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博士論文審査要旨

論文題目:労働需給調整制度の構造と規制緩和政策
著者:佐野 哲 (SANO, Tetsu)
論文審査委員:依光正哲、倉田良樹、大橋勇雄

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【本論文の構成】

 わが国の労働需給調整の諸制度は、戦後ほぼ一貫して、政府のコントロールの下で労働者保護と雇用の安定をめざすものとして構築されてきた。ところが、1990年代後半の規制緩和政策により、労働法制の見直しが行われ、労働需給調整制度が大きく変化することになる。

 本論文は、官民の労働需給調整事業の実態を明らかにし、規制緩和政策が労働需給調整事業に与えた影響と問題点および当該事業を所管する法制度のあり方を論じたものである。

 本論文の構成は以下の通りである。

 

 序章

 第・部 労働需給調整システムの構造

   第1章 労働需給調整事業の動向

   第2章 政府の役割と組織

 第・部 民間部門の創成と拡大

   第3章 常用雇用型有料職業紹介事業の機能と構造

   第4章 登録型労働者派遣事業の法制化とその構造

 第・部 規制緩和政策の進捗と評価

   第5章 規制緩和政策の背景とその内容

   第6章 規制緩和政策の評価と労働需給調整事業の変容

 終章  総括と展望

 

【本論文の内容要旨】

第1章 労働需給調整事業の動向

 労働市場に関係するサービス(労働市場サービス)を大きく分類すると、(1)情報提供事業、(2)需給調整事業、(3)需給支援事業の3種類があり、本論文の研究対象を需給調整事業に限定する。労働需給調整事業の主要な機能は、求人者と求職者の間に立ち、それぞれのニーズや要件等を調整してマッチングを図ることである。このマッチング機能は職業紹介と労働者派遣の2つの事業形態によって果たされる。現時点では、求人側の要件が高度化し求職者側のニーズが多様化するなかで、両者のミスマッチが社会問題化していることもあり、労働需給調整事業の果たす役割が注目されている。

第2章 政府の役割と組織

 戦後の長い間、労働需給調整制度の中核は公共職業安定所による無料の職業紹介事業であった。本章では、職業紹介事業が当初民営事業として出発し、その後、幾多の経緯を経て国営化される過程を解明し、政府が職業紹介事業において果たす役割とその組織について論じている。

 政府による公共職業紹介事業のメリットとして、(1)無料サービスであること、(2)全国ネットワークを有していること、(3)雇用保険事業を同時に行っていること、の3つを指摘するとともに、その失業保険機能に注目し、職業紹介と失業保険給付のサービスを一体的に行う公共職業紹介事業の有効性を高く評価する。

第3章 常用雇用型有料職業紹介事業の機能と構造

 本章では民間の有料職業紹介事業をとりあげる。民間部門における職業紹介事業は原則禁止とされていたが、政府は特定の職業に限って民間事業を許可してきた。国営の公共職業紹介事業はブルーカラー分野の紹介に偏り、サービス経済化に伴う新たな分野での職業紹介は政府の「不得意な分野」であった。この分野の職業紹介を担ってきたのが、政府から許可を受けた民間の有料職業紹介事業であった。

 民間有料職業紹介事業は、人材派遣型職業紹介と常用雇用型職業紹介の2つの事業形態がある。本章では、ホワイトカラー分野での職業紹介サービスを提供する常用雇用型紹介事業を取り上げ、この事業の歴史的経緯を明らかにすると共に、そのマーケットが遅々として拡大しなかった要因を分析する。

 1997年の職業安定法施行規則改正による職種規制のネガティブリスト化により、多くの事業者が新規参入することになるが、ホワイトカラー分野を取扱う常用雇用型有料職業紹介事業は大都市志向のビジネスとしての側面を強く持っていることを明らかにする。

第4章 登録型労働者派遣事業の法制化とその構造

 高齢化、高学歴化、情報サービス化、OA化、女性の社会進出などの変化によって、雇用形態の多様化が進み、労働需給調整の局面で新たな対応が求められることとなる。政府は1985年、新たに「労働者派遣法」を成立させ、派遣元の雇用者責任、派遣先の使用者責任を明確にすることによって、労働者派遣事業を許可することとした。

 労働者派遣事業の中心は登録型派遣であるが、労働者派遣法は絶えず見直しがなされ、対象職種が拡大されてきた。しかし、「短期的断続契約・移動型」の就労が多く、就業の不安定化・社会保障制度との不整合などを顕在化させている。また、事業所立地は常用雇用型有料職業紹介事業者と同様に大都市に集中している。

第5章 規制緩和政策の背景とその内容

 1990年代後半、大規模な規制緩和政策が短期間に集中的に実施された。これにより、民間の労働需給調整事業のマーケットはさらなる成長を遂げた。政府が指定する新規・成長分野の一つとして注目され、また世論の期待もさらに大きくなっている。

 規制緩和政策の急激な進展の背景として、ILO新条約の採択、雇用流動化論(労働分野への市場メカニズムの導入)の盛り上がりがあった。また、政府当局が、行財政改革による「小さな政府」の実現と自らの組織維持を両立させるために、規制緩和政策の運用を工夫してきた。つまり、政府事業の有効性、存在意義を損なうことなく(雇用保険事業、雇用保険事業と職業紹介事業の連携見直しなどの改革は行わず)、フローの労働需給調整事業に限って大幅に規制緩和し、民間事業を大量に創成させることによって公共部門の負担を軽減させようと企図したと考えられる。一連の規制緩和政策は、民間の労働需給調整事業のマーケット拡大と新規参入事業者の増大を念頭において進められた。

 民間の有料職業紹介事業に対する規制緩和政策は、ほぼ民間の事業当事者の意見がそのまま採り入れられ、港湾労働、建設労働、警備業務の3つ以外の取扱いは全て自由化という完全かつ単純なネガティブリスト方式が採用された。

 他方、労働者派遣事業に対する規制緩和政策は、個人情報の保護や社会保険加入確認業務など規制が強化された局面が目立っている。さらに、規制緩和分野も従来型の職種規制が完全自由化されることなく、専門分野での限定(26業務の規制)はそのまま維持され、それ以外の分野については、港湾、建設、警備、医療、生産分野のネガティブリストにより自由化されるという変則的な規制緩和政策となっている。しかも新たに自由化された分野は、派遣労働のテンポラリー・ワークとしての側面が強調され、派遣期間が1年と限定された。

第6章 規制緩和政策の評価と労働需給調整事業の変容

 本章では、1990年代の後半に集中した規制緩和政策によって労働需給調整事業がいかなる変容をとげたかを追跡し、規制緩和政策を評価する。

(1) 公共職業紹介事業

 政府の公共職業紹介事業にとっては、規制緩和政策は不況の長期化に伴って急激に増大する紹介取扱い業務を軽減する施策として位置づけられるが、目立った軽減効果は出ていない。むしろ、規制緩和政策と同時に進められた情報化投資(インターネットや情報端末による窓口業務の省人化投資)によって、これまで培ってきた公共職業安定所の属人的な紹介技術が著しく低下してきている。さらに、大規模な業務移管がなされないために、官民分業の効果が相殺されている。

(2) 有料職業紹介事業

 常用雇用型有料職業紹介事業においては、規制緩和政策以降、過当競争が激化している。同事業分野に対する規制緩和施策は、事業当事者からの規制緩和要望への対応に終始し、中長期的にみたシステム全体の有効性を軽視したものであった。その結果、民間事業者がブローカー化するリスクも高くなってくる可能性がある。

(3) 労働者派遣事業

 登録型労働者派遣事業においては、規制緩和政策が社会保険加入の徹底など規制強化的な側面を併せ持ったため、緩和策によってマーケットが拡大する兆しはほとんどなく、市場原理の導入を目指した規制緩和支持派の立場では全く効果に乏しいものとなった。

終章  総括と展望

 1990年代の後半に実施された大規模な規制緩和政策は、実態を後追いするかたちでの緩和策に終始した。また、異例とも言えるほどの短い間で実施され、実態調査研究およびそれに基づく論議を欠いたまま進められた。このため、行政改革を目的とした公共部門のスリム化(官民分業)、戦前に経験したブローカーの弊害、高齢社会に必要な需給調整システムの構築など様々な領域の政策目的が混在し、長期的・マクロ的視点が乏しい場当たり的な施策となっている。労働需給調整制度は、画一的な市場メカニズムの導入だけでは中長期的な有効性を発揮できず、過去の弊害を繰り返すことにしかならない。

 一国の労働需給調整制度のあり方は、国民経済および産業・就業構造の変化の方向、国民のメンタリティと職業能力のレベル、労働市場サービスの事業経営者および担当者の事業への取り組み姿勢などによって最終的に決定される。労働市場に係る諸制度の今後の見直し作業は、わが国労働市場システムのあり方に強い影響を及ぼすことが必至であるため、様々な立場からの学際的な論議および複合的な視点を持った実証研究こそがより重要になってくる。

 

【本論文の評価と問題点】

 以上のような内容の本論文の特徴としては、第一に、これまで空白状態にあった民間の職業紹介事業および労働者派遣事業の実態を明らかにしたことである。とりわけ、膨大なアンケート調査と事業者へのヒアリング調査を実施することによって、これまで未開拓であった民間の労働需給調整事業の経営実態とその問題点を明らかにしたことは特筆に価する。

 第二に、本論文が扱った事業分野は労働政策の規制緩和の対象となるのであるが、規制緩和に際しては、中長期的な展望に基づく労働市場サービスのあり方に関する多面的な検討が必要であるにも拘らず、実際の規制緩和策は極めて短期間に実施され、場当たり的な施策となったことを批判していることである。市場原理か政府規制維持かといった二項対立図式に依拠した批判ではなく、実態を踏まえた上でのルール設定の必要性を主張し、実際のデータを検討しながら、個別の政策を評価する姿勢が貫かれている。

 第三に、労働需給調整に関する公共部門の役割について、公と民の相互補完関係を模索し、望ましい方向性を提示したことである。このことは、労働行政の内部改革を求めることになるため、大きな波紋を及ぼすのであるが、その主張は極めて説得的である。

 しかし、本論文には次のような問題があることを指摘せねばならない。既に指摘したことと関連するが、労働需給調整を公と民が相互補完するとしても、公はルールを作り監視する立場とサービスを提供する立場を兼備しており、この問題の論理的かつ実態的な解決策は示されていない。また、本研究の手法は、丹念に事実を掘り起こす努力が積み重ねられ、そこに多大のエネルギーが投入されたことを考えると無理もないことではあるが、海外の動向に関する研究のフォローが若干手薄となっている。さらに、近年の「政策科学論」では、「政策決定」、「政策プロセス」、「政策評価」などの領域で新たな手法が開発されているが、本論文ではこれらの研究成果をあまり活用していない。本論文のフレームやデータを精緻化する上では、この領域の成果を消化することが求められる。

 

 以上のような課題が残されているが、これらは本論文の重大な欠陥とは言い難く、改善の萌芽が示されており、今後の研究の中で克服されるものと期待される。

 

【結論】

 審査員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したものと認め、佐野哲氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断する。

最終試験の結果の要旨

2001年10月18日

 平成13年10月18日、学位論文提出者佐野哲氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「労働需給調整制度の構造と規制緩和政策」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、佐野哲氏はいずれも十分な説明を与えた。

 以上により、審査委員一同は佐野哲氏が学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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