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博士論文審査要旨

論文題目:中国近代江南の地主制研究:租桟関係簿冊の分析
著者:夏井 春喜 (NATSUI, Haruki)
論文審査委員:三谷孝、糟谷憲一、江夏由樹

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一、論文の構成
 本論文は、19世紀半ばから1930年代半ばまでの時期の中国江南の蘇州府農村における地主制の実態とその変容過程を、主として地主文書の解読と分析に基づいて実証的に考察したもので、著者が1981年から1999年にかけて発表した14本の論文をもとに一貫した論文としてまとめなおされたものである。400字詰原稿用紙にしておよそ1300枚からなる本論文は、すでに汲古書院から2001年12月に刊行されている。その構成は以下のとおりである。
序章 本書の方法と内容
第一章 日本の現存する江南の簿冊文書について
 一、日本に所蔵されている租桟関係簿冊
 二、租桟関係簿冊の簡単な分類
 三、日本に所蔵されている魚鱗冊
 四、魚鱗冊の簡単な分類
補章 ハーバード大学燕京図書館所蔵の租冊・魚鱗冊
 一、はじめに
 二、租桟関係簿冊
 三、魚鱗冊関係
 四、おわりに
第二章 太平天国と蘇州農村
 一、はじめに
 二、太平天国占領前の蘇州農村
 三、太平天国占領時期の蘇州農村
 四、租捐と同治減租
第三章 太平天国前後、蘇州における土豪的支配-長洲県の永昌徐氏について-
 一、はじめに
 二、太平天国進出前の永昌徐氏
 三、太平天国の蘇州進攻と永昌徐局の創設
 四、二回の叛乱と永昌徐局の崩壊
 五、太平天国後の永昌徐氏
 六、郷居地主、永昌徐氏
 七、おわりに
第四章 租桟関係簿冊に見る太平天国後の蘇州の収租システム
 一、はじめに
 二、各地の額面の田租額
 三、額面の田租額と実際に納入する田租額
 四、納入物と折価
 五、小作料割引の問題
 六、小結
第五章 中国近代江南の租桟の催甲について
 一、はじめに
 二、催甲の職務
 三、催甲になる人々
 四、催甲と抗租
 五、おわりに
第六章 辛亥革命と蘇州農村
 一、はじめに
 二、辛亥革命前の状況
 三、辛亥革命と蘇州郷紳
 四、民国時期の地主経営の状況
第七章 一九二○年代の蘇州における租佃関係-南京国民政府の成立と地主経営-
 一、はじめに
 二、一九二○年代前半の蘇州の租佃関係
 三、南京国民政府の成立と蘇州農村
 四、江蘇「二五減租」の実施とその影響
 五、南京国民政府成立後の租桟の経営状況
 六、世界恐慌と蘇州の地主経営
 七、おわりに
索引(租桟名・簿冊名、研究者・著者名、事項、人名)
あとがき

二、論文の概要
 序章において、著者は、近代中国の地主制について実態の究明よりも苛酷な収奪の暴露やそれに立ち向かう農民運動の功績の顕彰が先行した中国での従来の研究の問題点を指摘するとともに、本研究で使用する史料のあり方について説明し、全体の構成を紹介する。
 第一章では、本研究で主として史料として利用する江南の土地関係文書、すなわち租桟(地主による土地の管理運営と小作料徴収の機関)で作成された小作関係簿冊と魚鱗冊(土地台帳)の所在について、国会図書館・一橋大学・東洋文庫・東京大学東洋文化研究所・京都大学人文科学研究所・九州大学・筑波大学・広島大学・早稲田大学に所蔵された関連文書の種類と内容を詳細に紹介している。そこではある一つの租桟の簿冊が複数の機関に分散して収蔵されている例も見られることから、著者は関連文書の全体を把握した上で研究を進める必要性を指摘する。また、補章では、ハーバード大学燕京図書館で所蔵されている上記史料の状況について調査した結果、ここの文書が1960年に日本で購入されたもので日本の同種の文書と内容的に連続しているものが多かったことが紹介される。このようにして著者によって明らかにされた日本国内の租桟関係簿冊は315冊、魚鱗冊は198冊であり、これにハーバード大学燕京図書館の租桟関係簿冊33冊、魚鱗冊3冊を合わせた、合計それぞれ348冊、201冊が本研究で中心的な史料として利用されている。
 第二章では、太平天国の叛乱が蘇州の租佃関係に与えた影響が考察される。蘇州の地主-佃戸関係においては、地主の城居化が進行するとともに、一人の地主が複数の佃戸と、一人の佃戸が複数の地主と小作関係を結ぶと言う相互複線的な小作関係が形成されており、官の助力無しには収租(小作料徴収)も困難な状況が生まれていた。太平天国軍の江南進出は、さらに佃戸の抗租(小作料徴収への抵抗)に拍車をかけ、地主の収租も困難となった。太平天国はその財源である田賦を確保するために「郷官局」を設置して直接佃戸から収租する手段をとったが、その過程で田租(小作料)の徴収率も大幅に低下し、半額から三分の二程度になった例も見られた。太平天国の衰退後に、馮桂芬らの蘇州の郷紳によって唱えられた減租論は、低田租を実現した佃戸層への譲歩策として提言されたものであり、これによって7~8%の減租が実現された。
 第三章では、太平天国の前後における郷居地主の徐氏の対応が論じられる。徐氏は長洲県東永昌に居住する大地主であったが、科挙では良好な成績をおさめられず進士を輩出した蘇州にあっては郷間の富豪に過ぎなかったが、太平天国の江南進出に対して千余名の強力な団練を組織してこれに対抗した。その後、太平天国軍が優勢となるとこれに帰順して官職を授けられるが、清朝との関係も維持して団練の武力を強化して、その在地支配を維持した。その後、太平天国に対する叛乱を企てるも失敗して、残った団練は徐氏の指揮の下、淮軍に再編されて蘇州の修復戦に参加する。戦後、徐氏は太平天国軍占領時期に、太平天国のために田租を徴収し独自の減租を行ったこと等の点で蘇州の郷紳からの非難を浴びることになる。
 第四章では、太平天国以後の蘇州の田租徴収方法の実態と変化が考察される。太平天国滅亡後、地主層は佃戸への譲歩として減租を実施しなければならず、新たな収奪の手段として折租(小作料と貨幣の換算)が行われることとなった。太平天国後、納租は洋元(外国銀貨)によるものが主流となったが、租桟の折価は依然として銅銭を基準としていために、佃戸は米→洋元→銅銭への交換を迫られ、二つの換算過程で額面以上の収奪を強いられることになったのである。さらに、期限を越えても納入しない佃戸から強制的に収租するために設けられたのが「追租局」「収租局」という機関であり、こうして地主-佃戸関係に公権力の関与が進行していった。
 第五章では、租桟に代わって在地で佃戸と小作地を掌握した催甲について分析される。太平天国鎮圧後の蘇州において一層進行した地主の城居化にともなって、租桟はより重要な役割を果たすことによって大規模化していったが、その手足である催甲は地区別に小作地の管理や佃戸への催租を行う存在として専業化していった。その正規の収入は高くはなかったが、租桟と佃戸の間を仲介することで得られる「陋規」(不正規の収入)によって富裕化して県会議員になるものもあり、在地の「顔役」的存在であった。租桟は催甲に依拠して佃戸と小作地を掌握し、催甲は租桟の郷紳の権威を背景に在地に勢力を築くという相互依存の関係にあった。しかし、直接佃戸に接触することから清末・民初時期の抗租においては佃戸の攻撃の対象とされた。
 第六章では、辛亥革命が蘇州の地主-佃戸関係に与えた影響が考察される。辛亥革命直前、「新政」と「地方自治」による負担の増大・インフレーションの進行と水害によって地主-佃戸間の緊張が高まり、収租状況は極度に悪化していたが、革命による清朝の瓦解がこれに拍車をかけて収租は困難となった。このような状況に対して地主の団体である田業会は、県の地方官憲に働きかけて「租糧併収」(小作料と土地税の同時徴収)のための機関・「収租局」の設置を実現して、抗租する佃戸を公権力によって拘禁させる等の厳しい措置で対処した。民国初年から10年間程の期間に収租率は上昇し租桟の経営が好転したことの要因として、著者は、地方官憲の収租への介入・減賦・地丁・漕糧折価の相対的引き下げという地主に有利な措置がとられたことをあげる。
 第七章では、南京国民政府の成立が蘇州の地主-佃戸関係に与えた影響と1930年代の恐慌の中での変化について考察される。1920年代前半は蘇州の租桟地主の経営の最も安定した時期であったが、1927年の国民革命の江南への波及の結果変動が生じていく。南京の国民政府統治下の地方の県政府は、財政上の問題から地主層に妥協的な対応をとるが、それを監督する立場の国民党地方党部は、地主の打倒を唱える共産党の秋収蜂起に対抗する上で、また孫文以来の国民党農業政策の重点項目である「二五減租」(小作料率の25%軽減)の実現のために、限定的ながら力米の廃止等農民の負担を軽減して地主-佃戸関係の安定に努め、この両者間の紛争にも一方的に地主の側に立つことなく、調停者として介入してむしろ地主の利権を制限する対応をとった。こうして1925年をピークとして収租率は下降し、近代化のための建設費の負担の増加も地主経営を悪化させていった。さらに、1931年の長江大水害と農業恐慌に由来する農業危機の結果、佃戸の抗租が続発して租桟による収租は困難となった。このため、地方政府は収租に全面的に介入するに至り、租桟と一体となって「聯合公桟」を組織してその主導権を掌握していった。こうした国民党官僚による統制によって、租桟地主が独立性を喪失して衰退の途をあゆむことは決定的となった。
三、成果と問題点
 著者も指摘するように、共産党政権下の「新中国」では、「旧中国」の「悪」を代表するものとして地主による苛酷な収奪が強調されて、土地改革の正当性の根拠とされた。研究者は、地主への土地の集中・寄生地主化の進行・高率の小作料と佃戸の悲惨な生活の実例見本の摘発に総力をあげて取り組んだために、租佃関係の全体に関わる実態の究明はそのことによって却って遅れることとなった。そのような研究の外的環境は地主制の実証的解明の障害となっただけでなく、史料的な面でも大きな制約をもたらしていた。地主文書のほとんどが土地改革から集団化・文化大革命に至る過程で封建的な所有意識を示すものとして焼き捨てられて消滅したからである。そのために、戦後日本の中国近代史研究の出発点となった明末清初以来の地主制の展開と商品生産の発展の実証を目指した研究においても、主たる資料とされたのは地方志や知識人の文集、当時の新聞・雑誌の関連記事等の印刷刊行された文献資料であった。一次史料である地主文書そのものの分析に基づく研究は、本学経済学部の故村松祐次教授によって先鞭をつけられた。村松氏は、戦前に中国で収集されて東洋文庫・国会図書館等に所蔵されていた蘇州の地主文書をもとに地主制の実証的解明にあたり、清末の租桟と小作関係についての研究成果を『近代江南の租桟-中国地主制度の研究-』(1970年、東京大学出版会)として刊行した。その後、伊原弘介氏が国会図書館所蔵の租冊を、また川勝守氏が九州大学・京都大学所蔵の租冊を資料として清末江南の地主制についての研究成果を発表した。著者は、これらの先行研究の成果を踏まえた上で、現在国内外で公開されている地主文書のほとんど全てを渉猟し、それらを解読・分析して地主制の実態とその変容過程を明らかにした成果を本論文として公刊した。江南の地主制に関する固有の用語や特殊な数字表記・同じ人物についての呼称の複数使用・達筆な崩し字で書かれているために判読に戸惑うような文書の利用等、本研究の遂行のためには、膨大な労力・時間と特別の習練が必要とされるが、著者はたゆみない努力によってこれらの困難を克服して本研究を完成している。
 本論文の成果として以下の点をあげることができる。
 第一に、本論文は、上記の3名の研究者の論著を除くと、日中両国はもちろん欧米にも類を見ない地主文書そのものに基づく貴重な研究であり、著者は租桟関係簿冊と魚鱗冊を現段階で可能な限り網羅的に収集して、本研究の史料として活用している。著者は、その収集のために、日本・中国・台湾・アメリカ各地の大学・研究機関の図書館並びに研究対象とする蘇州地域の蘇州大学・蘇州市博物館・蘇州市档案館・呉江市档案館等を訪問してきた。村松氏をはじめ先行研究者が、所蔵機関との関係から部分的に利用してきたこれらの文書の全体に目を通して、その解読・分析にあたっていることは著者独自の成果として高く評価できる。
 第二に、江南の地主制について論じられる場合に、従来の研究では清末・民初の一時期に焦点があてられていたのに対して、本論文では19世紀中葉から1930年代半ばまでの時期、すなわち太平天国・辛亥革命・国民革命と農村社会を揺るがす激動の変革期を通して蘇州の地主制がどのように変容したのかを実証的に解明している。そして、その時々の中国の政治状況の変化が、地主経営や佃戸の納租状況にどのような影響を及ぼしたのかについても的確に押さえられている。
 第三に、そうした地主文書に基づく実証的研究によって、新事実を発掘するとともに、近代江南の地主制についての従来の通説に修正を迫っている。その主な点は以下のものである。
 (1)、租冊簿の緻密な検討に基づく収租の実情の解明によって、佃戸の側が政治的変動を利用して小作料率の低減を実現している事実を数量的に明らかにしている。一方的に搾取の対象とされて悲惨な生活を余儀なくされているという佃戸の従来のイメージから見れば、太平天国前夜のある租桟の佃戸454人の収租状況の分析の結果、11年間に一人平均3.5回欠租(未納)があり、中にはこの間1回も田租を完納していないにもかかわらず契約解除されずに依然として佃戸を続けていた事例等もあり、「頑佃」といわれる佃戸の側のしぶとくたくましい抵抗の実情を示すものとして示唆的である。このような新事実の発掘は本論文の随所に見られ、一次史料の解読なくしては得られなかった成果といえる。
 (2)、太平天国後の減租論は、混乱期に佃戸によって実現された低田租への譲歩策として社会秩序の再建を図る郷紳層によって考案されたものであること、および従来の研究では「欺瞞的」で何の現実的効果ももたらさなかったとされているこの減租の主張に基づいて、限定的ではあったが7~8%程度の減租が実現されたことを具体的な数値の検討に基づいて明らかにしている。
 (3)、辛亥革命後1920年代半ばまでの時期において「租桟地主制」の収租は最も安定し収租率も向上したことを明らかにし、これが地主の組織・田業会と癒着した軍閥政権下の地方政府の収租への介入と地主の負担の軽減によるものであることを指摘している。
 (4)、中国共産党の視点から見れば、南京国民政府は地主の利益を代表する政権であるとされてきた。しかし、本論文では、南京政権成立後に地方政府は地主-小作間の対立にあたって一方的に地主側に立つことなく、独自の立場で介入して仲裁に当たっている事実及び地主の利権が制限され田業会のような組織が禁止されていることが明らかにされているが、これは南京政権=地主政権論に対する実証的批判となっている。 しかし、本論文には、今後に残された課題も少なくない。
 第一に、本研究の対象とする時期が、中国の地主制の終焉の時期、すなわち戦後1950年代初期の土地改革の時期まででなく、1930年代半ばで打ち切られていることは不満の残るところである。著者の説明によれば、所蔵されている文書の最も新しいものが1936年のものであること及び1930年代半ばの農業恐慌と地方政府の収租への全面介入によって租桟地主が衰退したことが、この時期まででひとまず検討を打ち切ったことの理由とされる。しかし、現在蘇州に残された地主文書の整理が現地の档案館等の関係機関で進められており、将来公開される見通しであるとのことから、本研究に続く時期の問題についても今後さらに研究課題として取り組まれることを期待したい。
 第二に、租冊を中心とする地主文書に基づく研究という制約から、租佃関係の変遷についての解明に重点が置かれているため、民国期に盛んとなる地主の企業投資・金融業等の多方面への進出について、また佃戸の商品作物栽培への展開等の問題は論じられていない。 第三に、蘇州は江南の中心地域であり、近代中国の経済的最先進地域であるだけに、蘇州の事例をもって江南の地主制の典型と見ることには留保が必要になる。江南のタイプを異にするいくつかの地域の事例との比較という視点から本研究がさらに広い視野の下に展開されることが今後の課題となろう。
 しかし、このような問題点は著者も十分自覚するところであり、その研究能力や着実に研究成果を積み重ねてきた従来の実績からみて、将来これらの課題についても実証的な研究成果を達成される可能性は大きく、今後の研究の進展に期待したい。
 以上、審査委員会は、本論文が当該分野の研究に寄与するに十分な成果をあげたものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2003年5月14日

 2003年4月4日、学位論文提出者夏井春喜氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、審査員が、提出論文「中国近代江南の地主制研究-租桟関係簿冊の分析-」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、夏井春喜氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は夏井春喜氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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