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博士論文審査要旨

論文題目:戦後日本における「地域と教育」論の史的展開
著者:朱 浩東 (ZHU, Hao Dong)
論文審査委員:藤岡貞彦、三谷 孝、関 啓子

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一、論文の構成

 本論文は、戦後初期から1980年代初めまでの日本における「地域と教育」論の展開過程を戦後史の流れの中にあとづけるとともにその「理論研究」と「カリキュラム実践」の両面から分析した論文であり、400字詰原稿用紙810枚からなっている。
 本論文の構成は、以下の通りである。

序論
第一章「地域と教育」論研究へのアプローチ
 第一節 問題の所在
 第二節 本論の研究対象・枠組と意義
第二章 戦後改革期の「地域と教育」論
 第一節 教育の地域性と「地域教育計画」
 第二節 「川口プラン」と「本郷プラン」の成立
 第三節 戦後改革期の「地域と教育」論形成過程の特質
第三章 高度成長期の「地域と教育」論
 第一節 新教育批判と「地域と教育」論の困難
 第二節 上原專祿国民教育論の形成
 第三節 「地域の地方化」論と国民教育研究所の六県研究
 第四節 「地域教育計画」の挫折と上原「地域と教育」論生成の特質
第四章 ポスト高度成長期の「地域と教育」論
 第一節 地域教育運動と「地域と教育」論
 第二節 「地域に根ざす教育実践」の論理
 第三節 「地域に根ざす学校づくり」の論理
 第四節 「教育における住民自治」の論理
 第五節 ポスト高度成長期の「地域と教育」論形成過程の特質
結章
 第一節 各時期の「地域と教育」論の契機
 第二節 「地域と教育」論の内容と特質
 第三節 戦後日本の「地域と教育」論―教育学説の社会的形成過程
補論 現代中国における日本教育研究


二、本論文の課題と概要

 朱浩東氏の学位請求論文「戦後日本における『地域と教育』論の史的展開」は、1940年代半ば日本の敗戦時から、1980年代初頭、いわゆる高度経済成長の終焉・転調期までの30余年間にわたって、戦後日本の教育理論の中で、「地域と教育」という主題のもとにいかなる学説が形成展開されていったかをあとづけ、一つの教育学説が社会的にいかに形成されていくか、その過程を考察した論文である。
 朱氏が、戦後日本の「地域と教育」論を研究対象としてとりあげたのは、以下の理由による。第一に、中国における戦後日本教育史の紹介にいちじるしい偏りがあり、明治初期以来の一貫した国家主導の近代化政策が戦後高度経済成長期に頂点に達し、そこで完成した日本教育の成功モデルが中国の現代化政策の学ぶべき先進例ととらえられている中国での通説への<疑問>である。第二に、高度経済成長期における経済計画と教育計画とを直結させた教育政策は、第二次大戦後のさまざまな地域での教育実践の試みの廃絶のうえに成立したものであり、多種多様な遺産を整理しその理論的系譜を点検することから経済成長後の教育のあり方を願望する必要があるという<認識>である。第三に、1990年代に入って、現代日本教育の世界において<分権・自治・参加>のコンセプトによって、あるいはまた「学校スリム化」政策によって教育改革の展望が理論化されようとしている現実に立って戦後教育史を回顧分析する時、そこに大きな寄与を果たしたのが「地域と教育」論研究の所説であり、この教育学説の社会的形成過程を明らかにすることが、単に教育学説の研究にとどまらず、日中比較教育史の前進に一定の貢献を果たす、という<見通し>である。

 もし、右の<疑問>と<認識>と<見通し>が統一的に解明されるならば、今後の日本についてはもとよりこれからの中国の教育政策とその研究にも大きな示唆を与えるであろうとするのが朱氏の研究関心の中軸である。そのための論文の構成は、概略以下の通りである、
 第一章 「地域と教育」論研究へのアプローチ
 第二章 戦後改革期の「地域と教育」論
 第三章 高度成長期の「地域と教育」論
 第四章 ポスト高度成長期の「地域と教育」論

 第一章では、『戦後教育の歴史』(五十嵐顕)・『戦後日本教育史』(大田尭編)・『日本教育小史・近現代』(山住正己)・『戦後日本教育理論小史』(海老原治善)など、戦後日本教育史研究の基本文献の中から、「地域と教育」という問題がどのように理論的に構成され、展開せしめられていったかがあとづけられ、その史的展開過程が明らかにされている。朱氏によれば、戦後日本の教育学説の中にたちあらわれ形成されてくる「地域と教育」論は、近現代日本の教育の国家による支配に対して、公教育制度の組織単位としての「地域」、学校づくりの土台としての「地域」・教育内容としての「地域」のいずれか、あるいはそれらのいくつかの視点に立脚して提出されたアンチテーゼであると定義される。そこから「地域と教育」論とは「公教育制度と地域」「学校と地域」「教育内容と地域」おのおのの関係を問うために用意された教育学説であるという規定が生じる。

 従来、教師論・教育実践論・教育課程論・学校論等の諸分野の中で、それぞれの学問分野に応じて個別に論じられてきた「地域と教育」の関係を問う諸論点を、分野別の研究アプローチの差異を越えて、朱氏は、戦後の各期ごとに共通の課題意識がみられることに注目して、この学説の形成過程を探究しようとこころみる。

 そのために、本論文では、以下の三つの章で、戦後改革期と高度経済成長期という二つの大きな変動期をとりあげ、個別分野の個性的な理論が分野を越えてどのように総合され展開してきたかをあとづけ、主題解明に即した方法を提示する。

 第二章では、戦後改革期の「地域と教育」論が、「教育の地域性と地域教育計画」(第一節)、「地域社会の改造とカリキュラム改造」(第二節)、「地域生活の現実と子どもの社会認識形成」(第三節)の三つの視角から論じられている。

 この時期、国家権力からの解放・教育行政の地方自治のもとでのカリキュラム自主編成の流れの中に、「地域と教育」論は典型的にたちあらわれてくる。「地域課題の理解」、「地域現実問題の解決」が教育内容編成の原理としてうちだされ、広島県本郷地域教育計画における教育委員会の原型ともいうべき「教育懇話会」構想の実施にみるような地域住民の教育意志による教育づくりが試みられた。

 まず、戦後改革期におけるコミュニティー・スクール理論の導入が、第一期の「地域と教育」論を生み出す土台となったことに光があてられる。アメリカのコミュニティー・スクール論の一連の著作『学校と地域社会』、『教育とコミュニティー』等の翻訳紹介も、アメリカ進歩主義教育理論の具体化として大きな力を果たした。同時に、戦前の民間在野の研究運動の系譜を発展させた生活綴方運動に源流をもつ教育運動の復活発展も、「地域と教育」論を推進させた。この系譜の線上で、東京府下西多摩地区の一つの小学校区で展開された、地域生活の現実から子どもたちの社会認識形成のための社会科を構想し実践した「西多摩プラン」の理論と実践を朱氏は高く評価していることを特筆しておきたい。

 教育課程研究における「地域と教育」論がコア・カリキュラムづくりに収斂され、新しい教科としての社会科に焦点づけられたこの時代に、カリキュラム編成の主体として地域住民の教育意志の結集が、「本郷プラン」にみるような「教育懇話会」の力によって進められ、その延長としての教育委員会の理念が芽生え、ひいては、教育行政の地方自治の具体化が展開されるという<カリキュラム改革>と<教育の地域計画主体>と<地方教育行政システム>の三位一体化がこの時期の特徴であり、それが「地域と教育」論の現実化の核をなすことは、第一期の特色であり、それ自体が戦後日本の教育改革の根本理念の具体化をあらわしていた。

 この点こそは、明治以降の日本教育の展開を近代化の直線的具現化としてみる中国での日本教育史理解とあいいれない朱氏の発想の根幹であり、教育学諸理論の総合としての「地域と教育」論というカテゴリイに氏が注目した所以といえるであろう. 「地域と教育」という角度から照射した時、はじめて各期の教育と教育改革の特徴がきわだってみえてくるという学説史探究の方法を朱氏は提出しているのである。

 第三章では、戦後教育改革への反改革が全面的に展開し、1950年代前半までの「地域と教育」論の成果が廃絶され、教育への国家の一元的支配が復活し完成する高度経済成長期がとりあげられる。「新教育批判と教育改革の転換」(第一節)、「地域の変貌と国民教育論の形成」(第二節)、「上原專祿による国民教育論と『地域の地方化』論」(第三節)、「上原教育論の特質」(第四節)の四つの視角から「地域と教育」の乖離・断絶の中から、戦後教育理論の分水嶺をなす歴史学者・上原專祿の教育理論の画期的な問題提起の本質が論じられる。

 「地域と教育」論の中軸をなす<学校と地域>の関係には、常にある種の困難がともなっている。教育社会学の世界ではこれまでも制度としての学校が地域と乖離する本性をもってきたとの指摘がおこなわれてきた。事実、戦後改革期の「地域と教育」論は、コミュニティー・スクール論に領導され地域社会改造の理想像をかかげたが、地域と教育の関係に関するとらえ方は、おおむね教育内容編成論にとどまり、教育づくりの主体と期待された地域住民による教育づくりの実験も教師の努力も、この乖離をのりこえることはできなかった。後年、大出尭ら、地域教育計画づくりの提唱者自身による反省にもみられるように、学校の本来もつ制度としての性格に根ざす内部的な弱点に加えて、1950年代半ばのあいつぐ教育政策上の転換 ― 教育行政・教育課程・教育制度面での ― 、なかでも勤務評定・学力テストに示される教師の教育の自由への強力な国家支配による制限は、カリキュラムの自主編成の権限を教育現場から奪取し、教育委員会の性格変更による地域住民の教育意志の結集の場としての教育懇話会が消滅し、その延長線上に構想された地方教育委員会の地域性が廃絶せしめられたことによって、政治的に地域と教育の断絶が政策的にはかられた。一方、経済の面からも1960年代初頭、国家主導の長期総合教育計画が立案策定されるに及んで、教育が経済政策とむすびついた労働市場形成の場として確定されるにいたる。<地域と乖離する>本性をもった学校の内側から地域との提携を求める学校民主化の方向性も、地域からの民衆統制を求める地域住民の教育要求のルートもともに道がとざされようとしたこの時期に、歴史学者・上原專祿が「地域と教育」論の新しい担い手としてたちあらわれたことが、第二期の特徴であると、朱氏は立論する。上原は、1950年代末から勤務評定・学力テストの強行を前にして、政治的には新安保条約の、経済的には国民所得倍増計画のなかに近代的合理主義の仮面をかぶった反民主的反民族的な教育政策が貫徹していることに警告を発し、他方では敗戦後十年間にわたるいわゆる「新教育」の抽象性とコスモポリタン的性格を剔抉して、「明日の日本社会の創造という全国民的課題の積極的担い手」の形成をめざす「国民教育論」を提唱してきた。そして、「国民教育論」のもっともブリリアントな側面が、上原の「地域の地方化」に抗する教育論であった、と朱氏はいう。

 すでに50年代初頭に対談集『日本人の創造』において民族独立の自覚と日本人の「市民性」「人類性」の覚醒という教育目的を解明していた・上原專祿は、60年代に入って「高次のポリテイクとしての教育」論を展開し、民衆一人一人の「生活現実」と「生活実際性」に即して問題をつかみとる<生活現実の歴史的認識>を提唱していた。日本人の生活現実、それは地域の実生活のなかにある。明日の日本社会の創造という全国民的課題の若い積極的な担い手は、<地域-日本-世界>をつらぬく地域認識と世界史認識の結合によって初めて生まれる。こう考える上原の眼前に展開していたのは、所得倍増政策の土台としての急速な地域開発政策であり、地域開発に直結する学力テスト体制の組織化であった。経済成長と教育政策の結節点にあるのは、地域から個性と主体性を奪い去り、中央政府の意志を実現する単なる下請けの場としての地方に転落せしめる<地域の地方化>政策に他ならない。新しい日本人の創造という教育目的を空洞化させるこの潮流に抵抗することを、上原は日本の教育界に呼びかけたのであった。そのためには、地域における「生活実際性」の抽象化に抗して、「個性をもっている生活集団の有機的な複合体」である地域を、固有の価値概念を内在する生きた自治体としてとらえなおし、地域の個性と主体性の確立を媒介にして、はじめて世界史レベルでの「市民性」「人類性」が獲得されるのであるとする。あらゆる教育問題の研究について世界と日本と地域の統一的把握のための方法を確立し、教育を担う主体形成の論理としての「地域と教育」論をめざすところに、戦後改革期の所論の抽象性と輸入性を克服し、地域社会破壊の現実を正視する上原教育論の眼目があった。

 独特の歴史観にもとづく「地域の地方化」論に立って、教育における地域研究の重要性を提起した上原の問題提起は、中央でつくられた長期総合教育計画の前に苦闘する日本の教師に大きな励ましを与えた。

 国民教育研究所(上原專祿議長)の研究活動を背景として行われた六つの県(岩手・山形・千葉・宮城・和歌山・高知)にまたがる各県の教師集団と研究者組織による大々的な地域教育調査が、その具体化である。六つの県は、後進経済開発地域と農村地域とに大別される。前者からは、地域開発に将来をかける経済計画に従属する地方教育計画が学力向上対策を中心に展開する様相が、後者からは衰退する農山村において農林業の維持発展に将来をもとめる地域自生の努力が見定められた。岩手と山形の調査報告の中から、新しい教育創造の過程と教育理論・実践面での戦前来の遺産の継承があとづけられたと朱氏は特筆している。

 上原の独特な教育思想と地域認識の結合による「地域の地方化」論は、敗戦直後の地域社会学校論とはまったく異なる「地域と教育」論である。それは、戦後教育学理論の革新をもたらす一つの分水嶺となるべきものであった。しかし、日本の教育界は、高度経済成長のただなかにあり、理論の思弁的性格も加わって、日本の教育運動全体を動かすまでにいたらず、60年代半ば上原は失意のうちに国民教育研究所を去り、再び教育界へもどることはなかった。

 第四章は、経済高度成長にかげりがみえ、その終焉・転調をむかえる1960年代後半から80年代初頭にかけての分析である。

 この時期、政策的に、「経済開発」に代わった「社会開発」論にもとづくコミュニティ政策が各省庁からうちだされた。広く各界で人間形成の社会的過程に対する見直しが行われ、教育の世界でも、教育の内容・方法から学校組織のあり方、さらに公教育制度の組織形態にいたるまで、経済成長の諸結果への反省が生じた。敗戦直後の諸実践の再評価(「教育計画論の復権」1975年、藤岡貞彦)作業もふまえて、教育制度・内容・方法・学校組織の検討が始められたのが、この期の特徴である。「生活の質」の問い直しが教育の世界へ及ぶ時、「地域と教育」論の深化再興のために、民俗学や地域社会学、社会史、自治体問題や環境問題研究にかかわる諸科学が援用され、「地域」の意味も多義的なものとなっていく。第一期の旗手であった大田尭は、後に『地域の中で教育を問う』(1989年)に集録された諸論稿において、人々の内側からの自主的な連帯関係の創造を核とする「子育てと教育のためのシヴィル・ミニマム」の保障を提起し、岐阜県中津川市教育市民会議や東京都中野区教育委員準公選運動のような「地域からの教育改革」を提唱した。中内敏夫・藤岡貞彦の協同による「発達を保障する教育運動と教育計画」(1979年)は、「地域の再建と教育の再建とを一つのものとしてつかむ」教育計画の主体の形成過程の論証をこころみている。

 第四章の最大の特徴は、朱論文が第一章で仮設した、・「公教育制度と地域」、・「学校と地域」、・「教育内容と地域」の三つの枠組みに対応する理論化が、実践の裏付けを伴って提出され始めたことである。

 第・点についていえば、教育委員準公選運動に集約される地方教育行政へのなんらかの改革-住民参加が、理論・実践両面にわたって焦点となる。第一・二期以来の「地域と教育」論と、それとは発想と出自を異にする社会学上のコミュニティ研究から「学習社会の水平的統合」を提唱した教育社会学者・松原治郎らの理論との交差と総合が、この期には注目される。「公教育制度と地域」の理論化の一つの集約点である「中野区教育委員選任問題専門委員会答申」にあたった委員会が、松原をふくむ、教育行政学・教育社会学・教育法学・社会教育学の研究者による協力で構成されたことは、「地域と教育」論が、個別の専門領域をこえてこれら諸領域の総合と協力の上にはじめてなりたつことを示す一つの証左となった。

 第・点についていえば、朱氏は同じく教育社会学者・失野峻が地域教育社会学を構想し、家庭・学校・地域三者の協力による「新しい<教育システム>」を提唱したことに注目する。たとえば、教育における都市と農村の交流をめざし、“都市の中の生徒の心身の発達を自然の中で”を目標にかかげた勤労体験学習を15年にわたって展開した東京都荒川区日暮里中学の都市・農村交流事業は、まさに、地域に支えられ、父母の教育意志の上にはじめて成り立つたものである。ここに、学校運営協議会の萌芽を見いだすこともできよう。

 第・点についていえば、地域の課題・地域の変貌それ自体を教材として展開された総合学習・課題学習の先駆がこの期にみられた。社会科の教師・鈴木正気の実践記録『川口港から外港へ』に、朱氏は、教育内容と地域の関係についてのコア・カリキュラム段階とは異相にある高い教育的価値をみいだしている。鈴木実践の理論的土台として、鈴木の属する教育科学研究会の教育内容研究の歴史とその変容にも氏は止目し、教育内容方法論研究の新しい切り口とする。

 上記の三点は、氏によれば、高度経済成長の終焉・転調にあたって、教育の世界に生じた教育における地域概念の再評価の必要が広く認識され始めた所産であった。地域共同体が都市・農村を問わず、全面的に解体の危機にさらされた時、あらためて、地域社会のもつ人間形成力がとらえかえされ、理論と実践の相互交流の中で、戦後日本教育における「地域と教育」論の原型が姿をあらわした、とするのである。

 しかし、政治的には、1971年に策定されたいわゆる中教審46年答申によって、経済的にはこれにつづく第四期低経済成長期における労働力再生産構造の変化とそれにもとづく「競争の教育」(久富善之)の激化によって、またより根源的には学校と地域の乖離の根底にある日本の学校文化・教育文化のあり方のこの三つの力によって「地域と教育」論が、朱氏のいう第三期以降順調に発展し、実践の契機を形成していったとはいえないことを本論文は結論において明確に指摘し、本節の冒頭にのべた1990年代の新しい潮流への期待をのべ、終章としている。

 なお、本文30頁に及ぶ「補論、現代中国における日本教育研究」において、朱氏は、梁忠義・劉敬文・■建明・万峰・呉康寧・王桂・宋紹英らの論文名をあげて詳細に所論を分析し、そこにシュルツに発するマンパワー理論が多かれすくなかれ影を落としているとして、理論上の難点をあげ、次のように結語をのべている。

 「日本において国民を主体とした教育の模索は地域で行われている。それは、注目すべき日本の教育遺産である。中国における日本教育研究の視座を転換し、日本国民による民主教育創造の歴史・現状及び未来への展望を研究課題としてとりあげることが求められている」。


三、本論文の成果と評価

 本論文の成果として次の四点をあげることができよう。

1. 朱氏の資料収集の意欲と能力は並大抵のものではない。政策文書はもとより、教育実践にかかわる未公開資料まで渉猟し、さらに関係者にインタビューを行うなど、「地域と教育」にかかわる日本戦後史の史資料を幅広く収集し分析している。これほどまで多角的に資料を収集した者は、日本の研究者にもほとんどみられない。膨大な史資料の収集と発掘は、それだけでも教育史研究への、大きな貢献だが、<分権・自治・参加>が注目されている昨今、一層今日的な意味をもっている。なぜなら、この課題を教育学研究に置き直すと地域と教育というテーマになるからである。

2. ある専門分野で「地域と教育」の問題を論じ分析した研究者はいるが、教育学の諸分野(教育哲学・教育法学・教育社会学・社会教育学・教育行政学・教科教育学など)での研究成果の総合化を試みた人は少ない。朱氏が本論文においてこうした総合化に取り組み体系的な研究成果を収めえたのは、自ら「地域と教育」を定義し、学校教育・教育制度・教育内容と地域との関連のありようを一貫した関心をもって追究したことによる。氏は、ある理論を無理にモデル化することは避けて、「地域と教育」論の社会的形成過程に着目し、その歴史的文脈をていねいに読み解き、現実の教育実践と理論との相互作用を丹念に考察することを通して、それらの理論の構造と特徴、問題提起性と限界性とを析出した。

3. 氏の教育研究の際立った特徴は、教育研究の過ぎた細分化の結果、正面から論じられることが少なくなりつつある人間形成の社会的過程を、その地域的再編に注目することによってまるごと視野に入れようとするところにある。そうした視角と問題追究の姿勢によって、これまでの教育学研究の領域では棚上げにされたりその教育思想の一部のみが論及されることの多かった上原專祿の「地域と教育」論が新たな角度からとりあげられて、その根本思想にまで立ち返って吟味されることとなった。

4. 日本の教育についての中国での研究は、経済発展とのかかわりという観点から取り組まれ、高度経済成長を支えたという側面を概ね高く評価してきた。氏は、日本の教育政策への肯定的評価を強調するあまり、教育の現実の検討を等閑に付してきた中国の先行研究を批判し、教師・父母・住民・教育研究者たちの思想と活動を掘り起こすことに専心した。氏の念頭には常に中国の教育問題があり、その解決のためにどのように日本の経験を生かしうるかという問いがある。この問題意識が、日本教育史についての厳しい吟味を促し、中国における従来の偏った日本教育評価とは異なる見解を大胆に提起させることになった。氏の仕事は日中両国における日本の教育研究の進展に貢献する優れた研究と評価できよう。

 しかし、こうした成果をあげた本論文にも以下のような問題点や残された課題があることを指摘しておきたい。

1. 三つの時期における「地域と教育」論の到達点についての周到な解明に比べて、それぞれの時期の理論や運動の限界性についての分析には不十分な点がみられる。

2. 「地域と教育」をめぐる学説についても、日本の戦後だけでなく、戦前の理論や国際的に影響力をもったデューイ理論などにも遡及してほしかった。そうすることによって戦後の日本の「地域と教育」をめぐる理論と実践の特徴が一層明らかになったものと思われる。

3. また、1980年代半ば以降90年代までの検討が加えられなかったことが惜しまれる。朱氏が分析した80年代初頭までに提起された理論と教育連動が、現在あらたにさまざまの立場と観点から広く注目されているからである。氏の関心の根底には高度経済成長との関係からの教育現実のとらえ直しという目標があり、そうしたことから1980-90年代が本論文の取り扱う範囲に含まれず、今後の課題として残されたものと思われる。そのことは、本人もつとに自覚するところであり、本論文に取り組む中から得られた研究の枠組みと方法にもとづいて、現在に至る時期についても今後本格的に検討されることが期待される。


四、結論

 審査員一同は、上記のような評価と、1月14日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該分野の研究に寄与するところ大なるものと判断し、本論文が一橋大学博土(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

1998年2月6日

平成10年1月14日、学位論文提出者朱浩東の試験及び学力認定を行った。試験においては、提出論文「戦後日本における『地域と教育』論の史的展開」に基づき、審査員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、朱浩東氏はいずれも十分な説明を与えた。よって審査員一同は朱浩東氏が学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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