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博士論文審査要旨

論文題目:戦間期日本における定住朝鮮人の形成過程
著者:金 廣烈 (KIM, Gwang Yol)
論文審査委員:糟谷 憲一、田中 宏、渡辺 尚志、浅見 靖仁

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1.本論文の構成

 本論文は以下のように構成されている。本文・注をあわせて、 400字詰原稿用紙に換算して約550枚相当の分量になる。なお各章の末尾には、「小括」が付されている。

 序論
 第1章 1920、30年代朝鮮における離村と渡日の背景
  第1節 離村の概要
  第2節 農村経済の疲弊化と農村中間層の衰退
  第3節 旱害と離村
  第4節 劣悪な転職環境
  第5節 中国人の朝鮮労働市場進出
 第2章 朝鮮総督府による「窮民救済土木事業」の実態
  第1節 1920年代における「被災民救済土木事業」
  第2節 1930年代前半における「窮民救済土木事業」
  補論  1932年の朝鮮土木業界談合事件
 第3章 内務省主導の渡日規制政策と日本在住朝鮮人
  第1節 1920年代における渡日規制
  第2節 1930年代における渡日規制
 第4章 渡日朝鮮人の特質と日本在住朝鮮人の定住化様相
  第1節 渡日朝鮮人の渡航形態、目的、経済状態、郷里での職業
  第2節 教育程度から見た渡日朝鮮人の特質
  第3節 マクロ的にみた日本在住朝鮮人の定住化様相
 第5章 日本在住朝鮮人の生活状況と非定住帰郷者
  第1節 居住状況
  第2節 労働環境および生活状況
  第3節 生活に対する認識と非定住帰郷者
 結論 - 総括と展望 -

2.本論文の要旨

 本論文は、今日における在日朝鮮人の原型である、いわゆる在日朝鮮人一世がどのような過程を経て形成されたかを改めて考察し、在日朝鮮人形成史の実像にせまろうとしたものである。ただし著者は、第二次世界大戦前・大戦後を一括して、「日本にいる朝鮮人」を「在日朝鮮人」と呼称するのは適当ではないとして、戦前期については「日本在住朝鮮人」の呼称を用いている。

 序論では、まず本論文の主題と関連する先行研究が検討される。第一に、在日朝鮮人渡航・形成史の研究が取りあげられる。姜在彦の研究および朴在一の研究が、植民地期朝鮮における離村者の多くが日本への職探しを選択した背景について考察していない、渡日した朝鮮人の特質の分析を欠いていると批判される一方、一村落の事例調査をもとにして、離村先が離村者各自の経済力によって異なり、中農層が渡日したと指摘した梶村秀樹の問題提起が高く評価される。

 第二に、経済史研究のうち、朝鮮人の渡日を日本資本主義の発展過程との関連で論じた研究として、松村高夫・堀和生・河明生・西成田豊の研究が取りあげられる。これらの研究に対しては、朝鮮人労働者の渡日要因を、賃金格差に基づく日本資本主義の吸引力の側面でのみ把握している(松村・堀)、在朝中国人労働者の存在を指摘しているものの、賃金格差論を踏襲している(河明生)、排出要因としての朝鮮農業の構造的問題点を指摘しているものの、離村の実態および朝鮮の第二次・第三次産業における就職環境などについては考察していない(西成田)との批判が加えられる。

 第三に、朝鮮人渡日防止政策に関する研究が取りあげられる。姜在彦・朴在一の研究から最近の西成田の研究に至るまで、渡日防止政策の検討は対象時期が限定され、断片的なものに過ぎないとされる。また1920~30年代に実施された朝鮮の窮民救済土木事業には渡日者数を減退させる効果があったと論じた金澤史男の研究も、窮民救済土木事業が朝鮮の農民の再生産に役立ったかを明らかにする必要があると批判される。

 最後に韓国における研究が概観され、韓国における在日朝鮮人形成史研究はまだ初期の段階にあるとされる。

 以上の研究史整理に基づいて、次のような課題が設定される。(1)渡日の背景として日本資本主義側のプル要因が強調されてきたが、本論文では朝鮮の植民地的社会経済状況がプッシュ要因として強く働いた点を明らかにする。(2)渡日環境と日本在住朝鮮人の滞在形態に重大な影響を及ぼした渡日規制政策の変遷過程を明らかにする。(3)従来、渡日朝鮮人の特質は朝鮮社会の最下層であり、裸一貫の状態で渡日したと認識されていたが、必ずしもそうではなかったことを明らかにする。(4)従来の研究では日本在住朝鮮人の生活状態の貧窮ぶりが強調されていたが、彼らが恵まれていなかった生活状況の中でも大方定住化しつつあったことを明らかにする。

 本論文の対象時期は戦間期の1920~30年代であり、30年代は朝鮮人強制労務動員が始まる39年以前までである。このように対象時期を限定した理由は、朝鮮からの渡日者数が激増した時期は1920~30年代であり、また第二次世界大戦期に強制動員された朝鮮人労働者は日本の敗戦直後にほとんど帰国したので、戦後の在日朝鮮人の原型が形成されたのも1920~30年代と考えられるからであると、著者は説明している。

 第1章では、1920~30年代の朝鮮における離村の規模を推算した上で、離村の諸要因、離村者の一部が日本へ労働者として渡る背景が検討される。第1節では、1920年代後半の朝鮮における人口変動の調査、「満州」・日本在住朝鮮人の人口統計に基づいて、1920~38年における離村の規模は、朝鮮内の移動が約183万人、「満州」への流出が約57万人、日本への流出が約74万人であったと推算される。第2節では、膨大な離村の第一の原因が農村経済の貧窮化にあったことが述べられる。植民地農政が展開する中で、農村での階層分解が急激に進み、農村中間層である自作農・自小作農が減少し、小作農が増加したことが統計に基づいて示され、農村中間層衰退の背景には日本人地主を含む地主による土地兼併の進展、営農収支の長期にわたる悪化があり、営農収支の悪化を促進した要因には1930年代初期の米価暴落、多額の負債、租税負担があったことが指摘される。

 第3節では、朝鮮人発行の新聞である『東亜日報』の記事をもとにして、甚大な被害をもたらした1924、28、32、35年の旱害の様相、朝鮮総督府および地方行政機関の救済策とその限界、農民の離村と渡日の続出が丹念に明らかにされ、離村の背景には旱魃の影響もあったことが説明される。また離村には、財産を処分して旅費や転業資金を工面して大体の行き先は決まった離村と、まったく生活の目処がつかなくなったための乞食流離としての離村(ほとんどは近隣都市の貧民になる)との2形態があったことも指摘されている。

 第4節では、離村者の多くが朝鮮外に渡った背景として、朝鮮の第2次・第3次産業への就職機会の少なさが明らかにされる。まず職業別戸数構成の年次的変化の分析により、雑業層の急増、無職の増加が指摘され、朝鮮人の就業状況は不安定であったとされる。また1928年以降における職業紹介所の増設は、渡日抑制策の一環として朝鮮内での職業斡旋の促進をねらったものであったが、その職業紹介実績を検討してみると、全般的に増加していた失業者をごく部分的に消化する程度に過ぎなかったと指摘されている。

 第5節では、中国人労働者の朝鮮労働市場進出が、朝鮮人の労働機会をいっそう狭めたことが指摘される。在朝中国人はピーク時の1930年には 6万9000人にのぼったが、労働者がその6割を占めていた。中国人労働者の賃金は朝鮮人よりも安く、とくに土建工事に多く雇用されて、朝鮮人と競合した。朝鮮人側から、朝鮮人の渡日規制はしながら、中国人労働者の朝鮮進出を制限しないのは不公平であるとの批判を受けて、朝鮮総督府は1930年に中国人労働者の雇用制限、1934年に入国制限の措置を取るが、在朝中国人の増加を防ぐものにはなりえなかったことが説明されている。

 第2章では、1920~30年代に朝鮮総督府が実施した窮民救済政策の根幹をなしていた土木事業の実態と性格を考察し、同事業が離村しようとする農村労働力を引き止める役割を果しえたのかが、主として『東亜日報』の記事に拠って検討される。第1節では、1924年旱害の救済土木事業、1928年旱水害の救済土木事業が検討される。救済事業予算が確定したのは1924年は11月、1928年の場合は1929年1月であり、それは主に財源確保が遅れたことによるものであった。このため事業実施の前に、多くの農民が離村した。また土木工事は港湾改修築・河川改修・道路改修など社会資本の整備を兼ねていたため、工事の運営は請負土木業者に任せられて、非熟練労働力である被災窮民の就労機会は狭められた上、彼らの賃金は著しく低かったことによって、救済の効果はほとんどなかったとされる。

 第2節では、1931~33年に朝鮮総督府が6500万円強の経費をかけて実施した「窮民救済土木事業」が検討され、1920年代に被災地で局地的に実施された救済土木事業がかかえた構造的問題点が踏襲されたことが明らかにされる。その要因として、とくに総督府から道への融資は基本的には道の償還能力=道税収入額を基準にして配分された結果、資金の償還を優先した道が確実な工事の進捗を優先して、直営ではなく民間土木会社へ委嘱したことが指摘される。さらに事業の実施実態が慶尚南道の事例を中心として検討され、土木工事に就労した窮民を苦しめた極度の低賃金や強制貯金・日給後払制、重層的下請による賃金に対する中間搾取などの様相が具体的に示され、こうした実態に対する就労窮民の不満が高まり、就労の忌避、他地域への移動を招いたことが明らかにされている。

 以上の2つの節で見たような窮民救済土木事業のゆがんだ展開様相も、朝鮮人の渡日を増加させる排出要因であったというのが、第2章の結論である。補論では、1932年の朝鮮土木業界談合事件が『東亜日報』の記事をもとに記述され、大手土木資本を中心とする日本人土木業者は窮民救済土木事業をも談合の対象とし、談合金支払いと重層的な下請のために窮民労働者の賃金水準は低下させられたのであると論じられている。
 第3章では、内務省警保局が主導した朝鮮人労働者渡日規制政策の変遷と、それが朝鮮人の渡航環境と日本在住朝鮮人の在住形態にいかなる影響を及ぼしたかが考察される。その際、警保局の渡日規制は、日本内の失業問題・社会問題の深刻化を防ぐことを優先して取られた措置であり、つねに「内地優先主義」に徹したものであったと論じられている。

 第1節では、朝鮮総督府による旅行証明書制度の制定(1919. 3) 以降、1929年までの渡日規制の変遷過程が扱われる。・1925年10月に警保局が実施した渡日規制制度は、就職先確定、経済的能力と日本語能力、精神的健康などの条件を満たす者だけに渡航を許可する選別・管理渡航制であった、・1928年7月に朝鮮総督府は、渡日の許可には希望者の居住地を管轄する警察機関による戸籍謄本への裏書証明が必要とする規制を実施し、出発港と地元において二重に規制する体制がつくられた、・1929年8月には警保局は、日本の工場・鉱山に就業する朝鮮人労働者の一時帰郷に際して、就業地所轄警察署が「一時帰鮮証明書」を発行する制度を実施し、発行対象の限定により、対象外の労働者が一時帰郷した場合の再渡航の防止をねらったなどの点が述べられ、1925~29年における規制制度の整備・強化が明らかにされる。また「一時帰鮮証明書」制度の実施は、発行対象以外の多くの者に帰郷をあきらめ、定住せざるをえなくさせる状況をもたらしたことが指摘される。

 第2節では、1930~38年における渡日規制の変遷過程がたどられる。主な点は次のとおりである。1932年に内務省は朝鮮人監視体制を強め、渡航証明書に渡日者本人の身体的特徴を附記させるなどの新たな規制を導入した。1934年10月には岡田啓介内閣が「朝鮮人移住対策ノ件」「朝鮮人移住対策要目」を閣議決定して、朝鮮における離村の防止、北部朝鮮と「満州」への移住奨励、渡日規制政策の堅持、日本在住朝鮮人に対する同化政策の強化からなる方針を定め、これに基づいて1936年5月には朝鮮総督府警務局は従来の渡日規制を総網羅した例規をつくり、総力的な渡日抑止体制が確立した。日中全面戦争開始後の1938年3月に朝鮮総督は内務省に対して、渡日制限は朝鮮人の民族的反感を挑発し、「内鮮一体」政策の実現に一大障害となるとして、渡日規制の撤廃ないしは緩和を要請した。これに対して警保局は「一時帰鮮証明書」の発行対象の拡大と有効期限延長、被扶養家族の渡日緩和の措置を取り、同年12月に総督府は新しい渡日規制の例規をまとめた。

 第4章では、渡日朝鮮人の特質・教育程度と日本在住朝鮮人の定住化の動きが考察される。第1節では、4件の調査を用いて渡日朝鮮人の特質が分析され、・出身地は南部朝鮮7道、とくに慶尚・全羅道地域に集中していた、・すでに渡日している家族・親戚・知己などを縁故に渡日した者が多数あった、・渡日前の職業は農業がほとんどであるが、その中でも自作農が多かった、・渡日時の旅費以外の所持金は、全般的には無い者より有る者の方が多く、相当多い金額を持つ者も少なくなかった、の諸点が指摘されている。

 第2節では、朝鮮における朝鮮人の就学状況・識字状況から推定した教育程度と、渡日した朝鮮人の教育程度とが比較され、渡日した朝鮮人の方が教育程度が高く、文盲率は低かったと結論されている。なお本章の小括において、著者は、第1・第2節の分析を根拠に、渡日朝鮮人は最下層の出身であり、裸一貫の一文無しの状態で渡航したという従来のイメージ、形成期の在日朝鮮人は教育程度が低い「低劣な」労働力であったとする従来の見解は修正されるべきであるとしている。

 第3節では、1920年から5年ごとに1940年までの調査資料を取りあげるという方法を用いて、日本在住朝鮮人の地域別職業別人口、世帯構成および男女別年齢別人口の変化が検討される。その主な結論は、・日本在住朝鮮人は、1920年の3万名から1940年の 119万名へと増加したが、つねに上位10府県に全体人口の 8割が集中していた、・1920年代初期までは関西以西に全体の半数が居住していたが、時期が下るにつれ、関西・関東・中部の都市部とその周辺に拡散していった、・代表的職業は1920年には土建人夫・各種職工・鉱坑夫に集中していたが、1930年以降は商業が登場し、しだいに増大した、・無業者が1930年代に急増したが、その大半は小学児童と「世帯主従属者」(被扶養家族)であり、定住化の進行を示している、・世帯構成者(一戸または世帯を構えて居住する者)の比率は1920年には16%であったが、1930年代には急増し、1935年には82%となった、・男女人口比は1920年には 9:1であったが、1930年には 7:3、1940年には 6:4となった、・10歳未満の幼少人口は1920年の4%から1940年の30%に急増し、60歳以上の老齢人口も1920年の 0.2%から1940年の 1.7%に増加した、の諸点である。著者は・~・の諸点からも、定住化の進展が確認できるとしている。

 第5章では、日本在住朝鮮人の生活状況と定住生活に対する認識が検討される。第1節は、居住状況を扱う。日本人家主が部屋や家を貸し渋ることによる住居難、1920年代末以降に都市部場末で朝鮮人集住地が形成されたこと、居住形態(居住場所の種類)とその変化が明らかにされる。居住形態については、・借家に成功した朝鮮人が経営する人夫部屋と飯場、職場への住込と寮、借間・借家、地方行政機関の援助下に親日融和団体が設立経営した労働者宿泊所の別があり、世帯持ちは借間・借家に、単身の工場労働者は職場・寮、土建業・炭鉱などに働く単身労働者は人夫部屋・飯場・労働者宿泊所に、それぞれ居住することが多かったこと、・東京府の事例によれば、1930年代には単身者の場合も借間・借家への居住が増加し、人夫部屋・飯場への居住が減少していくことが指摘される。

 第2節は、就職経路と労働生活状況を扱う。就職経路については、知己による紹介と自己の志願がもっとも多かったが、東京府の場合には1920年代は親日融和団体の紹介、1930年代は職業紹介所によるものがもっとも多かったとされる。労働生活状況については、賃金が同業種の日本人労働者に比べて 1~5割低く、月間就労日数も少なく、5割弱の人が20日以下であり、月間収入が低かったとする。ただし月間収入は職業によって異なり、工場職工、下宿業や商業の従事者は収入が高い方であった一方、生活費が不足する者が全体の3~5割程度を占めており、貧富の差が生じていたことも指摘される。また失業救済土木事業における朝鮮人の就労状況が検討され、失業登録の機関の短縮などによる登録者数の制限、土木技術のある者を優先採用する「指定人夫」制度の存在によって、朝鮮人は就労人数を制限され、就労日数も少なくされる差別を受けていたとされる。

 第3節では、日本在住朝鮮人が日本における生活をどのように考えていたのかが検討される。まず名古屋市・大阪市・東京府の在日朝鮮人に対する永住希望に関する調査をもとに、1920年代には朝鮮に比べて日本での生活は相対的に「楽」であると認めても、日本を永住の地とは考えていなかった者が大部分であったが、1930年代には世帯持ちを中心に永住希望者が急増したことが指摘される。次に1920年代後半の朝鮮への帰還者に関する調査をもとに、帰還者の中には日本へ定住せず帰郷した者が含まれているが、その非定住帰郷の理由は、疾病・就職不能・失業の場合が多かったとされる。

 結論では、以上の論旨が要約されるとともに、今後の展望として、・第二次世界大戦後の在日朝鮮人のありかたを射程に入れながら、戦時体制下の日本在住朝鮮人の存在形態と共同体のあり方を考察すること、・日本在住朝鮮人の共同体のあり方と彼らによる社会運動の特質との関連を考察することが掲げられている。

3.本論文の成果と問題点

 本論文は在日朝鮮人形成史像の再検討をめざしたものであり、従来の研究の到達点と問題点を指摘した上で、4つの課題を設定して、可能な限り多くの関連史料を収集して分析・検討を進め、これらの課題の解明に基本的に成功している。個々の記述については疑問とする点、検討不足と思われる点があるとしても、本論文は在日朝鮮人形成史研究の進展に大きく寄与するものであるとともに、1920~30年代の朝鮮社会史・政治史の重要な側面をも明らかにしたことによって、同分野に関する研究の進展にも少なからず貢献するものといえる。この点が本論文の全体としての成果である。

 第2に、朝鮮人渡日のプッシュ要因として、植民地農政の下での農村経済の貧窮化、農村中間層の衰退が農民の離村をもたらしたという、従来の研究においても指摘された要因だけに留まらず、離村を促進する役割を果たした旱害と総督府の「窮民救済土木事業」の実効性の乏しさ、離村者の相当数が朝鮮外に渡った背景としての朝鮮内部における就業機会の少なさ、職業紹介所の機能の弱体、中国人労働者の朝鮮労働市場進出といった諸要因を挙げて検討し、プッシュ要因が多面的複合的なものであることを明らかにしている。

 第3に、渡日規制政策を克明に跡づけたことは、本論文がはじめておこなったことであり、重要な意義がある。またそれを通して、規制の強化の反面において渡日許可の要件を満たして渡航するものが着実に増大したこと、規制に対する朝鮮人側の反発、内地優先主義の内務省警保局と朝鮮人を懐柔することもしなければならない朝鮮総督府との対立といった重要な事実が明らかにされている。

 第4に、渡日した朝鮮人の職業・経済力・教育程度の検討を通して、農村の中間層が多く含まれていたこと、教育程度は朝鮮にいる朝鮮人よりは相対的に高かったことを明らかにしたことは、たしかに裸一貫で一文無しの状態で渡航したというイメージに修正を迫る点で重要である。

 第5に、日本在住朝鮮人に関する調査を丹念に検討することによって、さまざまな側面から見て1930年代には定住化が進展していたこと、また1930年代には日本への永住希望者が急増したことを明らかにしたことも、重要な成果である。

 第6に、第1章第3節の旱害、同第5節の中国人労働者問題、第2章の「窮民救済土木事業」、第3章の渡日規制に対する朝鮮人側の反応に関しては、『東亜日報』の記事を丹念に収集することによってはじめて具体的に明らかにできたものであり、史料の収集・紹介という点でも貴重な成果である。

 以上のように本論文は多くの重要な成果を収めているが、次のような問題点がある。
 第1に、朝鮮人渡日の背景として、プッシュ要因の面を掘り下げることを主眼としたために、従来の研究に照らしてプル要因の面の検討を掘り下げることが必要であるかいなかが明らかにされていない。プル要因についても、日本と朝鮮との賃金格差だけでなく、第一次世界大戦期以降の日本の産業構造・就業構造の変化、都市化の進展、鉄道・道路・水力発電など大規模土木工事の増加などの面も検討して、多面的複合的に把握する必要があると思われる。またそのことによってプッシュ要因とプル要因とを対比させるだけではなく、両者の間にある相互規定的な関係も明らかにできるであろう。

 第2に、旱害による離村、「窮民救済土木事業」を扱った部分において、離村者、事業対象者が農村の下層民だけであったのか、それとも著者が「農村中間層」と規定した自作農・自小作農も含んでいたのかを、より鮮明に叙述する必要があると考える。旱害による離村には財産を処分して旅費や転業資金を工面しての離村と、乞食流離としての離村があったと指摘されているので(第1章第3節)、離村者には「中間層」が含まれていたと理解できるが、この点を前面に出した叙述が必要である。

 第3に、渡日朝鮮人の特質を、その出身階層は農村中間層が多く、教育程度も朝鮮人全体のレベルよりは相対的に高かったと特徴づけているが、そのような特質を持った渡日朝鮮人の多くが日本社会の底辺労働力として位置づけられたのはなぜかを説明する必要がある。そのためには第1において指摘した点の検討が必要である。

 第4に、渡日朝鮮人の中には相当な所持金を持って渡航し、人夫部屋や飯場の経営者になる者、親日融和団体の幹部となる者もあったことが指摘されているが、これらの者は経済的没落の危機に直面して渡航したというより、資力のある者が経済的成功を求めて渡航したと推測されるが、この点については検討を深める必要がある。

 第5に、日本在住朝鮮人の動態(第4・5章)については、統計史料を中心とした調査を用いて叙述しているが、さらに記述史料に基づいた生活実態の描写が欲しい。

 第6に、非定住帰郷者についての言及は簡略であり、帰郷の理由としては生活困窮を挙げているが、さらに史料を収集して非定住帰郷者の実態に迫る必要がある。

 第7に、渡日後の朝鮮人と家族・一族・出身村落との関係について、具体的に記述された史料を収集して、結びつきの様相、故郷へ送金した場合の送金額・送金方法、送金が朝鮮社会に与えた影響などの実態についても明らかにする必要がある。

 これらの問題点のうちの多くは著者の今後の研究によって解決が期待されるところであり、文章表現に若干拙い点が見受けられることも本論文の挙げた大きな成果を損なうものではない。

 以上の審査結果から、審査委員会は、本論文を学位請求論文に相応しい学術的水準をもつものと判断し、金廣烈氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると結論した。

最終試験の結果の要旨

1997年11月12日

 1997年10月22日、学位論文提出者金廣烈氏の論文についての最終試験を行なった。
 試験において、提出論文「戦間期日本における定住朝鮮人の形成過程」に基づき、審査委員が疑問点について逐一説明を求めたのに対して、金廣烈氏は、いずれにも適切な説明を行なった。
 よって審査委員会は、金廣烈氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定し、合格と判定した。

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