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博士論文審査要旨

論文題目:明治期小新聞の研究
著者:土屋 礼子 (TSUCHIYA, Reiko)
論文審査委員:村田光二、田崎宣義、山本武利

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I 本論文の構成

 明治前期の新聞には、紙面が大きく、政論中心の大新聞(おおしんぶん)と、紙面が小さく、娯楽記事中心の小新聞(こしんぶん)があった。『読売新聞』は東京の代表的小新聞であり、『朝日新聞』は大阪の代表的小新聞であるように、近現代日本の新聞は小新聞抜きに論ずることはできない。本論文の構成は以下の通りである。

  序 小新聞研究の意義と課題
 第一章 小新聞の研究史
 第二章 同時代における小新聞の位置づけ
 第三章 小新聞と言語階層
 第四章 小新聞の文体と言語空間
 第五章 錦絵新聞から絵入り小新聞へ
 第六章 初期小新聞にみる投書とコミュニケーション
 第七章 明治初期の言論統制と小新聞の筆禍
 第八章 『いろは新聞』にみる明治10年代半ばの小新聞
 第九章 政党系小新聞にみる明治10年代後半の小新聞の変貌
 第十章 大阪における小新聞の展開
 第十一章 小新聞の新たな試み―初期の『都新聞』と『やまと新聞』
 第十二章 小新聞の終焉と大衆紙のはじまり
 小新聞一覧表
 新聞発行部数表
 錦絵新聞一覧リスト
 参考文献

II 本論文の概要

 序章では、明確な政治的立場を持たず、不偏不党を標榜する全国紙が「日本型新聞」と呼ばれることが多いのに対し、筆者は「国民的大衆紙」または「国民型大衆紙」という呼称の方が歴史と実態に即しているとする。というのは19世紀末に東京と大阪に生まれた小新聞が、20世紀に政治的中立性を掲げ、全国の各階層に幅広く読まれる国民的大衆紙に発展したからである。ところが小新聞は通俗、センセーショナリズム、スキャンダリズムの新聞として、大新聞よりも一段低い地位に置かれ、侮蔑されてきたばかりでなく、本格的研究の対象とならなかった。筆者は、不当に軽視されてきた小新聞を総合的、実証的に分析しようとする。作り手と読み手がこれらの新聞にどう関わり、どのような空間を創り上げていったかを、文体、視覚的要素、読者層、筆禍事件などさまざまな角度から追って行きたいとする。

 第一章は野崎左文、小野秀雄などの研究で「小新聞」がどのように定義されてきたかをまとめている。とくに1905年と1927年の2つの野崎文献に見られる変化に注目しながら、卑俗で、興味本位の小新聞批判が次第に強まったことを指摘する。戦後の新聞研究も野崎らの枠組みに依拠してきた。映画、週刊誌、テレビなどの台頭で、娯楽性・大衆性への肯定的見方が相対的に強まったものの、それが新聞史研究における小新聞研究の高まりとはならなかったという。

 第二章では明治前期の人々の小新聞観を当時の新聞雑誌にあたって検討する。『読売新聞』の創刊時には、「平かな新聞」とか「傍訓(ふりかな)新聞」という呼び方が一般的であった。「小新聞」が定着したのは、明治10年代後半に新聞が政党化し、政党系の振り仮名付き新聞が発行されてからである。それとともに「小新聞」は振り仮名付き新聞の総称となったが、蔑称の意味合いをもった。

 第三章は小新聞の読者と言語階層との関係を論じる。筆者は全く文字の読み書きのできない非識字層、かなの読み書きはできるが漢字の読み書きがおぼつかない準識字層、漢字とかなの両方を読み書きできる識字層という3層を設定する。これに応じて錦絵新聞、小新聞、大新聞というメディアの階層性を仮定する。そして当時のリテラシイ調査をつきあわせ、東京の大新聞の読者は識字人口の約1割、小新聞は約2割と試算する。新聞を読まない準識字層がかなり多いという。また華士族の約7割が大新聞の推定読者で、その残りと平民の約2割が小新聞の読者であった。こうして都市での識字率の高さと男女差の小ささ、華士族と平民の階層差が小新聞成立の背景にあったとされる。

 第四章では、「説話体」と呼ばれる小新聞の文体を検討する。小新聞は大新聞で採用された漢字訓読体ではなく、総ふりがなという方法によって話しことばを取り入れた。当時「俗談平話」と呼ばれた小新聞の文体は、漢字漢語になじみのない準識字層や非識字層に漢字をわからせようとした独特のもので、ふりがなによる話しことばが主で、漢字まじりの文章は従という構造であった。こうしたオラリティの重視は、当時小新聞が呼び売りで販売されていたことによっている。だが、呼び売りは押し売りにつながって社会批判を招いたため、1879年禁止された。それとともに、「俗談平話」の文体は減少し、続き物や見出しなどの形式が定着した。

 第五章では、江戸期からの視覚メディアである錦絵と小新聞の関係を分析し、錦絵新聞、絵入り新聞というジャンルの誕生を論証している。筆者は750点以上の錦絵新聞の原資料を全国の図書館、博物館などで精査した。1873年発刊の『東京日日新聞』と題するシリーズが好評だったため、その後大都市で40種類以上の錦絵新聞が発行された。それらは新聞記事を絵にした木版多色刷り版画で、絵草紙屋から出版された。大阪では、日刊で配達される視覚ニュース性のメディアも登場した。やがて視覚重視の小新聞が普及するにつれ、非識字層も次第に錦絵新聞から小新聞に流れていく。

 第六章は前期小新聞の投書欄の分析である。『読売新聞』『東京絵入新聞』『仮名読新聞』の投書件数は、明治9年がピークで、3紙合わせて月に300件にも達した。投書者は全体で3721人あった。1人で10件以上投書する者つまり常連投書者は全体の2.4%であったが、彼らが全投書件数の4割以上を占めていた。その階層は武士と町人で半数を占め、年齢構成は幅広い。彼らは情報提供で小新聞の取材活動を補う一方、新聞記者との人的交流を広げた。また浄瑠璃、川柳、狂歌作りなどでの投書家同士の交流も密で、記者とともに文芸サロンを形成していた。

 第七章では、小新聞の筆禍の実態を大新聞と対照させながら明らかにした。明治8年から13年の大新聞5紙と小新聞3紙の筆禍件数では、小新聞の筆禍の98%以上が讒謗律によるものであるが、犯罪教唆、国家転覆にみられる大新聞の新聞紙条例違反は皆無であった。また小新聞では、罰金5円という軽罪が7割以上だったのに対し、大新聞に多い長期禁獄や多額罰金刑は余りない。小新聞は市井の一般人を誹謗したとして罰せられたが、大新聞は県令、官吏などへの誹謗で罪を問われた。こうした筆禍事件を見ると、勧善懲悪の正義を市井の人々に向け展開した当時の小新聞の性格がよく出ているという。

 第八章から第十一章では、従来ほとんど研究されなかった中期、後期の小新聞の展開を分析する。

 第八章では、明治十二年創刊の仮名垣魯文の『いろは新聞』を分析する。魯文は『仮名読』時代同様に花柳界ゴシップを売り物にしていたが、投書欄はなくなった。広告は次第に増加していて、広告収入を重視し出したことがわかる。前時代から引き継いだ戯作者集団の言語文化に依拠した編集では、時代の変化に対応できなくなったという。

 第九章は東京に叢生した政党系小新聞を取り上げ、明治10年代後半における小新聞の変貌を論じた。改進党系の『絵入朝野新聞』と『朝野新聞』、自由党系の『絵入自由新聞』『自由燈』と『自由新聞』との関係が記者、紙面、読者の面から多角的に分析される。大新聞の方が衰退する中で、ふりがな付きの論説や挿絵などの紙面刷新、休刊日減少、無料逓送などのサービスで政党系小新聞は部数が増加した。大新聞から小新聞への記者の移動も一部で見られた。しかし政党の瓦解で大新聞が衰退すると、これらの小新聞も読者をひきつける求心力を弱めていった。

 第十章では、大阪の小新聞を取り上げ、大阪からの国民的大衆紙の形成について考察する。宇田川文海の『浪花新聞』は新聞投書家の新聞演説会で読者を開拓した。宇田川は後に大新聞にも参加した。明治12年創刊の『朝日新聞』も投書家を取りこんだ。しかし大阪は東京と違って戯作の伝統が弱く、文筆者の層が薄かったため、大小新聞の垣根が低かった。主筆格の記者の相互乗り入れにも抵抗が少なかった。大阪の新聞経営者は採算を考え、部数増加に役立たぬ記者を解雇した。彼らは新聞を文芸、政治よりも情報媒体と見なした。人気のある続き物や迅速な報道を重視すると同時に、大新聞の論説を取り入れた。つまり中新聞の方向に転換しやすい環境が大阪の新聞界にはあった。こうして大阪から全国紙が発展する基盤が形成されて行く。

 第十一章では、明治17年創刊の『今日新聞』と『警察新報』に新しい小新聞の動きを見る。前者は仮名垣魯文主筆の夕刊紙であったが、『いろは新聞』以上に魯文の筆致だけでは読者がひきつけられなくなった。後者も『やまと新聞』への改題と落語講談筆記の連載で生き残りを図った。続き物や小説によって小新聞の成功が左右される度合いが『やまと新聞』の東京紙トップの売れ行きに確認できた。

 終章では、筆者は小新聞が東京でも大阪でも身分差を越えた文芸サロンの機能をもって出発したと見る。しかし自由民権運動の影響で、政党系小新聞は政治運動の媒体となり、初期の小新聞を遊郭情報中心の娯楽媒体と批判し、民衆的な文化サロンを軽視した。言論弾圧は大新聞を衰退させるとともに、政党系小新聞も弱めた。小新聞の政治離れが急速に進み、娯楽読み物と報道重視の方向への転換が急速に進んだ。そして大新聞と小新聞の垣根が低くなり、記者、読者ともにその2層構造が壊れる。そうして報道、広告媒体としての新聞、商品としての新聞の可能性が開けてきた。国民的大衆紙は明治後期か大正期にかけて確立されるが、明治10年代末期には形成され始めたことはたしかだという。

III 本論文の成果と問題点

 今日の2大新聞である『読売新聞』『朝日新聞』とくに後者は、その前身が小新聞であることを社史などであまり触れたがらない。また研究者も本格的な小新聞研究を怠ってきた。業界、学界双方で小新聞はセンショーナルなジャーナリズムとして軽視されてきた。

 本論文は、日本の大衆ジャーナリズムの歴史的源流である小新聞の本格的な研究である。筆者は大学院時代から一貫して小新聞の実証的研究を地道に展開してきたが、本論文で長年の努力が結実したといえる。

 小新聞は大衆ジャーナリズム軽視の図書館の姿勢もあって、大新聞に比べまともに収集、保存されていなかった。またマイクロ化の動きにも取り残されてきた。筆者は全国の図書館や新聞社などを渉猟して、小新聞の資料収集や整理を行ったきた。その過程で筆者は『仮名読新聞』の復刻版を編集し、刊行した。またCD版『日本錦絵新聞集成』もその副産物の一つである。もちろんそれらの作業は自身の研究のためであった。小新聞資料の学界第一人者となる過程で、研究を徐々に進展させてきた。

 したがって本論文はもっとも紙面資料を活用した小新聞研究の成果として評価することができる。記事欄のみならず、投書欄、広告欄などにも周到に目配りした研究である。筆禍件数、投書件数、広告主業種分類などは、その悉皆調査であるだけに、数紙、年月はかぎられているとはいえ、読むものに圧倒的な迫力をもっている。

 小新聞の売り物であった警察情報や花柳界情報などを丹念に読んで、各紙の特徴を分析するだけでなく、そのふりがなや文体の分析も行っている。記者、投書家それぞれの活動や相互の関係を記事や人物伝などを使って客観的に捉えようとしている。発行部数や広告収入などのデータにも、新発掘のものが多い。

 新聞を社会史のなかに位置づける実証作業は言うはやすいが、行いにくい。筆者は読者の階層をリテラシイ資料、教育関係資料だけでなく、記者、読者が織り成す文芸サークルの実態把握を通じて把握しようとしている。もちろん記事や投書の内容や文体、挿絵などの資料を紙面上に求めている。こうして筆者のいう社会的空間のなかに小新聞を位置づけることはかなり成功したと言えよう。

 また『朝日新聞』に代表される新聞がその後の日本の新聞界を支配した点からみて、大阪の小新聞分析の意義は大きい。文芸サークルが東京に比べて江戸末期の戯作者的影響を残していなかったこと、記者の大新聞、小新聞間での移動が活発だったこと、経営者の利益志向が強かったこと、経済情報への読者のニーズが強く、その媒体が以前から存在したとの指摘は貴重である。

 しかし問題点もある。先行研究に幅広くあたり、それらの研究を乗り越えているが、それらへの批判は徹底していない憾みがある。本研究は画期的な成果であるだけに、通説への評価や批判をより 積極的に出してよかったと思う。それと同時に、国民的大衆紙という筆者の提起した概念が、従来の新聞史の概念とどう違うかも結論部分に詳述して欲しかった。

 販売店やその組織への言及がほとんどない点も残念である。読者の階層や地域的広がりを把握するためにも、販売関係の資料を紙上や既存の販売史研究文献に求めることができたはずである。また大新聞とのより多面的な比較、雑誌媒体との比較などの作業も今後に残された課題と言えよう。

 これらの問題点にかんし、審査委員が質したところ、筆者の方に十分な認識と自覚があること、そして近い将来、その克服にあたる予定であることが判明した。もちろんこれらの問題点が本論文の成果を低下させるものではない。

 以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与すること大と認め、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断する。

最終試験の結果の要旨

2001年5月21日

 2001年5月21日、学位論文提出者土屋礼子氏についての最終試験を行った。本試験においては、審査委員が提出論文「明治期小新聞の研究」について、逐一疑問点について説明を求めたのに対して、土屋礼子氏はいずれにも十分な説明を与えた。
 また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語および専攻学術に関する学力認定においても、土屋礼子氏は十分な学力を持つことを証明した。
 よって審査委員一同は土屋礼子氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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