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博士論文審査要旨

論文題目:中国民営企業の労使関係と人事労務管理:民営科技企業を中心に
著者:黄 咏嵐 (HUANG, Yong Lan)
論文審査委員:依光正哲、倉田良樹、三谷孝、福田泰雄

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【本論文の構成】
 1980年代半ば以降の中国においては、市場経済化の進展に伴って新たな形態の企業が出現し、労使関係は多様化し複雑化している。本論文は、民営企業の出現、労働者の職業選択権の保障、転職市場の成立、などを背景とした労使関係の変化に注目し、政府・企業・雇用者の間での新たな相互関係を点検することにより、中国の民営企業における労使関係を「個別調整的労使関係」の視点から把握することを提唱したものである。
 本論文の構成は以下の通りである。
 序章
 第I部 新たな労使関係
   はじめに
   第1章 労使関係の潮流
     第1節 先行研究
     第2節 中国の労使関係の動向
     第3節 中国の労働組合「工会」
     第4節 労働争議の解決
     第5節 集団的労使関係のアプローチの「有効性」
     第6節 個別的労使関係の提起
     第7節 分析の枠組み
   第2章 新たな労使関係をリードする政府
     第1節 労働制度の改革と終身雇用の終結
     第2節 賃金制度改革と社会保障制度改革
     第3節 労働関連法の整備
     第4節 労働市場の育成
   第3章 中国労使関係の市場化と契約化
     第1節 国有企業における不徹底な雇用制度改革
     第2節 企業の自主権対雇用者の選択権
     第3節 労使関係の契約化:労働契約
 第II部 現地調査
   はじめに  
   第1章 民営科技企業と雇用者
     第1節 ハイテク産業発展戦略
     第2節 民営科技企業
     第3節 民営科技企業に就職する労働者
     第4節 現地調査地域の選定
   第2章 企業の自主権と雇用者の選択権
     第1節 解雇
     第2節 自発的転職
   第3章 民営企業の人事労務管理
     第1節 人的資源管理思想の影響
     第2節 採用段階
     第3節 研修
     第4節 人事考課制度
     第5節 賃金制度
     第6節 昇進制度
     第7節 人事制度
     第8節 人事労務管理の特徴
 終章 個別的労使関係の展開
     第1節 個別的労使関係の形成
     第2節 流動的労働市場
     第3節 労使関係の新しいモデル
     第4節 結論
     第5節 「個別調整的労使関係」の展望

【本論文の内容要旨】
 第I部では、従来の集団的労使関係論をサーベイし、これらの理論が現在進行中の新たな労使関係の分析には有効でないことを指摘し、新たな理論枠組みが必要であることを主張する。文献サーベイは、日本、アメリカ、欧州諸国における戦後の労使関係の主要業績を幅広くカバーしている。文献サーベイにおいて筆者は、先進工業諸国で蓄積されてきた労使関係研究の理論枠組みが、労働市場の制度的機構が形成の途上にある中国の分析に直接的・全面的に適用できるものではないことを充分に自覚しながらも、社会主義中国に独自の国家・企業・個人間の関係が市場主導の改革によって大きく変容を遂げている事実を踏まえて、欧米における労使関係論の中の「個別労使関係分析」の諸概念をもちいてどこまで説明できるかを試みている。この点で筆者の姿勢は、既存の研究にはない挑戦的なものとなっている。また、この第1部で提示される概念枠組みは第2部における実態調査の調査設計上の基盤にもなっている。
  第1章 労使関係の潮流
 労使関係を説明する理論的フレームとして、集団的労使関係理論があり、筆者はまずこれらの研究蓄積をサーベイする。そして、これらの諸理論が中国の労使関係の分析フレームとして有効であるかどうかを検討するために、一方の当事者と考えられる「工会」の自主権と代表制の問題を取り上げるとともに、団体交渉・労働争議などへの「工会」の関与状況を考察する。その結果、集団的労使関係によるアプローチは現在の中国における労使関係を説明する上では有効ではないと主張し、個別的労使関係を重視するアプローチを提起する。
  第2章 新たな労使関係をリードする政府
 中国政府は、経済の市場化による成長と効率の向上を実現するために、集権的な行政機能を縮小し、労働制度の改革に着手し、労働力の需給調整が市場メカニズムを通じて行なわれる方向を指向した。具体的には、従来の終身雇用を前提とした賃金制度や社会保障制度を改革し、労働関連の諸法令を整備することによって、労働市場の育成と労働力の流動化を推進したのである。筆者はこれらの動きを「労働の市場化・契約化」と捉え、政府がこれらをリードしたと評価する。
  第3章 中国労使間関係の市場化と契約化
 1980年代以降の雇用制度改革は国有企業を主たる対象としていたが、国有企業における経営自主権の欠如により改革はスムーズに進展せず、逆に、非公有企業が市場化の牽引力となり、目覚しい成長を遂げる結果となった。このことが1つの要因となって筆者は研究対象を民営企業に絞ることになるが、経営者の自主権と雇用者の選択権を軸に労使関係の契約化が進展してゆく状況を詳しく分析している。
 第2部では、第1部の理論的分析を踏まえて、筆者が行った北京市中関村における民営科技企業での「聞き取り調査」および従業員に対するアンケート調査の分析を行い、「個別調整的労使関係」のモデルを提起している。
  第1章 民営科技企業と雇用者
 民営科技企業は、ハイテク産業発展戦略と深くかかわり、「六自原則」(資金の自己調達・人材の自由採用・事業の自主経営・損益の自己責任・資産の自己発展・行動の自主統制)により運営され、急速に発展してきた。筆者はハイテク産業区の1つである北京市中関村の立地企業に焦点を絞り、以下の諸点を実証する。即ち、民営科技企業の基幹的労働者は専門技術者であり、労働者全体の中ではトップクラスの階層に属するが、専門性に関する個人差が大きく、専門技術者を1つの集団として管理することは適さず、「個別」的な管理を企業は志向することになる。さらに、専門技術者の「流動化」も進み、企業と労働者との間でのこれまでとは異なる関係が出現していること、などである。
  第2章 企業の自主権と雇用者の選択権
 企業が自主権を行使し、労働者が職業選択権を行使する結果、雇用関係が成立するのであるが、本章では労使の関係性を企業の「解雇」と労働者の「自発的転職」という2点から検討する。「転職」に関する「聞き取り調査」によって、転職の理由、転職の効果などの実態に迫り、頻繁な転職には「個別的労使関係」で対応せざるを得ない現状を明らかにする。
  第3章 民営企業の人事労務管理
 この章では、民営企業の人事労務管理の具体的状況を筆者の独自の調査から考察している。調査の結果、労働条件をめぐっては、評価の公開・上司との話し合い・苦情処理・経営参加などが「労使交渉」の対象となっていることが指摘される。そして、民営企業の人事労務管理の特徴点を次のように集約している。即ち、(1)雇用と処遇の個別化(2)雇用関係の市場化、(3)雇用関係の契約化、(4)雇用関係の短期化、の4点である。このような人事労務管理の特徴が労使関係に反映され、民営企業に新たな労使関係が出現することとなる。
  終章 個別的労使関係の展開
 筆者は現在の民営企業の労使関係の特徴を「個別調整的労使関係」とする。ここでは、企業と労働者が雇用関係を媒介として相互の利害を調整してゆく関係を整理する。相互の利害の一致によって雇用関係は成立し継続し、雇用関係が維持されている限り、労使は労働条件に関する調整を行うが、双方の利害の不一致による自発的転職や解雇などにより雇用契約は破棄される。「個別調整的労使関係」は、労使双方が自立した立場から自己の利害を追及し、雇用関係の継続を決定し、利害を調整するシステムであり、中国の民営科技企業の労使関係を説明するモデルであり、雇用流動化時代にはこのモデルの有効性が高まると共に、企業組織の外部での人材に関するインフラ整備が政策課題となる。
 

【本論文の評価と問題点】
 近年急速に増加しつつある中国民営企業は、現在激しい変動の過程にあり、しかもそこで生じている問題の多くは共産党政権下の中国にとっては初めて経験する種類のものであると同時に、国有企業等と相違して民営企業の経営の公開は義務づけられていないことから、その内実の把握には非常な困難が伴っている。本論文は、このような資料面での制約が多く、かつ今も激しく膨張しつつ変容している民営企業の労使関係という未開拓の領域の問題に果敢に挑んだ意欲的な成果といえる。
 本論文の特徴としては、第一に、これまで空白状態にあった中国における民営企業の労使関係を理論的に解明し、実証的にその実態を明らかにしたことである。とりわけ、独自の企業ヒヤリング調査とアンケート調査を北京市中関村で実施することによって、躍進し続けている民営科技企業における労使関係の実態を解明したことは高く評価される。ハイテク企業における技術者の労働条件に関わる個別的交渉の実態、技術者の離転職の状況、行政機関による労働力の仲介機能、職場における工会の機能とその限界、等について本論文が明らかにした諸事実は、今後の中国労使関係研究に引き継がれていく貴重な資産となるだろう。そして実態の解明にとどまることなく、個別労使関係論の諸概念を駆使してモデルを提示したことの意義は大きい。
 第二に、中国における労使関係を全体として鳥瞰すれば、企業構造の階層性を反映して多様かつ複雑な階層構造をなしていると考えられるが、本論文はその一断面を切り出して新たな視点からモデル化することによって、中国の労使関係分野の研究に貢献したと言える。本論文が扱った民営科技企業は中国政府のハイテク産業戦略の中枢を担っているが、これらの企業群は、一方で企業経営の自主権を最大限発揮し、他方では政府の労働制度改革による労働者の選択権をいかに人事労務管理に取り込むか、という課題に直面している。このような状況を「雇用流動化」と筆者はとらえ、民営科技企業の労使関係を「個別調整的労使関係」としてモデル化したことは、今後の中国における労使関係研究分野に一石を投じたことになる。
 

 しかし、本論文には次のような問題があることを指摘せねばならない。本論文では、企業の自主権と労働者の選択権の対等性を考察しているが、理論分析と実態分析(産業分析や労働市場動向分析)との両面からの検討が若干手薄になっている。また、本研究のモデルである「個別調整的労使関係」が1つのサブシステムであるとした場合、全体システムとの関係の検討が十分になされているとは言えない。さらに、本論文の主張を精緻化し補強する上では、企業ヒヤリングによって収集したデータを効果的に活用することが求められるが、本論文にはデータが未消化の状態で提示されている。
 以上のような課題が残されているが、これらは本論文の重大な欠陥とは言い難く、改善の萌芽が示されており、今後の研究の中で克服されるものと期待される。

【結論】
 審査員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したものと認め、黄咏嵐氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断する。

最終試験の結果の要旨

2003年2月3日

 平成15年1月22日、学位論文提出者黄咏嵐氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「中国民営企業の労使関係と人事労務管理―民営科技企業を中心に」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、黄咏嵐氏はいずれも充分な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は黄咏嵐氏が学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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