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博士論文審査要旨

論文題目:スペイン内戦を戦ったイギリス人義勇兵の研究:ケンブリッジの若き文士たちを中心にして
著者:川成 洋 (KAWANARI, Yo)
論文審査委員:瀧澤正彦、加藤哲郎、井上義夫

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I 本論文の構成
 スペイン内戦(スペイン市民戦争、1936年7月~1939年7月)には少なくないイギリス人が戦闘に加わったが、スペイン内戦に対する英国政府の中立不干渉政策の下で、あえてそれに抵抗して、内戦勃発以降に、意識的主体的に参加したものが多かった。とりわけ、若い知識人は、ファシズムに対抗して民主主義を守ろうとする強い使命感から義勇軍部隊に加わった。本論文は、そうした人々の中から、ケンブリッジ大学から国際旅団に加わった主として文学を志していた5名と、フランコ側で戦った1名の、計6名を取り上げ、彼らの内戦の経験と、彼ら知識人に特有の意識の揺れや襞を、できる限り忠実に再現し辿ろうとしたものである。
 本論文の構成は以下の通りである。
プロローグ
I スペイン内戦とイギリス人
 (1.スペイン内戦の原風景  2.1930年代前半のイギリスの社会状況  3.人民オリンピックの中止と国際旅団の創設  4.不干渉政策とその波紋  5.『文士たちは味方する』  6.イギリス人大隊とケンブリッジの義勇兵)
II ジョン・コーンフォード(1915-36)
 (1.ロペラの戦闘  2.政治への目覚め  3.先鋭な学生運動と青春の彷徨  4.革命下のバルセロナを見る  5.「個人的な動機」  6.検閲されなかった最後の手紙)
III  ジュリアン・ベル(1908-37)
(1.ブルームズベリーの秘蔵っ子  2.詩と政治と  3.中国で聞いた「内戦」勃発のニュース  4.イギリス人医療部隊員  5.ブルネテの戦闘  6.素顔のジュリアン)
IV デイヴィッド・ゲスト(1911-38)
 (1.エブロ河の戦闘  2.「すばらしい小さなメッセンジャー」  3.バッハを弾き、レーニンを読む  4.果敢な青年労働者運動家  5.アカデミズムとの決別  6. 戦場での劇的な邂逅)
V マルカム・ダンバー(1912-64)
(1.引き取り手のない死体  2.気鋭の美術評論家  3.ハラマ河の戦闘  4.第15国際旅団参謀長  5.帰還後の不可解な行動  6.心優しい理想主義者)
VI サー・リチャード・リース(1900-70)
(1.オーウェルの消息をたずねて  2『アデルフィ』の辣腕編集者  3.イギリス人医療部隊  4.野戦病院の日々  5.「クェーカー」の救援隊員  6.帰国後の活動―絵筆と文筆)
VII ピーター・ケンプ(1915-)
 (1.ニューへブン港での別れ  2.フランコ軍の陣営へ  3.同胞と銃火を交える  4.戦時下の国際都市、サラマンカ  5.「私は君を銃殺しなくてはならない」6.ジャーナリズム批判)

VIII 戦いが終わって
(1.「イギリス国際旅団会」の結成  2.独ソ不可侵条約の締結と第二次大戦の勃発3.二人の元義勇兵の戦後  4.イギリス人大隊の記念碑の建立  5.「国際旅団讃歌」[マドリード、1986年10月16-19日]  6「国際旅団の行軍」[バルセロナ1988年10月28-30日])
エピローグ
スペイン全図
内戦期のスペイン(地図)(1936年~39年)
スペイン内戦史関係年表
参考資料・参考文献

II 本論文の概要
 プロローグでは、現在次第に忘れ去られようとしているスペイン内戦に改めて注意を喚起した後、ジュリア・シモンズおよびフィリップ・トインビーとの個人的な会見を紹介し、彼らの口を通して語られた、スペイン内戦を今の時点で取り上げることの重要性と、当時の資料を読むときに必要な慎重さが述べられる。
 第1章では、1930年代前半のヨーロッパの一般情勢、イギリスの社会状況、特に、不安定な労働党内閣の下での左右の緊張感の増大、イギリス・ファシスト同盟の成立、ゴランツ、ジョン・ストレイチー、ハロルド・ラスキ等によるレフト・ブック・クラブの設立、これらに対する知識人の反応、とりわけ、ジョージ・オーウェルの取った知的スタンスが紹介される。つづいて、ヒトラーのベルリン・オリンピックに対抗して企画されたいわゆる「人民オリンピック」が中止に追い込まれた事情、国際旅団の創設、政府のスペイン不干渉主義の下での国際旅団の活動の困難さなどが具体的に紹介された後、ナンシー・キュナード、スペンダー、オーデン、アラゴン、ネルーダ、H.マンなどが発起人となったアンケートに寄せられた当時の知識人(特に作家・詩人)たちの反応(回答拒否者の態度をも含めて)が紹介される。
 第2章では、ジョン・コーンフォードについて、その生い立ちから国際旅団への参加の経緯と21歳での戦死までが詳述される。コーンフォードの思想的立場についての、これまでの対立した解釈が紹介された後、彼の最後の手紙に述べられている心の揺れや、彼の当時の友人や弟クリストファーとの面談を通して、参戦当時すでに彼は共産党から心情的には離れていたのではないかと結論している。
 第3章は、ジュリアン・ベルを取上げる。彼は「ブルームズベリー2世」の別名の通り、当時の最高のエリート集団であった家族や友人関係に恵まれていた。自ら「14歳で社会主義者になった」と述べる早熟で知的な人物であったが、その贅沢すぎる環境からか、共産党とは常に一線を画していた。中国での醜聞の後、国際旅団に加わり、イギリス人医療部隊に配属されて1ケ月後に戦死した。中産階級によって支えられるであろう民主主義を構想しつつ、おそらくはボードレールの詩を口ずさみながらなくなったというエピソードを紹介している。
 第4章の取上げるデイヴィッド・ゲストは、労働党下院議員の息子であり、愛他的理想主義者であったと紹介する。ケンブリッジで優等賞を受賞、奨学金を得るが、ドイツのゲッチンゲンに渡ってヒルベルトの下で論理学の研究を続け、ドイツで共産党に入党、デモで逮捕され、釈放後はソ連に渡る。帰国後、数学講師の職を得るが、ゲルニカからの難民援助に奔走した後、1938年に国際旅団に加わる。戦死する3日前まで、部隊の青年に数学と物理学を教えていたといわれる。
 第5章は、1964年の暮れ、北ウェイルズの海岸で変死体で発見(死因は現在も特定されていない)されたマルカム・ダンバーを紹介する。ダンバーは第15国際旅団の参謀長であって、敗戦後イギリス軍義勇兵の祖国帰還を指揮した将校であった。ケンブリッジ在学中に共産党に入党、スペインへは共和国側の新聞記者としてであったが、新兵として国際旅団に入隊、足を負傷して入院中に士官学校を終了、戦線に復帰後、義勇軍の規律確立に貢献し、次第に責任ある地位についたようである。帰国後のダンバーが世捨て人のような生活を送っていたことまでは突き止めることができるが、さまざまな資料や知人たちの証言を綜合してもその死の真相は明らかにできない。
 第6章は、保守党議員の息子であったリチャード・リースを取上げる。1年間ベルリンの無給大使館員として働いた後、大学出版局の編集委員の傍ら、評論活動で認められ、『アデルフィ』の編集に携わった。ジョージ・オーウェルのスペイン参戦を知って、37歳でイギリス医療部隊に入る。一時帰国した後、クェーカーのスペイン救援組織に参加した。その後、第二次世界大戦に参加、戦後は画家として王立美術会員にも推挙されている。オーウェルとの友情が絶えることのなかった、自由主義者であった。
 第7章で論じられているピーター・ケンプは、フランコ側に参戦した数少ないケンブリッジ学徒である。その動機は、冒険心と共産主義に対する憎悪であったと考えられる。外人部隊「テルシオ」に従軍中ゲルニカの爆撃の報に接するが、これは共産主義者の宣伝が作り出した「神話」であると、終生信じ続けた。晩年、著者との面談においてもその主張を繰り返した。
 第8章は、スペイン戦争の終結と、国際旅団の解散、帰国の動乱、さらに第二次世界大戦とその後の東西冷戦の中で、生き残ったものたちの思想と生活の変遷が辿られる。現在、彼らのほとんどが80歳を越えており、彼らの心情をじかに聞き取れる最後の機会でもある。この機会をとらえての著者の精力的な面談の内容が紹介される。とりわけ、死の直前のスティーヴン・スペンダーとの会見が印象的であったと述べている。
III 本論文の成果と問題点
 本論文はスペイン内戦に参加したケンブリッジ出身の、主として文学と深くかかわりあった青年の心の軌跡を丁寧に追いかけた労作である。著者はスペイン内戦史に対して、社会史・政治史としてだけではなく、思想史としても深い関心を寄せ、これまでに少なくない著作を公にしてきた。本論文は、それらを踏まえた上で、新たな資料を加えて書き下ろされたものである。
 本論文の成果は、大きく三つに要約される。一つは、主として文学研究から出発した若き「エリート」たちの「正義感」「愛他精神」が、錯綜する国際情勢、イデオロギー対立、戦場の現実などとの格闘の中で、どのような影響を受け、どのように変化していったかを、その精神の内部の細やかな襞の揺れを見据えながら辿ろうとしたことである。彼らの「エリート」であることへの「負い目」が、実際の戦場で彼らに要請された行動、国際情勢の変化に従って揺れる彼らの置かれた位置とどのように切り結び、それをどのように自分の内部で説明し、自分の行動の一つ一つをどう納得してゆくかは、しばしば大きな政治の流れの中では見過ごされてきたが、執拗にそのことにこだわり続けることもまた人間諸個人の行動の総体としての歴史解釈にとって無視できないことがらであろう。
 二つ目は、今日までに出版されているスペイン内戦史に関する膨大な各国語の著作(巻末140ページにわたって約2500冊の資料参考文献が挙げられている)を踏まえた上で、いくつかの新しい資料を探り当てて紹介すると同時に、本人、縁者、友人などに直接面会してインタヴューし、その生活と思想をできる限り詳細に描き出そうとしている点である。現在、本人はもちろん、彼らを知る人々のほとんどが高齢期に達しており、今が彼らから直接話を聞きだせる最後の機会であれば、著者が聞き取った話は、精神史としてのスペイン内戦の資料として今後かけがえのない貴重なものとなろう。
 第三に、さまざまな政党政派やセクト間の抗争、イデオロギーや戦術の違い、戦闘の状況、それらの世界史における意義などは勿論スペイン内戦を考える上で欠くことのできないものであるが、本論文で著者は、これまで何冊かの著作で発表してきたスペイン内戦史の研究を発展・深化させ、ディテールで肉付けしている。同時に、本論文の本領は、その担い手たちの内面にまで立ち入って、内戦・党派抗争によって揺れ動いた個々の人間の記憶の軌跡を辿り、それを記録として書き残しておく困難な作業を、「極東」の地である日本からたびたび現地に赴いて成し遂げたことである。これもまた生きた歴史を理解するための大切な仕事であろう。
 本論文には以上三点に要約される大きな成果が見出される反面、いくつか疑問点も残されている。
 第一に、本論文は書き下ろされたものではあるが、これまでに著者が公にしていることがらが少なからず含まれており、叙述が平板で冗長に思われるところがないわけではない。著者長年の調査研究の総合であるという事情を差し引いても、とりわけどの部分を新しく強調しようとしているのかが分かりにくい。
 次に、一人一人の生活と心の揺れを詳細に辿ろうとするあまり、著者自身の立脚点・思想的立場が見えにくいことが上げられる。勿論、特定の党派的立場から叙述することはできないであろうが、あれもありこれもあるという一切を相対化した状況把握では、そこに生きている人間的葛藤が見えなくなり、ともすれば状況に流されて揺れ動く様だけが強調されかねない。たとえば VII で取上げているフランコ側に参戦したピーター・ケンプにも、著者は同じような優しいまなざしを向けているが、とすれば、著者が深い感動を覚えたとする純真な青年たちの「愛他精神」の意味がそれだけ希薄なものに描き出され、歴史に翻弄されていく不確かな人間の心の悲しさ、空しさだけが不当に強調されることになろう。
 そのこととも関係して、なぜ6名のケンブリッジ出身の「文学青年」だけを取上げたのかという理由が、今ひとつ見えてこない。当時のイギリスの知的風土、オックスフォードとケンブリッジの伝統の違い、イギリス大隊に「詩人部隊」と呼ばれるほど多くの文学青年が集まっていたことなどが丁寧に紹介されているが、著者がこのケンブリッジの文学関係者6人に特定した理由は、もっぱら資料的制約によるものとされている。そのため、たまたま任意にこの6名を選び出しているような印象が読後に残る。全体から彼らにとりわけ注目せざるをえなかった積極的根拠が見えにくいのである。
 しかし、以上のような問題点にもかかわらず、スペイン内戦に参戦したケンブリッジ学徒の細かな心の動きを辿った本論文は、今後の研究への貴重な資料になるであろうことは疑い得ない。生きた証言を聞き取れる最後の機会を精力的に利用したことの意義も大きい。
 以上、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与するところが大きいと認め、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断する。

最終試験の結果の要旨

2002年12月10日

 2002年11月13日、学位論文提出者川成洋氏の論文についての最終試験を行った。本試験においては、審査委員が、提出論文「スペイン内戦を戦ったイギリス人義勇兵の研究――ケンブリッジの若き文士たちを中心にして――」に関して、疑問点に関して説明を求めたのにたいし、川成洋氏はいずれも簡潔かつ明快で過不足ない説明を与えた。
 また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語および専攻学術に関する学力認定においても、川成洋氏は充分な学力を持つことを証明した。
 よって審査員一同は川成洋氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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