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博士論文審査要旨

論文題目:フランス革命期地方都市の政治的選択とその背景:ルアン 1789年~1794年
著者:高橋 暁生 (TAKAHASHI, Akeo)
論文審査委員:土肥恒之、森村敏己、山崎耕一、阪西紀子

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本論文の構成
 フランス革命が近代世界の本格的な開幕を告げる画期的な出来事であったことは改めて言うまでもないが、その政治過程はもとより単純ではなかった。1789年のパリで始まった革命は、その後約十年間にわたって左右に大きく揺れ動いた。かくて革命の政治史はパリの動向に即して語られてきたのだが、一貫して「中央集権化された国家」を志向していたこの革命は、地方のあり方に対しても根本的な変革を迫るものであった。地方都市とその政治指導者たちは革命をどう迎えたのか、地方特有の事情はどのていど考慮されたのだろうか。本論文はノルマンディ地方の中心都市ルアンにおける革命の推移とその政治指導者、そして主要な課題、つまり「ルアンのフランス革命」の全貌を原史料に基づいて明らかにしようとする意欲的な試みであり、全体で471頁からなる渾身の力作である。
 目次は以下の通りである。

はじめに
序論 研究史概観と問題の設定
第一章 フランス革命研究史概論
第二章 研究史に関する私的見解、研究のスタンス
第三章 本論のテーマ、問題設定
第四章 「中央」と「地方」をめぐる研究動向
第五章 ルアンの革命史研究
第六章 革命前夜ルアン市の素描
第一篇 ルアン市における革命の経験 「政治的現実主義」の実相
第一章 革命の開始、最初期のルアン
第二章 国王・王政への対応を巡って
第三章 最大の葛藤、1793年6月2日をめぐって
第四章 ルアンにおける「恐怖政治」の実態
第五章 第一篇小括
第二篇 フランス革命期ルアン市の政治指導者の基本的性格
第一章 分析の前段階
第二章 アンシァン・レジーム期の都市権力
第三章 革命期ルアンの政治指導者たち、その数的データの分析
第四章 革命期ルアン市政のリーダーたちの分析
第五章 ピエール・ニコラ・ドゥフォントゥネと「主な政治家」たち
第六章 ピエール・ニコラ・ドゥフォントゥネの思想傾向
第七章 第三篇への展望
第三篇 革命期ルアン市の穀物供給問題と政治
第一章 食糧危機と民衆蜂起
第二章 ルアン市の穀物供給の実態① 18世紀後半から革命前夜まで
第三章 ルアン市の穀物供給の実態② 革命期
第四章 政治的選択と穀物① 二つの画期と食糧事情
第五章 政治的選択と穀物② 行政機関「粛清」epuration
第六章 政治的選択と穀物③ 穀物供給と権力の力学
第七章 政治的選択と穀物④ ある革命祭典と穀物
結論 ルアン市の「政治的現実主義」を導いたもの
ETAT DES SOURCES & BIBLIOGRAPHIE
補論 カン市「フェデラリスム」の実態、"motif pur"による「反乱」

本論文の概要
 序論ではフランス革命研究の歴史が概観されるとともに、特にルアンの革命史研究が批判的に考察されている。1980年代まで革命史研究の主流をなしていたのはマルクス主義的解釈であり、ルアンについては「ジャコバン史学の旗手」クロード・マゾリックがその代表であった。現在それに対して批判的な「政治史」が優位を占めている。つまり「政治」を経済構造に還元するのではなく、「政治」独自の内的な動因、特に「政治」のなかで語られるレトリックに着目するという方向での「政治史の復権」である。リン・ハントに代表される見解がそれだが、著者はこれに一定の理解を示しながらも、ともすれば「政治」が周辺のあらゆるコンテキストから切り離して語られる傾向を生み出した、と批判する。「政治」は、それを巡る周囲のさまざまなコンテクストとの「相互的、かつ可変的な影響関係」から切り離して理解することは出来ない。あくまでも具体的な歴史の事実に注目し、社会経済文化的な諸状況が、どのようにして「政治」の中で機能するのかを問わなければならない。こうして一方でマゾリック流のマルクス主義解釈を批判するとともに、他方で現今の政治史についても注文をつける。「政治」は「経済」にそのまま還元されないにしても、その「関連」は厳密に問われなければならない、というのが著者の立場である。
 第一篇は、1789年の革命の開始から1794年7月のロベスピエール派失脚までの5年間を対象に、革命期ルアンの「政治的現実主義」を検証する。つまり市議会と人民協会の議事録を主な史料として、ルアンにおける革命の推移を「中央」への対応を中心に注意深くたどることで、その特質を取り出そうとする。そしてルアン市の指導者はこの間、中央の権力の交替に応じて自らの立場を変える、という「政治的現実主義」において一貫していた、というのが著者の結論である。まず革命前、彼らは明らかに国王・王政に支持を示していたが、1792年に王権停止が決定されると、たちまち共和国誕生、国民公会発足の支持を打ち出した。また1793年6月2日の国民公会におけるジロンド派の逮捕・追放に際しても同じである。この事件は、いわゆる「恐怖政治」の契機となるのであり、その意味でルアンの政治指導者には受け入れ難い事態であったはずである。だが当初批判的であったルアンの人民協会は、およそ一ヶ月の激しい議論を経て国民公会の決定を「賞賛」する「書簡」を作成した。つまり中央の議会における趨勢が定まるのに合わせて、ルアン市の政治スタンスは、再び大きく変化したのである。ルアンでは市長ピロン、国民代理官ポレなど「共和暦2年のリーダーたち」が政治の実権を握り、「恐怖政治」をしき、行政機関の「粛清」を実施した。かくてルアン市政は、ロベスピエールが権力を握るパリの中央権力に忠実であったように見える。けれども著者は、この間のルアンの「政治」を細かく検証したうえで、これを「政治的現実主義」の顕著な表れと理解する。つまりこの時期、なるほどルアンは新しい指導者の下で中央の方針を支持しており、その政策を忠実に実施していた。ピロンは「人民の行政官」として称えられた。だがそれは「真の意味での」支持ではなかった。なるほど逮捕者は急増したが、「粛清」で処刑されたものは皆無であったし、行政処分も曖昧であった。そして1794年7月、パリでテルミドールの政変が起きたとき、ロベスピエール等の政治路線を支持していたルアンの「共和暦2年のリーダーたち」もまた、都市政治のヘゲモニーを失った。彼らは町から追放され、従来の指導者たちが復権した。ロベスピエール派がヘゲモニーを失えば、彼らはもはやルアンの「顔」として相応しくなかったのである。このように革命の諸画期において、パリの動向を慎重にうかがい、新たな方向性が明らかになると、それ以前に表明していた政治信条を翻し、現政権のそれに従うというのが革命期ルアンの政治指導者たちの行動パターンであった。「中央権力との協調関係維持」というのが彼らの「行動方針」であり、それはいかなる政治信条やスタンスにも優先した、というのが著者の結論である。
 第二篇では、第一篇を踏まえて革命期ルアンの政治指導者たちに焦点を当てる。都市の政治指導者とは市長および市議会メンバーなどだが、彼らには「多くの市民」からの「一定の同意」が付与されていたから、その同意の中身を探ることはすでに見たようなルアンの「政治的態度」、つまり「政治的現実主義」の解明に結びつくはずである。またこれにより「権力の変わらない特質」が浮き彫りになる。そこで著者はまず革命前夜から1800年までを対象に、ルアン市当局のメンバーとなった約350人前後の居住地域と職業を中心に分析する。その結果、居住地域としては都市の南西部が他を圧倒する形で市議会メンバーを輩出していることがわかる。また職業についても顕著な特徴が見られる。その多くは繊維産業に何らかの形で関わる「有力なネゴシアン」、つまり富裕な商工業者であった。主に綿工業、そして毛織物工業など繊維産業に関わる政治的指導者が他の職業層を圧倒していたのであり、この職業構成、そして居住地域にみられる特徴は、基本的には革命期を通して変わらない。他方で、「共和暦2年のリーダーたち」はそれまで見られない、いわば新参の人びとであった。居住地域については「旧市壁外の城外区」で、職業も「肉屋の息子」など、より下層と推測される。すでに指摘したようにテルミドールの政変後、彼らが瞬く間に政治の舞台から姿を消していったのに対して、革命の前半期に存在感を示した富裕な商工業者たちが再び市政に復帰していったのである。
 本篇で、著者はさらに革命期のリーダーたちのプロソポグラフィーを試みるが、特に三度市長を勤め、最大の影響力を誇ったと考えられるピエール・ニコラ・ドゥフォントゥネと彼の一派に焦点を合わせる。具体的にはドゥフォントゥネ、そして銀行家ル・クトゥ・ドゥ・カントゥルのメモワールの分析を通して、彼らが政治的には秩序と法を尊重して、代議制の原則を守る立場で、王政とか共和政には「拘泥しない」態度を取っていたことが明らかにされる。経済的には産業保護主義で、フランスの繁栄のために「国民的産業」の振興を求めていた。具体的には旧体制と結びついた特権、諸関税を廃止して、自由な流通を確保すると同時に、製造業に対する公的支援を求めていた。ドゥフォントゥネを代表とする「繊維産業に従事する有力なネゴシアンたち」が、一時期を除いて革命期ルアンの政治を担っていたことが明らかにされる。
 第三篇では、これまでの分析を踏まえて、革命期ルアンの穀物供給と「政治」の問題に焦点が合わせられる。まず著者は、ルアン市が抱えていた穀物供給上の諸問題をアンシアン・レジーム期から革命期前半までの長いタイム・スパンで見ることで、ルアン市の一般的な社会経済的状況を明らかにしている。かつてルアンとパリはその地理的な隣接にも拘わらず、穀物供給地域が互いに重なることなく共存していた。だがその共存もパリの人口膨張で緩みはじめた。巨大都市に必要な穀物のためにパリ市の穀物商人たちは、伝統的にルアンに穀物を供給していた地域に入り込み始めたからである。ルアンの「通常供給」は徐々にその機能を失ったわけだが、そうした場合この都市の危機的な状況を救ったのが購入資金の国庫からの貸与、財務総監からの特別の搬出許可など国王政府からの支援であった。だが革命が始まると、この穀物供給問題は更に尖鋭化した。「入市税」の廃止、対外戦争の勃発による海外での穀物購入の道の閉鎖、ヴァンデ戦争の激化による穀倉地帯ソワソネ地方での購入の不可のために、ルアンが出来ることは県内での「徴発」に限られた。かくてルアン市の穀物供給の大部分が公的な穀物供給、特に中央政府からの援助に依存するという状況が生まれたのである。
 共和暦2年を迎えたルアン市は、どのように都市住民にパンを供給するか、という問題に忙殺された。すでに市内の富裕層の邸宅の略奪、工場や機械の破壊などが始まっていた。市長ドゥフォントネ自身への攻撃や彼の仲間への危害が生じていた。こうした民衆蜂起、暴動への恐怖を前にして、ルアンの政治指導者たちは真剣にこの問題と取り組まざるを得ない。著者によると、この点を象徴するのが1793年秋と冬に実施されたルアン市内の各行政・司法機関の「粛清」である。「粛清」のきっかけは、9月に持ち上がった「ルアンの人々は買占め人である」、というパリの疑惑であった。つまり「最高価格令」に示されるように、パリの治安を預かる国民公会にとっても、穀物供給は最大の関心事であったが、そのパリから「(ルアンは)買占め人を放置、あるいは保護している」、「イギリスと密通」している、という非難と糾弾がルアンの政治指導者に向けられたのである。食糧行政の指導のために、パリから派遣議員がやって来た。この「疑惑」を晴らすためにルアンは市の各行政機関のメンバーの一新しなければならなかった。この「粛清」は、これまでルアン市の政治党派の争いとされてきたが、その背景に穀物供給問題があったことが著者によって克明に分析される。「穀物」を梃子にした中央政府の圧力・介入がルアン市の「政治」を強く規定したことを示す象徴的な事件であったのである。
 他方で、「共和暦2年のリーダーたち」の権力もまた、少なくともその一部を中央政府とのコネクション、その結果としての穀物供給のうえでのルアン市への貢献によること、また1793年1月23日に挙行された「革命祭典」がルアンの自主的な企てではなく、穀物援助を求めてパリに出かけたルアン市の代表者に対して要求されたことなどが明らかにされる。ルアンでは穀物と政治が、まさに不可分のものとして結びあっていた、というのが著者の結びである。

本論文の成果と問題点
 本論文は、その確かな構想の下に各篇が相互に関連づけられており、その論旨もきわめて明快である。まず第一篇で革命期ルアンに一貫する「政治的現実主義」、つまりパリの革命の動向を注意深く観察して、それに沿った方針を採るというルアンの「行動方針」が明らかにされる。第二篇では都市ルアンの政治指導者がどのような人々であったかが解明される。彼らの多くは「ネゴシアン」、つまり富裕な商工業者であり、特に繊維産業と関わりを持っていた。彼らはその資金力と国内外における商業上のさまざまなコネクションを持っていたが、都市の穀物供給という点でも彼らの力に依存していたことが示唆される。そして第三篇で著者は革命期の穀物供給問題を全面的に分析することで、「政治的現実主義」を裏付けるのである。ルアンの「政治的現実主義」という「行動方針」の背景には「穀物」があった、少なくともそれが「最も重要な要素の一つ」であった、というのが著者の結論である。この結論自体は平凡であるかに見えるが、それに至る論理の運びと実証、つまり史料操作はきわめて緻密であり、歴史研究者としての著者のゆたかな資質と力量を示すものである。
 本論文の具体的な成果としては、第一にルアンの革命について新しい視点が打ち出されたことである。従来のクロード・マゾリックによるマルクス主義的解釈は、パリの革命の図式をルアンに当てはめるという傾向があった。なるほどルアンでもルジュマール広場での「王党派」と「ジャコバン派」の衝突のように、パリと同様の党派対立に見える動きがなかったわけではない。だがそれは部分的な現象であり、市議会や人民協会で日々議論されていたのは穀物供給問題であった。何よりもパリでどの党派が優位に立とうと、常にパリとの関係を重視したルアンの政治的決定を「ジロンド派」、「山岳派」といった党派名で理解することは困難である。したがってパリの対立をそのままルアンに持ち込むというのは不適切であるとする著者の見解は十分に説得的である。特に第三篇では、「政治」と「穀物」がルアンではいかに密接に結びあっていたかについて、他の要素の可能性についても注意を払いながら、徹底的に掘り下げ解明されている。
 第二に、ルアンの政治指導者である「有力なネゴシアン」について、プロソポグラフィーの手法を用いて具体的に解明した点も本論文のすぐれた成果である。調査対象は350人前後に及ぶが、居住地域と職業に見られる特徴が明らかにされるとともに、そのうち革命期に市長や議長を勤めた数人については徹底した調査がなされている。特に三度市長を勤めた綿工業主ドゥフォントゥネや銀行家カントゥルについては、その政治経済思想にまで踏み込んで分析することによって、ルアンの革命の政治過程をよりリアルに描きだすことに成功している。
 また補論で著者はルアンと対照的な経過をたどったカン市の「革命」を分析している。もとよりルアンの革命ほどの密度で考察されているわけではないが、比較史の視点の必要性と有効性を意識した、それ自体独立の論稿である。この点もまた本論文の成果に数えることができるだろう。
 以上の他にも本論文の成果は少なくないが、もとより不十分な点がないわけではない。その一つは、論文の焦点が政治指導者に合わせられているため、革命期ルアンの都市民一般の動きについては間接的な記述にとどまっている点である。これは史料上の制約が大きいとされるが、「共和暦2年のリーダーたち」の出現という重要な問題とも絡むことが推測され、可能な限り立ち入った考察が望まれたところである。第二に、「ネゴシアン」に関する問題がある。革命前から穀物供給ルートを握っていた彼らは、それ故食糧不足に際して真っ先に批判に晒される立場にあったはずだが、こうした側面の考察は必ずしも十分とは言えない。またルアンにおける「反ネゴシアン感情」も、もっと重視されてしかるべきだろう。これは第一点とも関わるが、全体としてルアン内部の対立という問題が後方に追いやられているという印象を受ける。その他にも「思想」の扱いなどについても多少疑問が残るが、そうした問題点は著者もよく自覚しており、今後の研究のなかで克服されていくものと思われる。
 以上のように審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、高橋暁生氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2004年2月18日

 平成16年1月26日、学位論文提出者高橋暁生氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「フランス革命期地方都市の政治的選択とその背景:ルアン 1789年~1794年」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、高橋暁生氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は高橋暁生氏が学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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