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博士論文審査要旨

論文題目:養生思想と教育的学校保健の成立
著者:鄭 松安 (ZHENG, Song An)
論文審査委員:藤田和也、久冨善之、木村元、若尾政希

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1.論文の構成

 本論文は、日本の近代学校において子どもの健康保護機能の必要が自覚され、学校衛生(今日の学校保健)として成立してくる過程をたどりながら、明治維新後、西欧から移入された「衛生」と日本の近世からの伝統的な「養生」思想との間に矛盾と衝突を生じ、そしてやがて融合していく様相を明らかにし、日本特有の「教育的学校保健」の成立の過程を明らかにしたものである。

 論文構成は以下の通りである。

  序章 学校教育における学校保健の位置と役割
   一 日本の学校保健の独自性:「教育」としての保健
   二 学校論・教育論における学校保健の位置と役割
   三 学校衛生の歴史研究とその問題点
   四 教育管理=運営論と学校保健
   五 「教育」、「養生」と「養護」
   六 課題と方法
 第一部 養生と修養 「元気を保つ」ことと「人となる」こと
  はじめに
  第一章 養生──貝原益軒の養生思想を中心に
   第一節 気の養生
   第二節 養生と儒教の道徳倫理──「舎生取義」
   第三節 養生と修養
   小 括 儒教的な養生思想──養生と人間形成
  第二章 「人となる」ことと養生──「存天理去人慾」
   第一節 理気哲学の修養論
   第二節 「人となる」こと
   第三節 養生と修養
   小 括 「理」により「気」を養うこと
  第三章 学校の教育としての養生
   第一節 教育学における養生
   第二節 修身における養生──西村茂樹の『小学脩身訓』
   第三節 修身における養生──『小学脩身書』
   小 括 学校の教育としての養生
 第二部 学校の衛生機能
  第四章 近代初期日本の学校における衛生の自覚
   第一節 公衆衛生の導入と学校衛生
   第二節 学校の衛生機能の自覚
   第三節 学校における生徒の身体健康の育成の自覚
   第四節 学校管理の出現と学校の衛生的機能
   第五節 学校衛生学の成立
   小 括 近代日本の学校における衛生の自覚
  第五章 知識教授学校と「学校は病体畸形製造所」
   第一節 「学制」期の「知識教授学校」
   第二節 学校と子どもの健康
   第三節 学校教育と子どもの健康
   小 括
  第六章 学校教育の基礎としての学校衛生──三島通良の学校衛生論を中心に
   第一節 教育の基礎としての「学校衛生」
   第二節 三島通良の「学校」と「教育」
   第三節 学校衛生の思想
   第四節 学校衛生の成立
   小 括
 第三部 養生と衛生の融合
  第七章 学校教育における養生と衛生の融合
   第一節 修身教科書における養生と衛生の融合
   第二節 国語教科書における養生と衛生の融合
   小 括 教科教育に現れた養生と衛生の融合
  第八章 学校の日常的保健活動の教育性
   第一節 儒教、養生思想と掃除
   第二節 学校掃除
   第三節 学校衛生と清潔
   第四節 学校掃除における論争
   小 括 教育的な学校掃除の成立
  第九章 教育的学校保健の成立へ
   第一節 教育家と衛生家の衝突
   第二節 教育的な学校衛生
   小 括 教育的な学校保健へ
  終章 養生思想と日本的学校保健の成立

2.論文の概要

 序章では、まず著者は、日本の学校には戦前戦後を通じて「教育としての学校衛生(ないしは学校保健)」という考え方が理論上もまた実践的にも一貫して存在し、それが日本の学校保健の特徴をなしていること、しかしながら他方で、教育学においては、学校保健の教育における位置づけや役割についてはいくつかの異なる考え方や論及があり、それが今なお対立論争的状態にあることを指摘する。そこで著者は、学校保健の位置づけに直接・間接に論及している主要な教育学者の論と学校保健研究者の先行理論を批判的に検討したうえで、それらを踏まえて著者の課題と方法を設定している。

 勝田守一の教育本質論に基づく学校論の枠組みを基本的に引き継いだ堀尾輝久の学校論は、学校の主要任務を、(1)教養の形成、(2)自治能力の育成、(3)労働能力の育成にあるとして、学校保健などの福祉的な機能は今日の学校が引き受けざるを得ない過渡的任務と規定する。これに対して城丸章夫は、学校が「子ども預かり所」としての性格を歴史的に有しており、福祉的機能を前提にしなければ学校教育は成り立たないと反論する。これについて著者は、堀尾の学校論は、学校教育が保護を必要とする子どもを対象とする限り、そして学校が子どもの生活の場である限り、保健や福祉への配慮は不可避であること、しかしながら他方で、城丸の議論は福祉的機能を学校が取り込むことによって学校の機能を肥大化させる危険性も孕んでいるとする。また、持田栄一の学校論は、学校保健を学校の役割の中に明確に位置づけはしたが、それを含む管理=経営過程と教授=学習過程の二分法で説明するという限界をもっているとする。

 これらの議論に対して著者は、水掛け論に終わりかねないこの難問から抜け出す方法として、学校が歴史的に保健機能をどのように成立させてきたのかを解明することが必要であり、中内敏夫の仮説的提言はそこに先鞭をつけようとしたものであるとする。中内は、「養生」は日本の教育心性であり、「養護」は教育の原始的な形態を受け継いでいるとして、学校教育と学校保健の関係のとらえ方にこれまでとは異なる角度からの解明の方向を示唆しているとする。さらに、先行の学校保健研究者の緒論では、いずれもこの視点からの歴史的解明が不十分であることを指摘したうえで、日本近代において学校の健康保護機能がどのようにして成立してきたかを解明するために、学校衛生の成立前史および成立期とされる明治期を中心に、その底流としての「養生」、西欧からの移入としての「衛生」、その両者の衝突と融合という経過をたどったとする著者固有の仮説をもってその検証に挑んでいる。

 第一部では、近代日本の教育的学校保健の起源が、近世の思想家である貝原益軒(1630~1714)の養生思想にあると説く。養生論が人間形成の機能を有しているという指摘は、すでに瀧澤利行が行っているところであるが、著者は、そうした先行研究では、益軒の養生思想の分析が行われておらず、養生と人間形成(「人となる」こと)とがいかに関わるのかについての構造的解明ができていないとして、具体的分析を開始する。

 第一章、第二章では、『養生訓』をはじめとする益軒の著作からその養生思想を解明する。著者によれば、益軒の養生思想とは、気の思想をもとにした生命保護の思想である。気の宇宙観にあっては、気は人を含んだ宇宙のすべてを構成する物質的な根源である。人の身体は気でできた「器」であり、この「器」の中でめぐり動く気が生命力・活動力の源である。養生とは、この身体をめぐり動く気を減らすことなく元気に循環させることであり、具体的には気の循環を妨げる根本的要因である人欲(人の情欲)を適度にコントロールすることであるとする。こうして益軒の養生思想では、「存天理去人欲」という朱子学の基本的テーゼと養生が一致することになる。養生=道徳的な修養とみなされ、中国の養生思想の重要な要素であった神仙ないし道教的な養生術の要素は排除される。益軒においては、養生は儒教の道徳実践の一環に組み込まれ、忠孝のための養生が説かれることになる。これが後の近代学校において忠君愛国へと作りかえられていくものの母胎ともなったと、著者は指摘している。

 第三章では、1880(明治13)年の『小学脩身訓』(西村茂樹編)とそれに続く文部省編『小学脩身書』(明治16~7年)に数多く収録された益軒の養生論を分析している。『養生訓』にある多くの実用的な養生術は収録されず、収録されたのは、人はなぜ養生するのか、私欲を制することによって生を養うという養生の技法、養生することによって道徳的な人間になるという儒教的な道徳教育の目的、さらには「養老」を介した忠孝との関連づけ等であった。ここから著者は、益軒の養生論が修身教育の中心に位置づけられているとして、養生こそが教育的学校保健を準備した思想的基盤であると主張している。

 第二部においては、著者は日本の学校制度の中に「学校衛生」の必要が自覚され成立する歴史的経過とその特徴・意味に注目している。1872 (明治5)年に発足した日本の近代学校制度は当初「知識教授学校」の性格が強く、1900年前後(明治30年代初頭)に「学校衛生制度」が成立するまでは学校衛生空白期であったとされる。そこでは、多人数の子どもたちを学校・教室という空間に集め、一定時間拘束して、知的課題に集中させるという教育事業が、本来払うべき「子どもの健康に対する配慮・保護」について、その医学的・衛生的知識を欠いて、注意も払われない状態が一般的であった。その結果、眼病・骨格異常・伝染病などに子どもたちが見舞われていることを指摘・批判される状況に至った。しかしながら他方で、著者は、この時期には「子どもたちの健康に保護を加える学校の働き」についての必要性が学校現場で自覚され、その具体的展開があったことを掘り起こし、その内容を明らかにしている。

 第二部の後半は、日本の学校衛生制度の確立に決定的役割を果たした三島通良の全国的な学校衛生状況調査と、その著書『学校衛生学』を取り上げ、検討している。医学者として公衆衛生にも学び、文部省から「学校衛生主事」に任ぜられて「学校衛生事項取調」を委嘱された三島は、明治20年代に精力的に各地方の調査を行った。その結果をまとめた『学校衛生取調復命書』(1895)では、不衛生で採光・換気の不充分な校舎が病気や視力低下を生み出し、身体に合わない机・椅子が脊柱を彎曲させ、結核・トラホームなど伝染病が流行している状況、教員に衛生上の知識がなく、休憩時間も十分でないなど、学校環境と学校活動の全般が児童の衛生上問題が多いことを明らかにし、学校が「病体畸形製造所」となっているとの指摘をした。著者によれば、明治初年の学校にも「養生」による健康保護の考えはあったが、この三島の提起によって、外部に目を向け、子どもの健康を外部環境から守る「衛生」の思想が、近代学校のこの課題を解決するために必要であることが、自覚されるようになったとしている。

 こうした実態調査を基盤に著された三島の『学校衛生学』(1893)は、発育途上の子どもを教授する学校には、その身体の健康を保護し強壮にする「学校衛生」が、教育の基礎として必要であるとし、そのための教育条件の整備と教育方法の改革の重要性を訴えている。保護の方法としては、子どもを取り巻く環境の改善・管理と「学校医」による監督とが重視され、また、教師の衛生意識の向上とともに、採光・換気を考慮した学校建築標準、机・腰掛けの標準案、子どもの服装の改良図など、具体的な改革項目も提起されていた。このような画期的な「学校衛生」の思想と諸提案は、三島が主事を務めた「学校衛生顧問会議」の「建議」(1896)となり、それに基づいて以降2年間に出された「学校清潔方法」「学校生徒身体検査規定」「公立学校医設置に関する規定」「学校医の資格」「学校伝染病予防及消毒方法」といった、一連の学校衛生制度として公布された。ここに日本の本格的な学校衛生制度がその「空白期」を脱して確立したとされている。

 第三部は、養生(文化)が学校衛生とどのように融合していくかについて、教科書の記述を通した分析ならびに学校掃除の展開とそれに伴う論争に注目して検討を行い、教育的な学校保健の成立に関する考察を行っている。

 七章では、修身・国語教科書に現れた保健思想を時系列に検討し、その変化の過程を明らかにした。伝染病の流行への対応や衛生観念の浸透などに伴って学校衛生が成立するが、その中に養生思想がどのような位置をしめたのかという観点から検討されている。

 著者によれば、養生は江戸時代の長きにわたり、儒教、儒学ともに浸透し、明治初期に導入された翻訳修身教科書などはそれらが下敷きにされていた。養生思想を基本にして西洋の健康保護法と融合させた著作も現れた。そこでは養生を基本として西洋の衛生方法を取り入れるという形で導入が図られ、同時に養生思想における道徳修養の内容が継承されている。そして1880(明治13)年には、先に触れたように、修身教科書に益軒の養生思想が掲げられるに至る。1900(明治33)年に出版された『新編修身教典』では、その健康保護法が公衆衛生一色になっている。これを契機に修身教科書の健康保護の叙述自体は養生から公衆衛生へと展開し、国定修身教科書の保健内容も全面的に公衆衛生に切り替わるが養生的な視点からの記述は貫かれたとしている。

 八、九章では、学校掃除の成立・展開過程を追うことで、それが教育的学校保健を典型的にあらわした活動であるととらえて考察している。

 衛生がまだ普及していないときには学校掃除は「外」から「内」を養い、身体から心を律する人間育成の方法であった。この点から見ると掃除は気の循環をよくする衛生法である。しかるに、導入された衛生学の知見から見るならば、環境は黴菌が満ちた空間であり子どもの掃除を危険視する。掃除という教育活動を是認する教育者と身体健康の保護から掃除を排除する医学・衛生学者という形を取ってこの対立が1896(明治29)年、論争として表面化する。前者を代表する小学校長・清水直義は、子どもの健康保護は養生思想の発想では鍛錬主義的な自己保護であるとしてとらえた。一方、後者の代表であり学校衛生制度の創始者でもある三島通良は、教育における身体健康という衛生学的な基礎を新たに提起し、衛生学的な清潔感に基づいて子どもを病毒から保護することが健康保護であるとして論争を展開した。その後の展開は、衛生学が科学の名の下に学校の中に入り込むが、養生観に基づく教育的な学校掃除に、後に導入された衛生的な保護を加えるかたちで学校掃除は定着していく。清水においてはそもそも「元来教育家は学校衛生の知識を有し、学校衛生は教育と共に存在」するとし、西洋衛生もそうした構造の上に積極的に取り入れたのである。こうした受容の形で学校現場の日常保健活動を介して教育的な学校掃除が作り上げられていったとする。

3.本論文の成果と問題点

 本論文は、先述のように3部構成をなし、全体で400字に換算して1,200枚を越える大部なものであるが、益軒の養生論を詳細に検討し、朱子学にも論及しながら日本の近代学校初期に養生論が学校教育にどのように取り入れられたかを明らかにした第1部、明治期の学校に学校衛生の必要が自覚され、やがて制度化されていくプロセスとその特徴を明らかにした第2部、そしてその時期に西欧からの学校衛生が移入されることによって、底流にあった養生との衝突と融合をたどる過程の様相を描き出した第3部は、それぞれに独立論文としてのまとまりをもっている。

 この論文の成果としてはいくつか認められるが、何よりもまず、学校保健史研究の分野はほとんどが未開拓な状態のなかで、近代学校衛生の成立前史から成立期の状況を丁寧に掘り起こしたことと、なかんずく全くと言ってよいほど手をつけられていなかった明治初期の学校衛生の芽吹きを明らかにした点は、画期的な成果であると言える。殊に、本論文が、従来、学校衛生の始まりは明治20年代中葉、文部省における「学校衛生取調」・三島通良の配置を起点として語られ、衛生学(医学)サイドからの学校教育への監督・助言というかたちで外在的に始まったとされる通説を覆し、その以前から学校現場や学校教育関係者によって養生思想が底流となったとみられる考え方や実践が、学校教育の中に内在的に自覚され、展開されていたことを新たに掘り起こした点にある。

 二つめは、教育学における学校の機能をめぐる議論のなかでの、学校保健の位置づけにかかわる論争的な議論に対して、日本の近代学校の成立期における養生と衛生の様相をとらえることを通して歴史現実的な回答を与えようとする本論文の試みは、従来の学校論に対して新たな視角を提起していると言える点である。

 三つめは、主として第1部で、益軒の養生思想を中国の養生思想や儒教(殊に朱子学)の修養論と対比しつつ丹念に分析している点である。その朱子学理解は妥当であると言える。また、明治10年代の修身書に収録された益軒の養生論の特質を明らかにしている点も評価できる。

 四つめは、第2部において、三島通良の調査と活動と著作が、日本の近代学校制度の基本的課題と当時の学校の性格・学校状況のなかで大きな影響力を持ったことを説得的に浮かび上がらせたことである。日本の学校の近代史において三島通良の果たした役割については、教育史において重視され、なかんずく学校保健史において決定的に重要な役割を果たしたことはよく知られてはいるが、三島の功績を本論文のように詳細に描き出したものはこれまでに見当らない。

 以上が主な成果であるが、問題点や課題もなくはない。

 一つは、著者の課題設定において、学校論をめぐる堀尾-城丸論争の整理と中内の「養生・養護」解釈とが、著者の方法論上でどのように位置づき・整理されているのかが必ずしも明示的でないこと。二つには、益軒の養生思想が「土着の教育学として生き続けてきた」としているが、その論証が必ずしも十分とは言えないこと。また、益軒の『養生訓』が発刊以来、19世紀末に至るまでどのように民衆に受容されていったかの具体的分析が今後の課題として残されていること。三つには、学校衛生の空白期・成立期における学校現場における取組みの実際をとらえるデータ、および学校において衛生が養生と融合していく様相を具体的に読みとることのできる史料がさらに発掘できていれば、著者の視点の実証がより説得的になったと思われる点(この時期のこの分野の実証的史料の入手が極めて困難であることを十分に承知した上での注文ではあるが)である。

 しかし、以上の点は、この論文の成果を損なうものではなく、最終面接において確認できたように本人が十分に自覚しているものであり、今後の研究の発展によってさらに確かめられ、深められることが期待できる。

 以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与する十分な成果を上げたものと判断し、鄭松安氏に対して、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断する。

最終試験の結果の要旨

2001年7月11日

 2001年6月29日、学位論文提出者鄭松安氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、提出論文「養生思想と教育的学校保健の成立」に基づき、審査委員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、鄭松安氏はいずれも適切な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は鄭松安氏が学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を有することを認定し、合格と判定した。
   

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