組織の会長がほとんど時を同じくして死亡したことで長年の対抗関係から合同に同意できないというきわめて人間的な感情的条件が消滅したことなどを、その重要な要素として指摘している。

 第2部は、以上のCIO史の諸問題に関連する諸問題を扱ったものであり、付論として位置づけられている。まず第1章で筆者は、AFLに代表されたアメリカ労働運動が政治活動に消極的であったことの原因論を史学史的に整理する。そしてアメリカにおける連邦制、大統領制、白人男子に限るとはいえ早期の普通選挙権の実現、多様な民族構成、絶えざる移民の流入などが、労働運動と政治活動とのアメリカ固有の関係性を生み出したことを指摘する。これに対してそれら条件は変化しており、アメリカでも労働組合に基礎を置く労働党を結成すべきだとの主張も多くの論者から出されてきた。これらについて筆者は、各論者がどのように議論を展開してきたかを概観する。
 次に第2部第2章で筆者は、第1章の問題提起を受けて、「アメリカにおける社会主義の不振」または「不在」をめぐる議論を検討している。そして、その議論のほぼ最初の論者でありながらわが国では十分に論じられていないゾンバルトの論考や、過去の論者に乏しかった「比較」の視点から問題を論じたリプセットならびにマークスの近年の議論を参照しつつ、労働運動と政治活動の関係が、同時にアメリカにおける社会主義の問題と重なっていることを明らかにする。
 第2部第3章で筆者は、以上に示されたような困難にもかかわらず、1930年代のアメリカで労働党を結成しようとする相当な努力が払われた事実を明らかにしている。当時の社会党・共産党の関係者や労働運動の活動家の努力にもかかわらず、ニューヨーク州を超えた全国的な労働党の成立に至らなかった点でそれは挫折した運動であったが、主としてCIOの活動家を担い手として「アメリカ労働党」が結成され少なくとも10年以上存在したことは無視できない歴史的事実であり、ローズヴェルト大統領支持という点ではいささか異質でありながらも、アメリカにおいてもヨーロッパにおけるような統一戦線あるいは人民戦線が部分的に実現したと考えることができると筆者は指摘する。
 続く第2部第4章で筆者は、労働党運動とも一定の関連を持ち、かつCIOにおける「共産系」組合追放の主たる要因となった1948年選挙における進歩党の問題を検討する。同党の無残な敗北は、当時の激化する冷戦体制に対応するアメリカ国内の反ソ・反共主義の強まりによるものであったとはいえ、以前からのアメリカにおける社会主義不振の要因によるところも大きかったと筆者は指摘する。
 最後の第2部第5章で筆者は、第1部で検討したCIOの「オペレーション・ディクシー」と一定のかかわりをもった南部労働者・農民を対象とする成人学校「ハイランダー・フォーク・スクール」の活動を、その指導者マイルス・ホートンに焦点を当てて検討する。そして筆者は、「ハイランダー・フォーク・スクール」が、ある時期にはCIOの活動家養成を引き受け、その資金援助を受けていたが、CIOが次第に同校やホートンが堅持した進歩的・左翼的な態度や人種統合論に懸念を示し、共産系組合の追放や「オペレーション・ディクシー」の放棄と前後して同校との関係を絶つに至ったこと、一方、同校側でも時代の要請の変化を感知して公民権運動家の養成に活動の中心を転換したことなどを明らかにしている。そして筆者は、「ハイランダー・フォーク・スクール」の活動方針転換が、CIOの性格変化とともにアメリカにおける社会運動の主たる焦点ないし課題が労働運動から公民権運動に変化していったことを示すものであったと評価する。
 
 結語において筆者は、以上の検討をふまえて、CIOの歴史的意義を次のように総括する。第1に、CIOは、アメリカ主要産業部門に労働組合を誕生させ、それまでの経営者・使用者の一方的な優位を打破し、労働者に交渉権を与え、労使関係に一定の「民主化」をもたらし、「産業民主主義」をある程度ながら実現した。第2に、その過程でCIOは人種差別を否定し、基本的には黒人労働者を白人労働者と同等に組合に参加させた点で、公民権運動を多少とも先取りし、アメリカ社会の民主化進展に寄与した。第3に、CIOが積極的に選挙その他の政治活動に参加し、相対的にはリベラルな民主党の左派勢力を形成するに至ったことは、さまざまな問題点を含むとはいえ、アメリカ政治における民主化の進展に寄与した。しかし同時に筆者は、CIOが産業別組織労働者の地位を相対的に安定的なものにするのと並行して、その社会変革の推進力としての側面を徐々に失っていったこと、さらにCIOとAFLとの合同がCIOの歴史的成果の進歩的側面を弱めたことを批判する。しかし筆者は、社会運動史の立場からCIOを考察するとき、このような制約や限界にもかかわらず、それは20年に終わったCIOの歴史的意義を否定することにはならないことを強調して論文を総括している。

3 本論文の評価
 本論文は、その論文題目が示すように、一貫して社会運動史の視点と方法に依りながら、CIOの20年史を論じた労作である。著者は大学院在学以来、CIO運動史を研究対象として関心を注いできたが、この間に当初はほとんど利用できなかったCIOをめぐる1次史料の開示も進展して、アメリカ労働史・ニューディール史研究におけるCIO史研究も徐々に展開してきた。こうした史料状況・研究状況を長年にわたって粘り強く追いながら、その集大成としてまとめたのが本論文である。
 本論文の成果として第一にあげられるのは、入手可能な先行研究と1次史料を詳細に検討し、また史学史、アメリカにおける第三政党問題、南部公民権運動史など関連する諸領域にも十分に目配りをしつつ、CIOの成立から終焉に到る20年史の全過程を再構成した点にある。言うまでもなく本論文はこの主題をめぐるわが国で初めての本格的な実証的歴史研究である。アメリカでは、史料の公開にともない幾つかの研究が存在するが、組織中央と末端における組織活動家の運動実態の双方について、大会議事録などの他に例を見ない詳細な検討と未刊行資料を精査した包括的叙述をなし得たという点で、著者に匹敵する研究はまだなされていない。
 第二の成果は、とくに事例研究という点で、南部の「オペレーション・ディクシー」に関して、これまでアメリカの研究でも全く明らかにされていなかった組織運動の現場の実態を明らかにした点である。1950年代以降の南部公民権運動の前史については、ニューディール期の南部黒人農民運動や同時期の南部白人による公民権運動などの事例研究が次第にその実態を明らかにしつつあるが、本論文はこの領域における組織労働運動史からの重要な貢献として高く評価できる。
 第三の成果は、上に述べた未刊行資料の精査とともに、一貫して社会運動史の立場すなわち運動主体の観点と論理を内在的に理解する視点と方法をとることによって、先行研究に対して重要な点で修正を迫っている点である。CIO史については、アメリカのいわゆるニュー・レフト史学やその後の労働史研究において、ニューディールに協賛したリベラル派の限界や敗北・転向という観点から否定的なCIO像が語られがちである。これに対して筆者は、こうした批判が、種々の歴史的制約を無視してCIOの組織的力量を過大評価していることを批判して、むしろCIO運動の形成と展開がニューディールの支持基盤の形成に一定程度貢献し、公民権運動につながる先駆的意義をもっていた点をこそ強調すべきだと論じている。その主張は、実証的研究成果とともに同時代の政治経済状況との連関を重視し、またCIOの歴史的成果をより長期的な観点から評価しようとする歴史学的視点に立脚しており、歴史の文脈からテキストを切り離した安易な言説批判に走っていない点で十分な説得力をもつことが高く評価できる。
 本論文には、こうした重要な成果が見出される反面、若干の疑問点や問題点も残されている。まず論文の構成については、全体を二部構成にしているが、読者が全体をより有機的な構成として統一的に理解しやすくするためには、第2部の史論(第1・2章)を全体の序論ないしは結論に組み入れ、第2部第3・4章のアメリカ労働党、進歩党などの第三政党問題は、CIOの政治運動を論じた第1部第4章や共産系組合追放を論じた第7章に組み入れ、ハイランダー・フォーク・スクールを検討した第2部第5章は「オペレーション・ディクシー」の叙述に組み入れることが望ましい。
 次に、筆者が一貫して社会運動史の視角からCIOを論じているその叙述の方法上の制約から、ニューディール体制論あるいはその第二次世界大戦後のアメリカ型福祉国家への展開など、アメリカ史における広義の政治経済秩序論から見たときにCIOの20年史とりわけAFLとCIOの合同がもつ重要な歴史的画期としての意義が、ややもすれば見えにくくなっている点も、問題点として指摘できる。たとえば筆者はCIO終焉の主たる契機を産業分野の技術革新と労働形態の変化によるCIOの組織力低下に求めるが、近年の労働史研究やアメリカ型福祉国家論で強調されるような、政治的経路を介しない団体交渉や労働協約を通じて組織労働者が要求を実現するシステムの成立が――実はこれを推進し成功させたのはCIOそれ自身だったのだが――逆にCIOの政治運動重視の方針を失速させたこと等も考慮する必要があるのではないか。欲を言えば、このようなニューディール体制論やアメリカ政治史・政治学研究の近年の論点と交差する叙述をより本格的に展開していれば、筆者の研究の意義は、より確かなものにできたのではないかと思われる。
 ただし、これらの問題は、本論文のアメリカ社会運動史研究そして我が国で初めての本格的なCIO史研究としての研究上の意義を低めるものでは全くなく、この研究が喚起するであろう学問的議論のなかで、筆者のさらなる応答を期待するものである。
 以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与するところが大きいと認め、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断する。

最終試験の結果の要旨

2004年5月19日

2004年4月28日、学位論文提出者長沼秀世氏についての最終試験をおこなった。本試験においては、審査委員が提出論文「アメリカ社会運動史研究―産業別組織会議(CIO)の諸問題」に関して、逐一疑問点について説明を求めたのにたいし、長沼秀世氏はいずれも簡潔かつ明快で過不足ない説明を与えた。
 また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語および専攻学術に関する学力認定においても、長沼秀世氏は十分な学力を持つことを証明した。
 よって審査委員一同は長沼秀世氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した

このページの一番上へ