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博士論文審査要旨

論文題目:如来教の思想と信仰 ―教祖在世時代から幕末期における ―
著者:神田 秀雄 (KANDA, Hideo)
論文審査委員:安丸 良夫、深澤 英隆、渡辺 尚志

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一 本論文の構成
 本論文は以下のように構成されている。

序章 如来教研究の意義と本書の視点
 第一節 如来教研究の意義
 第二節 如来教の研究史と本書の視点

第一章 如来教の開教
 第一節 『御由緒』をはじめとするきのの伝記史料について
 第二節 奉公人きのの前半生
 第三節 如来教の開教

第二章 如来教の宗教思想 
 第一節 概観
 第二節 金毘羅大権現――威力と済度の神
 第三節 「悪娑婆」と「後世」
 第四節 「三界万霊」の救済
 第五節 宗教思想の歴史的意義

第三章 如来教の信仰活動
 第一節 開教初年の動向
 第二節 宗派の確立と講活動の活発化
 第三節 江戸の講中の参入と諸願の増加
 第四節 文政三年の弾圧ときのの晩年
 第五節 金毘羅信仰と如来教――碵道・金木市正・講中
 第六節 幕末期における信仰活動とその矛盾

史料編

如来教に関する研究一覧

あとがき

なお本論文にはつぎのような三点の参考論文が添付されている。

・ 如来教百九十年史序説(一)、(二)
・ 信心の世界の変容と新たな救い
・ 近世後期における「救済」の〈場〉― 民俗信仰・篤胤学・民衆宗教 ―


二 本論文の要旨

 如来教は、1802年、尾張国愛知郡熱田新旗屋町に住む貧しい女性きのによって創唱された民衆宗教で、黒住教、天理教、金光教などに先行する民衆宗教の最初の事例とされている。著者の如来教観もこうした通説的理解を踏まえているとはいえるが、序章第一節では、一般的には現世肯定的な教義をもつとされる幕末維新期の民衆宗教に対比するとき、如来教の教義は「後世」(来世)での救済を中心教義とする点で著しい特異性をもつこと、また如来教は金毘羅信仰の流行を背景として成立し、幕末期までの如来教の信仰活動や信仰組織の実際は金毘羅信仰と重なりあう性格をもっていたことが強調される。明治中期以降の禅宗化した如来教からは見失われやすい右のような特徴を具体的に解明することが、本論文の課題である。

 第二節では、1927年に発表された石橋智信「隠れたる日本のメシア教」以降の如来教研究史が概観され、とりわけ、如来教の教義の中世的性格を強調し女性史的視点をとる浅野美和子氏の見解が批判される。また、宗教研究を信者の信仰意識の実態や儀礼などへ深めようとする最近の研究動向にふれて、民衆宗教のばあいには教義の内容に信者の生活上の要求も具体的に反映されているとして、教義書分析が中核におかるべきだという著者の立場を対置している。

 第一章は、教祖きのの前半生を含めて、開教期如来教の実態が著者の発掘した新史料と『お経様』に基いて記述される。第一節で『御由緒』などの新史料の成立事情について考証したうえで、第二節では出生から神がかりまでのきのの前半生がたどられる。幼少時における父母との死別、短く不幸な結婚生活をはさんだ長い奉公生活、熱田への帰郷と独り暮らし、そうした生活への法華行者覚善父子の同居と新たな苦難などが主な内容であるが、きのが老後の介護にあたった奉公先の主人との間の信頼関係と、出奔していた夫庄次郎との再同居およびそれにつづく覚善父子との同居に伴う生活上の苦難が重要だったとされる。 第三節では、1802年8月と9月の二度にわたる神がかり(「御口開き」)と、きのに憑依した神の権威が確立していく過程が分析される。きのに憑依したのは金毘羅大権現だったが、この神ははじめ、同居している法華行者覚善による審神の対象となり、この神の真正性を根拠づける「証拠」が求められた。地域の民俗宗教的な状況のもとで、きのは憑依した神の真正性を根拠づけるさまざまの象徴的行為を行い、約1年間をへて、覚善が「降参」してきのときのに憑依する金毘羅大権現の権威がきのをめぐる人々の間で確立された。

 第二章の課題は、如来教の経典『お経様』を主な素材として如来教の宗教思想を体系的に分析することである。第一節では、きのの説教を速記筆録した『お経様』の成立事情とその構成上の概略がのべられ、至高神如来とその依頼を受けた金毘羅大権現を中核にした宗教思想の概略が簡単に記述される。

 第二節は、如来教の主神金毘羅大権現の神格上の特徴を主題にしている。金毘羅大権現は、諸人救済という釈迦(=如来)の意思を実現するためにこの世に遣わされた神であり、きのの神格である。金毘羅大権現は、元来、釈迦の守護神で、威力に満ちた果断な神であるが、悪人ばかりのこの「悪娑婆」に住む諸人を救済するためにはこうした神格が不可欠で、またきのに貧しく苦難に満ちた人生を歩ませて、そうしたきのに天降る必要があったのである。こうした金毘羅大権現のイメージが、18世紀後半から19世紀初頭にかけて大きく発展した金毘羅信仰をふまえたものであり、如来教の発展には、教義上でも信仰組織上でも民俗信仰としての金毘羅信仰とのかかわりがきわめて大きいというのが、本論文を一貫する著者の見解である。だが如来教においては、民俗的金毘羅信仰からの転換もまた明確なのであって、多様な神仏の世界が主宰神・救済神としての金毘羅大権現を中心に統一されていることが明らかにされている。

 第三節の主題は、現世を「悪娑婆」として否定的に捉える如来教の現世観である。現世が「悪娑婆」なのは、人間には「魔道」が取り付いてその世話になり支配されているからだが、のちには「魔道」は如来から遣わされて人間に戒めを与える存在だとされるようになる。現世を否定的に捉える如来教の教えは、研究史的にはキリシタンの影響だとされたこともあるものだが、著者はこうした見方を否定し、それが浄土教文献や地蔵信仰の系譜につらなるものだとする。また如来教には、現世を人間が来世で救済を受けられるようになるための修行の場とし、「家職」を中心にした日常道徳の実践を求める教えもみられるが、そこには一種の”悪人正機“説と社会批判がある、とされる。そして、現世を「悪娑婆」とする如来教の教えの基底に、未成仏の諸霊の祟りを恐れるという民俗信仰的な意識状況をおき、信者たちのそうした意識状況に根ざすものとして如来教の教えが説明されている。

 第四節は、第三節の現世観に対応させて、「三界万霊」の救済と著者が名づける如来教の救済思想をとりあげる。「三界万霊」とは、通念的には死後に供養してくれる子孫縁者をもたない無縁仏のことであり、そうした未成仏の霊によってさまざまの災害や災厄がもたらされるのである。如来教もまたそうした一般的な「三界万霊」観念を継承しているのではあるが、その教義の発展のなかで「三界万霊」の意味が普遍化されて、無縁仏、有縁仏、現世の人間のすべてだとされるようになり、その救済が実現されるかどうかは信者たちの心次第、信仰的な実践次第だとされるようになっていった。ここで信仰者たちに求められているのは、個々人の親子・縁者などへの執着を断ちきって、すべての人々が如来と等しい限りない慈悲心をもつことで、このような意味での「人間の存在様式の根本的変革」が如来教の教えなのである。

 第五節では、第二章の分析の全体を踏まえて、幕末維新期の民衆宗教史の一般的展望のなかに如来教を位置づけている。著者の見解では、如来教はそれ以外の民衆宗教とはかなり異なった特徴をもっており、それはとりわけ否定的な現世観、来世重視と要約しうるものである。こうした如来教の特徴は、民衆宗教としてはもっとも出現時期が早いこと、武家奉公人だった教祖きのには農業生産者としての経験がなかったために、自然の摂理のなかに神の働きを見るような観念が欠けていたことなどによると指摘されている。如来教が霊の救済を重んずる点からは、のちの霊友会・立正佼成会などの法華系在家教団に似ているように見えるかもしれないが、著者はこうした見解を否定し、新しい共同性を志向する点で天理教・金光教などと共通する性格をもっており、基本的には「幕末維新期の民衆宗教」の一類型として捉えるべきだとしている。

 第三章では、教祖きのの在世時代を中心に幕末期までの如来教の宗教活動の実態面が、信者側の動向に触れながら検討される。ここでも『お経様』がもっとも重要な史料であるが、従来ほとんど利用されることのなかった史料や著者が新たに発掘した史料や現地調査の成果も交えて分析されている。そのさい、当時、世上に流布していた金毘羅信仰との関係がとりわけ重要視されている。きの在世中の如来教は4つの時期に区分して分析されている。

 第一節では、1804年以降11年まで、成立期如来教の教義形成と宗教活動の実際が検討される。この時期には、貧しい女性であるきのになぜ金毘羅大権現が天降ったかを未信者に向かって説明するような教義が述べられ、如来教はこれまでの仏教諸宗派の宗祖の済度を完成させるものだとされる。また信者の問いに応じて、「娑婆」と「後世」の意義についての教義が詳細に展開され、死者の霊魂の行方について個別的に語られるようになる。

 第二節では、創唱宗教としての如来教の確立期にあたる18112年から16年までの期間が対象とされる。この時期には、信者のきのに対する扱いが次第に丁重になって神格化されるに至り、きの自身も神命によるとして特別の名称を用いるようになる。また尾張藩の藩士信者によって「士講中」がつくられ、歴代藩主の追善願いがなされたり、徳川家康の成仏のための法事の執行がきのに求められたりした。町人と農民の講もつくられたが、名古屋城下の町人の講が多かった。教勢は大きく発展したが、それにともなって地域社会のなかで如来教の活動を抑圧しようとする動きが生まれ、信者のなかに在来仏教の行法を導入しようとする動きや活動の自己規制が生まれた。

 第三節では、きのが信者をきびしく批判して説教を中断した1816年4月から尾張藩による最初の本格的弾圧がおこなわれた1820年4月までが対象とされる。この時期には、如来教に独自の統一的世界像が明確になり、終末意識の切迫が顕著になって、如来教の宗教思想はもっとも昂揚する。この新しい発展期にきっかけを与えたのは、江戸の金毘羅講中が来名して如来教の信者となったことで、それ以後、この金毘羅講中は教祖信仰に転換していく。

 第四節では、1820年の弾圧から26年のきのの死までが扱われる。この時期には、名古屋周辺では信者を集めた説教はほとんど行われなくなるが、江戸の講中ではかなり裕福な商人たちが中核的構成員となっており、大名家とのかかわりも生まれていた。江戸の講中を指導していた金木市正(いちのかみ)は、尾張藩の弾圧に対処するために、きのが神職の資格が得られるよう、吉田・白川の両神道家に出願をはかったが、これは実現されなかったらしい。病床のきのは苦しみながら死を迎えたが、その死に際しての苦しみの意味づけには、罪人の苦しみを我身に引き受ける地蔵信仰の影響が大きかった、とされる。しかし、死に際してのきのの言葉は、これまでの如来教の教義とは必ずしも整合しない、ともいう。

 第五節では、編年的分析を離れて、民俗的な金毘羅信仰と如来教との関係について、著者による現地調査と地域史的史料を主とした報告がなされる。まず、開教の翌年、きのと覚善は碩道という修行僧を訪ねて金毘羅大権現の由来などを尋ねるのだが、碩道止住の善寿院は金毘羅信仰の色彩が今も濃厚なことが、現地調査によって明らかにされている。また、江戸の講中を如来教に引きいれた金木市正は、江戸の金毘羅社の神官で、1846年に三宅島へ遠島となった人物であるが、著者は金木の墓を訪ね、また信者宅で金毘羅大権現の像や『お経様』の一部などを発見した。さらに著者は、幕末期の名古屋で金毘羅信仰が盛んだったことを、文献史料や現地調査に基づいて跡づけているが、この側面は後に参考論文Ⅱ「信心の世界の変容と新たな救い」で主題的にとりあげられている。

 第六節では、きのの没後から幕末期に至る如来教の動向が、さまざまの史料を組みあわせて捉えられている。きのの没後、1831年に尾張藩は如来教の講を禁止したが、その後の如来教で布教の合法化のために努力したのが小寺佐兵衛である。青年期の小寺は名古屋で屋根葺きを生業としていたが、やがて米相場で成功し、江戸へ出た。おそらく1831年の弾圧を契機に、小寺は名古屋で禅宗に近づき、如来教を禅宗の名刹法持寺の傘下へ入れた。近現代の如来教は禅宗寺院の形態をとっているのだが、そのことの由来はこうした小寺の活動にあった。他方、武州川越出身のきくは、最晩年のきのの看病にあたり、その死後にはきのの生家にあたる御本元を相続した人物であったが、金木市正遠島ののちの江戸での如来教の発展に大きな役割を果たした。この江戸での布教活動は金毘羅信仰との関係が深く、名古屋における小寺の活動とはかなり異っていた。

三 本論文の成果と問題点
 如来教については若干の先行研究があるものの、本論文によって私たちははじめてその全貌に接し得たといえよう。教祖在世時代の如来教の歴史と教えについて、著者は『お経様』を根本史料として精密周到に論じており、個々の記述については若干の疑問の余地がありうるとしても、本論文が如来教研究として画期的であるとともに、そのことによって日本宗教史、近世民衆史、近世社会史に大きな貢献をしたことは確かだと思われる。また著者は、『お経様』以外の史料も発掘してきのの個人史や教団史を跡づけており、参考論文Ⅰ「如来教百九十年史序説(一)、(二)」では、これまでほとんど知られていなかった近代の如来教史についてもいくつかの基礎的事実を明らかにしている。如来教研究としてのこうした画期性が本論文のもっとも重要な成果である。

 第二に、本論文では如来教の教義や活動が、その時代の地域の宗教事情に即して掘り下げて分析されている。浄土教系の仏教思想とのかかわり、御霊信仰系の民俗信仰とのかかわりなども注目すべきだが、本論文でとりわけ重要なのは金毘羅信仰とのかかわりである。民俗信仰と民衆宗教とのかかわりへの注目は、この分野の最近の研究動向に沿ったものであるが、著者は、18世紀後半以降の名古屋と江戸における金毘羅信仰の展開のなかに如来教をおくことで、如来教は一般民衆の宗教的世界とのかかかわりで具体的に捉えられるようになったといえる。またこの視角からの著者の分析は、参考論文・「信心の世界の変容と新たな救い」でさらに深められているといえよう。

 第三に、如来教関係の諸史料の読解・翻刻、新史料の紹介などで、本論文には大きな意義がある。すでに述べたところから明らかなように、如来教研究の基本史料は『お経様』であるが、『お経様』は民衆宗教の教義書としてはかなり大部かつ難解なもので、その読解と翻刻には多大の努力を必要とする。この作業は著者だけで行ったものではないが、しかし著者の果たした役割は大きく、『お経様』には個別教団研究の史料としての役割を越える大きな価値がある。新発見史料の紹介も含めて、史料面での著者の努力を高く評価したい。

 ところで著者は、民衆宗教史の大きな流れのなかに如来教を位置づけて、如来教はその来世信仰の点で特異性をもつが、「新しい共同性」を志向している点で基本的には「幕末維新期の民衆宗教」の一つとしての共通の性格をもっている、と結論づけている。こうした見方は、如来教をその来世性のゆえに中世的なものだとしたり、キリスト教の影響を読みとるなどという先行研究に対置される限りでは、根拠がないわけではないが、著者のいう「幕末維新期の民衆宗教」についての深い検討のうえに立論されてはいない。また著者の研究は、本論文では如来教の教えの精密詳細な分析に自己限定して行われる傾向が強く、教団そのものの内部構造や信者たちの意識や行動様式についてのたちいった分析もなお残された課題となっている。如来教の宗教史的・社会史的位置づけと評価には、もっと広い視野に立った研究態度と、そこから見返された如来教研究が必要だと思われ、この点ではなお今後に期待したいところも小さくはない。とはいえ、参考論文・・・には、こうした新たな方向への努力が表現されており、今後の研究に注目したい。

 以上の審査結果から、審査委員は一致して、本論文を学位請求論文に相応しい学術的水準をもつものと判断し、口述試験の成績も考慮して、神田秀雄氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると結論した。

最終試験の結果の要旨

1997年10月8日

 1997年6月27日、学位論文提出者神田秀雄氏の論文および関連分野についての試験を行った。
 試験において、提出論文「如来教の思想と信仰 ― 教祖在世時代から幕末期における ―」に基づき、審査委員が疑問点について逐一説明を求めたのに対し、神田秀雄氏は、いずれにも適切な説明を行った。
 よって審査委員一同は、神田秀雄氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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