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博士論文審査要旨

論文題目:戦後日本財界と政治
著者:菊池 信輝 (KIKUCHI, Nobuteru)
論文審査委員:林 大樹、吉田 裕、尾崎正峰、渡辺 治

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一 本論文の構成
 菊池信輝氏の学位請求論文「戦後日本財界と政治」は、戦後政治の形成と再編に極めて大きな影響を与えてきた「財界」に焦点をあて、その経済と政治への影響力を歴史的に明らかにしたもので、400字詰め原稿用紙にして1500枚からなる力作である。序論と全7章からなる本論文の構成は以下のとおりである。

目次

序論
 1 本研究の課題
 2 財界をめぐる既存研究
 3 本研究の仮説
 4 本研究の構成

第1章 戦後財界の形成と戦前財界との断絶
 はじめに
 1 戦後財界の成立
 2 第一期財界の形成‐東芝49年争議と石坂の登場
 3 戦後直後の財界と政治
 小括

第2章 財界の政治的影響力基盤の形成
 はじめに
 1 独占の「復活」
 2 通産省の産業政策と財界
 3 財界の対労働戦略
 4 財界の政治的影響力の拡大
 小括

第3章 国民所得倍増計画と1960年の戦後日本政治の転換
 はじめに
 1 自由化をめぐる財界内部の対立
 2 三井・三池争議と財界
 3 岸信介から池田勇人へ‐戦後財界の確立と戦後型政治の始まり

第4章 高度成長派と安定成長派の対立‐証券不況と財界‐
 はじめに
 1 65年危機と財界
 2 山一証券への日銀特融と赤字国債の発行
 小括‐財界主流派の利害の貫徹

第5章 75春闘と財界
 はじめに
 1 所得政策をめぐる動揺
 2 日経連と生産性本部の論争
 3 1975年の春闘‐鉄鋼労連と鉄鋼連盟
 小括‐75春闘後の日本政治の転換

第6章 80年代型新自由主義と財界
 はじめに
 1 日本における新自由主義イデオロギーの形成
 2 80年代前期の新自由主義改革と財界
 3 86年の臨調・行革路線の「転換」
 小括ー中曽根内閣期に端を発する今日の問題あるいは新自由主義改革の行き着いた先としての21世紀日本

第7章 90年代型新自由主義の挫折と財界再編
 はじめに
 1 『新時代の「日本的経営」』に至る日経連の動向
 2 同友会に集う改革派
 3 経団連の転換
 結びに代えてー二大政党体制と財界再編

二 本論文の概要
 序論では、まず、財界の政治への影響力行使という視点から戦後政治史を解明しようという課題を具体化して三点のやや小さな課題を設定する。第一は、財界が戦後日本の政治・経済に決定的ともいえる影響力を与えるに至った根拠の解明である。第二は、既存研究において、財界が十分な検討の対象となってこなかった理由の大きなひとつと考えられる戦後日本政治の官僚優位説とでもいうべき仮説の再検討を通じて、戦後日本政治の規定要因の再評価を行うという課題である。既存研究では、戦後日本の急速な経済発展は官僚機構の一貫した開発主義政策の所産であるという見方が強く、それに対する批判も自民党政治の影響力をあげるにとどまり、さらに経済界に目を向けた近年の多元主義研究も、経済界の利害をもっぱら個別業界と政治、官僚との関係に狭めてしまい財界という業界を超えた利害の調整機構への関心は弱かった。本論文は、財界と官僚機構、政治との関係に焦点をあてることにより、既存の官僚、政―官関係に偏した国家像に修正を試みる。第三は、財界がその組織間の調整を通じて、諸産業分野に分立し対立する経済界の諸利害を一個の意思にまとめ上げる過程を具体的に解明しようという課題である。戦後財界は、経団連、経済同友会、日経連、日本商工会議所の四団体体制で活動してきたが、著者はこの四団体の緊張・対立関係を含み込んだ財界としての意思形成の過程を解明しようと試みたのである。
 第1章では、戦後改革から講和に至る、財界と政治の関係が扱われている。本章でまず著者は、戦前期にすでに「財閥」とは異なる「財界」が登場していたが、それは、経済的優位を保持した財閥の意思に規制されて極めて限定的な機能しか果たせなかったことを明らかにし、戦後財界はそうした戦前、戦時期財界の限界への反省から、厳格な組織決定による傘下企業の規制をめざして結成された点を強調している。
 本章で特に著者が浮き彫りにしているのは、戦後の財界の戦前、戦時期との断絶性である。著者は、それを戦時期に猛威をふるった統制に対する経団連の一貫した警戒などを素材にして明らかにしている。また、著者は、経済安定本部に検討を加え、同本部が通説で言われたような官僚統制の組織というよりも、むしろGHQに対して企業の自由を働きかけたり、財界人が財界の意図を政府に反映させる場となっていたことを明らかにした。
 本章で著者が明らかにした第二点は、形成期の財界が主として関心を持ったのは、戦後昂揚する労働組合運動のコントロールにあり、この点をめぐって財界内の政策対立も生じたという点である。この視角から著者は経済同友会の成立期に、会内には労使協調主義を主張する「修正主義」潮流と、経営権を前面に出し経営側の権力の再建を主張する「実力主義」潮流が対抗し、後者が日経連を形成していく過程を明らかにしている。
 この点に関連して著者が明らかにした第三点は、戦後の経営権確立の画期となった東芝争議の解決において、石坂泰三がホワイトカラー層の生産志向に依拠して争議解決を図ったことを浮き彫りにすることで、すでに戦後当初から財界が企業の労使関係において企業主義的慣行の形成に注目・腐心していたことを実証した点である。
 第2章では、独立回復後、個別企業の掌握に苦闘しつつ財界が政治的影響力を行使するようになっていく過程が検討されている。
 本章で著者が明らかにした第一点は、講和とともに追放されていた旧財界人が復活し、その主導で財界再編が行われたが、この過程は決して「財閥の復活」と言われるような事態を生みださず、かえってこの時期の財界再編や経済政策を通じて経団連による製造業主導の調整の役割が大きくなってきたことを解明した点である。さらに経団連は、政策的にも政府に対して発言力を増加させた。著者はそれを、この時期の国民経済計画が規制的なものから誘導的なものへと変化した点から実証している。
 第二点は、こうした経団連の調整機能の増大の背景に、その中心を担う鉄鋼業界における企業主義的労使関係の形成と安定、それを基礎とした鉄鋼産業合理化の進行があったことを明らかにした点である。鉄鋼業界が経団連内で支配的地位を獲得し、また通産省に対しても発言力を増した背景には、その産業上の基軸的地位と鉄鋼労使関係の安定があった。著者は、57年、59年の鉄鋼労連の統一ストを経営側が打ち破った過程を詳しく検討し、そこに鉄鋼産業での科学的管理の導入を機とした企業主義的な労働運動の覇権確立を見たのである。
 第三に、著者は、この50年代にはいまだ財界の政治への規制力は過渡的性格を免れなかったことも強調している。その一つは、この時代には、いまだ財界の組織的な調整の機構が完成していなかったことも相まって、政治への影響力ではあい変わらず個人的な関係が強く、また非財界系の経営者の資金提供による撹乱的な影響力も残っていたことである。著者はそれを保守合同を素材に実証している。また、この時期の財界の影響力が限定的で国家構想にまでは及んでいなかったことが、岸政権の福祉国家的志向によって農業団体、中小企業団体の反発の強かった独禁法改正が挫折したことに現われているとした点も注目される分析である。こうした過渡的性格は、企業の現場において、鉄鋼などの一部を除き、いまだ企業主義的統合が完成していなかったことに根拠があると著者は見ている。
 第3章では、高度成長期の財界が、個別企業における企業主義的統合の成功を基盤にし、かつ自民党への政治献金機構を実現することを通じて、政治に対する組織的影響力を行使する体制を整えた過程が明らかにされている。
 本章で著者がまず検討を加えたのは、財界確立の基盤として著者の重視する企業主義的統合にとって画期となった三井三池争議である。三池争議に関しては労働運動の研究者による分析は数多いが、本論文では著者の一貫した視点から、三池がたんに戦闘的な職場闘争を誇る総評の民間重化学産業労働組合の先進への攻撃という視点からのみならず、日本経済のエネルギー政策転換のために財界全体が早期転換を容認・推進した結果発生した争議であるととらえ、二重の意味で財界の主導権確立の画期としている。またその収拾過程で、渋る三井幹部を財界が総出で説得に当たった点も、財界の力の増大の転換点として著者は評価している。
 第二に、そうした企業の権力確立と並行して本章で著者がもっとも強調しているのは、財界団体のなかで大企業の連合体である経団連の政策志向とヘゲモニーが、大企業の競争力の強化に伴って経済同友会や日経連を押さえて確立をみたという点である。その志向とは、著者によれば、自由主義、競争容認であり、それは、国家の保護と規制により秩序ある競争を求める通産省や同友会の「自主調整」路線と対立するものであった。この対立は、まずは貿易自由化論争として立ち現れ、そこでは先に投資調整、設備調整を行った上で自由化を進めることを提言した同友会や通産省の路線が破れ、経団連の早期自由化路線が勝利したのである。
 また、こうした経団連の志向は、国民所得倍増計画にも貫徹したと著者はいう。著者は、倍増計画が自由主義的な色彩を持っていることに着目し、それが早期貿易自由化論を打ち出し、エネルギー革命を主導していた財界主流派の影響下に形成されていたことを明らかにした。同計画は、公共部門に対してのみ計画を立て民間については誘導にとどめるという方針を強く打ち出し、農業の切り捨て、東京湾ベルト地帯、重化学産業への集中投資という市場原理に従った方向性を打ち出していたのである。
 第三に、本章では、そうした経団連の政治に対する影響力が、政治献金方式の確立によって補完された点を明らかにした。すなわち、55年に結成された財界の政治資金プール機構が61年に再編成され、この機構を通じ徐々に財界主流派の重化学産業が献金の主流を占めるようになったのである。
 第4章では、60年代半ばにおける不況期に焦点をあて、その克服過程において、さまざまな構想が噴出したにもかかわらず、経団連の主導する高度成長政策が採用されて行く過程が検討されている。
 本章でまず著者が強調しているのは、この時期に入ると前期以来の財界内の路線対立、すなわち自由主義路線対自主調整路線の対立が激化し、65年不況対策をめぐり、自由主義路線の勝利という形で決着がつくに至った点である。この対立は、60年代前半期に、高度成長路線への評価をめぐって顕在化した。同友会の掲げる「自主調整」に基づく安定成長路線、経団連の掲げる自由主義に基づく高度成長路線の対立がそれであった。この対立は、また、経済に対する国家介入の是非をめぐる対立をもはらんでいた。同友会の「自主調整」路線は、調整を補完する公的規制の枠組みを前提したが、経団連は、こうした国家介入を忌避した。著者は、こうした財界内対立がその後も一貫して残り、後年の新自由主義改革をめぐる対抗に接続していくと示唆している。こうした財界内の対立の一方を担った経済同友会の安定成長路線は、65年不況の処理過程で大きく揺らぎ、同友会の転向を招くことになった。この背景には、製造業大企業優位の輸出主導型経済体制の確立があったことを著者は強調している。
 本章で明らかにされた第二点は、こうした財界内での経団連の優位の確立と並行して、この時期には国家介入に対する抑制、市場自由主義的傾向が政治に対しても押しつけられるに至ったことを実証した点である。その典型例は、国家の統制により成長産業を保護しようとして通産省が制定を試みた特振法案の挫折であった。経団連、同友会ともに、その趣旨には賛成したものの、経団連は規制的手法に強硬な反対を見せ、法案は挫折した。
 本章で明らかにした第三点は、こうした経団連主導の経済政策に対し、企業主義化していた労働運動が同調したことを実証したことである。企業主義化した民間大企業労組は、不況に際して賃上げを慎み、企業の不況克服のための措置を支持するに至ったのである。また著者は、こうした不況期克服策で打撃を受ける中小企業の反発がさほどでなかった背景に商工会議所の役割があったことを証明している。
 第5章では、不況期に起こった75春闘を分析することによって、60年代までに形成された財界主導型の国家が70年代の政治的、経済的危機をいかなる形で克服したのかが検討されている。そして、この75春闘の解決の過程で、一時期志向された福祉国家的方向が放棄され、80年代の日本版新自由主義改革が試みられる萌芽が登場したことが明らかにされた。
 本章で明らかにされた第一点は、第二次高度成長下で公害やインフレの悪化により経団連の自由主義路線は一時後退を余儀なくされたが、73年不況の克服過程で財界主導の、国家介入なしの「所得政策」いわゆる日本型所得政策が実行されるなかで、そのヘゲモニーが再確立されたことが実証されたことである。この所得政策については既存の研究も多数言及しているが、著者は、財界がこうした政策を求めた大きな理由として国家介入に対する強い回避の志向があったことを明らかにしている。同時に、こうした日本型所得政策の採用の背景には、インフレ克服をめぐる財界内部の対立とその決着があったことも明らかにされた。それは、70年代初頭のインフレに対して、生産性向上によりインフレを吸収していこうとする生産性本部の構想と賃金抑制によりインフレを抑え込もうという日経連の対立であったが、この対立は、企業主義労働運動との協力体制により賃金をガイドライン以下におさえこんだ日経連方式の勝利に終わったのである。
 第二点は、著者が、鉄鋼企業内の分析を通じて、日経連方式の基礎にあった個別企業における企業主義的労働運動との協調による賃金抑制の貫徹のメカニズムを解明した点である。そこでは不況に際し、減量経営によるリストラを企図した経営側に対し、鉄鋼労働側が生産性以下に賃金は抑制すべしとしてそれに協力していった過程が明らかにされた。
 第三点は、こうした財界主導の減量経営による不況克服が、高度成長後期に展開された福祉国家的政治のあり方の転換を迫り、新自由主義的政治の方向が台頭することとなったことが明らかにされた点である。
 第6章では、80年代初頭に財界が、財政赤字の肥大による長期金利の上昇の阻止という目的をもって、英・米とも、90年代の日本のそれとも異なる、日本型の80年代型新自由主義改革を遂行した過程が検討された。近年の新自由主義改革に対する研究は、日本の新自由主義改革の遅れを指摘しているが、実は80年代にも大々的な新自由主義的改革が行われており、それによって福祉国家的防壁が破壊されていたことが、逆に改革に耐えられない脆弱性を生み皮肉にも90年代以降の新自由主義改革の障壁となっていると、著者は主張するのである。
 本章で著者がまず明らかにした点は、80年代に第二臨調の行政改革という形で現われた新自由主義改革は、70年代後半に村上泰亮を中心とした「政策構想フォーラム」などの知識人達によって展開された予防的新自由主義改革イデオロギーと、不況克服のために行われた国債発行による財政赤字が長期金利の上昇から企業経営を圧迫し始めたことに危機感を持った財界の赤字国債削減要求の合体として起こったことを実証したことである。著者は、そこで、後者の要求に大蔵省が乗って新自由主義改革が推進されたため、80年代新自由主義改革は、財政支出削減と法人課税引き上げ反対にこだわった反面、90年代に出てくる官僚機構削減が強く出されなかったと主張する。こうした新自由主義改革要求は、当時、競争力の低下に悩んでいた鉄鋼業界などの輸出産業の強い要求を背にしていた。またこうした新自由主義改革とりわけ国鉄や電々の民営化に、民間大企業の企業主義労組も賛同したことが、イギリスなどの新自由主義改革と異なる点であることも注目されている。
 本章で明らかにされた第二点は、こうした新自由主義改革が、競争力を回復した日本企業の輸出志向を一層強め、自由貿易体制と輸出体制の円滑な遂行を妨げたため、国際自由貿易体制に調和するための改革という、90年代型新自由主義改革を志向するグループが85年のプラザ合意を機に登場したことを実証したことである。著者によれば、この構想は同友会によって主張され、アメリカの圧力を追い風にして前川レポートという形で政治に具体化をみたが、しかしこの段階では、この構想は全面貫徹をしたわけではなく、中小企業や農業切り捨てなどを伴わないバラマキ政治の形でつまみ食いされたのである。この結果、輸出競争力の一層の向上と国内の規制緩和、金融緩和とがあいまり、バブル経済が発生したと著者はいう。
 第7章では、50年代後半以降に形成・確立をみた輸出主導型経済とそれを支えた国家、社会構造を改変しようとする本格的な新自由主義改革が展開される過程が検討されている。
 本章では、まず第一に、90年代新自由主義改革が経済同友会に主導され、それに多国籍企業化した日本企業の主力、さらには企業競争力回復のために内外価格差を生む国内産業保護の撤廃を焦眉の課題とした経団連が追随する形で行われたことが明らかにされた。
 第二に、90年代新自由主義改革は、たんにそうした既存保守政治の構造にとどまらず50年代後半に形成された企業主義の構造にまで手を付けるに至っていることが明らかにされた。日経連の主導する企業構造の再編がそれである。そこでは企業競争力の源であった年功制、正社員従業員の大量抱え込み体制そのものがいまや桎梏として切り捨ての対象となったことが明らかにされている。
 本章で明らかにされた第三点は、こうした新自由主義改革を遂行するため、財界が、改革によって支持基盤を直撃されることを恐れる自民党政治の再編に乗りだした過程が克明に描かれていることである。同時に、この新自由主義改革が、他でもなく80年代新自由主義改革の成功ゆえに困難に直面した逆説も明らかにされた。一つは80年代改革の過程で遂行された福祉への切り込みがデフレを発生させて新自由主義改革を妨げていること、また新自由主義改革が自民党政治の支持基盤を直撃し改革の遂行体制そのものを危機に陥れていることである。ここから財界内に、デフレスパイラルを起こさないように改革を進めるべしという漸進派と急進派の対立が生まれ、小泉政権もその狭間で揺れていると著者は主張する。2002年の日経連と経団連の合同も直接には年金改革の遂行のためであるが、根本的には、日経連と経団連が新自由主義漸進派として歩調を合わせた点にあるというのが著者の主張である。

三 本論文の評価
 以上に要約した菊池信輝氏の論文は以下のような諸点で高く評価できる。
 本論文の達成した第一の成果は、戦後の政策に極めて大きな影響力を行使しまたし続けている「財界」が戦後いかなる過程で形成され、またいかにして政治に規定的な影響を与えるに至ったか、さらにその内容が時代の変化によっていかに変化したかという歴史過程を、膨大な資料を駆使して通史として描ききり、既存の戦後政治史像の空白を埋めた点である。戦後日本国家の特殊な態様の形成に一貫して巨大な影響力を行使したにもかかわらず研究史においてこれまでほとんどまっとうな位置づけを与えられなかった「財界」というアクターを政治史のなかに正当に位置づけたことの意義は極めて大きい。
 本論文の達成した成果の第二は、東芝争議、鉄鋼労使関係、三池争議、鉄鋼の日本型所得政策採用などの該博な実証分析を通じて、財界の政治への発言力の源が個別企業の労使関係の安定化、企業経営の成功に根拠をもっているということを説得的に示しえた点である。この点の分析は、戦後日本国家がヨーロッパ福祉国家とは異なり、社会的レベルの強固な統合に支えられていること、また戦後日本政治において「財界」がこれほど大きな発言力を持ちえていることへの答えともなっており、戦後国家論にも重要な問題を投げかけている。
 さらに、第三に、本論文が、「財界」を一枚岩でとらえる既存の見方を排し「財界」の意思なるものが産業部門、業界、企業規模などから生ずるさまざまな対抗の調整を通じて形成されるものであることを実証的に解明した点は、既存の財界像に大きな修正を迫る成果である。とりわけ、経済政策をめぐって、経団連の非介入、自由主義路線と経済同友会の「自主調整」、安定成長路線の対立が、八〇年代以降には、競争力強化による輸出主導型体制強化路線の経団連と国際自由貿易秩序維持のための規制緩和を主張する同友会という対立へと変化していく過程が明らかにされている点は、本論文の白眉をなしている。
 第四に、本論文が、所得倍増計画の策定過程などの政策形成過程の丹念な検討を通じて、官僚主導の経済発展という既存の通説の修正を試み、官僚の打ち出した開発主義政策が実は財界の影響の下で形成され、その統制的側面が抜かれ誘導的な政策に切り替えられていくことを明らかにした点は、研究史に対する大きな寄与となっている。
 しかし同時に、こうした未開拓の領域へ切り込んだ労作であるだけに、本論文にはいまだ残された問題もないわけではない。
 第一に、確かに戦後政治に対する財界の影響の大きさについての本論文の主張は説得的であるが、しかし、これをもって、たとえばチャーマーズ・ジョンソンの『通産省と日本の軌跡』が提示した官僚主導国家仮説が完全に覆されたと断言できるかについては議論が残るという点である。著者も言うとおり、1940年代から50年代初頭の通産省など官僚機構主導の開発主義政策がもった成長の枠組みづくりでの重みは否定できず、菊池論文の主張には時期的限定を加えなければならないのではないかと思われる。
 第二に、財界の側からの視角にこだわったためにやむを得ないところであるが、本論文では財界と官僚、自民党、政府との政策決定をめぐる生き生きとした政治過程の分析が不十分となり、やや単線的に財界の意思の貫徹のみが強調されすぎている嫌いがある点である。
 第三に、そのコロラリーであるが、本論文は、せっかく財界と政治構造全体の関係を検討するとしながら、結局、財界と経済政策の関係に焦点が絞られ、戦後政治の枠組み全体たとえば、安保闘争以後の政治の転換や安保外交政策との関係などが論述に組み込まれていない点は不満が残る点である。
 しかし、これらの問題点の多くは、著者の行なった膨大な検討の成果を減ずるものではない。またこれら問題点は、著者も自覚するところであり、その研究能力や着実に研究成果を積み重ねてきた従来の実績からみても、将来これらの点についてもより説得的な研究成果を達成しうる可能性は大きく、今後の研究に期待したい。
 以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与するに十分な成果をあげたものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2004年1月27日

 2004年1月27日、学位論文提出者菊池信輝氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、審査委員が、提出論文「戦後日本財界と政治」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、菊池信輝氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は、菊池信輝氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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