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博士論文審査要旨

論文題目:ドイツ社会政策史研究:ビスマルク失脚後の労働者参加政策
著者:山田 高生 (YAMADA, Takao)
論文審査委員:藤田伍一、渡辺雅男、高田一夫

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1.本研究の主題
 本研究における主題や問題関心等については、序論で取り上げられている。
 本研究における中心概念の一つは「統合化政策」であるが、山田氏は次のように説明する。少し長いが引用する。「近代的労使関係のもとでは、物的給付は、そのものとしてはもはや統合化機能を果たし得なくなり、企業への被用者の統合のためには、理念的な満足を満たすためのなんらかの方策が必要となったと考えられる。ここに、物質的利害関心と理念的利害関心とを区別する理由があると同時に、理念的利害関心の充足に方向づけられた統合化政策という固有の問題領域が生ずる」と。理念的利害関心の充足方法としては、「近代的労使関係のもとでは団体交渉と経営参加があるが、団体交渉が異質集団(雇主団体と労働組合)の間の協定による法の確定にすぎず、同一化(統合化)に至らないのにたいし、労働者の経営参加は経営者集団への被用者代表の合法的参加を通じて異質集団の統合を目的としている点で、経営参加を理念的利害関心の充足に方向づけられた統合化と呼ぶことができる」としている。山田氏にとって経営参加政策とは、被用者にたいし合法的支配の正当性意識を喚起せしめ、経営規範を内面化させ主体的に経営の維持的要素たらしめようとする統合化政策に他ならないのである。
 このように、本研究はヴェーバー研究の成果をもとに、社会政策を「支配の正当性創出策としての統合化政策」と捉えている。すなわち、「経済政策や景気政策が、社会の物的富の増大や再分配を目指すのにたいし、経済成長がもたらす攪乱、階級的対立の激化や貧困などの社会問題には、国家による統合化政策としての社会政策が対応し、これによって国家は支配の持続的な安定性を維持しようと努め」るのである。
 このことを踏まえて、「現代資本主義国家の中で権力中枢に座し、ますます国家社会政策の主体として様々な社会階層の利害の錯綜する市民社会内部の対立を統合する役割を担うようになった国家官僚層と、他方では現代大衆民主主義のもとで圧力団体の利益代表に
過ぎなくなった政党と議会政治への不信から登場した参加民主主義の運動が、互いにどのように関連しあっているのかという問題を、それが最初に歴史の中に登場した時点にまで遡って、19世紀末から20世紀初頭にかけてのドイツ第二帝政期に特徴的に出現した官僚政治家の国家社会政策についての考察」として取り上げているのである。
 そして本研究では三人の官僚政治家を登場させ、その官僚政治家を通して社会政策の主体分析をおこなっている。1871年に成立したドイツ帝国(第二帝政)の行政機構は、ドイツ皇帝(カイザー)を頂点として、帝国宰相と各省長官、そのもとで業務に従事する帝国官僚から構成されていた。初代の帝国宰相ビスマルクの政治的地位は、帝国憲法により保証されたドイツ皇帝ヴィルヘルム一世の権限と信任によって支えられていた。そのため1888年のドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の戴冠はビスマルクの権力基盤を揺るがせることになり、やがて失脚に導いた。「ビスマルクの失脚以降、帝国政治の舵取り役を担当したのは、虚栄心が強く、海軍将校気取りの若きカイザー・ヴィルヘルム二世とそのもと
で政務に従事する官僚政治家」となったのである。
 そして山田氏は次のように説明する。「今や国家権力を掌握するにいたった官僚政治家は、それ自身の権力利害から経済的利益集団や政党にたいし中立を装いつつ、それらの諸利害の対立を調整し、国家への制度的統合のための政策努力を重ねた。この点こそビスマ
ルクの政治とビスマルク後の政治とを分ける基本であり、ベルレプシュからポザドフスキへ、さらに第一次大戦中のグレーナーへとつらなる国家社会政策の展開もこの努力のなかで動いていたと考えられる」と。
2.本研究の構成
 本研究はビスマルク失脚後から第一次世界大戦末までの約30年間における第二帝政期後半の労働者参加政策に関する研究を主題としている。内容的には、1891年営業条例改正における経営内の労働者委員会の成立に始まって、第一次世界大戦の終戦後にいたる労働者の経営参加制度への展開を、主に国家社会政策を担当した三人の官僚政治家(ベルレプシュ、ポザドフスキ、グレーナー)の思想と活動を克明に追跡して描写している。本研究の構成は以下の通りである。
  はしがき
  序論 課題と構成

  第一部 ベルレプシュの「新航路」社会政策
   第1章 ベルレプシュと1891年営業条例改正
   第2章 ルール石炭鉱業の労使関係と1892年プロイセン鉱山法改正
 
  第二部 ポザドフスキの「結集」社会政策
   第1章 ポザドフスキの経歴/官僚政治家への道
   第2章 帝国財務省長官時代のポザドフスキ
   第3章 帝国内務省長官ポザドフスキと結集政策
   第4章 ポザドフスキの社会政策的転向
   第5章 宰相の交代とポザドフスキ
   第6章 後期ポザドフスキの社会政策
   補論 社会学的社会政策論の形成
  
  第三部 グレーナーの「戦時」社会政策
   第1章 ヴィルヘルム・グレーナーの生い立ちと軍隊生活
   第2章 大戦初期における軍部の社会政策
   第3章 戦時管理庁と祖国戦時労働動員法
   第4章 グレーナーの失脚 
   第5章 グレーナー、敗戦、そしてヴァイマル/むすび
   補論 経済民主主義の生成と展開
  あとがき
  参考文献
  人名索引
3.本研究の概要
 本研究の構成にしたがって以下に研究の概要を述べる。
 第一部では、ビスマルク失脚後の帝国の社会政策を担当したプロイセン商務大臣ベルレプシュの社会政策について述べられている。1889年の鉱山ストライキを契機にベルレプシュが登場してくる過程やドイツ型労働者保護立法として位置づけられる1891年の営業条例改正の作業が克明に記されている。とくに、任意制労働者委員会を法制化するなど、従来のビスマルク路線とは異なった柔軟な社会政策の展開が説得力をもって描写されている。
 ここでは労働者委員会の法制化が焦点となるが、山田氏は従業員代表制である労働者委員会を「上から」ではなく「下から」作り上げることで、社会民主党の影響下にある労働者を国家側に組み入れようとするものであったと理解している。さらに翌1892年のプロイセン鉱山法改正においても、鉱山労働者委員会が法制化されたが、これらの制度は実効性は乏しかったものの、労働者委員会による就業規則の事前聴取など、一部には画期的な内容を含むものであった。だが、企業家による家父長的な経営規範(「ヘル・イム・ハウゼ」)が強く残った時期にあっては、改正内容も部分的なものにならざるを得なかったのである。
 第二部では、帝国内政の反動化の時期に帝国内務省長官に就任したユンカー階級出身の官僚政治家ポザドフスキの社会政策について述べられている。とくにポザドフスキについては出自がユンカー階級ということから、その家系や生い立ちにまで立ち入って考察されている。ポザドフスキについては結集政策と結び付けた評価が一般的である。結集政策は世紀の転換期に登場した艦隊政策、通商政策、懲役法案の三位一体的な反動的政策体系として捉えられているが、山田氏はそれだけにとどまらない側面を照射している。
 保守派の官僚政治家であったポザドフスキは、当然ながら社会民主党を、国家の安定を揺るがす存在として敵視したが、懲役法案にみるように強圧的労働立法には否定的であった。それによって議会の中間政党が反政府側につけば、社会民主党を利することになり、ひいては結集政策そのものが不可能になると考えられたからである。そして彼は、大企業家からの不興を買いつつも、帝国社会保険法改正や家内工業の労働者保護政策、プロイセン鉱山法改正、職業組合法等の重要な社会政策立法を成立させていった。ここでは中央党との協調路線によって、社会民主党支持にまわる可能性がある労働者層を国家側に繋ぎとめるという古典的な社会政策的判断が働いていたことが詳述されている。
 第三部では、第一次世界大戦中におけるドイツ参謀本部付の将官グレーナーの「戦時」社会政策について述べられている。彼は、戦時中の最も困難な時期において、ヒンデンブルクとルーデンドルフによって構想された祖国戦時労働動員法の成立と実行の責を担った人物である。総動員体制を実現すべく戦時管理庁の長官に就任したグレーナーは、一方で軍事独裁体制確立を支持するものの、他方で労働組合の融和策が君主制の維持に繋がると考えていた。そのため従来の「ヘル・イム・ハウゼ」の考えを改めて、労働組合指導部との連携をとることが重要であると認識していた。従って、1916年の祖国戦時動員法において、超経営的レベルの労働組合の政策参加や、経営レベルの労働者委員会の設置などを働きかけ、これを実現させたのである。これによって道を開かれた労働組合の同権的参加の基本的要素(労使同権、経済指導への参加、産業自治)は、ヴァイマル経済民主主義にも受け継がれていくことになるが、反面では、産業自治が「上から」形成され、大衆の革命化に対抗する大企業家と労働組合の共同防衛組織として実現された点など、問題を孕んでいたことが指摘されている。
 本論文には三部構成の傍ら、二つの補論が付されている。第二部における補論では、ポザドフスキ社会政策の全盛期に発生した社会学的社会政策論が取り上げられている。それは1890年代におけるヴェーバーやゾンバルトの講壇社会主義批判などに触発され、ドイツ社会学会成立(1910年)時に、ツヴィーディネックによって主張されたものである。これは戦後西ドイツで盛んになったGesellschaftspolitik論の源流とみなすことができるとしている。
 もう一つの第三部に付された補論は、ヴァイマル経済民主主義の成立過程を第一次世界大戦前の時代に遡って考察したものである。それによれば、1890~1914年において、主に自由労働組合によってヴァイマル経済民主主義の萌芽が形成されるものの、その後の政治・社会状況の過程で挫折していく様が述べられている。
4.本研究の評価
 以下で、若干の評価と特色及び今後の課題について述べる。
 労働者参加政策を、現代資本主義国家の維持に不可欠な統合化政策であると捉え、国家社会政策固有の領域であるとする点、また国家社会政策の担い手である官僚政治家に着目して、彼らの政治プロセスを通して統合化の実態を描きだそうとした点は本論文のオリジ
ナリティとして評価できる。
 19世紀から20世紀初頭にかけてのドイツ第二帝政期における、統合化政策としての労働者参加政策の展開過程を三人の官僚政治家を通して紐解くという筆者の狙いは果たされているが、その場合、三人それぞれの生い立ち、経歴、代表的な活動内容等々を、豊富な資料によって跡付けている点が本研究の大きな特色となっている。この点については、彼らをとりまく宰相その他の政治上の重要人物の動向や、労働組合や社会民主党などが労働者参加政策の推進に果した役割などについても充分に論及されており、全体としてバランスの取れた構成となっていることを付け加えておきたい。
 また、本研究の特色として理論的枠組みや歴史解釈の面でマックス・ヴェーバーの援用が目立つ点も指摘しておかなければならない。とくに支配の正当性論やユンカー主導の政治構造論などにそれを見ることができ、山田氏の長年のヴェーバー研究の蓄積が色濃く反映した業績となっている。
 今後の課題をあげるとすれば、本研究は第二帝政期の社会政策の形成・実行という政治過程を主な分析対象としていたが、次は分析枠を拡大して、社会的関係、経済的基盤の側面を補強していってほしいと思われる。この問題は帝国主義段階における社会政策と経済
政策、あるいは内政と外交の優位関係についての論争点とどう向かい合うかの問題を含んでおり、次のステップとして社会政策が打ち出された当時の社会的・経済的側面の一層の解明が期待されるであろう。
 また本研究がビスマルク退陣から第一次世界大戦終戦までのほぼ30年間に集中して労働者参加政策を考察して大きな成果をあげたことを踏まえるなら、次のステップとしては射程を延ばしてビスマルク・レジームの体制解明に進むことを期待したい。ビスマルクは個人的には1890年に退陣するとしても、彼が作り上げた帝国とプロイセンの二重写しといわれる政治権力構造はユンカー階級を基盤として続いているのであって、その面からビスマルク時代との「断続」関係が改めて照射されることになろう。とりわけ社会政策の面ではシュモラーのいう古典的な君主制的社会政策の枠組みとの連続性が問われることになると見られる。
 同様に、政治権力構造が大きく変わったヴァイマル共和国や戦後西ドイツにおける労働者参加政策は、第二帝政時代からの「連続」した流れの中で解釈できるか、も今後の研究課題として提起されてくるように思われる。
 ともあれ、本研究は学会でも取り上げられ、書評でも高い評価を受けているように、労働者参加政策の実態的解明に貢献しただけでなく、社会政策の有り様をめぐる理論的側面にも大きな学問的刺激を与えたということができよう。
 以上から、審査委員一同は、本研究が学位請求論文にふさわしい学術的水準をもつものと評価し、申請者山田高生氏に、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると結論する。

最終試験の結果の要旨

2003年7月9日

2003年 6月27日、学位論文提出者山田高生氏についての最終試験を行った。
本試験においては、審査委員が提出論文『ドイツ社会政策史研究-ビスマルク失脚後の労働者参加政策-』について、逐一疑問点について説明を求めたのに 対して、山田高生氏はいずれにも十分な説明を与えた。
また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語および専攻学術に関する学力認定においても、山田高生氏は十分な学力を持つことを証明した。
よって審査委員一同は山田高生氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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