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博士論文審査要旨

論文題目:アダム・スミスの制度主義経済学
著者:田島 慶吾 (TAJIMA, Keigo)
論文審査委員:嶋崎隆、平子友長、星野彰男

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1.本論文の構成
 本論文は、スミスの『修辞学・文学講義』(1762-63 年)などを含め、彼の『道徳感情論』(初版1759年、第六版1790年)、『グラスゴウ大学講義』(法学講義)(1762-63 年, 66年)、『諸国民の富』(初版1776年)を中心に、スミスの(広義の)道徳哲学の体系を、倫理・法・経済という総合的なテーマのなかで、先鋭な問題意識できわめて緻密にかつ詳細に解明した著作である。ある意味で本論文は、かつて提起された「アダム・スミス問題」に含まれる経済と倫理の関係というテーマを、スミス自身の著作に深く内在することによってさらに発展させたものといえよう。なお本論文は、すでに2003年4月にミネルヴァ書房より刊行されている。
 本論文の構成は以下のとおりである。

はじめに
凡例
第一章 スミス経済学と制度
 第一節 スミスの制度主義経済学
 第二節 スミス道徳哲学体系における政治経済学の占める位置について
 第三節 スミス経済学の制度主義的解釈について
 第四節 資本の自然的投下順序とマナーズ
 第五節 スミス道徳哲学における緊張について
第二章 アダム・スミスの方法
 第一節 『修辞学・文学講義』の方法的性格について
 第二節 『修辞学・文学講義』の構成とその内的論理
 第三節 「論説の諸形態(Forms of discource)」
 第四節 『文学講義』における「社会科学的論説」
 第五節 『道徳感情論』における行為理論
第三章 スミスの社会的行為論
 第一節 スミスの社会的行為論
 第二節 『道徳感情論』分析
 第三節 「外部感覚論」における Affection論
 第四節 『感情論』初版における徳性論
 第五節 「事物の自然の成りゆき」と「人類の自然的諸感情」について
第四章 『諸国民の富』研究
 第一節 「文明社会」とスミス経済学
 第二節 『諸国民の富』の基本的問いとは何か?
 第三節 『諸国民の富』第一編の論理
 第四節 資本蓄積論 第二編
 第五節 「事物の自然的成りゆき」と「資本投下の自然的順序」
 第六節 アダム・スミスにおける経済と国家 第五編
 付論 スミスの支配労働論
第五章 スミスの道徳感情腐敗論
 第一節 スミスにおける経済と倫理 「アダム・スミス問題」
 第二節 『感情論』における道徳感情を腐敗させる諸要因
 第三節 システム原理と「歓喜への同感」
 第四節 分業の進展と徳性の腐敗 『法学講義』と『諸国民の富』
 第五節 スミス最後の言葉
 第六節 情念と欲望
あとがき
参考文献
人名索引
事項索引

2.本論文の概要
 第一章「スミス経済学と制度」では、著者の意図に従ってスミスの全体像が簡潔に描かれる。さて著者は、自分のスミス研究のアプローチを制度主義的方法と述べる。ここでいう制度主義的方法とは、市場における個人の行動の原理を経済合理性(効率性)のみに求める経済学の通常の想定とは異なり、伝統、習慣、規範、法、国家などの制度的要因が個人の行動を規定し、この意味で、個人の行動は集合的・社会的行為と把握されることを意味する。以上のように、ここで行為と制度の相互作用が問題となる。この点で、スミスは利己心の自然な追求がそのまま社会全体の利益となるということを素朴に主張したわけではなかった。こうして制度主義的方法とは、著者によれば、広くスミスの体系を、倫理規範を含めた「経済社会学」とみなすことを意味する。この観点から、スミスの体系である〈倫理学・自然法学・政治経済学〉が展望される。このさい、上記三部門は有機的に絡まりあい、相互に浸透しあっているが、倫理学は同感による徳=倫理の形成を中心とし、法学は正義論と治世(police)論(国家収入、軍備を含む)からなり、経済学は国家と人民の富裕化を主目的に、治世論的テーマや教育論・宗教論も含む。
 さて著者はここで、従来のスミス研究の潮流に批判を加え、そのなかでみずからの問題意識を明確に打ち出す。第一は「経済学の生誕派」(ホント&イグナティエフ、田中正司ら)と名づけられるもので、同感理論と正義の法という制度を媒介に、経済的自由の体系としてあらたにスミス経済学が誕生したという見解である。だがこの解釈は、のちに示されるように、不十分なものである。これに対立する第二のスミス解釈は、ポーコックらのシヴィック・ヒューマニズム論であり、これは古典的共和主義をモデルにし、経済を強く共同体のなかで実現される政治的徳の枠内で議論するものであり、おのずとオイコノミア(家政)に関する学という古めかしいものを想定すると批判される。さらに第三にとくに強く批判されるべき解釈は、スミスのいう「自然的自由の体系」(『諸国民の富』第四編)を引き合いに出し、交換的正義を条件に自由な市場メカニズムを強調する見解(サミュエルソン、シュンペーター、ボウルディング、ホランダーら)の解釈である。本論文の意図は、スミスの諸著作を包括的に読解することによって、上記の一面化されてしまった諸解釈を批判し、あらたなスミス像を提起する点にある。とはいえ、本章は著者の結論部分をきわめて簡潔に打ち出したにとどまり、その詳細はさらにのちほど展開される。
 第二章「アダム・スミスの方法」では、おもに『修辞学・文学講義』が扱われ、いかに人間のことばと行為が社会形成に関わっていくのかをテーマとし、現在、ふつうに想定されるような経済学方法論が述べられているわけではない。スミス修辞学の新しさは、言語的な同感のなかで人間の感情や行動の道徳的な是認・否認がおこなわれ、総じて人々の行為が社会のなかでいかに適宜性を形成するかを述べた点にある。そして著者はこのテーマが『道徳感情論』に連なっていると指摘する。ここには問題設定における二つの次元があり、ひとつは「言語」(ことば、文体、修辞)であり、他のひとつは「説得」(説得と納得、証明、合意、共通意見の形成など)であり、もちろんこの両者は密接に関連する。さらに著者は『修辞学・文学講義』の構造を図示し、記述的、科学的、修辞的などの論説を考察する。ところで、著者によれば、同感とは、道徳的判断能力のことであり、人間感情に基礎をもつ。ある状況におかれた行為者の言動に観察者が納得すれば、そこに行為の適宜性が生じ、行為の動機と結果にも広く納得がなされればその行為は徳性があるとみなされ、ここに道徳の一般規則が生ずるとされる。こうした同感論は次章および第五章で詳細に問題とされる。
 第三章「スミスの社会的行為論」は、スミスの(狭義の)道徳理論を現代的に社会的行為論と解釈することを目ざす。ここでまず著者が従来の説明に関わって注意するのは、同感原理が単に行為をめぐる道徳の一般規則を形成するのみならず、諸個人の行為がその規則から逸脱・乖離する可能性を含むことであり、これがのちほど道徳感情の腐敗として問題とされ、スミス体系の困難さを導く。さて、著者はここできわめて詳細にスミスの徳の理論を検討する。そこに流れる人間本性の三つの原理(同胞感情への依拠、説得と支配の本能、利己心による交易本能)を列挙し、その根底に、利己心を規制する、「想像上の立場の交換」による同感原理があるという。そして人間行為の総体は、おもに慣行的同感、義務の感覚(仁愛、慎慮を含む)、正義の諸法、歓喜への同感の四つによって規制されるとみなされる。ヒュームから継承し、以下でも重視される「歓喜への同感 sympathy with joy」とは、権力や富の点で、より優れたものへの共感であり、一方で支配秩序を維持する原理であるが、他方で野心や貪欲を刺激する情念を生み出す。
 著者が強調するのは、経済人の徳として重視されるべきものが、単に正義のみではなく、「中立的な観察者」を内部化する「慎慮の徳 virtue of prudence」であり、これによって人々は理性的に行為の帰結を判断し、それは自己制御の能力を含む。このさい、正義の徳は単に所有権と等価交換に関わるのみであり、慎慮の徳はさらに、生産と資本蓄積に関わるとされ、勤勉と倹約の精神を含み、また「上級の慎慮」になると、この徳は単に是認されるのみならず、さらに感嘆されるべき徳であると規定される。この慎慮の徳が従来のスミス研究では、十分に把握されてこなかったといわれる。いずれにせよ、著者はスミス体系の深い整合性を把握したのちに、そこからさらに発生する、彼の思想上の格闘ぶりを再現する。貪欲で野心的な「勤勉な悪漢」と「善良な怠け者」との対比における本章最後の事例がそのひとつであり、このさい「事物の自然的成り行き」は悪漢に加担し、「人類の自然的感情」は怠け者に共感する。この二種の「自然」のなかで、スミスは自然的成り行きを放置するのでなく、人間の自然的感情の美徳によってこれを是正させようとする。著者はここに、道徳感情論の批判的な意味を見ようとする。
第四章「『諸国民の富』研究」では、まずスミスのいう「文明社会」の特質が列挙され、そのまとめに関わって、スミス経済学を、完全競争のもとにおける所与の資源の最適配分の理論などと見る見解(シュンペーター、ホランダー、ブローグら)を含めて、再び従来のスミス解釈を批判的に総括する。いずれにせよ、著者の理解では、スミスの全体的意図は、国富の増大のみならず、労働者の実質賃金の増大であり、また『諸国民の富』と法学講義を貫く「治世」論の展開であり、さらに商業精神との関連で論じられるマナーズ(生活態度、資本家の倹約と労働者の勤勉)の形成である。著者は「富」を「土地と労働の年々の生産物」と規定するスミスに注目し、この物財的な富の内実が純生産物をなすとしたのちに、賃金、利潤、地代に関する富(収入)の総計がこの純生産物を構成するという。そのさい、労働貧民への分配が「公正」に行われる点が重要であると指摘される。この点からまた、スミスにおける投下労働価値説と支配労働価値説の矛盾という指摘は、スミスの価値論を誤解しているという。
 さて、著者の指摘する大きな問題点は、『諸国民の富』の中心主題に関して、それをその第一編におくのか、それとも第二編を重視すべきかということである。分業による富の増大、価値、価格、三大階級への分配などを含む第一編はもちろん重要ではあるが、ここでの展開を、「見えざる手」や「自然的自由の体系」(第四編)と結び付けて、パレート最適論を一面的に強調するところに、新古典派的なスミス解釈の誤りがあるという。むしろ著者はこの第一編を前提としつつも、第二編をスミス経済学の眼目とする。第二編の資本蓄積論のテーマは、資本家の利己心と倹約を主体的要因とする資本蓄積が生産的労働者の雇用量と労働生産性の上昇を生じ、富を増大させるという点にある。そのなかで著者は固定資本・流動資本、生産的労働・不生産的労働などの細かな論点をちりばめつつ、「資本投下の階層性の論理」におおいに注目する。この論理は等額の資本が活動させうる労働の量を基準に、農業→製造業→卸売業→小売業→外国商業の順に資本を投下することを意味し、これが「事物の自然的運行」とみなされる。だがこれは、新古典派的論者のあいだでは、利潤主導の自由な資本投下に反するものとして、スミス理論のもっとも弱い部分とされたものであるが、逆に著者は、当時の時代背景のもとで、都市と農村の分業的交換を条件に生産的労働の雇用量を最大化し、安定した経済成長と富裕化を確保するものとして、この資本の投下の階層性の議論を重視する。スミス経済学は単なるレセ・フェールの体系ではない。まさにこの点と必然的に関わって、著者はスミスが「主権者の義務」として、経済政策、国防、司法行政、人民の教化を列挙したことにも論及する。
 第五章「スミスの道徳感情腐敗論」では、著者は従来の諸説を批判しながら、総合的視野から緻密で深いスミス解読を試みる。ところでかつて、『諸国民の富』(利己心による)と『道徳感情論』(利他心による)のあいだにある矛盾を想定して「アダム・スミス問題」が語られた。『グラスゴウ大学講義』(法学講義)の発見がこの両者の媒介の認識を促進したわけであるが、著者は新しい次元でこの問題を提起する。この点で、もし「分業の進展にともなう〔労働者の〕徳性の腐敗」を承認し、スミス倫理学の慎慮の人を『諸国民の富』における倹約の人とつなげられればスミス体系は完結する、という従来の解決法は不十分とされる。というのも、スミス自身が労働貧民のみならず、すべての人民大衆の徳性の腐敗にたいし政府は何らかの注意を払うべきであると述べ、とくに具体的には、「歓喜への同感」による道徳感情の腐敗を、スミスが強く問題視するからである。この問題への諸説の批判を行いつつ、著者はスミスが分業による労働疎外の問題を重視はしたが、それほど深刻に考えなかったという。労働者の徳性の腐敗の問題に関して、詳細に見ると、スミスは分業に束縛された彼らの愚鈍化、教育の閑却、「労働者層における観察者概念の不成立」などの問題を指摘するという。とくにここで、都会に移住した労働者が観察者をもたないという弊害に関連して、スミスが宗教的教化や国家による教育によってこの問題を是正しようとしたと著者は指摘する。
 それにたいし、スミスは、富者や権力者への賛美・憧れや虚栄心の満足を引き起こす「歓喜への同感」にもとづく中下流の階層の腐敗の問題をより深刻に考えた。『感情論』第六版の増補・改定の主たる理由もそこにあるという。実はスミス同感概念には矛盾した二重性があり、それが想像力によって徳性を積極的に形成する方向に働くとともに、想像力によってかえって貪欲や野心を引き起こすようにも働く。さらにスミスは『感情論』で、権力者や富者のもちものや装置にあこがれる、効用への美に言及する。これはモノやシステムにたいする愛好であるから、ここでは一方的な感情のみがあり、道徳感情は失効する。
 以上の深刻な事態にたいし、とくに「歓喜への同感」による腐敗に対処するために、スミスは『感情論』第六版を大きく増補・改定したが、彼がそこで構想したあらたな倫理学は上級の慎慮、正義、「普遍的仁愛」、さらに自己制御の徳であった。そのうえで、さらに彼は新しい自然法学を構築しようとしたが、果たされなかった。著者によれば、スミスによって富裕化と徳性が一致すべきものとして描かれた社会は、「商業社会」の自己疎外によって、腐敗を免れない社会へと変質したと解釈されるのである。スミス体系の困難さは、そうした現象的な事実の反映なのである。想像力による、富と権力への願望と憧れの増大は、来るべき消費社会の到来をも予感させるものであった。

3.本論文の評価
 本論文で著者は、スミスの倫理・法・経済に関連する上記三つの著作等を一度解きほぐして、そこにはらまれる、生き生きとした内在的連関をできるだけ深く追究しようとする。こうしてスミス体系は、これらの著作のなかである意味で完結していると結論される。だが同時にまた、道徳感情の腐敗論に見られるように、実はこのスミス体系に深い矛盾と悲劇が宿されており、それは単にスミス理論の弱点というものではなく、市場経済とそこに生きる人間に内在する問題点でもあり、その問題とスミスは格闘したのである。こうした陰影に富むスミス像を本論文は鮮やかに浮かび上がらせることに成功している。以上の雄大かつ詳細にわたる分析の方法と叙述に、本論文の第一の特長があるといえよう。こうしたスケールの大きい考察は、高島善哉氏らによる一橋大学伝統の市民社会論というテーマを、ある意味で継承していると考えられる。
 著者が内容的に主張する個々のオリジナルな論点が第二の特長として列挙される。それらはいずれも、上記第一の全体的特長を内部から支えるものであるといえよう。それはいくつも見られるが、たとえば、スミスの全体思想を制度主義的観点ないし経済社会学的観点から粘り強く展開したこと、この観点からの資本の投下順序への注目、『諸国民の富』の第一編と第二編の関連づけへの検討、さらにマナーズ(生活態度)、慎慮の徳、自己統制の徳、歓喜への同感などの一連の道徳論への注目・再解釈、事物の自然的成りゆきと人類の自然的感情の関わりなどに見られる、複合的な自然概念への注目、などである。
 本書の第三の特長は、スミス研究とその周辺の経済学的・社会学的問題に関する膨大な日本内外の研究文献を渉猟し、それらの著作を丁寧に分析し評価し、それに絡めて自説を展開したことにある。こうした研究文献の読解重視のスタイルは、本論文の説得性を増大させており、巻末の参考文献はかなりの数にのぼるが、それでも本論文で引証された文献のすべてを網羅したわけではない。
 こうしてスミス研究、さらに経済思想史や社会哲学の分野においても、本書はマクロ、ミクロの論点にわたってきわめて清新な風を巻き起こし、当該学問分野に大きな貢献をなしたと考えられる。思想家アダム・スミス自身の巨大な意義のみならず、著者のテーマが市場経済をめぐる現代の問題(新古典派から新自由主義へ)にも波及するだけに、さらに興味深いものがあろう。
 とはいえ、本論文には問題点もなくはない。抽象的な理論的著作としてその叙述がきわめて難解である点をおくとしても、『諸国民の富』の第一編と第二編の関連づけの問題には、まだ論争の余地があるだろう。さらに、スミスにあまりにも内在するあまり、スミス研究から取り出してきた結論が、現代的観点から見て、いかに妥当するか否かがそれほど語られていないことである。それらは、歓喜への同感と道徳的腐敗、資本投下における農業重視、教育と宗教的教化の役割、新古典派への現代的評価などの問題に関連して生じている。だが現代的問題との対決は、ビジネス・エシックスをも手がける著者にとって次の課題といえよう。さらにマルクス経済学との対比や、著者がベースにしていると考えられるウェーバー社会学自身の考察が具体的に展開されれば、本論文の意図と内容の理解がさらに説得的となると思われる。いずれにせよ、こうしたスケールの大きいテーマは、著者にとって将来の課題として残されているといえよう。細かな点では、著者がスミスの叙述に食い込もうとするあまり、十分に消化されずに叙述された点がいくつか見られる。だが全体として、こうした問題点は、本書の詳細かつ広範な研究の価値を大きく減ずるものではない。
 よって審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく寄与するものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2004年5月19日

  2004年3月17日、学位請求論文提出者田島慶吾氏についての最終試験を行った。 本試験では、審査委員が提出論文『アダム・スミスの制度主義経済学』について、逐一疑問点について説明を求めたのにたいし、田島氏はいずれも十分な説明を与えた。
 また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語および専攻学術に関する学力認定においても、田島氏は十分な学力をもつことを証明した。
 よって審査委員一同は、田島慶吾氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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