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博士論文審査要旨

論文題目:日ソ関係とモンゴル:満洲事変から日ソ中立条約締結までの時期を中心に
著者:マンダフ・アリウンサイハン (ARIUNSAIHAN, Mandah)
論文審査委員:吉田 裕、加藤哲郎、三谷 孝、土肥恒之

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 マンダフ・アリウンサイハン氏の学位請求論文、「日ソ関係とモンゴル――満州事変から日ソ中立条約締結までの時期を中心に」は、満州事変から日ソ中立条約締結までの時期の日本・ソ連・モンゴルの相互関係を詳細に分析した論文である。

一、 本論文の構成
本論文の構成は次の通りである。

目次

序論
第I章 1930年代前半における日ソの対モンゴル政策とモンゴル人民共和国
I.1. 満州事変前後のソ連の極東政策とモンゴル・ソ連関係
I.1.1. モンゴルの社会主義建設とコミンテルン・ソ連(1927-1932年)
I.1.2. 満州事変とソ連の対モンゴル政策の強化
I.2. 日本の極東政策におけるモンゴル
I.3. 内モンゴルの独立運動と日本 ―「防共の前線地」内モンゴル

第II章  ノモンハン戦前夜におけるモンゴル・ソ連・日本関係とモンゴルの大粛清問題
II.1. ノモンハン戦前夜におけるモンゴル・ソ連関係の強化と日本
II.2. ソ連・モンゴル相互援助議定書の締結とモンゴル問題をめぐる国民政府と日満の反応
II.2.1. ソ連・モンゴル相互援助議定書の締結
II.2.2. 相互援助議定書に対する国民政府の抗議―ソ連・モンゴルの態度
II.2.3. 議定書をめぐる日満の態度
II.2.4. ソ・モ議定書と日独防共協定
II.3. モンゴルの大粛清とソ連の内政干渉 ―大粛清の背景―
II.4. ノモンハン事件前夜におけるモンゴルの大粛清
II.4.1. ソ連政府代表団のモンゴル訪問と「スパイ組織」の摘発
II.4.2. モンゴル粛清前後のソ連内粛清とフリノフスキー
II.4.3. チョイバルサン元帥と大テロル

第III章  満州里会議とノモンハン事件停戦協定
III.1. モンゴル国と満州国との間の国境紛争と満州里会議
III.1.1. ハルハ廟事件をめぐるモンゴル・満州両政府の応酬
III.1.2. 満州里会議の開催と決裂に至るまでの経過
III.1.3. 満州里会議決裂の背景と意義
III.2. ノモンハン事件発生原因と「国境線不明」論
III.2.1. ノモンハン事件勃発によるモ・満国境の緊張とモンゴルをめぐる日ソ関係
III.2.2. 「満ソ国境紛争処理要綱」と参謀本部
III.2.3.  国境問題と関東軍
III.3. ノモンハン事件に対する日本政府の対応と停戦交渉延期の要因―東郷茂徳―
III.4. モスクワにおける停戦協定の成立と領土問題
III.4.1. モスクワにおける停戦協定の成立
III.4.2. 停戦協定成立の背景としてのソ連のポーランド進攻問題
III.4.3. 国境確定と領土問題

第IV章  国交調整をめぐる日ソ交渉とモンゴル問題
IV.1. ノモンハン停戦協定から日ソ国交正常化へ
IV.2. 中立条約の締結と日ソ間勢力圏確定
IV.2.1. 勢力圏確定についての日本政府構想におけるモンゴル問題
IV.2.2. モスクワにおける松岡・モロトフ会談
IV.2.3. 日ソ交渉における勢力圏確定問題
IV.3. モンゴル承認問題に関する日本政府の見解
IV.4. 中立条約の締結に関するモンゴルの反応

おわりに

二、 本論文の概要
 当該期の、日本―ソ連―モンゴルの相互関係を詳細に分析しながら、本論文が明らかにしたのは、主として次の六点である。
 第一には、満州事変以降の日ソ関係である。日本が満州国を樹立し、「満州」に強力な大部隊を展開させたことによって、極東における日ソ間の力関係は、日本に有利に傾いた。これに危機感を深めたソ連は、1936年にモンゴルとの間に、相互援助議定書を締結し、以後、ソ連はモンゴル内に軍事基地を確保し、ソ連軍部隊の進駐が始まった。満州事変によって、ソ連はモンゴルの戦略的重要性をあらためて再認識したのである。この結果、ソ連の側が、日本に対して戦略上の優位を獲得することとなり、日本は戦略態勢をたて直す必要性にせまられ、ドイツとの防共協定の締結をめざすようになった。
 第二には、モンゴルと満州国との間の国境画定問題である。傀儡国家・満州国の建国によって、満州国とモンゴルとの間で国境紛争が多発することになるが、その原因の一つは、国境線についての両者の認識に食い違いがあることだった。このため、1935年には、モンゴルと満州国との間で、国境確定のための満州里会議が開催されることになる。この会議は最終的な国境の確定には至らなかったし、ソ連側はモンゴル政府がこの交渉で独自の動きを示すことを阻止しようとした。しかし、会議が完全な失敗に終わったという訳ではない。なぜならば、この交渉は日ソの衝突を牽制するという重要な役割を果たすとともに、国境紛争の平和的解決のための基礎をつくりあげたからである。また、モンゴルの側からすれば、この会議は、モンゴルの国際的位置をたかめ、国境問題に対するモンゴル自身の公式見解を、日ソ両国に示した点に意義があった。さらに、日ソ両国も、満州里会議を通じて、国境の確定こそが、日本とソ連の関係改善にとって、最も重要な問題であることをはっきりと認識したのである。これ以後の日ソ交渉では、国境確定問題が中心的テーマの一つとなる。
 第三には、モンゴルにおける粛清問題である。ゲンドゥンをはじめとしたモンゴルの指導者たちは、国内の経済建設を優先させる立場から、ソ連の要求する軍事費の増大には消極的な立場をとった。また、日ソ間の軍事衝突に巻き込まれるのを回避するため、ソ連軍のモンゴル進駐要求にも慎重だった。こうしたモンゴル人指導者たちの動きを牽制するためにソ連主導で行われたのが、1937年から39年にかけての大粛清であり、これによって、3万7000人ものモンゴルの人々が、「日本のスパイ」という口実で処刑されたのである。また、ソ連の指導に従って、この大粛清計画を積極的に実行に移し、さらに、ラマ僧に対する弾圧にも主導的役割を果たしたのが、37年に、全軍総司令官、首相代理に任命されたチョイバルサンだった。こうして、この粛清事件の結果、モンゴル社会の中に深く根をはっていたラマ僧が、「反革命的反動的階層」として根絶されただけでなく、モンゴル自身の外交政策が、その独自性を失い、ソ連の極東政策に全面的に同調することをよぎなくされていったのである。
 第四は、ノモンハン事件(モンゴル側はハルハ河戦争と呼ぶ)の原因にかかわる問題である。事件当時、モンゴルと満州国との間には、国境確定のとりきめはなかったが、清国の植民地政策によって人為的につくられた境界線がモンゴルを外蒙古と内蒙古とに分断しており、実際には、1911年のモンゴルの独立と1932年の満州国の建国とによって、この境界線が自動的にモンゴルと満州国との境界線にかわっていた。この国境地帯は、清朝時代から、清国の間接的統治下にあった外蒙古のモンゴル人と、清国内のバルガ族との間に牧草地をめぐる紛争が絶えなかった地域である。その意味では、国境紛争がおこる潜在的可能性が最も大きかった地域であった。それにもかかわらず、関東軍は、バルガ族の主張を意識的に利用して、国境問題を武力で解決しようとしたのである。軍中央もまた、関東軍のこの行動を容認した。
 日本では、ノモンハン事件の直接の原因をモンゴルと満州国の間の国境線が不明であった点に求める見解が根強い。しかし、実際には両国の間には長い歴史的背景を持った境界線が存在していたし、何よりも関東軍や日本の参謀本部自身が、古地図や歴史的記録の分析や現地調査によって、バルガ族の主張に根拠がないことを充分認識していたのである。
 第五には、ノモンハン事件の停戦協定締結にあたって、東郷茂徳外相がはたした役割の問題である。日本では、駐ソ大使として事件の善後処置にあたった東郷の役割を高く評価する傾向が強いが、むしろ東郷が、停戦交渉に対して消極的な態度をとったことこそが、ノモンハン事件の拡大・長期化の理由の一つだった。東郷は、関東軍が攻勢に出て戦果を拡大してから交渉に入るのが日本にとって有利と考えており、この点では、軍部に近い考え方を持っていたのである。
 東郷に関しては、太平洋戦争開戦時の外相としても、1941年11月にアメリカからハル・ノートを手交された時点で、対米強硬派に転じたことが最近では注目されるようになっているが、本論文は、そうした見方をさらに発展させて、代表的な「穏健派」とみなされていた東郷像の再検討をせまる内容となっている。
 第六には、日ソ中立条約の締結が、モンゴルにとって持った意味である。従来の研究では、この条約によって、ソ連が東西から狭撃される危機を回避し、日本も北方の安全を確保して武力南進に踏み切ったことばかりが強調されてきた。また、これまでの研究では、分析の対象も日ソ関係にほぼ限定されてきたといってよい。しかし、モンゴルの側からみれば、この条約は別の政治的意義を持った。条約締結の際の共同声明で、日本はモンゴルの領土保全、領土不可侵を宣言したが、このことは、これまでモンゴル不承認政策を堅持してきた日本政府がモンゴルの独立性を事実上認めたことを意味していたからである。これによって、モンゴルは、さしせまる戦争の脅威から解放されるとともに、その国際的位置を向上させることになったのである。

三、 本論文の評価
 以上、本論文が提示した論点を整理する形で、論文の内容を概観したが、次にその論点を踏まえながら、本論文の学問的意義について論じることにしたい。何よりも評価したいのは、本論文が、ソ連政府とモンゴル政府の関係、あるいはコミンテルンやソ連共産主党とモンゴル人民革命党との関係を詳細に分析することによって、1937年から39年にかけて行われたモンゴルにおける大粛清の背景と実態を克明に明らかにしたことである。コミンテルンの当初の急進的なモンゴル社会主義化路線がその非現実性の故に挫折した後に、コミンテルンの果たしていた役割を引き継いだのは、ソ連共産党だった。スタ-リンとソ連共産党は、現実主義的な路線への転換をはかり、モンゴルへの過度の介入を一時的には抑制するようになるが、満州事変の勃発と満州国の建国によって、日本の軍事的脅威が増大すると、再びモンゴルへの介入を強めるようになる。そして、モンゴルの指導部が日本との軍事的衝突を回避するために、ソ連の要求に対して慎重な姿勢を示すと、ソ連共産党はモンゴル人民革命党指導部の粛清に踏み切ったのである。
 粛清に関する本論文の分析が、モンゴル近代史だけでなく、国際共産主義運動史やソ連邦史に対しても大きな学問的貢献となっているのは、筆者が、ソ連邦の崩壊やモンゴルの民主化によって入手することが可能になった第一級の一次史料をいち早く収集し、それを系統的に分析しているからである。本論文のこの問題についての分析は、世界的にも先駆的なものであり、他の追随を許さない内容となっている。
 また、モンゴル史の文脈でいえば、革命の功労者として大きな評価を与えられてきたチョイバルサンが、スターリンの指示に従いながら、積極的に粛清計画を実施したことを、一次史料に基づきながら明らかにした点も重要な貢献である。これまでモンゴルでは、チョイバルサンは、スターリンの指示に従うことを強要されていた無力な存在であり、自ら権力をふるえる立場にはなかったと理解されていたからである。
 もう一つの意義は、モンゴルを東アジア国際関係史の中の独自の主体として、とらえ直すことによって、当該期の国際関係史を複眼的・構造的に把握することのできる視座を提示していることである。従来の研究では、モンゴルは、ソ連の最初の衛星国としてだけ位置づけられ、ソ連外交史研究の範囲で付随的に言及される存在でしかなかった。それに対して、本論文は、モンゴルの主体性に着目することによって、モンゴルがソ連の一方的従属下にあった訳ではなく、時に独自の外交を展開したこと、そして、モンゴル問題が当時の日ソ国交調整にとってきわめて重要な意味を持っていたことを実証的に明らかにした。外交政策の独自性の問題でいえば、モンゴルと満州国との間の国境確定のために開催された満州里会議でのモンゴル側の動き、満州事変後のモンゴルの対日・対ソ政策などの中にそれがよく示されている。また、ノモンハン事件の停戦交渉や日ソ国交調整交渉でも、モンゴルと満州国との間の国境確立問題は終始重要なテーマの一つであったし、日ソ中立条約の調印も一面では、モンゴルの領土保全、領土不可侵を日本政府が宣言することによって、日本政府がモンゴルの独立を承認するという側面があったのである。
 審査委員会は、以上のような学問的貢献と創造性を高く評価するものであるが、より詳しく展開して欲しかった点がない訳ではない。特に、独立以前はモンゴルは中国の統治下にあり、独立後も中国政府がモンゴルへの宗主権を主張していたことを考えるならば、日本―ソ連―モンゴルの相互関係にくわえて、中国との関係が問題とされなければならない。申請者も、そのことは意識しており、日ソ中立条約の締結問題では、中国政府の対応を分析しているが、全体としてみた時、対中国関係の分析には、やはり不充分な面が残る。
 また、モンゴル人民革命党のコミンテルンへの参加はオヴザーヴァー資格であり、その後も同党が共産党へ改編されなかった事実にも注目する必要があるだろう。本論文では、同党とコミンテルンあるいはソ連共産党との関係は実に詳細に跡づけられているが、人民革命党そのもの性格やその基盤については、充分な分析がない。この点も、今後の大きな課題として残されている。
 しかし、これらの問題点は申請者も自覚しており、今後の研究の発展の中で克服されてゆくものと期待される。したがって、審査委員会は、本論文が、当該分野の研究の発展に寄与する充分な成果をあげたものと判断し、本論文が、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2004年2月18日

 2004年1月22日、学位論文提出者マンダフ・アリウンサイハン氏についての最終試験を行った。試験においては、審査員が、提出論文「日ソ関係とモンゴル――満州事変から日ソ中立条約締結までの時期を中心に」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、マンダフ・アリウンサイハン氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会はマンダフ・アリウンサイハン氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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