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博士論文審査要旨

論文題目:近世林業技術の近代化に関する研究
著者:脇野 博 (WAKINO, Hiroshi)
論文審査委員:渡辺尚志、田崎宣義、泉 英二

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一、本論文の構成
 本論文は、日本の在来技術の一つである林業技術について、その歴史的展開および近代化過程を明らかにしたものである。その構成は、以下のとおりである。

序 章

第一編 近世林業における技術と労働

第一章 近世初期畿内地域の材木生産
 一 畿内地域のそま
 二 作事編成とそま
 三 そま高と職人身分
第二章 木曽林業における材木生産の成立
 一 伐出技術の伝播
 二 木曽の在地伐出技術
 三 運材技術と河川土木技術
第三章 木曽林業における伐出技術
 一 「材木地方書」
 二 伐出技術の構造
 三 材木生産における稼業組織
 四 材木生産における労働手段と労働組織
 五 木曽伐出技術の水準
第四章 江戸周辺における御用材伐出
 一 近世後期甲州の御用材伐出
 二 幕府武州御林における御用材伐出
第五章 江戸周辺における農民材伐出
 一 材木商経営
 二 材木生産
第六章 近世の林政と育林
 一 幕府林政と育林
 二 「弐拾番山御書付」と萩藩輪伐
 三 番組山経営の実態

第二編 林業技術の近代化過程

第一章 森林資源開発と津軽森林鉄道計画
 一 官林体制の成立
 二 国有林経営と森林資源開発
第二章 津軽森林鉄道導入と在来伐出技術
 一 森林鉄道導入当時の伐出技術
 二 在来伐出技術の体系
 三 近世の稼業組織と労働組織
 四 在来伐出技術体系の変容
第三章 木曽森林鉄道導入と在来伐出技術
 一 森林鉄道導入の経過
 二 木曽式伐木運材法をめぐる評価
 三 森林鉄道導入と運材労働
第四章 近代化における在来運材技術の変容
     ―木曽・津軽・秋田森林鉄道を中心に―
 一 秋田森林鉄道の導入経過
 二 在来伐出技術体系
 三 在来伐出技術の変容

終 章

二、本論文の概要
 序章では、本論文の問題意識と課題が示される。従来の近世林業史研究は、もっぱら近代林業の前史として近世を扱い、近世林業における資本主義化の側面に焦点を当ててきた。しかし、近世林業は幕藩制社会という独自の社会構造のもとで営まれていたのであり、社会の全体的特質との関わりのなかに林業を位置づける必要がある、と著者は言う。
 本論文は、近世・近代を通じて日本有数の林業地帯であった木曽を中心に、古代以来の林業先進地であった畿内とその周辺、材木の大消費地江戸に近い甲斐・武蔵国、杉で有名な秋田・津軽などを分析対象としている。論文は二編構成で、第一編では、近世の伐出技術を取り上げて、幕藩制という固有の社会構造を有する近世社会における林業技術の特質を明らかにし、第二編では、近世との関連において伐出技術の近代化過程を追求している。
 第一編は、六つの章からなっている。
 第一章では、近世初期の畿内における材木生産の実態が検討されている。近世初期、幕府は、全国的に城郭・都市建設や治水土木工事を推進し、そのために大量の木材が必要とされた。木材生産には大量の職人(そま・大鋸・木挽など)を動員する必要があったが、幕府は畿内においては職人集団の統括者の地位にあった中井家を幕府大工頭に任命することで、中井家を通じて畿内各地の職人を動員した。職人たちは、職人国役(国郡単位に賦課された職人として果たすべき役)を務める代償として、百姓役を免除され、地域ごとの
組に編成されて作業に従事した。
 しかし、一八世紀に入ると、そま高を所持している者が必ずしもそまではなくなり、普通の百姓がそま高を所持するようになるという、高所持と身分との乖離が生まれてきた。また、中井家の支配に属さないそまや素人が材木生産に携わる状況も生じた。こうして、そま職人はしだいにその独自性を薄めていった。
 第二章では、木曽地域を対象に、近世的な材木生産がどのように成立したかを検討している。近世初頭の段階では、木曽の地元在住のそまは小材生産技術しかもっておらず、築城用材のような大材を生産する高度な造材技術を有していなかった。そのため、幕府の命により、畿内・越前など各地からすぐれた技術をもったそまたちが動員された。彼らは地域ごとに組をつくっており、集団で木曽に来て伐出に携わっていた。
 また、近世初期・前期には、伐り出した木材は河川を使って下流へと送っていたが、大材を流送するためには流路の整備が必要であった。当時、木曽の運材は角倉・安井などの京都・大坂の豪商が請け負っていたが、彼らは商人であるとともに、河川の開削工事を主導する土木家でもあった。彼らの高度な開削技術が木曽にもたらされることによってはじめて、大材の運送が可能になったものと思われる。
 第三章では、近世中期以降、尾張藩の大きな財源となった木曽山における材木生産の展開過程を跡づけている。材木伐出は、伐出計画策定・伐木・造材・山落・小谷狩(上流の小さい川を使って材木を流すこと)・大川狩(下流の大きい川を使って材木を流すこと)
・筏送り、という工程を有していた。これらの各工程においては、いずれも専門的な知識と熟練が要求された。木曽の伐出技術は、近世の平均的な技術水準を一段上回る高度なものであった。
 尾張藩直営の材木生産においては、そま・日用という職人が、そま頭・日用頭のもとでそま組・日用組という労働組織に編成され、複数の組々の協同作業によって伐出を行なった。作業全体は、尾張藩の役人によって指揮・監督され、さらに代人と呼ばれる有力な職人が、藩役人と組々を媒介していた。組の頭がそま・日用を雇い入れるという方式は、近世初期の職人役による動員とは異なるものであり、職人の編成方式が変化したことを示している。
 第四章では、近世後期の甲斐・武蔵両国を対象に、商人請負による材木生産のあり方を検討し、第三章でみた職人雇い入れによる労働力編成方式の特徴についてさらに考察を深めている。そして、領主の御用材伐出を材木商人が請け負った場合、商人は伐出作業の難易度により、地元の職人を雇い入れるか、他地域の職人を呼び寄せるかして、柔軟に労働力編成をしていたことを明らかにした。
 第五章では、領主による材木生産とは異なる、農民による材木生産について検討している。分析のフィールドは武蔵国西部の西川地方であり、ここは江戸向けの建築用材供給地として近世中期以降発展してきた地域である。著者は、同地の材木生産者兼商人であった浅見家の経営を分析して、①浅見家は、材木を江戸の問屋を経由せずに、直接仲買に販売していたが、これは違法行為であったこと、②天保期を境に、商人的性格に代わって、材木生産者としての性格が前面に出てきたこと、③材木生産に際しては、浅見家が地元の農民を日雇いというかたちで直接雇用しており、それは同家の材木生産が小材中心の熟練技
術を要しないものであったために可能であったこと、などを明らかにしている。
 第六章では、領主の林業政策の基調と、それが林業に与えた影響について考察している。そして、①幕府の育林政策は、場当たり的な伐採の禁止・制限などといった消極的なものであり、計画的育林に積極的に取り組む姿勢はみられなかったこと、②大名の中には輪伐(山林を複数の区画に区分して、毎年順番に伐採を行ない、伐採跡には植林する方式)を採用する藩もあったが、萩藩(長州藩)の場合をみると、乱伐と植林不実施により結果的には輪伐政策は失敗に終わっていること、などが述べられている。そして、全体として、領主が育林よりも材木生産を優先させたために、結果的に育林政策は効果を上げず、領主はしだいに伐採困難な奥地林からも材木を伐り出すようになったと評価している。
 第二編は、四つの章からなっている。 
第一・二章は、津軽地方における近世の林業技術の実態と、明治四十二年の森林鉄道導入によるその変容過程を解明したものである。そして、①津軽の森林資源は明治政府の注目するところとなり、国策として全国に先がけて森林鉄道が導入されたこと、②従来は河川を利用して材木を運搬していたところを森林鉄道が代替することにより、運材作業が効率化されたこと、③森林鉄道が、林業労働者の反発や、材木生産過程の混乱を招くことなくスムーズに導入できた原因の一つとして、在来の伐出工程の特質が考えられること、などを述べている。
 ③の点を今少し説明するなら、在来伐出技術においては伐木造材と運材の分業がみられず、そまが両者を一貫して担っていたため、運材過程を鉄道が代替してもそまは失業の憂き目にあうことはなく、また鉄道導入による省力化によりそまは伐木造材工程に従来以上に力を注げたということである。ここから、著者は、近代的な技術導入の成否は、在来技術=伝統技術のありかた如何に規定されるものであるという論点を導いている。
 第三章では、木曽への森林鉄道導入の経緯を取り上げて、第一・二章における津軽の事例との比較を行なっている。木曽では、鉄道の導入に際して地元に根強い反対意見が存在
したが、その背景には、近世の木曽林業が伐木造材と運材の分離を技術上の特色としており、両者は別々の労働者によって担われていたという事情が存在した。そこに鉄道が導入されて運材過程を鉄道が代替することにより、運材労働者は即失業に直面することになったのである。結果的には、森林鉄道は木曽にも導入されたが、それは在来の労働組織・技術体系を解体・否定しつつ遂行されたのであり、津軽とは対照的な経過を辿ったといえる。
 第四章では、秋田における森林鉄道導入について考察したうえで、第一~三章での津軽・木曽の分析と比較・総合して次のように述べている。鉄道導入は、秋田・木曽では河川運材による材木損失の回避を目的に、他方津軽では夏期の運材を可能にするために行なわれたもので、導入の理由は地域により異なっていた。他方、三地域とも河川を利用した運材という、在来技術体系における共通点も存在した。このように、一口に在来技術といっても地域間で共通点と相違点があり、そのために同じように森林鉄道が導入されても、それによる在来技術の変容のあり方はけっして一様ではなかった。技術の近代化の具体相は、それが前提とする在来技術のありようと密接に関わっていたのである。
 終章では、以上の内容が整理して示され、本論文の研究史上の位置付けと今後の課題が述べられている。

三、本論文の評価
 本論文は、以下のような独自の意義をもっている。
 第一に、近世の社会構造との関わりで林業技術の特質を捉えたことである。近世成立期の兵農分離を経て、林業技術を有する職人集団が身分集団として国家に編成され、職人身分が確立した。そして、集団を通して職人役を賦課することによって、幕府や大名は職人を材木生産に動員することができた。「役」による動員と、職人集団の自律性にもとづく組(労働組織)編成、この両者があいまって近世の労働力編成が実現していたのであり、近世の林業技術体系はまさに幕藩制社会固有のものであった。こうした林業技術の近世的特質を明確に指摘した点が、本論文の第一の意義である。
 第二に、近世技術の近代化過程を具体的に跡づけたことである。これまでの日本林業史研究の多くは、資本主義的生産の萌芽や近代以降の林政の源流を近世林業の中から発見するという問題視角に立っており、いわば近現代からみた林業史であった。これに対して、本論文では、近世の林業技術は近世社会のなかで成立した独自の技術であり、近世技術の近代化過程は、近世技術のありようが近代技術を規定するかたちで進められたことが明らかにされた。林業における在来技術と近代技術との相互関係を解明した点は、本論文の意義として高く評価できよう。
 第三に、材木伐出工程の中における運材を、独自の重要性をもつものとして重点的に分析した点である。木曽においては、運材装置の設計と架設に関して特別の知識と熟練が要求されたし、技術の近代化は森林鉄道導入による運材過程の変革を主軸に進められたのである。従来はともするとあまり重視されなかった運材過程に着目し、それが近世の技術体系およびその近代化過程の中でもつ固有の意味と意義を明らかにしたことは重要である。
 しかし、本論文には、いくつかの問題点もまた存在する。
 第一は、近世の林業技術の評価に関する点である。著者は、近世の技術を幕藩制固有の技術であり、かつ在来技術であるとしている。しかし、両者は全く同一のものではなく、在来技術は幕藩体制が終焉してもなお存続可能なものであり、現実に近代以降も部分的に
ではあれ残存している。よって、著者は両者の微妙な差異に今少し注意すべきではなかったかと思われる。
 第二に、著者は、近世林業技術の特質を論じる際には、技術そのものに加えて、職人の社会的地位(身分としての職人)や材木生産への動員のされ方(職人役による編成)をも重視しているのに対して、近代化過程の検討に際しては、もっぱら技術の変容が問題とされ、技術を体現する職人の存在形態についての分析がやや手薄になっている点である。
 しかし、以上の問題点は著者も十分自覚するところであり、しかも本論文が達成した成果からみれば必ずしも大きな欠陥とはいえない。
 よって、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与するに十分な成果をあげたものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2004年3月10日

 2004年2月27日、学位論文提出者脇野博氏についての最終試験を行った。本試験においては、審査員が、提出論文「近世林業技術の近代化に関する研究」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、脇野博氏はいずれも十分な説明を与えた。
 また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語および専攻学術に関する学力認定においても、脇野博氏は十分な学力をもつことを証明した。
 よって審査員一同は、脇野博氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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