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博士論文審査要旨

論文題目:摩擦と合作 新四軍1937~1941
著者:三好 章 (MIYOSHI, Akira)
論文審査委員:三谷 孝、坂元ひろ子、吉田 裕

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一、本論文の構成
 本論文は、日中戦争中に抗日民族統一戦線の軍隊として華中で活動した新四軍の成立から皖南事変(1941年1月)に至る時期の、成立の経緯・中共中央や国民政府との関係・展開した地域における活動と地方勢力との関係等の問題を時系列的に検討したもので、著者が1986年から1993年にかけて発表した5本の論文をもとに新たに大幅な加筆修正を加えてまとめなおされたものである。なお、本論文はすでに2003年2月に創土社より「愛知大学国研叢書」(第3期第6冊、496頁)として刊行されており、400字詰原稿に換算して1300枚程の論文である。
 本論文の構成は、以下の通りである。

はじめに
プロローグ 瑞金
第一章 誕生
 第一節 国共両党の交渉と抗日民族統一戦線の成立
 第二節 南方紅軍をめぐる国共両党と葉挺
 第三節 新四軍の成立
 第四節 葉挺と項英
第二章 江南
 第一節 茅山根拠地の形成-初期新四軍の活動について
  一、茅山の地理的概要
  二、茅山根拠地の形成
 第二節 江南抗日義勇軍-初期新四軍と地方武装
  一、江南における対日抗戦初期の地方武装
  二、江南抗日義勇軍の形成
  三、挫折と再生
第三章 摩擦
 第一節 1940年夏の国共交渉
  一、中共六期六中全会
  二、1940年夏の国共交渉
  三、1940年秋
 第二節 泰州談判と「蘇北摩擦」
  一、陳毅北渡
  二、談判と摩擦
第四章 破局
 第一節 「蘇北摩擦」の激化
  一、「蘇北摩擦」の激化
  二、華中新四軍八路軍総司令部の成立
  三、「蘇北臨時参議会」と曹甸戦役
 第二節 皖南事変
  一、皖南事変への道
  二、皖南事変の意味
エピローグ 塩城
 あとがき
 主要参考文献
 部隊編制表
 図版・地図一覧
 索引(事項・人名)
 英文目次

二、本論文の概要
 「プロローグ」では、紅軍主力が長征に出発した後、国民党軍の攻撃にさらされた残存部隊が後に「南方三年遊撃戦争」と呼ばれる生き残りをかけた苦難の遊撃戦を展開した情況が述べられる。中共中央との連絡も途絶えて孤立し、分散したこれらの部隊が、その後に新四軍の主要部分を構成することになる。
 第一章は、国民革命軍陸軍新編第四軍(以下、新四軍と略記)の成立について葉挺の動向を中心に検討する。
 抗日民族統一戦線の結成と日中全面戦争の開始にともない、南方に残存した紅軍を国民革命軍に所属する正規軍に改編するにあたって、蒋介石はその部隊名を新編第四軍、軍長を葉挺とすることを決定して、1937年10月12日に中共の合意のないまま一方的に公表した。1926年の北伐の際に「鉄軍」と呼ばれた精鋭部隊・第四軍の名称とその指揮官であった葉挺の声望が、紅軍残存部隊を統括して国民党の影響下におく上で有利であると判断したのであった。一方、中共も周恩来等との知友関係によって葉挺が非党員ながらも共産党に近い立場にいたことから葉に接触をはかり、蒋介石にとっても許容しうる人物と見て葉の就任に同意の方向にあったが、軍の経費・人事・編制等の問題をめぐって国共両党の合意が難航したため新四軍の発足は遅れることとなった。著者はこの経緯を詳しく紹介し、両党の間に立った葉挺の粘り強い努力によってはじめて新四軍が1937年12月末に正式に発足できたものとする。しかし、軍編制後においても、「南方三年遊撃戦争」を戦った歴戦の党員で副軍長の項英と軍長の葉挺との間の確執は絶えず発生し、中共離党者で滞欧生活の長かった葉に対して「ブルジョア」「革命の逃亡兵」等との誹謗がなされ、中共中央の支持が得られないことを危惧した葉は2度にわたって辞意を表明してその職を離れることになる。結局は周恩来の説得によって葉は職務に復帰するのであるが、その後も葉と項の両者の軋轢は解消されなかった。著者はこの経緯を詳細に明らかにして、これは経歴に関わる個人的対立などではなく、「統一戦線の軍隊」として組織された新四軍を中共が運営するという矛盾がこの両者の対立という形をとって表現されたものとする。
 第二章では、初期新四軍の活動について、南京近郊の丘陵地域・茅山での根拠地建設と新四軍の別動隊としての江南抗日義勇軍の活動について検討される。
 まず、首都南京の防衛に当たっていた国民政府軍が日本軍の攻撃によって敗退した後の江南には、地方の「遊撃隊」・匪賊、青幇・大刀会のような秘密結社、地方有力者の組織した自衛組織等のさまざまな自然発生的な地方武装勢力が各地に割拠していた。新四軍は1938年4月に粟裕を司令とする先遣隊を派遣して日本軍の輸送網の破壊等の後方撹乱と同地の民衆に対する抗日宣伝に当たらせた。ついで陳毅らの率いる新四軍第一支隊・第二支隊が江南に進出して根拠地の確保をはかり、茅山の大茶園主・紀振興の協力によって拠点を築くことに成功する。さらに、すでに自衛的農民武装組織や一部の地方武装勢力によって使用されていた「江南抗日義勇軍」の名義で多数の地方武装勢力を吸収してそれを新四軍配下の準正規軍へと改編していった。しかし、この「義勇軍」の拡大は同地に展開する国民党系の「忠義救国軍」等との「摩擦」を引き起こし、国民党との交渉の結果、中共は統一戦線維持のために1939年9月この部隊を西に撤収させるとともに、新四軍支隊主力を江南から江北(蘇北)へと移動させた。その後に「江南抗日人民救国軍」が新たに組織されたが、汪兆銘政権による「清郷工作」等のために戦争末期まで強力な軍事力に成長することはなかった。こうして、新四軍の江南における根拠地建設は挫折することになる。
 第三章では、江北に渡った陳毅麾下の新四軍の拡大攻勢と蘇北根拠地建設の経緯が明らかにされる。 武漢陥落と時期を同じくして開かれた中共六期六中全会(1938年9月~11月)の後、中共は国民党との「摩擦」覚悟の拡大路線に乗り出し、中共中央中原局書記・劉少奇の指示の下にその地域に勢力を有する江蘇省政府主席・韓徳勤系の部隊との間に「蘇北摩擦」と称される激烈な軍事衝突を各地で引き起こす。繰り返し開かれた国共交渉もこの問題を解決するには至らず、新四軍は硬軟の手段を使い分けた政治工作によって李明揚らこの地域に根付いていた地方武装勢力の協力を獲得するとともに、李の紹介によって韓国鈞・朱履先ら声望ある地方紳士ら「中間派」の支援を得て、蘇北根拠地を建設していく。そこでは、統一戦線下の土地政策として「二五減租」等の地主の利害にも配慮した政策がとられていた。そして、中共に有利に展開している「摩擦」の「解決」のために華北から八路軍第二縦隊の南下が開始される。蒋介石から見れば、南下八路軍と江北新四軍に皖南(安徽省南部)にあった新四軍軍部が合流して蘇北根拠地がさらに強化されて江南にその影響が及ぶことは黙認できない危機的な事態であった。著者は、ここに皖南事変に至る主要な要因が形成されたものと指摘する。
 第四章では、「蘇北摩擦」がさらに激化し、蘇北の国民党勢力と中共・新四軍の関係が一層悪化する中を皖南から蘇北へ移動中の新四軍軍部が国民党軍の包囲攻撃によって壊滅的打撃を受けた皖南事変(新四軍事件)に至る経過が検討される。1939年9月以降、師団規模の国共両軍が衝突した営渓戦役・姜堰戦役に引き続き、八路軍第五縦隊と合流した新四軍第四・第五縦隊は、第二次黄橋戦役で韓徳勤軍に大打撃を与えた。勝利をおさめた陳毅は韓徳勤軍を「敵軍」と呼び、新たに設立された華中新四軍八路軍総指揮部は中共中央中原局の指導下に、各軍を統率して韓軍に一層の攻勢をかけて江北から駆逐することをはかった。11月末に八路軍・新四軍側の攻撃で開始された曹甸戦役は、10万近くの韓徳勤軍と2万以下の兵力の中共軍との間で行われたものであったが、中共側は韓軍8000を殲滅したと呼号したものの自らも2000の死傷者を出して、攻勢は頓挫した。このような中で、1941年1月6日、皖南から江北へ移動中の新四軍軍部約9000人が、安徽省南部で国民政府直属の顧祝同・上官雲相指揮下の約8万の部隊の包囲攻撃に遭って一週間の戦闘の後に潰滅し、軍長の葉挺は捕虜になり、副軍長の項英は逃走中にその護衛兵に殺害されることになった。従来の通説では新四軍は蒋介石の内戦覚悟の謀略の犠牲になったものとされるが、著者は皖南事変の原因は、毛沢東の「欽差大臣」ともいえる劉少奇の指導した拡大攻勢路線によって、新四軍と八路軍の結合による蘇中・蘇北地域の中共による掌握が現実問題となったことにあるとする。
 「エピローグ」では、皖南事変後に再建された新四軍軍部と根拠地の状況について概観する。国民党は新四軍を「反乱軍」として国民革命軍の編制から除去したが、中共は事変直後の1月20日、陳毅を代理軍長、劉少奇を政治委員として新四軍軍部を独自に再建した。蘇北の塩城を本拠とするこの新四軍は、地方有力者・地主層に対しても従来と異なった階級的な対応をとるようになっていく。かくて「ヤヌスの顔」をもっていた新四軍はこの後名実ともに中共軍として活動することになる。

三、成果と問題点
 日中戦争期の中国共産党指揮下の正規軍は、八路軍と新四軍とからなり、それぞれ華北と華中を主たる活動地域としていた。中共にとって八路軍は、その来歴から見ても、また活動地域や兵力から見ても、延安を本拠とする中共中央に直結する主力軍であったことから、戦後中国における抗日戦争史の研究は八路軍関係を中心に行われてきた。それに対して、新四軍の活動地域は戦前の国民政府の首都圏ともいうべき地域にあたり、成立当初から国民党系の武装勢力との対立・抗争が繰り返された末に皖南事変で同軍が一時潰滅的打撃を受けたことやその実質的指揮官であった項英と毛沢東との間にあった確執等の事情のために、研究対象として重視されなかった新四軍についての研究ははるかに立ち遅れていた。こうした中国での研究の偏差はそのまま戦後日本の中国革命史研究の動向にも反映されており、1970年代までの新四軍についての研究は皖南事変を扱った石井明氏の論文一本を数えるに過ぎなかった。
 著者は大学院生時代の1980年代から現在まで20数年にわたって新四軍の研究に専念してきており、本論文はその研究成果の集大成といえる。
 本論文で主として用いられている資料は、学問分野でも「改革・開放」が開始された1980年代以降に、中国で刊行された史料集と関係者の回想録、とくに『新四軍和華中抗日根拠地史料選』全7巻(1984年、上海人民出版社)・中国人民解放軍歴史資料叢書の『新四軍』全12巻(1988年~1995年、解放軍出版社)・『皖南事変資料選』(1981年、安徽人民出版社)等である。また、中共と対抗関係にあった国民党側の史料を中心に国民党の調査機関が入手した中共の多くの機密史料をも収録した、秦孝義主編『中華民国重要史料初編-対日抗戦時期 第五編 中共活動真相(一)~(四)』(中国国民党中央委員会党史委員会編印、1985年)、及び日本の興亜院華中連絡部の調査報告書『解散迄ノ新四軍』(1941年)・在上海日本大使館事務所編の機密文献『金檀地区共産党実情調査報告書』(1943年)等である。著者は、こうした立場の相違する各種の公刊史料を総合的に検討してその研究に利用するとともに、中国・台湾の関係研究機関にも頻繁に通って広く一次史料を収集し、同地の研究者とも積極的に研究交流を行ってその成果を本論文に結実させている。
 本論文は、日本で最初の新四軍についての本格的研究として多くの新事実を紹介しているが、その主な成果として以下の点をあげることができる。
 第一に、新四軍成立の具体的事情を国共双方の史料に基づいて詳細に明らかにしたことである。従来の通説では、中共の主張を国民党側が承認して設立された新四軍は当初から中共の軍隊であったとされている。しかし、著者は、①葉挺が個人の資格で国民党と交渉した提案に基づいて、国民党側が南方紅軍を改編した新四軍を葉挺を軍長として発足させることを一方的に公表したこと、②そのために国共両党の間での交渉が繰り返し行われたが双方に十分な合意が形成されないままに新四軍が活動を開始したことがその後に禍根を残すことになったこと、③新四軍には統一戦線を体現する葉挺(軍長)と労働者出身の古参の中共党員である項英(副軍長にして実質的政治委員)という二つの頭があって、対応に苦慮した葉挺は2度にわたって辞意を表明してその職を離れたこと、を明らかにして成立当初の新四軍が国共統一戦線と中共という「ヤヌスの顔」をもった軍隊であったと主張する。
 第二に、紅軍主力が長征に出発した後、南京・上海周辺という国民政府の中心地域で「南方三年遊撃戦争」を展開して敗残兵同然の劣勢に追い込まれていた紅軍残存部隊を総結集しても1万人程度であった当初の新四軍が、日中戦争によって各地に発生した地方武装勢力と連携しまた吸収するために多大の努力を払っていたことを実証的に明らかにしている。こうした工作は、日本軍と国民党地方部隊に囲まれた困難な環境の中で活動する新四軍にとっての死活問題であったが、著者は、茅山根拠地確保の際の大茶園主・紀振興の協力、蘇北における地方実力者・李明揚の獲得、李を介した蘇北の有力知識人・韓国鈞らの新四軍への支援等の具体例をあげて、陳毅ら中共側の地道な政治工作によって、地域社会に新四軍が拠点を築いていく過程を解明している。また、共産党が「生き延びる」ための財源確保の手段としてアヘンの栽培にも携わっており、皖南事変で逃亡した項英もその最期の時点までアヘンを身につけていたことなどの新事実の指摘も随所に見られる。
 第三に、1938年9月以降の中共六期六中全会において中共は、国民党地方勢力との「摩擦」を覚悟のうえでの根拠地拡大路線を決定し、中原局書記・劉少奇の指示の下に当時5万人の兵力を擁した新四軍も江蘇省政府主席・韓徳勤系の地方部隊との間で衝突を繰り返すことになるが、その「摩擦」の実態がほとんど内戦ともいえる激しいものであったことを数多くの事例によって明らかにしている。また、この拡大路線の初期の成功が国民党系軍事力の過小評価をもたらして、曹甸戦役での新四軍の敗北につながり、さらに皖南事変を引き起こす原因となるとする説は、従来統一戦線を破壊する国民党の側にこの事変の責任があったとする通説に対する批判として説得力をもっている。
 第四に、皖南事変後、国民政府は新四軍を国民革命軍の編制から排除するが、南下した八路軍の支援を受けて、中共は独自に新四軍を再建することになり、ここに新四軍は名実ともに中共の軍隊となる。この中共軍として再建された強力な「新四軍」は、これまで国共合作路線によって融和的であった地方有力者に対する政策にも変化が見られるようになるとする。この間の蘇北の有力者への対応の変化を具体的に実証した点は研究史に一石を投ずる成果といえる。
 しかし、以上のような多くの成果をあげつつも、本論文には今後に残された課題も少なくない。
 第一に、本論文では抗日民族統一戦線の軍隊と中共の軍隊という「ヤヌスの二つの顔」をもった新四軍の性格に焦点が絞られたために、統一戦線の敵である日本軍との戦闘については副次的に扱われているに過ぎない。中共の公式見解に近い戦史では「1939年と1940年の2年間に新四軍は2400回余りの作戦を行い、日本軍・傀儡政府軍5万余人を殲滅した」(劉大年・白介夫編『中国抗日戦争史』1997年)とされており、日本軍との作戦経過についても今後さらに具体的な解明が望まれる。
 第二に、蒋介石は「非法活動」を行っているとの理由で新四軍に対する制裁に踏み切り、新四軍軍部に壊滅的打撃を与えたが、事変後に国内の民主諸党派のみならず中国を支援してきたアメリカ・イギリス・ソ連からも抗日統一戦線の存続を脅かす行為として批判を浴びることとなった。蒋介石があえてこうした強硬方針を選択した経緯など国民党側の分析が手薄になっている印象は否めない。蒋介石関係の一次史料が公開されつつある現在の条件を生かした今後の解明に期待したい。
 第三に、日中全面戦争開始後においても上海の租界地域は、日本軍の占領を免れた独立地域(「孤島」)として存続しており、そこには中共の秘密機関があって、新四軍との連絡が保たれて支援活動が行われていた。また、上海の青幇組織の中には新四軍に協力する勢力もあったことが関係者の回想録によって明らかとなっている。本論文では、こうした上海との関係については論じられていない。 しかし、このような問題点は著者も十分自覚するところであり、これまでの蓄積の上に、今後の課題として再建以降の新四軍の問題とともにこれらの課題についても周到な検討が行われることを期待したい。
 以上審査員一同は、上記のような評価にもとづき、本論文が当該分野の研究に寄与するところ大なるものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2004年3月10日

 2004年2月17日、学位論文提出者三好章氏の試験及び学力認定を行った。試験においては、提出論文「摩擦と合作 新四軍 1937~1941」に基づき、審査員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、三好章氏はいずれも十分な説明を与えた。
 また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語及び専攻学術に関する学力認定においても、三好章氏は十分な学力をもつことを証明した。
 よって審査員一同は三好章氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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